次の日、一人でぷらぷら歩きながら、いくつかのお土産屋さんに立ち寄りました。
たまたま私が入ったところはインド人が経営するところばかりだったのですが、どこに入っても私が日本人だとわかると震災のことを心配してくれました。
歩いていると、何人かのチベット人に話しかけられ、面白いので私はその度に雑談をしていました。
学生たちと仲良くなり、チベタンレストランで夕飯を一緒に食べました。
その時に聞いた話では、彼らは震災の様子をCNNで見ていて、本当にびっくりしたそうです。震災直後、ダラムサラの町の中心にドネイションボックスが置かれ、彼らも30Rs程寄付していたと言っていました。
日本円にするとわずか60円程ですが、チベット亡命政府の首相の給料が日本円で3万円というので、それがどのくらいの価値かわかると思います。
次の日もその次の日も、彼らとチベットの寺院に行ったり、トレッキングに行ったりして、とても仲良くなりました。
私のダラムサラ滞在はわずか5日間だったので、あっという間でした。この町は本当に気持ちがゆったりできるので、1ヶ月くらい滞在したかったです。
ダラムサラを発つ日、彼らがバス停まで送りに来てくれました。バスは座席が決まっていて、私の隣は30代前半のチベット仏教のお坊さんだったのですが、その彼に私のことを何か話してくれたようでした。
いよいよバスが出発する時、私は急に淋しくなってきました。デリーからこの町に着いた時は、もう2度と来たくないと思っていたのに、今はこの町を去るのが淋しくてたまらない。
実は私はインドに来る少し前、いろいろ辛いことがあったのですが、もうそれをとっくに乗り越えたと思っていました。でもその時、いかに私の心がカサカサに乾いていて、たったこの5日間でいかにたっぷりと満たされたのか、そのことに私は突然気付いたのです。満たされた理由はたぶん、チベット人の人と人との距離感がちょうど良かったことかも知れません。
最後に彼らが言ったこと。
「お父さんやお母さんの言うことを何でもイエスと言って聞いてね。それがゆくゆくはあなたの幸せに繋がるから。僕たちは大丈夫。ダライラマ法王のお蔭でタダで勉強させてもらえて、住むところも食べるものも与えてもらえているから心配しないで。」
こんなところまで来て、なんで20代の若者にこんなことを言われてるんだろうと思いましたが、私は彼らの言葉に心をぎゅっと掴まれてしまったのです。
バスがマジュヌカティラ(デリーのチベット難民居住区)に到着すると、隣のお坊さん(Gytoギト)が私のバックパックをさっと担いで、「チャイを飲みに行こう」と言いました。実はGytoは英語を話せないのでボディランゲージだったのですが。
彼に付いていくと、朝ご飯をご馳走してくれました。そして英語ができる人を呼んでくれて3人で話しました。どうやらダラムサラの学生は彼に「この女性はデリーに着いたら1人で友達の家に行かなければいけないので、よろしく頼む」というようなことを言ってくれていたようでした。
その後またGytoが一緒に行こうと言うので付いていくと、そこはゲストハウスのようでした。
ここも勿論チベット人ばかりでしたが、その中のある女性に彼が私のことを話しました。彼女は神戸にホームステイしていたことがあって、その時日本人にとても親切にしてもらったそうです。それで興奮して、
「Japanese すごい、すごいね」と嬉しそうに言ってくれました。
私はデリーに住む日本人の友人宅に行こうとしていたのですが、そこまでのオートリキシャの料金の相場が知りたいと思い、彼女に尋ねました。日本人は恐らくボラれるだろうけど、まあ少しくらいは仕方ないと思っていました。するとそこに居たチベット人たちが、これはどうだ、あれはどうだと喧々諤々やり始めました。
私はただ相場を知りたいだけなのになあ、と思いながらも、このお節介なほど親切なチベット人たちの好意が嬉しくてたまりませんでした。
その後、彼女がPCを持ってきて、友人宅の住所から地図を検索し、メトロで行く方法を調べて書いてくれました。でも少々複雑だったので、結局はオートリキシャで行った方が良いという結論になりました。
すると彼女は外に出て、あたりにいるドライバーたちに交渉をして、250Rsでということになりました。そして、「もしこれ以上請求されても絶対払わなくていいからね。請求されたら電話してね。」と言って、菓子箱の切れ端に番号を書いてくれたのです。
その切れ端はまだ捨てられません。
デリーに着く前は、デリーを1人で歩いたり、オートリキシャに乗ったりするのは怖いなあ、途中で身包み剥がされたらどうしよう、などと思っていたのですが、何の問題もなく友人宅に着けたのです。
思えば私はダラムサラからずっと、チベット人に守られていたんですよね。
お互い知り合いでなくても、チベット人は頼まれたことをちゃんと守り、最後まで責任を果たそうとするのですね。私はまるで、伝言ゲームのように次から次と頼まれていったのです。
私の心は本当にあたたかくなりました。
こんな話をすると、チベット人と関わった人は、「その手の話はたくさん聞くよ」と言います。
チベット人って良い人が多いみたいです。
5日からまたインドに行くので、この時のことを忘れないように書いておこうと思いました。
ほとんど自分の為の文章ですが、ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございます。
最後にダラムサラのチベタンレストランにいたチベット人の男の子の写真を。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/a5/708ab002b52dcb3e1e2161f83947f8ad.jpg)
かわいいよね~。彼は私のカメラを気に入って、なかなか離してもらえませんでした。帰り際、お母さんが無理やり取って私に渡したので、最後は泣いていたのが可哀想でした。
