上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

熊野古道(紀伊路・中辺路)を歩く 7(海南駅から湯浅)

2024年11月21日 | 街道を歩く

 



【海南駅~湯浅】 令和6年(2024)11月9日(土)晴

行  程:紀三井寺駅6:11=(JR 190円)=6:18海南駅6:20--7:31藤白神社--7:44藤代塔下王子--8:43橘本王子--8:55所坂王子--9:21一壺王子--10:17拝ノ峠--10:37蕪坂塔下王子--11:28山口王子--12:05昼食(紀伊宮原駅前「まるみや」)12:50--13:19宮原の渡し跡--13:20くまの古道民俗資料館---13:51糸我王子--14:18糸我峠--14:41逆川王子--14:56方津戸峠--15:25湯浅伝統的建造物保存地区16:30---17:00湯浅町 ビジネスホテルてまり泊(素泊まり4900円)
歩行距離:24.4km (渡辺浜・八軒家より累計135.5km)




本日の行程は長いので、昨晩宿泊した紀三井寺駅を早朝に出発



【海南市】


熊野古道の道標はお盆?


海抜1m 南海トラフ地震が心配




昨日も参拝した藤白神社へご挨拶




有間皇子の墓
孝徳天皇の皇子で、皇位継承の政争で謀反の疑いで中大兄皇子に尋問され、藤白坂で絞殺された
説明版の更新お願いします




藤白坂の丁石地蔵 
峠まで一丁(60間=約0.1km)毎に17体ある。当時(享保・1700年前期)のものは4体で13体は昭和56年以降の復元


 二丁        三丁       四丁


本格的な登り

 *
 五丁        六丁


振り返れば和歌浦湾と和歌山石油精製所



七丁地蔵は屋根付き 八丁以降は省略




淡路島が見える


竹林を進む





筆捨て松 硯石
*平安時代の初め、宮廷の絵師・巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野権現の化身である童子との絵の書きくらべをして負け、 悔しさのあまり持っていた筆を松の根本に捨てたといわれています。 おもいあがった巨勢金岡を、熊野の神様がいましめたお話です。 その故事にちなんで初代紀州藩主徳川頼宣公が筆捨松のそばに硯石を作らと伝えられています。



索道(さくどう)跡 木材を切り出した時に使用したか?

戦時中一帯の木は切りだされ、いまある木は神社仏閣の古木を除き全て戦後の植林だとか



地蔵峯寺の宝筐院塔


 *
藤代峠にある 地蔵峯寺 本堂と石造地蔵菩薩は重要文化財
境内に藤代塔下王子跡がある




38 明治の神社合祀令により橘本王子と共に橘本神社に合祀
スタンプは御所の芝からの眺め




地蔵峰寺の後ろにある御所の芝からの眺め




この池は地蔵峰寺周囲の8軒で鯉の世話をしている
*かつて肺炎や結核になると、お地蔵さんに願をかけに来た。その際、池の鯉を1匹もらって帰り、身を生のまま食べ、生き血を飲み、病気が治ると鯉を2匹にして返した。こうして鯉は増えていった──。


足元に「導き石」



「導き石」に従い、耕作しなくなったミカン畑等の間を下る




標高が下がると、収穫時期を迎えたミカン畑の中に入る



橘本集落の隘路を進む




39橘本王子  丈六山法藏院阿彌陀寺の境内にある



加茂川に架かる橘本土橋



風情ある道が続く




橘本神社 藤白塔下王子・橘本王子・所坂王子を合祀
祀られている田道間守は菓子の神として崇敬されている
*田道間守(たぢまもり)不老長寿の霊菓を求めて常世国に渡り、十余年の辛苦の末、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)すなわち「橘」を持ち帰ったものが、今のミカンの原種と伝わる



40 所坂王子 
明治の神社合祀で王子が廃絶されるなか、神社になった王子



最後の自販機(黄色→)、この先(赤→)拝の峠を越え有田市宮原まで無い




41 一壺王子
山路王子神社となっており「泣き相撲」が奉納される



稜線には風車


日向の斜面は稜線までミカン畑

「山はみな 蜜柑の色の 黄になりて」芭蕉



拝の峠への沓掛登り口



斜面に建つ沓掛集落 周囲はミカン畑




沓掛児童館 沓掛松・弘法井戸・爪書地蔵の説明版らしいが読めない



拝の峠手前で平らになり民家が並ぶ



ここから急坂



拝ノ峠付近を越える 



下りの道端に咲くツワブキ




万葉歌碑




拝ノ峠からの眺め



海南市と有田市の境 峠より有田市側にある

 



