上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く 5(和泉鳥取駅から布施屋駅)

2024年11月12日 | 街道を歩く

 



【和泉鳥取駅~県境~布施屋(ほしや)駅】 令和6年(2024)11月7日(木)晴

行  程:6日高崎駅20:40==(JAMJAMバス4500円)==6:25大阪難波6:45==(JR 820円)==8:08和泉鳥取駅8:15--地藏堂王子(22)--8:45 馬目王子(23)--9:00山中神社--9:03山中宿本陣跡--9:35県境--9:40中山王子(24)---10:58山口王子(25)--11:35山口神社---12:28川辺王子(26)---12:54中村王子(27)---13:04力侍(りきし)神社--14:20吐前王子(28)---14:43川端王子(29)--14:45布施屋駅15:23==(JR 210円)==15:38和歌山駅==日前神社--コンフォートホテル和歌山(朝食付4545円) 
歩行距離:20.7km (渡辺浜・八軒家より累計88.3km)



 
 今回は格安夜行バスで大阪へ
 着いたのは大阪難波パークス通り、JR難波駅まで15分程歩きJRで前回の和泉鳥取駅へ


【阪南市】


和泉鳥取駅


駅前の長岡王子、窪津王子から数えて21番目



古道はこの「山中橋」の手前を入り、「琵琶ヶ岸懸(びわがけ)」という熊野参詣の最難関を通るそうだが藪で入れない

琵琶ヶ岸懸  熊野街道はここでは山中川の断崖となり、やっと人が通れるほどの道のため難所となっていました。琵琶ヶ岸懸の名は、熊野に向かう琵琶法師が道を踏み外して転落し、背負っていた琵琶が崖の途中の灌木に懸かっていたこと、また深い渓流の音が琵琶の音に似ていることによるといわれています。江戸時代になると紀州街道となり道を補強し、通行の安全を図りましたが、後に新しい府道が作られ廃道となりました。」(はんなんマップ 紀州街道を歩く)


反対側に廻ってみるが「きけん」の看板に怖じ気ずき退散




22地藏堂王子
地福寺の子安地蔵は元々は地蔵王子と言われている
阪南市には「地藏堂王子」と「馬目王子」の二つの王子



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23馬目王子
波太神社に合祀、御神体は山中神社に祀られて、地元では「足神さん」と呼ばれている



山中宿



庄屋屋敷 江戸中期の建築




山中神社 馬目王子の祠がある




本陣跡 参勤交代時には近郷から三千人の人夫・助人が集められた




塞之神(さいのかみ)(=道祖神)
山中宿の南口からの疫病・邪神を遮る   毎年12月20日に犯罪者等を紀州藩から和泉の国へ追放した



山中渓駅(やまなかだに)




山中関所跡




日本最後の仇討ち場
ここでも面倒なことは紀州藩から和泉へ厄介払い



近くに「葛城修験行所」の看板 


看板の文字が不鮮明だが県境の境川で身を清めためたのだろうか?
 高速道路の向こうに「入江宿除蔵王」という修行場があり、桜の老木があったことから、「さくら地蔵」とも呼ばれてい(阪南市HP)



大阪府と和歌山県の県境 9:35  和泉鳥取駅より4.4km

 



【和歌山市】


道標には「葛城修験巡礼古道」なる表示も



24中山王子




中山王子は葛城修験の巡礼コース



和歌山側の塞之神



雄ノ山峠を越えると、ひっそりと不動明王
掘削され舗装路となっているが、嘗ての雄ノ山峠は難所だった


信仰厚いお地蔵さん?



頭上高々と和歌山ジャンクション
細くか弱く見える高速道路、車がこぼれ落ちてくるのではと心配になりながら通過




25山口王子 山口神社に合祀されている
『今昔物語集』にある美女が白鳥と化した話に因む白鳥伝説のある関所(紀伊の関)があったとされる
ここから「熊野古道 紀伊路 スタンプ」がある     
スタンプのデザインは白鳥が描かれている




お墓の中に道標 「右 加太淡嶋神社」を右折

道標は外に出してほしい




雄ノ山川の脇に役行者像 葛城修験のコースになっている



和歌山市に入ると分岐点などの路上に「指き石」が埋め込まれている



山口神社 一の鳥居
右折し熊野古道を外れ神社に向かう




山口神社
左が春日神社 右が日吉神社で明治時代に中山王子山口王子が合祀された



地藏堂を左折



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26川辺王子



軽自動車でもすれ違いは困難な隘路を進む


        
 この辺り広域下水道では無く農業集落排水

 マンホールは紀州手毬をデザイン



解説版だけの27中村王子



 *
力侍(りきし)神社 
当地を流れる紀の川は何度も氾濫し熊野街道も道筋を変えたため、ここも「川辺王子」の推定地とされる
ここのスタンプは、「天の岩戸を開き天照大神を岩戸の外に連れ出した天手男神(タジカラオノカミ)」



川辺子安地蔵




「導き石」と「熊野古道」表示板や提灯があるので道迷いしない



紀の川に架かる川辺橋下にある地蔵群 6地蔵ではなく10地蔵
熊野街道や紀の川の安全を祈ったものだろうか?



