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「つかめないもの」ジョーン・トリフソン著 に出てくる引用句

2024-11-23 16:38:09 | ノート

「つかめないもの」ジョーン・トリフソン著 覚醒ブックス に出てくる引用句

この本の章の最初に様々なところから引用されている言葉が素晴らしいので書き出してみました。

この引用からトリフソンが影響を受けた人々がわかると同時に、ガイド、目録となるような気がします。

 

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セイラー・ボブ
生は常に生を糧に生きています。生はあらゆる形、あらゆる姿をとって表れます。それでもそれは同じ生であり、同じ知性=エネルギーです。そしてあなたはその生なのです。

ジャン・クライン
まず自分に問うことです。「解放されることを望んでいるその人、自分は捕らわれていると思っているその人は一体誰なのか?」と。 その問いの中に答えを見出すでしょう何もないということが分かります。 誰もいないのです。

J.マシューズ
ひどく厄介な問題を抱えていることもあるかもしれない。本当に考えられないほどひどい神経症的な強迫観念とか。 それでも、それが今、この瞬間の経験であるのは変わらない。 この理解は、いったん自分のものになると、ものすごい開放感をもたらしてくれる。

アナム・トゥプテン
愛とは、あらゆる状況、あらゆる存在が今あるままで完璧であることを見る力です。

ニサルガダッタ
鏡に映っているのは自分ではない。 映っているものを見ているのが自分なのだ。それをはっきり理解することだ。何を知覚しているとしても、知覚の対象は自分ではないということを。

ブッダ
出来事は起こる。行為はなされる。しかしそこには個別の行為者はいない。

道元
現実とは何か。 火の中で伸びる氷柱(ツララ)だ。 

スティーブ・ヘイガン
私たちは渦巻き、音楽、ハリケーン、氷柱に似ている。 いったん形になると_つまり,想像されると_自分が具体的な何かであるように見えてくる。だが一瞬一瞬、すべては新鮮で新しい。

ラマナ・マハルシ
身体は好きなようにさせておけばいいのです。なぜ身体のことをそんなに気にするのですか?なぜ身体に注意を向けるのですか?

ニサルガダッタ
あるのは感覚、知覚、記憶、観念の流れだけだ。身体とは抽象概念であって、雑多なものの中に何らかのまとまりを見出そうとする我々の傾向から生まれたものだ。 (中略) それは海の表面だけを見て、その下にある無限の広がりをすっかり忘れてしまっているのと同じだ。

ゾーケツ・ノーマン・フィッシャー
身体と魂の間、精神と物質の間に矛盾はない。こうしたものは一つのものを理解するための用いられる言葉にすぎない。

ティックナットハン
波は水になりたいからと言って、波であるのをやめる必要はありません。

ニサルガダッタ
世界は行為に満ちているが、行為者はいない。

ダリル。ベイリー
いわゆるどの瞬間においても、まったく形がなく説明のしようがない出来事だけがあります。

ニサルガダッタ
言葉による説明は様々で、互いに矛盾している。現実は単純だ。説明や解釈をしようとする時だけ言葉に失望させられる。

ナーガルジュナ
永続するものがないとしたら、永続しないものがあり得るだろうか?どちらもあるのか、どちらもないのか?

道元
一つの対象をいろいろな見方で見ているのか、それとも、様々な心象を一つの対象だと勘違いしているのか?

ラマナ・マハルシ
経験は今この瞬間にしか起こりません。そして、経験を越えて、経験を離れて存在するものはありません。

ウェイン・リカーマン
自分は行為者ではないと信じていることと、自分は行為者であると信じていないことの間には大きな違いがある。

禅の古い逸話
禅修業を始める前、山があり、谷があった。修業を始めてみると、山はなく谷もなかった。悟った時、山があり谷があった。

道元
仏道とは、要するに多と一を飛び越えることだ。

黄檗
一対のうち片方にだけしがみつかないよう用心せよ。

ニサルガダッタ
誰もがそれぞれの性質に従ってふるまう。それはどうにもならないことで、嘆く必要もない。

ダリル・ベイリー
人にできるのは、身体、欲求、関心、衝動、行為としてあるということだけですが、そのどの瞬間においても自然がそのように表れているのです。

トニ・パッカー
あなたがすることは、私がしています。あなたがしたことは私がしたのです。それをしている人はどこにもいません。すべては広大な開かれた空間の中でひとりでに起こっています。

