ほぼ不定期日記

散歩ばかりしている男の嘘日記

天狗は神か?妖怪か?それとも超人か? 大雄山最乗寺

2015年09月15日 | ほぼ古代妄想

つづき → 蕎麦手繰って腹が満ちたので・・・最乗寺に向かう

石段が長々と続く

三門が見えてきた

大きい!とうか重厚だ


ここ大雄山最乗寺は曹洞宗の禅寺である

禅寺とは釈迦族の王子ゴータマの修行を追体験することで悟りを得るための修行の道場なのだ

いっぽうここは天狗を祀る神社としての道了尊とも呼ばれている場所でもある・・・のだが

他力に頼らぬ禅と神としての天狗の共存に違和感は無いか?

そこがずっと引っかかっていたのだ

それを探るために今日やってきたということだ

禅寺である最乗寺の伽藍は非常にすっきりとしているように見える

本堂があり書院があり僧堂がある ただそれだけだ

しかしその奥の秋海棠咲く小径を進むと・・・



仏教にはふさわしくない手水舎があり・・・



その先には天狗の国が待ち構えている

門の名前は「結界門」である


入り口を守っているのは左が大天狗で・・・右が小天狗 いわゆるカラス天狗だ


門の手間の太鼓橋から右手には滝を従えた不動堂があり・・・


さらにその手前には多宝塔がある


不動明王も多宝塔もどちらも仏教である証なのだが

それが返って天狗を祀ることの禅坊主たちの後ろめたさとも感じてしまうのだがどうか?

結界門を潜ると右手に奥院が見え・・・えっ?

げっ!こっ!これは! これを登るのか?


還暦間近の爺が息を切らせて登った先には天狗を祀る拝殿があった

神社である証拠に注連縄がある 

注連縄は両端まで同じ太さの神明風である


拝殿のまわりは奉納された下駄や葉団扇で真っ赤に彩られている

足がガクガクだ

少し休んで山を下りることにする

道の脇に咲いた秋銘菊が痛む足を癒してくれる


結局 禅寺と天狗とは?

禅の修行の果てに悟りを得た超人的な存在を象徴するものなのだろう

それを心細く暮らす庶民がいつしか神に仕立て上げてしまったのだろう

多くの神がそういうふうにして作られていくのだ

いくつになっても人間というものは甘えん坊なのだ

だが他人に頼って生きることは悪いことでは無いとも思う

いつの時代も我々庶民は支えあって身を寄せあって生きている

それしか出来ないのなら仕方がないことではないか?

帰りのバスのなかでそんなことを考えていたらすぐに終点に着いた

また大雄山線に乗って家路に着く

今夜のおかずは小田原揚がりのイナダの刺身に冷や奴とキュウリの糠漬け

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