川辺橋 後ろの山は標高237mの高積山


紀の川 
日本有数の雨量がある大台ケ原が源流。この辺りは中央構造線上に西へ流れる



布施屋の渡し場跡  食品工場の入り口に案内板があり見つけずらい
昭和30年半ばまで交通の要所であった




28吐前王子(はんざき) どう読めば「ハンザキ」と読めるのだろうか?
紀の川で水垢離をし穢れを落としてからお参りした



やっと会えた和歌山市のマンホール、「毬と殿さま」に因んだ紀州手毬をデザイン

  亀甲模様     JIS規格模様




29川端王子
 旅の女人にお茶を出しているスタンプがある(布施屋は旅人の救護・宿泊施設であったことに因む)

 布施屋(ふせや)とは、古代律令制時代に日本各地に作られた旅行者の一時救護・宿泊施設。現在の地名は、「ほしや」 
「藤原定家や藤原頼資は吐前王子を参った後に日前宮の奉幣使として日前宮に参拝しています。後、両人は和佐・平緒王子には参らず、奈久智(菜口)王子社に参拝するのですが、川端王子は中世の参拝記には記載されておらず、無かったものと思われます。明治時代に高積神社に合祀されました」


本日はここまでとし、布施屋駅15:23から宿のある和歌山駅15:38へ
チェックインした後、藤原定家が奉幣使(天皇の使)として参拝した日前神社へ


***

わかやま電鉄には変わった車両が沢山ある



駅名は「日前宮(にちぜんぐう)」だが神社は「日前神社(ひのくまじんじゃ)」



日前神社は4時半閉門で参拝叶わず、アオサギに見送られ

和歌山ラーメンを食べ宿へ
和歌山ラーメンも色々あるそうだが、醤油ベースのさっぱり系を食べた
ラーメン専門店では無かったので早なれ寿司は置いてなかった(事前調査不足で残念)


スタンプ

山口王子      力侍王子       川端王子      伊太木曽王子





旅の楽しみは地元の人の話や名物をたべることですが
貧乏旅行で余り高価なものは食べられません
宿でもらった和歌山ラーメン店リストから近い店を選んで行き
和歌山ラーメンにつきものの「なれ寿司」をいただきたいと思ったが
「うちはラーメン屋ではないのでなれ寿司は無い(居酒屋)」との回答
宿に帰りレシートを確認したところビール1本余分に請求されていました
これも旅の思い出でと思う今日この頃であります

↓そんな訳で 押していただくとたすかります





 地図

用語等
≪熊野街道≫
*熊野街道は、渡辺津(八軒家浜)から熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称。紀伊路とも呼ばれ、当初は、渡辺津から熊野までが一体として扱われたが、近世以後は紀伊田辺を境に紀伊路・中辺路と区分されるようになった。
 説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ小栗街道(おぐりかいどう)とも呼ばれ、大阪市街(上町)では御祓筋(おはらいすじ)とも呼ばれる。(Wikipedia)

≪後鳥羽上皇の熊野御幸≫  
   後鳥羽上皇は建久9年(1198)から24年間の在院期間のうちに28回熊野御幸を行っており、道中のところどころの王子社などで、和歌会が催された
   建仁元年(1201)の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を日記『後鳥羽院熊野御幸記』に記している。  『新古今和歌集』編纂の院宣が下されたのは、この建仁元年の熊野御幸から帰京した後のことだった。
(み熊野ネットから)

≪熊野九十九王子≫
 王子とは、熊野権現の御子神だと考えられています。
 熊野詣が一大ブームとなった院政期に、多数の王子が紀伊路・中辺路ルートに出現しました。
 それらは総称して熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)と呼ばれました。九十九というのは実際の数で はなく、「数が多い」という意味ですが、実際、最盛期には99に近い数の王子がありました。
 各王子では、奉幣(幣を奉る)と経供養(般若心経などを読む)などの儀式が行われ、里神楽や馴子舞、和歌会などの奉納が行なわれることもありました。
(み熊野ネットから)

≪五体王子≫
 九十九王子のほとんどの王子は、熊野十二所権現のうちの熊野五所王子(若一王子・禅師の宮・聖の宮・児(ちご)の宮・子守の宮)の1体を祀るものですが、5体すべてを祀るものもあり、それをとくに「五体王子」といいました。
 「五体王子」は、とくに格式が高い王子だとして崇敬されましたが、どの王子が五体王子なのかは史料により異なります。「修明門院熊野御幸記」では籾井王子(樫井王子)・藤代王子・稲葉根王子が五体王子とされ、「後鳥羽院熊野御幸記」では藤代王子のみが五体王子で、稲葉根王子は五体王子に准じるとされます。
(み熊野ネットから)
*現在五体王子は、藤代皇子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発信門王子とするのが一般的。

参考1:歩く旅シリーズ 熊野古道を歩く 山と渓谷社
参考2:み熊野ねっと::自称「熊野の伝道者 てつ」さんのHP、熊野本宮氏子総代
参考3:歴史街道ウオーキングマップ::大阪府都市整備部
参考4:熊野古道紀伊路::和歌山県観光連盟
参考5:Kansai Odyssey::誰も知らない観光地をテーマに関西を冒険する日本人の夫とアメリカ人の妻のブログ

参考7:田舎暮らしde ほっ!
参考8:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社

参考9:藤原定家の熊野御幸(ごこう):神坂次郎著 角川ソフィア文庫



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