ラマナ・マハルシ
認識というのは新たに手に入れるような何かではありません。(中略) 認識とは、自分はまだ認識できていないという誤った観念から自由になることです。

ニサルガダッタ・マハラジ
見せかけのものは時間を必要とし、時間を必要とするものは見せかけのものだということが理解できれば、(実在)に近づいたことになる。 (実在)は時間を超えていて、必ず今にある。 (中略) 達成するのに時間がかかるとしたら、それは必ず見せかけのものだ。本当のものは常に自分と共にある。自分であるものになるために待つ必要などない。心が自分を探しにどこかに出かけようとする時、それをそのままにしない。それだけだ。


アラン・ワッツ
問うべきは、それを手にするためにこれから何をすべきかということではない。自分が今何をしているせいで今この瞬間にそれが認識できなくなっているのか、それを問うべきだ。

シャーロット・ジューコー・ベック
気づきを保っているとき意識しているかどうかには関係なく、癒しが起こっています。(中略) 閉ざされていた扉が開き始めます。(中略) 扉が開くと、現在が絶対だということ、そしてある意味では宇宙全体がこの瞬間、毎秒新たに始まっているということが分かります。その単純な気づきの瞬間の中に生の癒しはあります。(中略) 無邪気でいること、癒しは常にまさにここにあるのです。

トニ・パッカー
たった今ここにあるものと共にただある時、それが喜びであるか痛みであるかに関係なく、驚くべき自由が姿を現します。それは言葉では表現できませんし、説明もできません。それが今この瞬間にあるままに完全に努力なしにあるという自由です。

デヴィッド・スタインドル修道士(ベネディクト会)
修練とはこれをしたりあれをしたりといったことではなく、むしろじっとしているということです。 それは、何の努力も必要ないようなことではありません。 努力は最も重要な課題にだけ向けられます。努力をしないという課題です。

トニーパーソンズ
恩寵の中にいないということはあり得ない。あなたに関するすべては、完全に絶対的に完ぺきに適切だ。自分についてよくないと思っていることすべてが絶対的に正しいのだ。

道元
自らの完全性に達していない生き物はいない。どこにいたとしても必ず役割を果たしている。

カール・レンツ
今あるとおりでありますように。

黄檗
自分の本性は迷妄の中でも失われることはあり得ないし、悟りによって得られることもあり得ない。(中略)間違いないのは、すべてが全くの初めから束縛から解放されていたということだ。

トニー・パーソンズ
神は、私たちが立派な人間になるのをどこか別の場所で待っているわけではない。

ニサルガダッタ・マハラジ
出来事が起こるのを現実がやってくるのを待っているとしたら、永遠に待ち続けることになるだろう。現実はやってくるものでも去っていくものでもないからだ。

ウェイン・リカーマン
悟りはあなたが考えているようなものではなく、今あるすべての中に徹底的に想像もつかないほどに溶け去るということだ。

デヴィッド・スタインドル修道士 (ベネディクト会)
目覚めるというのは継続するプロセスです。 一度目覚めてそれで終わりという人は誰もいません。 目覚めに限界はありません。生きているということに限界がないのと同じです。(中略) あらゆる新発見の驚きの中にある驚きはさらにもっと発見すべきことがあるということです。

ニサルガダッタ・マハラジ
すべては勝手に起こる。まったくひとりでに。(中略) 努力が必要な時は努力が現れるだろう。努力をしないことが何より重要になれば、おのずとそのようになるだろう。

