【石才駅~籾井王子~和泉鳥取駅】 令和6年(2024)10月20日(日)晴
行 程:泉佐野駅6:30=(南海本線240円)=貝塚駅=(水間鉄道250円)=石才駅6:50--7:50南近義神社--8:25貝田橋--9:10佐野王子--10:23籾井王子--10:50一岡神社--11:05厩戸王子---11:25本陣跡--11:50アラカルトピノ(昼食)12:30--13:23和泉鳥取駅13:33==14:43大阪14:47==14:50新大阪15:18==18:22東京18:32==19:28高崎19:44==19:58前橋
(和泉鳥取駅~前橋駅:運賃・新幹線料金14,490円)
歩行距離:19.7km (渡辺浜・八軒家より累計67.6km)
【貝塚市】
当地区のだんじり祭りは1週間前の13日だったようだが、未だ祭礼の札が残っている
*「だんじり」とは大阪府・泉州地域の秋祭りの際に用いられる山車(だし)の事で、漢字で『地車』と書いて、「だんじり」とむ。
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南近義(みなみこぎ)神社
*丹生神社と呼ばれたが明治40年から42年にかけて、南近義村の全地域に所在する24の神社を合祀し、南近義神社と明治42年5月18日社名が変えられ現在に至る。
熊野九十九王子のうち、鞍持王子、近木王子の神も合祀されている。
見出川にかかる貝田橋を渡ると泉佐野市
【泉佐野市】
貝田橋を渡る狭い道、この近くに貝田町会館があり、そこが「鶴原王子」と推測されている
泉佐野市のマンホールは市の木・イチョウの葉とギンナン(実)のデザイン
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佐野王子
当地には佐野王子神社があったが明治42年春日神社に合祀されが昭和20年石碑が建てられた
明治政府の廃仏毀釈と神社合祀施策は多くの史跡を破壊してしまった。特に三重県や和歌山県の神社は多くの神社が合祀され、南方熊楠は「史蹟と古伝を滅却する・天然風景と天然記念物を亡滅す」等の理由で反対している
「すぐ和歌山道」「ふどうみち」と書かれた道標
古い家が多い道 立派な家だが空き家の様
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長南中学校手前にある「八丁畷地蔵」(はっちょうなわてじぞう)
ため池(道の池)にはオオバンやカルガモ
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樫井王子はこのあたりと「DAIHATU」の店の人に尋ねると案内してくれた
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樫井(籾井)王子
石碑は『籾井王子』と書かれている。格式の高い五体王子の一つ
奥家住宅 国指定重要文化財
南中樫井の熊野街道沿いに建てられた江戸時代(1600年初め頃)の豪農の館
雰囲気のある家並みが続く
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「淡輪六郎兵衛重政(たんのわろくろうべえしげまさ)」の墓
大坂夏の陣で戦死した淡輪重正の25回忌供養のために親族の会津藩士が(寛永16年・1639)に造立
その後、崩壊の危機に瀕したので末裔が平成12年(2000)に再築した
350年も経って再築するとは先祖思いの人たち
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樫井古戦場跡 と 明治大橋
先に墓のあった塙団右衛門や淡輪六郎兵衛がここで徳川方の浅野軍と戦った
ここを渡ると泉南市
【泉南市】
続いて明治小橋というのもある
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海会寺(かいえじ)跡 国の史跡
7世紀後半頃建てられた古代寺院で発掘調査によって金堂・塔・講堂・回廊・南門など古代寺院の主要伽藍の全貌が明らかになり、1995(平成七年)に国の重要文化財に指定
向かいにある海会寺から発掘されたものが展示されている古代史博物館を見学しようとしたが閉館だった
海会寺金堂の跡地に一岡神社の本殿が建てられている
一岡神社には「厩戸王子」が合祀されている
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一岡神社鳥居前に地車があった
「地車」とかいて「だんじり」と読むそうだが、この地域では「やぐら」というそうだ
厳密には「だんじり」と「やぐら」は違うようだが漢字は同じ?