【有田市】



42 撫坂王子 明治の神社合祀令で宮原神社へ合祀された




太刀の宮
*真田幸村の招かれて大坂夏の陣に参加した宮崎定直が、淀君の思し召しが良くなく、この地に戻ってきた。
疲労のあまりに寝入っていた定直を追手が襲うと、腰の太刀が自然と抜け出し大勢の相手を切り倒したという伝説があります。真っ二つに折れていた太刀を祀った祠がこの「太刀の宮」



集落の間を抜ける




爪地蔵
阿弥陀と地蔵の線刻は弘法大師が爪で彫ったとされる




眺めの良いミカン畑を下る




43 山口王子 宮原神社へ合祀
スタンプデザインの謂れは解らないが、宮原神社の御手洗池に因むものか?
*影向岩と御手洗池(はす池)
境内地の両脇から流れる小川が一本の川になる合流点に影向岩(神を向かえる岩)が立ち(不明)、この小川を小瀬の浦と称し、御手洗池(江戸時代、有田川の氾濫により消失する)に注ぎ、神主はそこで禊を行った。(宮原神社HP




伏原の墓 熊野参詣の途中で亡くなった人を弔うため建立



ミカン畑の向こうに風力発電の風車



小洒落たみかん畑の地蔵様



宮原集落内の道も狭い



JR紀伊宮原駅




こちらで昼食 久しぶりのオムライスは家庭料理風だった



有田川宮原橋手前の 札場地蔵尊


天神社 境内に「宮原の渡」解説版がある




宮原の渡場跡



有田川



得生寺
*天平19年(747年)に右大臣藤原豊成の娘として、生まれた姫が13才のとき継母のため奈良の都から糸我の雲雀山に捨てられ、3年の間に称賛浄土経一千巻を書写したと伝えられています。また、姫の従臣伊藤春時(剃髪して得生という)が姫を養育した所に草庵を結び、安養院と号したのが始めといわれます。会式の際に行われる二十五菩薩の渡御は、昭和43年に県の無形文化財に指定されています。(有田市HP)




糸我の一里塚 紀州藩城下より5里




糸我稲荷神社 糸我王子を合祀


神社前にある後白河法皇が籠を止めた跡



神社の樹齢5百年を越えるクスノキ



 *
熊野古道歴史民俗資料館
スタンプは資料館に展示されている毘沙門天?



この道、車通れるの?




44糸我王子 明治に糸我稲荷神社に合祀されたが平成7年再建された




このあたりが糸我王子推定地



熊野古道の幟のあるミカン畑を歩く



糸我峠

 



【湯浅町】


逆川神社



45 逆川王子 国津神社に合祀 
逆川の謂れは、近くを流れる吉川が海と逆の方向へ流れからと言われている
スタンプは弘法の井戸


後白河法皇 腰掛岩の跡


弘法の井戸 逆川王子スタンプのモデル




方津戸峠(方寸峠)
*方寸とは、「一寸四方の狭い所」の意味であり、この峠は古来「方津々坂」「程遠坂」と呼ばれ、熊野参拝の旅人達は有田川を渡り険しい糸我峠を越え逆川王子社に参拝した。



**
道町の立石道標 天保九年建立 紀三井寺・熊野・伊勢・高野への参詣道を示している




立石茶屋
道標の斜め向かいにある休息所。全国の醤油瓶が置いてある
スタンプは鎌倉時代から続く醤油醸造の様子

ここから熊野街道を外れ湯浅伝統的建造物群保存地区



嘗ては醤油醸造発祥の地として100軒近い醤油屋が営業していた
ここから銚子や野田に出て醸造し江戸で店を構えたのが、ヤマサやヒゲタ醤油であるという
今でも当地で手作りの醤油屋が数軒営業している




