【湯浅~紀伊内原駅】 令和6年(2024)11月10日(日)晴
行 程:宿6:10--紀文の碑--6:22久米崎王子---7:30津兼(井関)王子---8:05河瀬王子--8:20東の馬留王子--9:20法華壇--大峠--9:46小峠--10:13金魚茶屋跡---10:27沓掛王子---10:42爪書地蔵--11:00西の馬留王子--11:09一里塚跡--11:23内ノ畑王子--12:00高家王子--12:30紀伊内原駅12:37==12:35和歌山駅12:50==(特急料金1930円)=14:51新大阪15:18==18:12東京駅18:32==19:28高崎駅19:31==19:44前橋駅 (紀伊内原~前橋 14470+1930円)
歩行距離:17.6km (渡辺浜・八軒家より累計153.1km)
【湯浅町】
夜明けとともに宿を出発、国道42号線沿いの宿の後ろが熊野古道で紀伊国屋文左衛門の碑があった
紀文の碑
嵐の中みかんを紀州から江戸まで運び富を築いたという「みかん船伝説」の残る、江戸時代の豪商「紀伊国屋文左衛門」の顕彰碑。文左衛門は湯浅町別所地区の生まれという説があり、この碑は現在のパナソニック株式会社の創業者である故 松下幸之助氏により奉納されました。(湯浅町HP)
湯浅町と広川町の境 広川に架かる橋を渡らず左が旧道
【広川町】
指導票に従い高速道路を潜る
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47津兼(井関)皇子
高速道路のロータリー内にある
「熊野古道 井関村 今昔絵図」によると井関王子跡は300m西辺りにあったようだ
*近世初頭に熊野街道が西側に移ったことにより、旧井関橋を渡ってすぐの台地上に新しく津兼王子がつくられました。その新しい津兼王子神社は明治41年に津木八幡神社に合祀され、現在は跡形もありません。
この中世の王子社の跡地も近年の湯浅御坊道路広川インターの建設によって消滅しました。(広川町HP)
*熊野古道 井関村 今昔絵図(錦秋版)
コンビニに置いてあった地図
発行元は解らないが地域に詳しい地図、「錦秋版」とあるので続編があるのだろうか
高速道路のロータリーを抜け出す道
趣きは無いが解りやすい道標
町の観光協会、やる気はあるが予算が無のだろう
丹賀蔵王大権現 井関王子と津兼王子を合祀
様々な神仏が混在
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道標を兼ねた供養塔 「南無阿弥陀仏」「左 紀三井寺 六里八丁」「右 いせ こうや」など彫られている
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48 河瀬王子 明治の合祀令により津木八幡神社に合祀
(逆さにおしてしまった)スタンプは「修行半ばで亡くなった僧の髑髏が法華経を読誦した」(法華壇参照)
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延命山地蔵寺 汗かき地蔵
金属製なら解るが、木造の地蔵が汗をかく?
*鹿ヶ瀬峠を越える旅人が弱ると背中を押して助けたので額に汗をかいているのだという
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49 東の馬留王子 明治の合祀令により津木八幡神社に合祀
*鹿瀬の峠道が険しくなるため、乗ってきた馬をここにとめたことが由来といわれます。しかし、古い記録にはなく、室町時代以降の王子とされています。
徳本(とくほん)上人名号碑
徳本上人:和歌山県日高町生まれ念仏行者として全国を巡錫し、「流行神」と称されるほど熱狂的な支持を集めた。
立場跡
立場(たてば):江戸時代の五街道やその脇街道に設けられた施設で休憩施設として設けられたもの。茶屋や売店が設けられていた。
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法華檀
*天暦3年(947)天台宗の僧、円善上人が熊野参詣の途次、この峠で客死
円善上人はかねてから法華経六万部読経の誓願をたてていたが、それを果たすことが出来なかった。そのため、遺骨になってしまってからも、舌だけは生きて法華経の読経を続けた。これを発見したのが久安年間(1145~51)壱叡上人で、その後円善が果てた場所に塚を築いて供養したのが法華壇の始まりである。(広川町教育委員会)
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鹿ケ瀬峠 大峠
西国巡礼と熊野参詣者が峠の茶屋に宿泊もしたが、明治40年県道が開設され峠を通る人は少なくなっり、昭和6年茶屋は閉められた
小峠への下り道は荒れ気味
小峠
地蔵菩薩が彫られ道標 「右かみくさの滝へ十五丁、たから村金屋某」
【日高町】
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小峠から石畳が続く
熊野古道で現存する最長の石畳 503m
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50 沓掛王子 原谷皇太神社に合祀 現在は弁財天社がある