トニ・パッカー
空の中ではなにかと衝突するものは何もありません。

トリフソン
「自分の人生のストーリー」を組み立てる時、実際には途切れなく変化を続けている感覚の流れてでしかないものを思考意識は恣意的に選択し、抽象化し、具象化し、分割し、そこに意味付けをします。 その時に思考が頼りにしているのは、変わりやすく不完全であてにならないことで評判の記憶です。


ジョーン・トリフソンのYoutube 「Being Just This Moment」

2024-11-23 13:08:46 | ノート

ジョーン・トリフソンの「つかめないもの」 (覚醒ブックス) 古閑博丈 (翻訳) という本は今まで、何度読み返したかわからない。 

そして読み返すたびに、新たな発見がある。 それはちょうど頭で理解していたことを私の生、そのもので検証した時に得られるものだ。

「腑に落ちる」というような言い方をするのだろうが、これは紛れもない一つの喜びだ。

 

このトリフソンのyoutubeがあったので、訳してみた。

(質疑応答の部分は、さほど重要ではないと思われたので、載せていない。)

 

 

Being Just This Moment, Joan Tollifson

Youtube https://www.youtube.com/watch?v=DIMBo9PPk5c&t=22s

 

以下 訳:

 

○ はじめに

 

まず初めに、皆さんが今この瞬間に意識を集中できるよう、ご案内したいと思います。

 

目を閉じて、部屋の音や呼吸に意識を向けてみましょう。

何も変える必要はありません。

ただ、ありのままに気づくだけです。

 

呼吸や体全体の感覚に意識を向け、それらをコントロールしたり、変えようとするのではなく、顔、喉、肩、胸、腹、骨盤、脚、足といった体の感覚、足の裏が床に触れる感覚、背もたれに触れる感覚、頭など、すべてを包含する意識、それが起こっている空間にも気づいてみましょう。

 

そして、目を開けて、この瞬間の視覚的な感覚、色や形、動きなどに意識を向けてみてください。

 

それらを理解しようとするのではなく、ただ色や形として意識するだけで十分です。

 

ありがとうございます。

 

○ 「今この瞬間」こそが解放の鍵

 

この講演のタイトルを「今この瞬間」としました。

なぜなら、「今この瞬間」こそが、門なき門であり、解放の鍵だからです。

 

実は、私たちは「今この瞬間」ではない状態にはありえません。

「今この瞬間」だけが存在するのです。

それが私たちであり、それが現実です。この瞬間から逃れる方法はありません。

しかし、複雑な思考能力と過去の経験によって、私たちは自分自身をこの瞬間から分離されたもの、人生、世界、他の人々から分離されたものだと考え、感じてしまいがちです。

 

私たちは自分自身を独立した意識の単位、断片化された世界の中の断片として考えることを学びました。そして、自分自身を独立した身体の中に閉じ込められ、外部の世界を異質な空間として見ていると考えることを学びました。

 

それがまさに、私たち人間の苦しみ、深く根付いた分離感なのです。

 

自分自身を独立した断片として考え、感じるとき、私たちは定義上、不完全になります。

そのため、常に不足感や不完全感を抱いているのです。

もちろん、常に感じているわけではないかもしれませんが、時折消えるとしても、それは繰り返し戻ってくるものです。

また、独立した断片として、自分自身を認識するとき、死の恐怖、この断片が消滅する恐怖、無になる恐怖が生まれます。

死の恐怖は、かつて人々が大海原に漕ぎ出せば地球の端から落ちてしまうのではないかと恐れたのと非常によく似ています。

それは、ここで何が起きているかについての誤った認識に基づいています。

 

○ 今この瞬間に意識を向けることで生じる変化

 

しかし、今この瞬間に意識を向けることで、何かが変化します。

私たちはもはや思考の概念世界、地図の世界にはいません。

今この瞬間に意識を向けることで、この生きた現実が実際どのようなものであるかを感覚的に理解できるようになります。

 

概念や思考の世界では、「身体」「鳥のさえずり」「木」といった言葉を用いますが、これらの言葉は、独立した、離散的な、固体的なものについて話しているかのように錯覚させます。

 

