午前7時に起床する
合い挽き肉と微塵に切った玉ねぎとニンジンとインディラカレー粉でキーマカレーを作る
炊きたての飯とカレーを良く混ぜ皿に装い天辺を凹ませ卵の黄身を落とし柴漬けを添える
黄身にウスターソースを垂らし全体を混ぜ合わせてから喰う
これぞ大阪名物の自由軒インディアンカレー・・・もどき? だが美味い
子供の頃 晩ご飯がカレーライスの時に残ったルウで父が作ってくれたのがこれだった
そしてこれを喰っている私たちを嬉しそうに眺めながら大阪の喰いものの話を始めるのが常だった
その時の私は・・・小学生の頃までだが
父が生まれてすぐに父の叔父の養子になったことや大阪で育ったことも知らなかったので
若い頃に勤めていた会社が大阪にあったのだろうと漠然と思って父の話を聞いていた
父が祖父の養子だったことは私が中学生の時に知らされ さらに・・・
父が見知らぬ人に「お前は養子だよ」と言われたのを知ったのは私が40歳も半ばの時だったのは
多感な少年期や青年期に聞かせるのは刺激が強いと両親が考えたからだと思う
祖父が亡くなったのは私が中学1年の秋の終わり頃だったと記憶している
その数ヶ月前の夏に祖父が前触れも無く高知県須崎市の私の家に現われた
玄関のドアを開けながら「猪木のプロレスは今日あるだろう?」と祖父は家にあがってきた
その頃の高知では放送してなくて「馬場のほうだけだ」と父が答えるとがっくりと肩を落とした
それからどっしりと腰を下ろすと旅行カバンの中から草加煎餅を取り出して「お土産だ」と言った
満面の笑みを欠かさず良くしゃべりかつ喰い1泊して次の朝に祖父は次の目的地に向かった
その夜に父が「昔お世話になった人たちに会いたくて日本中まわっているらしい」と教えてくれた
なんて元気なお爺さんなのだろうと驚いた数ヶ月後に届いた祖父の訃報はさらに私を驚かせた
横浜の祖父のもとへ父は急ぎ向かった
数日後に帰ってきた父はずっと無言で近寄り難かった
母も沈鬱な表情で父を見守っているように見えた
そのうち父の転勤が決まり我々家族は松山に引っ越した
社宅代わりの借家に慣れた頃に急に祖母が同居することになった
そのあたりの経緯については存命中の人が居るのでここで書くことは憚りたいと思う
ともかく祖母は72歳から99歳まで松山で暮らし亡くなる直前の惚けた頃には
見知らぬ人だと勘違いしている私に母のことを自分のひとり娘だと説明し
もうすぐ「娘が迎えに来てくれる」と言ってふんわり微笑んだ
実家に帰りそのことを母に伝えたら母は泣いた
父も祖父や祖母を愛しそして良く尽くした
母方の祖母や伯母や叔父や親類縁者や勤め先の仲間にも献身的に接していた
血の繋がりとは何だろう?
ペットを心から愛し「家族だ」と言う方はその答えを心に持っていることだろう
それでは・・・愛とはなんだろう?
誰もがその答えを知っているはずだが・・・
冷めたインディアンカレーの最後のひとくちを頬張りコーヒー豆を挽く
感冒薬とビタミンC を服んでおく
丸くなって元々の世話好き細やかな気遣いが組合わされて
最強だね!
ほんと?
不思議