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ラテントピック一語一絵 その29

2022-08-01 09:38:59 | ラテントピック・一語一絵
Nicolás Ruiz Espadero

ニコラス・ルイス・エスパデロ

1832ー1890

キューバ ハバナ生まれ。

まずはおさらいを。
キューバのピアニスト イグナシオ・セルバンテス(1847年生まれ)は幼少時に、当時キューバで
演奏活動をしていたアメリカ人ピアニスト ゴットシャルクからピアノのレッスンを受けている。
更には後年リオ・デ・ジャネイロで演奏活動していたゴットシャルクはブラジルのショパンと
言われたナザレにも影響を与えている。ゴットシャルクはパリで活動していた際にショパンに
会い激賞されショパンから多いに影響を受けていたし、中南米演奏旅行中のゴットシャルクの
名はすでに知られていた。この三人に共通しているのは主にショパンだが、時代背景的には
キューバにはすでにハバネラの下地があった。

ハバネラ関連でイグナシオ・セルバンテスのことを書いていたときに、ゴットシャルクのこと
を後から思い出しもっと書いておこうと思ったら、根っからの不精が顔を出して一年も 
ほったらかしにしてしまった。だからセルバンテスとゴットシャルクの投稿日時は時間差が
かなり開いている。ブログを定期的に書くのはなかなか大変、根気が続かない。

キューバ音楽の創始者的存在がマヌエル・サウメルでイグナシオ・セルバンテスがこの後に 
続くが、時間的にこの間にいるのがエスパデロになる。イグナシオ・セルバンテスはエスパデロ
の教え子でもあり、キューバ滞在中のゴットシャルクからもレッスンを受けていた。
だからついでと言っては何だか、サウメルにセルバンテスと来たらどうしてもゴットシャルク
に触れざるを得ないし、そうするとエスパデロにも触れないといけない、となる。師弟関係 
みたいのがあるしね。キューバの舞曲ハバネラが洗練されて行く過程においては避けて
通れない重要な音楽家連中なんですよね。エスパデロはゴットシャルクの死後に彼のために  
作品を残しているしね。

ハバネラと言えばスペインの作曲家セバスチャン・イラディエルのカルメンが知られている。
イラディエルがキューバを去るにあたり作られた曲、ラ・パロマが有名で今もラテン諸国
では良く歌われる。1860年前後の作曲。日本で言えば幕末になる。ハバネラを世界に
広めた作曲家と言っても良いかな。この曲の替え歌についてはどこかに書いておいた。
この替え歌は今でも受けるよ。またビゼーのカルメンがラ・パロマからの盗作だとして裁判
沙汰になったりしたが、ビゼー自身はキューバの民謡かと思っていたらしく後に謝罪している。
結構有名なエピソードなんだよ、メロディーなんかそっくりだものね。訴えられても仕方ない
けどこの後にハバネラを書き出す音楽家達が増えて来るのも興味深い。


こんな具合に話がどんどん横道に逸れる。

イグナシオ・セルバンテスとほぼ同時期の作曲家でやはりハバナ生まれのガスパル・ビジャーテ
もオペラも書いたがコントラダンサ・クバーナ、つまりハバネラも多く書いている。ヨーロッパ
の滞在が長くて現地で生涯を終えている。結構この時代はこういう音楽家が多くいるんだよね。
だから、ついでだ、関連だ、と書き出して行くと次から次へと繋がりが出て来るよ。書ききれない。

まず本人のイラストを描かないと。これが結構大変なんだ。年代の古いひとほど写真は少ないし
しかも写りの良いのがあまり無い。ここから苦労するよ。本人自身の音源がない場合が多いし
演奏中の顔を描くことはまず難しい。ともかくちょっと大変なのです。絵の方が先で文章の方は
後で、例の如く思いつくまま書いてはいるんだけど。そもそもはハバネラの事を書いてそれに
関わるキューバの音楽家、マヌエル・サウメルやイグナシオ・セルバンテスをちょこっと書いた。
そこから脱線気味に追加、追加と他の音楽家達を書き足すような感じで来ちゃったからね。


まあこう言った過去があって現代のキューバ音楽に繋がるんだけどさ。ハバネラなんだから
ハバナ生まれの音楽家がやはり一番ピッタリ来る。ハバナと言うとハバナクラブと言う銘柄の
キューバの酒も連想させるよ。美味いんだ、これが。