しかし、鳥のさえずりを実際に聴いたり、感覚とエネルギーのレベルで身体を感じ取ったりするとき、固体性や、他のものから完全に分離された何かを見つけることはありません。

 

私たちが見つけるのは流動性であり、私たちが周囲のいわゆる環境と切り離せない存在であるということです。

自分自身の内側と外側がどこで境をなすのかを、見つけることさえできません。

 

今すぐ試してみてください。意識をもって見て、内側と外側の境界線を実際に見つけることができるか試してみてください。

 

思考では境界線を引けますが、実際に探してみると、そこには存在しません。

 

身体と椅子が触れ合う感覚を味わってみましょう。

身体が終わり、椅子が始まる感覚はどこにもありません。それは一つの全体、分割されていない出来事なのです。

しかし、言葉を使うと、「身体」と「椅子」という2つの別々のものになります。

 

今、この瞬間に意識を向けることで、私たちはそのすべてを包含する意識、気づきの存在、そして今ここに存在する広がりを感じ始めることができます。

 

身体の感覚など、どんな感覚にも深く意識を向けていくと、その核心には何もないことに気づきます。それは空虚な空間です。

 

そして、私たちが自分自身だと考えている、分離された自我を探してみるとどうでしょうか?

 

私たちが幼い頃から繰り返し教え込まれてきた「あなたはジョーンだ」「あなたは女の子だ」「あなたはアメリカ人だ」「あなたはこういう人間だ、ああいう人間だ」という自我は見つかるでしょうか?

 

私たちが人生の舵取りをしていると思っている、自分自身だと思っている「私」は、本当にそこに存在するのでしょうか?

 

「私」を探してみると、思考、精神的なイメージ、記憶、物語は見つかるかもしれません。しかし、それらすべての中で、「私」はどこにあるのでしょうか?

 

 

○ 選択と決定における気づき

 

私たちが実際に見ている間、選択や決定がリアルタイムで展開していく様子を観察すると、大きな決定であろうと、座った後に立つという小さな決定であろうと、本当に操縦桿を握っている人はいないことに気づきます。

 

衝動が湧き上がり、思考が生まれ、行動が起こります。それはすべて一つの全体、一つの生きた現実です。

 

ある意味では、意識とは、統一性、全体性を見かけの多様性に分割することです。

 

そして、思考はさらに分割し、再構築し、固め、抽象化し、境界線を引きます。

しかし、私たちは意識がシームレスであることにも気づきます。

 

見かけの多様性、さまざまな色や形や形態があるにもかかわらず、それは一つの全体的なシームレスな出来事でもあるのです。

 

それはまるで一つの動く絵のように、すべてが一緒に現れています。

そして、意識、気づきの存在は、決して分割されておらず、閉じ込められておらず、境界線を持たず、身体の中に存在するわけではないということに気づきます。

 

それは私たちが考えることを学んだアイデアにすぎません。もちろん、それは単なる思考だけでなく、非常に深いコンディショニングなので、自分自身を体験する方法、自分自身を運ぶ方法、世界の中で動く方法でもあります。

 

○ 目覚めとは何か

 

私の見るところ、目覚めは劇的で爆発的な出来事ではありません。

 

もちろん、劇的で爆発的な出来事を経験する人もいますが、私にとって目覚めは、常に「今」であるという点で即時的です。

 

それは今しか起こりません。しかし、それは時間の中で展開するプロセスでもあります。

そして、私の経験では、そのプロセスに終わりはありません。

それは、分離感が現れたときにそれを気づく、瞬間瞬間のプロセスです。

 

「ああ、私は防御的になっている」と気づき、それに興味を持つのです。

私は何を防御しているのでしょうか?

 

あるいは、テレビで政治家が言っていることに腹を立てているとします。

その腹立ちの本当の理由は何か?怒りや恐怖の根源は何でしょうか?

 

そこで本当に何が起きているのでしょうか?

