【18日目 美濃國 岐阜県】 令和6年(2024)3月15日(金)晴
宿場距離:中津川宿~大湫宿 23.6km
歩行距離:中津川駅前から深萱バス停 20.7km(累計426.4km) (日本橋・大湫 2割増426.4/358.7=1.19)
行 程:宿7:30===前橋中津川駅前P8:00--9:00上宿の一里塚--10:13三ツ家の一里塚--11:37関戸の一里塚--11:55大井宿--12:30「ひかり食堂」13:10--14:10槇ケ根の一里塚--15:31紅坂の一里塚--15:55深萱バス停16:17==バス(200円)==16:40武並駅--三八旅館(1泊2食7,700円)
昼食:恵那駅前 ひかり食堂 ロースかつ定食1,400円
朝起きると窓から咲き始めた桜の向こうに恵那山が見えた
ロケーションの良いところにあるユースホステルだが中山道からは外れている
お願いして朝食を早めてもらい中津川駅まで車で出発
【45番目中津川宿を午前8時出立】
今日の出発点は四ツ目川に架かる四ツ目川橋
四ツ目川は過去には、たびたび氾濫し中津川の街中土砂で埋め尽くすものもあった
ここからもゴマ塩模様の舗装路が中山道
秋葉神社 火伏の神様で毎年本社のある遠州に代参する秋葉講があった
本陣跡
脇本陣跡は中津川市中山道歴史資料館となっており上段の間と土蔵が復元されている
中津川村庄屋居宅跡
江戸中期の建物で明治26年(1893)には登山家ウエストンが宿泊した
中津川宿の街並み
西(京口)の桝形
はざま酒造 創業者「間家」は慶長六年(1601)に中津川に移り住み江戸中期に造り酒屋を創業
建物は中津川市景観重要建造物指定
中津川
津島神社分岐
高札場跡
高札が復元され、家屋の板壁に掛けてあるが、もう一工夫ほしいところ
双頭一身道祖神(中津川市文化財)
頭は二つ、体も二つにも見えるが?二人羽織の様にも見える
上宿の一里塚 江戸日本橋より85里 (中津川駅より 2.5km)
地蔵祠
祠に地蔵尊と薬師如来像
祠の周囲には南無阿弥陀仏名号碑等の石仏石塔
小石塚の立場跡 恋し塚立場とも呼ばれていた
嵐讃岐(あらしさぬき)供養碑 寛永三年(1626)建立 中津川市文化財
国道19号線の脇を通る
複雑な分岐も標識とゴマ塩模様の舗装で大丈夫
地蔵石幢(せきどう)明暦三年(1657)の造立
六体の地蔵ではなく、六面に地蔵を彫ってある、古いものには見えないが解説版に1657年造立と書いてある
千旦林村の高札場跡
御影石の石柱、黒いペイントが剝がれると見ずらい
民家の庭先に秋葉大権現常夜燈と小さな祠
左は如意輪観音 右は馬頭観音
分岐も迷わずゴマ塩舗装路へ
中津川市坂本地区のマンホールはシデコブシ
中平弘法堂
祠の中に弘法大師が2体?
立派な馬頭観音、立体とレリーフ
付近ではフクジュソウが盛り
将監塚 美濃代官を勤めた岡田将監善同(よしあつ)の墓
坂本地区には新しい案内看板が設置されている
三ツ家の一里塚跡 江戸日本橋より数えて八十六里目(中津川駅より 6.7km)
県道を地下道で横断
坂本立場跡
建設進む郡上八幡IC(東海北陸自動車道)と中津川西IC(中央自動車道)を結ぶ濃飛横断自動車道
茄子川(なすびがわ)村の高札場跡、茄子川村は「間の宿」
茄子川の街並み 街道はゴマ塩舗装が続く
尾州白木改番所跡
木曽川に流す重量材(丸太など)は「川並番所」、牛馬で運ぶ白木材(軽量材)には「白木改番所」が設けられ抜荷を取り締まった
茄子川御小休所篠原家 茄子川村は間の宿で、当家は茶屋本陣を勤めた
左は遠州秋葉道 中山道は直進
秋葉道を示す「秋葉大権現常夜燈」
北に御嶽山が良く見える
北東方向には木曽駒や空木などだろうか
生垣にある地蔵尊
中津川市茄子川から恵那市大井町へ いつの間にかゴマ塩舗装が終わっていた
広久手坂の馬頭観音 三面八臂で珍しい(三面六臂が多い)
社宮司
根元には、氏神と金神の二つの石祠。社宮司は信州の諏訪が根元で土地の神の信仰であり、木の神とされています。なお、桧の根元の氏神石祠は古くからその位置にありましたが、金神の石祠は昭和七年に祀られたものです
岡瀬沢の庚申塔
岡瀬沢では庚申講が盛んで今でも行われている所がある
庚申塔は文字塔で青面金剛の掛軸をかけて寄合をした
馬塚と犬塚 街道筋には旅人を飽きさせない様々な伝説がある
甚平坂から御嶽山
関戸一里塚跡 江戸日本橋より87里 (中津川駅より 10.8km)
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【46番目 大井宿着 11:55 中津川駅より10.8km】
上宿石仏群
宿内へ悪人や悪病の侵入を防ぎ無病息災を祈った
痰切地蔵や徳本碑、庚申塔、名号塔などがある
大井宿高札場 3/4の復元
宿場間の駄賃、キリシタン禁止、毒薬偽薬販売禁止、親子兄弟夫婦親戚は常に親しく、などなど幕府の御触書
本陣跡 本陣のところが桝形で直角に曲っている
中山道ひし屋資料館
下問屋場跡