話が横道に逸れやっと本題のエスパデロです。前書きが長くなったからサッと。

ハバナでも非常に裕福な家庭に生まれた。母親はハバナの上流クラスの集まり、いわゆる
サロンでショパンやハイドンを弾くピアニストとしても知られていた。父親は役人で、
エスパデロを将来は法律家にしたかったが、結局は母親の情熱が勝りエスパデロは
ピアノの練習に明け暮れる。きちんとした学校教育は受けず、ヨーロッパからの楽譜の
山に囲まれ読書を好みスペインから来た上流階級との交流が主だったようだ。

どうも母親の息子への教育が極端な感じがするね。普通の人達との付き合いも無くピアノの
練習ばかりで何事も母親しだい、では性格も偏る子供が育ってしまう。成人してからも
殆ど外出することは無く屋敷内にいることが殆どだった。同い年の友人もいなかったよう
だから、世間からはどう思われていたのだろうか。

ピアニストとしてはキューバ内外でかなり名を知られていたらしく、同時期の音楽家達にも 
影響を与えているし弟子も結構抱えていた。イグナシオ・セルバンテスはそのひとりである。
音楽家になるための勉強が最優先で、通常の学校教育を受けないと言うのはいかに裕福とは
言え許されない感じもあるが、上流階級は家庭教師が普通の時代も確かにあったけれど、
音楽教育優先の母親の方針だとは言え将来の事を考えると如何がなものかと思ってしまう。

1844年エスパデロが12才の頃に、ショパンの友人でもあるジュリアン・フォンタナが
ハバナで公演を行なった。ハバナでは最初のショパンの曲のコンサートだった。
フォンタナは約一年半ほどハバナに滞在しコンサートやレッスンも行いエスパデロは彼に
師事している。

エスパデロは結局ハバナを出ることは無くその一生を終えるが、その終わり方がなんとも気味が
悪い。16才の時に彼の父親が亡くなると、元々閉鎖的だった社会性が酷くなり殆ど家から出る
ことが無かった。

53才の時、母親が亡くなるとさらに内向的になり神経にまで病的な異変が生じて来る。
入浴をする時に習慣にしていたと言うが、ある時アルコールの風呂に入った後に 身体をよく
乾かさなかったせいか、ガスランプから引火して大火傷をして結局これが元で死亡した。この 
アルコール風呂が良く分からない。まさか100%のアルコールではあるまい。お湯を張った上
から香水代わりにアルコールを入れるのか、そこが良く理解出来ない。当時の習慣としてアルコール 
を足すことがあったのだろうか。ガスランプは直火だろうから危険性が高いのは認識してた筈だ。
かなりの潔癖症だったらしいがこの頃は相当神経がおかしかったと思われる。それにしても
不自然だ。自殺に等しい。58才だった。

生涯キューバから出ることの無かったエスパデロだが、ゴットシャルクやフォンタナに師事した
せいか、エスパデロはアメリカやフランスでも知られた存在になったことは大きい。やはり時代的
にはショパンの影響下にある作曲家かな。イグナシオ・セルバンテスに2分足らずのハバネラの
小曲が多いのはエスパデロの影響だろうか。

エスパデロの母親はスペインのカディスの出身のピアニストらしい。アンダルシアの南、港町で 
コロンブスが新世界を目指して出港したところだ。大昔に訪れたことがあるが良い印象があるよ。
ここはジブラルタル海峡が目の前にあり、アルへシーラス港からフェリーに乗れば北アフリカの
モロッコの港タンジェール(スペイン語読み タンヘル)が間近に迫る。また話が逸れるから止め
とこう。大航海時代やレコンキスタにも触れないわけにいかなくなってしまうよ。モロッコが
また面白いんだ。マラケシュとかね。ついでながらアルへシーラスはスペインのフラメンコの
ギタリスト、パコ・デ・ルシアの出身地だ。今ではフラメンコの演奏で知られるようになった
打楽器カホンを広めたのはパコ・デ・ルシアである。アルへシーラスで思い出した。
 
何だか急いで書いたせいか疲れてしまった。前書きばかり長くなって本編が尻窄みになったが
まあこんなものだね。ハバネラがタンゴやジャズに影響を与えているのは良く知られている事実
だが、その後のキューバの音楽にも根幹を成すリズムとして現代にまで及び、エルネスト・レク
オーナはクラシックもやりポピュラーもやってるし、それからコンパイ・セグンドとかデュオの
ロス・コンパードレスに連なって来るかと思うとかつて赤坂のレストランで歌っていた彼らの
ステージを思い起こすよ。コンパードレスの兄弟とは良くお喋りしたものだ。懐かしい。

ハバネラに関するテーマはもうボチボチ終わりかな。目がショボついて入力ミスしそう。
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