それは、宇宙はこうあるべきではないという、ある種の深い恐怖です。

それは、私が見ているように、私が望むようにではないということです。

ですから、これらのことが浮かび上がってきたときは、それらについて好奇心を持つこと、それらに興味を持つことが大切です。

 

そして、それらを体内のエネルギーと感覚として感じること、そして思考を見ることを通して探求するのです。

 

そうすることで、その呪縛、分離への取り憑かれから目覚めることができます。

 

そして、これらのことは個人的な問題ではないことに気づき始めます。

それは私の個人的な問題ではありません。

 

 

○ 思考と現実

 

ご存知の通り、心は常に「ああ、神様、私は防御的だった。つまり、私は本当に悟っていない。私は負け組だ。私は失敗した。私は滑ってしまった」などと呟きます。

 

しかし、それが単なる思考に過ぎないということを理解することが重要です。

 

それは本当に個人的な出来事ではありません。

それは全宇宙の出来事であり、生命そのものの出来事なのです。

それは、宇宙で起こっている何らかの条件付けられたパターンの動きです。

 

そして、それが理解できるようになると、自分自身や他の人々に対して自然と慈悲の心が生まれます。

 

なぜなら、私たち誰もがこの全体の状況を本当にコントロールしているわけではないことに気づくからです。それは自分自身で起こっているのです。

 

 

○ 直接的な探求の重要性

 

そして、それを信念体系や哲学として受け入れるよりも、このことを直接探求し、発見することの方がはるかに価値があります。

 

すべては一つの出来事であるとか、自己など存在しないとか、知的に理解することは比較的容易です。

 

しかし、私たちはそれを理解しない場合もあり、その場合、「なぜ私は自己が存在しないことがわからないのだろうか?他の人々は皆それを理解しているように見えるのに、私はまだ自己を感じている。どうやって自分自身を取り除けばいいのだろうか?自己が存在しないというのはどういう意味だ?私は私だ。ここにいる。」などと考えることになります。

 

ですから、そうではなく、感覚的に感じ、意識し、見ることによって、それを直接探求することが重要なのです。

 

そして、何かが変化します。少なくとも私の経験では、それは永遠に続く変化ではありません。それは今、変化するのです。

 

しかし、私たちは妄想や混乱さえも、この生きた現実全体の一部であることを理解することができます。それは個人的なものではなく、この広大な意識空間はすべてを包含しています。そして、その意識こそが私たちの真の性質なのです。

 

 

○ 「私」とは何か

 

私たちが「私」と言ったときに何を指しているのかを本当に考えてみましょう。

 

もちろん、心は「私はジョーン・トリリフソン、この人物を指しているのだ」と考えます。

しかし、それはすべて後天的に学習したものです。私は自分の名前などを学ばなければなりませんでした。

しかし、それよりも深く探求すると、「私」とは実際に何を意味するのでしょうか?

 

私たちが「私」と言うとき、疑うことのできないこの気づきの存在、つまり意識の存在を指しているのではないでしょうか?

 

私たちは自分がここにいること、意識していること、今ここにいることを疑うことはできません。

 

そして、この現在の出来事も疑うことはできません。私たちはそれについての解釈を疑うことができます。

 

それが幻覚なのか、夢なのか、原子と分子なのか、純粋な意識なのか、あるいは何か他のものなのかを疑うことができますが、何かがここに現れていること、何かが起こっていること、ここでは経験があること、感覚があること(視覚的感覚、聴覚的感覚、身体感覚)を疑うことはできません。

 

そして、意識とこの現在の出来事、この経験との間に境界線を見つけることはできません。

 

呼吸が終わり、意識が始まる場所を見つけることができますか?