問屋場は幕府の命により毎日用意している人足五十名と馬五十疋を使い、これでも不足するときは助郷村の人馬を集めて、隣宿の中津川宿や大湫宿まで、主として公用荷客の輸送にあたった
大井宿の街並み 舗装はゴマ塩
橋本屋跡 尾州久々利・千村氏定宿 The ruins of Hashimoto-ya
カーポートの柱に表示板ご苦労様です
旅館いち川 往時旅籠屋角屋
食事付きは旅籠、食事無しは木賃宿
左は大井村庄屋古屋家、突き当りは市神神社 で左に曲がる桝形
白木番所跡
大井橋から阿木川 大井宿の西口
「菊水堂」大正時代創業の「栗きんとん」の老舗
栗きんとんは秋にしか造らないので、栗トリュフをお土産に購入
恵那駅前の「ひかり食堂」で本日の昼食 ロースかつ定食(1400円)量が多くて食べきれなかった
この食堂はNHK朝ドラ「半分、青い。」の「つくし食堂」のモデルとなったそうだ
マンホールは旧恵那市の花ベニドウダンをデザイン
中野村庄屋の家
浸水防止壁用の石柱は道路の両側にあった
隣接する永田川は度々洪水を起こしたため、道路を横断するように石柱の溝に板をはめて道路からの浸水を防いだ
永田川に架かる長島橋
長嶋橋の袂にある中野観音堂
続いて上町観音堂
十三峠入口
ここから先30km、幹線道路や鉄道とも離れ、商店や宿泊施設も無い
上り下りの連続が続く
十三峠入口の道上にある馬頭観音
京方面からここまで来るのに牛馬は苦労したのだろう
石畳が始まる
槙ケ根の一里塚(両塚とも現存) 江戸日本橋より数えて八十八里目((中津川駅より 15.7km)
この辺りは西行の森と呼ばれ桜の名所
茶屋本陣跡 杭だけとは寂しい
工場の脇道を通る
槙ケ根立場跡と伊勢神宮遥拝所跡 茶屋が九軒あった
伊勢神宮参拝の人はここで中山道と別れて下街道を西へ向かうか、ここで遠く伊勢神宮を遥拝した
下街道追分道標
上に鳥居、下に「右西京大坂 左伊勢名古屋 道」と彫られている
そりゃ、近道があれば利用するのが人情というもの
姫御殿跡
皇女和宮下向の際、無節のヒノキの柱で御殿を建て休憩所とした
道普請や休息所の建設、水の無いところでは井戸掘りなど大変な労役が課せられ苦労がうかがえる
首なし地蔵
「昔、二人の中間(ちゅうげん)が、ここを通りかかり、夏のことで汗だくでした、「少し休もうか」と松の木陰で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった、しばらくして一人が目覚めてみると、もう一人は首を切られて死んでいました、びっくりして辺りを見回したがそれらしき犯人は見あたらなかった、怒った中間は「黙って見ているとはなにごとだ!」と腰の刀で地蔵の首を切り落としてしまった。
それ以来何人かの人が、首をつけようとしたが、どうしてもつかなかったという。」
乱坂(みだれざか)
急坂で、大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾も乱れた
竹折高札場跡
殿様街道跡
岩村藩の参勤交代道
妻の神(さいのかみ)
道祖神の一種で塞(さい)の神、山の神では無い様だ
平六坂と平六茶屋跡
びやいと茶屋跡 枇杷湯糖は枇杷の葉に薬草を加えて煎じたもの、江戸時代のリポビタンかアリナミン?
紅坂の一里塚 江戸日本橋より数えて八十九里目、京へ四十五里 (中津川駅より 19.7km)
両塚(岐阜県史跡)が現存
紅坂の牡丹岩 花崗岩がタマネギ条に剝離したもの
紅坂
急坂で土砂が流れないよう石畳になっているが硬くて足が疲れる
黒すくも坂方面を振り返る
左に三社灯篭、右に深萱神明神社があり境内に芭蕉句碑「山路来て 何やらゆかし すみれ草」がある
藤村高札場跡
ここで今日の終点
一日5便しかないバスで武並駅へ向かう、料金は300円均一
武並駅前三八屋旅館に宿泊
家庭料理風の夕飯は盛りだくさんで、美味しかった
今夜の客は昨晩に続き我ら二人きり
前日から街道で出会う人は外国の方ばかり
観光案内所の方に伺うと
限られた日数で京都に来て南木曽・中津川間を歩く外国の人が多いそうです
早く歩けば1日のコースなので日本の歴史街道歩きには丁度良いのでしょう
スペイン巡礼の道を歩いた人が四国遍路に来るという話も聞きます
ヨーロッパの人は街道歩きが好きなようです
自分も体力と日程に余裕があればスペイン巡礼の道を歩いて見たいと思う
今日この頃であります
↓そんな訳で 押していただくとたすかります
地図
これまでの記録はこちら
*参考
参考1:「ちゃんと歩ける中山道69次」 八木牧夫著 山と渓谷社
参考2:五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
参考3:電子足跡:GPSログがとても参考になります
参考4:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考5:ウイキペディア
参考6:「長野県:歴史・観光・見所」
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