甚風呂 幕末から昭和の終わりまで営業していた銭湯。
外観と建物内部を保存・復元し、古民具などを展示して歴史民俗資料館として公開中




大仙堀(しょうゆ堀) 醤油の原材料や商品が積み下ろしされた内港
堀の脇には醤油蔵が並び、ここから全国に醤油が出荷された




熊野古道沿いにあるビジネスホテル「てまり」に宿泊
話好きのおかみさんに、紀子様の父方の曾祖父は紀州出身で「きこ」は紀州の「紀」だとか
地元の四方山話を聞かせてもらった





穏やかな晴れの一日、たわわに実ったミカン畑の中を歩いた
真っ青な空や遠くに見える海、喉かな一日は絶好の街道歩き日和
余りにも良すぎて逆に不安さえ覚えるのは年のせいでしょうか

こんな日が永く続けばと思う今日この頃であります

↓そんな訳で 押していただくとたすかります



 


 地図


用語等
≪熊野街道≫
*熊野街道は、渡辺津(八軒家浜)から熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称。紀伊路とも呼ばれ、当初は、渡辺津から熊野までが一体として扱われたが、近世以後は紀伊田辺を境に紀伊路・中辺路と区分されるようになった。
 説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ小栗街道(おぐりかいどう)とも呼ばれ、大阪市街(上町)では御祓筋(おはらいすじ)とも呼ばれる。(Wikipedia)

≪後鳥羽上皇の熊野御幸≫  
   後鳥羽上皇は建久9年(1198)から24年間の在院期間のうちに28回熊野御幸を行っており、道中のところどころの王子社などで、和歌会が催された
   建仁元年(1201)の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を日記『後鳥羽院熊野御幸記』に記している。  『新古今和歌集』編纂の院宣が下されたのは、この建仁元年の熊野御幸から帰京した後のことだった。
(み熊野ネットから)https://www.mikumano.net/setsuwa/gotoba.html

≪熊野九十九王子≫
 王子とは、熊野権現の御子神だと考えられています。
 熊野詣が一大ブームとなった院政期に、多数の王子が紀伊路・中辺路ルートに出現しました。
 それらは総称して熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)と呼ばれました。九十九というのは実際の数で はなく、「数が多い」という意味ですが、実際、最盛期には99に近い数の王子がありました。
 各王子では、奉幣(幣を奉る)と経供養(般若心経などを読む)などの儀式が行われ、里神楽や馴子舞、和歌会などの奉納が行なわれることもありました。
(み熊野ネットから)

≪五体王子≫
 九十九王子のほとんどの王子は、熊野十二所権現のうちの熊野五所王子(若一王子・禅師の宮・聖の宮・児(ちご)の宮・子守の宮)の1体を祀るものですが、5体すべてを祀るものもあり、それをとくに「五体王子」といいました。
 「五体王子」は、とくに格式が高い王子だとして崇敬されましたが、どの王子が五体王子なのかは史料により異なります。「修明門院熊野御幸記」では籾井王子(樫井王子)・藤代王子・稲葉根王子が五体王子とされ、「後鳥羽院熊野御幸記」では藤代王子のみが五体王子で、稲葉根王子は五体王子に准じるとされます。
(み熊野ネットから)
*現在五体王子は、藤代王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発信門王子とするのが一般的。

 



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2 コメント

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Unknown (ローリングウエスト)
2024-11-22 22:13:00
熊野古道は大半を歩きましたが、今度は四国霊場の結願で高野山の参拝に合わせて歩いてみたいです。
もうすぐ師走ですね!一昨日は本格的な真冬日が続きブルブル状態でしたが、今日は朝から素晴らしい快晴で暖かい最高の秋でした。また明日からの週末は気温が下がるようです。TV番組で「今はまさに季節変化の波打ち際・・」とか言っており、うまい表現だなと思いました。エスカレーターのように上下する気温変化で体調を崩されぬようお気をつけください。
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ローリングウエスト さんへ (noyama)
2024-11-23 10:29:19
>ローリングウエスト さんへ
コメントありがとうございます
四国霊場結願後は、東寺にもお参りください
熊野古道は未だ紀伊路途中ですが、歴史を感じさせる街道や神社仏閣、のどかなミカン畑の道中など楽しい毎日です。
海なし県群馬に住んでおりますので海が見える景色もうれしいものです
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