道路擁壁に黒竹や朝廷人物
沿線に繁茂する黒竹
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爪書地蔵 弘法が爪で彫った言われる地蔵さんはあちこちにある
原谷皇太神社 沓掛王子と西の馬留王子を合祀
一里塚跡碑
解説版もほしい
県道176号線と旧道を出入りする
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52 内ノ畑王子 明治の合祀令で今熊野神社に合祀されその後、内原王子神社に合祀
内原王子神社
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53 高家王子 内原王子神社本殿前にある
スタンプは神社秋季例大祭の神輿をデザイン
紀伊内原駅
11月7日~10日の3泊4日の紀伊路はここまでで帰路に
駅前の日高町観光マップ
途中よく見かけた徳本上人の名号塔、徳本上人誕生の地が記されている
地方自治体のホームページを見ると何処も観光に力を入れているように見えます
観光資源として熊野古道をとらえている所とそうでない所の差異はかなりあるように思われます
しかし、自治体が力を入れなくても地元住民が熱心な所もあり
そういった所を歩くとなんだか心温まる気持にもなります
天気の良い日にのんびり旅がしいだけで地域の事情もよくわからない
勝手気ままな老人の戯言であります
地図
用語等
≪熊野街道≫
*熊野街道は、渡辺津(八軒家浜)から熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称。紀伊路とも呼ばれ、当初は、渡辺津から熊野までが一体として扱われたが、近世以後は紀伊田辺を境に紀伊路・中辺路と区分されるようになった。
説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ小栗街道(おぐりかいどう)とも呼ばれ、大阪市街(上町)では御祓筋(おはらいすじ)とも呼ばれる。(Wikipedia)
≪後鳥羽上皇の熊野御幸≫
後鳥羽上皇は建久9年(1198)から24年間の在院期間のうちに28回熊野御幸を行っており、道中のところどころの王子社などで、和歌会が催された
建仁元年(1201)の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を日記『後鳥羽院熊野御幸記』に記している。 『新古今和歌集』編纂の院宣が下されたのは、この建仁元年の熊野御幸から帰京した後のことだった。
(み熊野ネットから)https://www.mikumano.net/setsuwa/gotoba.html
≪熊野九十九王子≫
王子とは、熊野権現の御子神だと考えられています。
熊野詣が一大ブームとなった院政期に、多数の王子が紀伊路・中辺路ルートに出現しました。
それらは総称して熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)と呼ばれました。九十九というのは実際の数で はなく、「数が多い」という意味ですが、実際、最盛期には99に近い数の王子がありました。
各王子では、奉幣(幣を奉る)と経供養(般若心経などを読む)などの儀式が行われ、里神楽や馴子舞、和歌会などの奉納が行なわれることもありました。
(み熊野ネットから)
≪五体王子≫
九十九王子のほとんどの王子は、熊野十二所権現のうちの熊野五所王子(若一王子・禅師の宮・聖の宮・児(ちご)の宮・子守の宮)の1体を祀るものですが、5体すべてを祀るものもあり、それをとくに「五体王子」といいました。
「五体王子」は、とくに格式が高い王子だとして崇敬されましたが、どの王子が五体王子なのかは史料により異なります。「修明門院熊野御幸記」では籾井王子(樫井王子)・藤代王子・稲葉根王子が五体王子とされ、「後鳥羽院熊野御幸記」では藤代王子のみが五体王子で、稲葉根王子は五体王子に准じるとされます。
(み熊野ネットから)
*現在五体王子は、藤代王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発信門王子とするのが一般的。
参考1:歩く旅シリーズ 熊野古道を歩く 山と渓谷社
参考2:み熊野ねっと::自称「熊野の伝道者 てつ」さんのHP、熊野本宮氏子総代
参考3:歴史街道ウオーキングマップ::大阪府都市整備部
参考4:熊野古道紀伊路::和歌山県観光連盟
参考5:Kansai Odyssey::誰も知らない観光地をテーマに関西を冒険する日本人の夫とアメリカ人の妻のブログ
参考6:Pentiumさんのヤマレコ:九十九王子が合祀された神社や推定地も隈なく廻っている
参考7:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考8:藤原定家の熊野御幸(ごこう):神坂次郎著 角川ソフィア文庫
参考9:熊野まんだら街道:神坂次郎著 新潮文庫
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