 

 

○ 言葉と現実

 

私たちはさまざまな言葉を使いますが、これらの言葉は、独立した、離散的な、異なるものについて話しているかのように錯覚させ、私たちを混乱させる可能性があります。

 

言葉は役に立ちます。

それはこの生きた現実のさまざまな側面を指し示し、私たちをそのさまざまな側面に目覚めさせます。

ですから、言葉を取り除こうとしているわけでも、言葉の使用をやめようとしているわけでも、思考を放棄しようとしているわけでもありません。

 

しかし、思考によって作られた地図の世界と、感覚やエネルギーを直接体験すること、色や形、音、身体と椅子の触れ合う感覚との違いを見始めることが重要です。

 

今この瞬間をただあるがままに受け入れることが変革をもたらすというのは、非常に直感に反します。

私たちは、何かをしなければならないと教え込まれてきました。何かを操作し、修正し、何かを得、何かを達成し、何かを取り除き、何かをしなければならないと。

 

しかし、今この瞬間をありのままに受け入れ、ここに存在するものを拒否することなく、ここにないものを掴むことなく、ただあるがままに受け入れると、素晴らしいことが起こるのです。

 

 

○ 行動と意識

 

もちろん、心臓発作を起こしたときに病院に行かないとか、人種差別や性差別に対処しないとか、気候変動について何もしないという意味ではありません。

人生の残りの時間をソファでただ寝そべっているという意味でもありません。

 

実際、知的な行動は、この種の開かれた気づきの存在から生まれます。

 

この気づきの存在から生まれる行動は、私たちの条件付けられた習慣的な思考と行動のパターンから生まれる行動とは非常に異なります。

 

例えば、禁煙しようとしているとしましょう。そして、自分自身の2つの側面があることに気づきます。タバコを吸いたい自分と、禁煙したい自分です。

 

そして、それらは互いに戦っているように見えます。ですから、タバコを吸うことに興味を持つことができれば良いでしょう。タバコが吸いたくなったときの衝動はどのようなものでしょうか?

 

あるいは、過食など、他のことにこのことを当てはめることができます。その衝動とは何でしょうか?

 

体の中でどのような感じですか?

行動を起こす前に、その衝動を1分間または5分間感じることはできるでしょうか?

そして、それを本当に探求して、「これは何だ?」「実際にはどのようなものか?」を見てみましょう。

それは、「私はこのものを持たなければならない」というような感じかもしれません。

しかし、もし持たなければどうでしょう?

そして、実際にタバコに火をつけたらどうなるでしょうか?

タバコのパッケージからタバコを取り出すのはどのような感じですか?

煙を吸ったり、リンゴやケーキを食べたりするのはどのような感じですか?

 

 

○ 意識と愛

 

何らかのイデオロギーを適用するのではなく、本当に開かれた心で「これは何か?」を探求してみましょう。

 

放棄感、防御的であること、苛立ちなど、何が起こるかを。

 

それは、「すべてが意識である」という答えを出すことではありません。

 

確かに、あらゆるもの、私たちは意識の外に何らかの経験を持っていません。

それは真実です。しかし、そうした答えに安住するのではなく、本当に意識になることです。

 

私たちは意識です。意識しましょう。ただ開いていましょう。

そして、その開かれた状態、気づきの存在こそが愛であり、喜びであり、平和なのです。

 

そして、そこでは神を見ます。

至る所に愛する者を見ます。

すべてが聖なる現実であること、すべてが自分自身であること、すべてが注目に値すること、すべてが神聖であることを見ます。

そして、美しさを見ます。

美しさは対象物の中にあるのではなく、見ることの中にあるのです。

本当に何かを見ているとき、私たちはくしゃくしゃになったティッシュや路上を吹き飛ばされているゴミの中に美しさを見出すことができます。

駐車場や建設現場でさえも美しさを見出すことができます。

 

扇風機や何らかの振動音などの単純な音を楽しむことができます。

ここに存在するもの、単純さ。それは驚くべき出来事です。

私たちはそれが何であるかを知りません。

私たちは「それは素粒子だ」「それは意識だ」「それは何か他のものだ」など、たくさんの言葉を持っていますが、実際にはそれが何であるかを知りません。

 

「水」という言葉は水ではありません。

これは水を話題にしているときには非常に明らかですが、「意識」という言葉は意識ではなく、私たちはこれが何であるかを知りません。

 

しかし、この驚くべき出来事には、想像力、映画、芸術、世界の中に世界、世界の中に世界が含まれています。

 

それは、それらを取り除いたり、除外したりすることではなく、すべてを本当に含めることです。すべてに開いていくことです。