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厩戸王子
ここのあった馬戸王子神社は明治40年一岡神社に合祀された
歩いてきたルートから西に300m程外れる、以前の道は明治大橋下流からここへ繋がっていたのだろう
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歩いてきた道から厩戸王子への分岐にある案内板(これまで無かった)
聖地・熊野へ約215km
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紀州街道信達(しんだち)宿
宿場町で、中世には熊野参詣の上皇や公卿の宿所となって、近世には参勤交代の宿場
信達宿本陣
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常夜燈3基
文政のお蔭参り(伊勢神宮への参拝)に際して、伊勢神宮への深い信仰とその道中の安全を祈願するために建立したことがうかがえます。時代とともに外灯が整備され、平成4年に地域が輪番で常夜灯に蝋燭を灯す「お光を上げる」習慣は終わり、電気による 自動点灯式になりましたが、現在でも貴重な常夜灯としての役割を果たしています。(泉南市HP)
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泉南石綿の碑
この地域には明治末から創業する多くの石綿工場があり石綿(アスベスト)による被害も深刻であった
2014年最高裁は国の責任を認める判断を下した。8年半に及ぶ裁判の勝利を記念し、被害者の鎮魂と石綿被害の根絶の願いを込めて「泉南石綿の碑」を建立した。
街道に戻ると例の案内板
林昌寺への分岐
反対側に伝信達一之瀬王子跡があったようだが見逃してしまった
石標「是より あたごみち」
この辺りが長岡王子跡といわれてる
古い家が残る街並み
撮影を忘れかけていた泉南市のマンホール
真ん中に市章周囲に市の花ウメがデザイン
【阪南市】
阪南市のマンホールは市章と市の木マツ、市の花サツキ、波をデザイン
波太神社遥拝の鳥居 下はJR阪和線和泉鳥取駅
駅から鳥居
JR阪和線和泉鳥取駅
今回の3泊4日熊野街道歩きはここまでとし帰路についた
熊野街道は鎌倉時代以降、秀吉時代以降から近代に至るまで戦災や開発などで
街並みや川筋、川を渡る場所、丘陵などの自然地形も著しく変化して
平安・鎌倉時代のルートは失われてしまったようですが
各王子の解説版を見ると多くは明治政府の神社合祀施策により合祀され廃されてしまった様です
明治39年(1905)に始まった合祀は、大正8年(1919)まで続き約8万社が合祀されたと言われています
南方熊楠や柳田国男らの働きもあり1920年(大正9年)、貴族院で「神社合祀無益」と決議され終息するまで
三重県では神社の9割が廃され、和歌山県もそれに次いで多かったそうです
しかし、この間かなりの社殿や、森、社叢、原生林が姿を消してしまっていた様です
国家権力や国を支配する宗教等により貴重な自然や文化遺産が失われるのは
いつの世も万国共通におこることの様でどう考えれば良いのか迷う今日この頃であります
地図
用語等
≪熊野街道≫
*熊野街道は、渡辺津(八軒家浜)から熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称。紀伊路とも呼ばれ、当初は、渡辺津から熊野までが一体として扱われたが、近世以後は紀伊田辺を境に紀伊路・中辺路と区分されるようになった。
説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ小栗街道(おぐりかいどう)とも呼ばれ、大阪市街(上町)では御祓筋(おはらいすじ)とも呼ばれる。(Wikipedia)
≪後鳥羽上皇の熊野御幸≫
後鳥羽上皇は建久9年(1198)から24年間の在院期間のうちに28回熊野御幸を行っており、道中のところどころの王子社などで、和歌会が催された
建仁元年(1201)の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を日記『後鳥羽院熊野御幸記』に記している。 『新古今和歌集』編纂の院宣が下されたのは、この建仁元年の熊野御幸から帰京した後のことだった。
(み熊野ネットから)
≪熊野九十九王子≫
王子とは、熊野権現の御子神だと考えられています。
熊野詣が一大ブームとなった院政期に、多数の王子が紀伊路・中辺路ルートに出現しました。
それらは総称して熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)と呼ばれました。九十九というのは実際の数で はなく、「数が多い」という意味ですが、実際、最盛期には99に近い数の王子がありました。
各王子では、奉幣(幣を奉る)と経供養(般若心経などを読む)などの儀式が行われ、里神楽や馴子舞、和歌会などの奉納が行なわれることもありました。
(み熊野ネットから)
≪五体王子≫
九十九王子のほとんどの王子は、熊野十二所権現のうちの熊野五所王子(若一王子・禅師の宮・聖の宮・児(ちご)の宮・子守の宮)の1体を祀るものですが、5体すべてを祀るものもあり、それをとくに「五体王子」といいました。
「五体王子」は、とくに格式が高い王子だとして崇敬されましたが、どの王子が五体王子なのかは史料により異なります。「修明門院熊野御幸記」では籾井王子(樫井王子)・藤代王子・稲葉根王子が五体王子とされ、「後鳥羽院熊野御幸記」では藤代王子のみが五体王子で、稲葉根王子は五体王子に准じるとされます。
(み熊野ネットから)
*現在五体王子は、藤代皇子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発信門王子とするのが一般的。
参考1:歩く旅シリーズ 熊野古道を歩く 山と渓谷社
参考2:み熊野ねっと::自称「熊野の伝道者 てつ」さんのHP、熊野本宮氏子総代
参考3:歴史街道ウオーキングマップ::大阪府都市整備部
参考4:熊野古道紀伊路::和歌山県観光連盟
参考5:Kansai Odyssey::誰も知らない観光地をテーマに関西を冒険する日本人の夫とアメリカ人の妻のブログ
参考7:田舎暮らしde ほっ!:
参考8:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考9:藤原定家の熊野御幸(ごこう):神坂次郎著 角川ソフィア文庫
街道歩きは様々勉強になりますが、すぐに忘れてしまうのも年齢のせいでしょうか
やっと歩きやすい季節になったかともう間もなく、秋は短く直ぐ冬になってしまいそうな近年ですね