たまたま私が入ったところはインド人が経営するところばかりだったのですが、どこに入っても私が日本人だとわかると震災のことを心配してくれました。
歩いていると、何人かのチベット人に話しかけられ、面白いので私はその度に雑談をしていました。
学生たちと仲良くなり、チベタンレストランで夕飯を一緒に食べました。
その時に聞いた話では、彼らは震災の様子をCNNで見ていて、本当にびっくりしたそうです。震災直後、ダラムサラの町の中心にドネイションボックスが置かれ、彼らも30Rs程寄付していたと言っていました。
日本円にするとわずか60円程ですが、チベット亡命政府の首相の給料が日本円で3万円というので、それがどのくらいの価値かわかると思います。
次の日もその次の日も、彼らとチベットの寺院に行ったり、トレッキングに行ったりして、とても仲良くなりました。
私のダラムサラ滞在はわずか5日間だったので、あっという間でした。この町は本当に気持ちがゆったりできるので、1ヶ月くらい滞在したかったです。
ダラムサラを発つ日、彼らがバス停まで送りに来てくれました。バスは座席が決まっていて、私の隣は30代前半のチベット仏教のお坊さんだったのですが、その彼に私のことを何か話してくれたようでした。
いよいよバスが出発する時、私は急に淋しくなってきました。デリーからこの町に着いた時は、もう2度と来たくないと思っていたのに、今はこの町を去るのが淋しくてたまらない。
実は私はインドに来る少し前、いろいろ辛いことがあったのですが、もうそれをとっくに乗り越えたと思っていました。でもその時、いかに私の心がカサカサに乾いていて、たったこの5日間でいかにたっぷりと満たされたのか、そのことに私は突然気付いたのです。満たされた理由はたぶん、チベット人の人と人との距離感がちょうど良かったことかも知れません。
最後に彼らが言ったこと。
「お父さんやお母さんの言うことを何でもイエスと言って聞いてね。それがゆくゆくはあなたの幸せに繋がるから。僕たちは大丈夫。ダライラマ法王のお蔭でタダで勉強させてもらえて、住むところも食べるものも与えてもらえているから心配しないで。」
こんなところまで来て、なんで20代の若者にこんなことを言われてるんだろうと思いましたが、私は彼らの言葉に心をぎゅっと掴まれてしまったのです。
バスがマジュヌカティラ(デリーのチベット難民居住区)に到着すると、隣のお坊さん(Gytoギト)が私のバックパックをさっと担いで、「チャイを飲みに行こう」と言いました。実はGytoは英語を話せないのでボディランゲージだったのですが。
彼に付いていくと、朝ご飯をご馳走してくれました。そして英語ができる人を呼んでくれて3人で話しました。どうやらダラムサラの学生は彼に「この女性はデリーに着いたら1人で友達の家に行かなければいけないので、よろしく頼む」というようなことを言ってくれていたようでした。
その後またGytoが一緒に行こうと言うので付いていくと、そこはゲストハウスのようでした。
ここも勿論チベット人ばかりでしたが、その中のある女性に彼が私のことを話しました。彼女は神戸にホームステイしていたことがあって、その時日本人にとても親切にしてもらったそうです。それで興奮して、
「Japanese すごい、すごいね」と嬉しそうに言ってくれました。
私はデリーに住む日本人の友人宅に行こうとしていたのですが、そこまでのオートリキシャの料金の相場が知りたいと思い、彼女に尋ねました。日本人は恐らくボラれるだろうけど、まあ少しくらいは仕方ないと思っていました。するとそこに居たチベット人たちが、これはどうだ、あれはどうだと喧々諤々やり始めました。
私はただ相場を知りたいだけなのになあ、と思いながらも、このお節介なほど親切なチベット人たちの好意が嬉しくてたまりませんでした。
その後、彼女がPCを持ってきて、友人宅の住所から地図を検索し、メトロで行く方法を調べて書いてくれました。でも少々複雑だったので、結局はオートリキシャで行った方が良いという結論になりました。
すると彼女は外に出て、あたりにいるドライバーたちに交渉をして、250Rsでということになりました。そして、「もしこれ以上請求されても絶対払わなくていいからね。請求されたら電話してね。」と言って、菓子箱の切れ端に番号を書いてくれたのです。
その切れ端はまだ捨てられません。
デリーに着く前は、デリーを1人で歩いたり、オートリキシャに乗ったりするのは怖いなあ、途中で身包み剥がされたらどうしよう、などと思っていたのですが、何の問題もなく友人宅に着けたのです。
思えば私はダラムサラからずっと、チベット人に守られていたんですよね。
お互い知り合いでなくても、チベット人は頼まれたことをちゃんと守り、最後まで責任を果たそうとするのですね。私はまるで、伝言ゲームのように次から次と頼まれていったのです。
私の心は本当にあたたかくなりました。
こんな話をすると、チベット人と関わった人は、「その手の話はたくさん聞くよ」と言います。
チベット人って良い人が多いみたいです。
5日からまたインドに行くので、この時のことを忘れないように書いておこうと思いました。
ほとんど自分の為の文章ですが、ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございます。
最後にダラムサラのチベタンレストランにいたチベット人の男の子の写真を。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/a5/708ab002b52dcb3e1e2161f83947f8ad.jpg)
かわいいよね~。彼は私のカメラを気に入って、なかなか離してもらえませんでした。帰り際、お母さんが無理やり取って私に渡したので、最後は泣いていたのが可哀想でした。
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