全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

終わりの日に再臨した主イエスは、いったいどのような働きを行うのか。

2020-12-01 18:05:49 | 福音 Q&A

 参考聖書箇所

  「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

  「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:47-48)

  「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙 4:17)

  「すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』」(ヨハネの黙示録 5:5)

  「終りの日に次のことが起る。ヤーウェの家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、『さあ、われわれはヤーウェの山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう』と。律法はシオンから出、ヤーウェの言葉はエルサレムから出るからである。彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」(イザヤ書 2:2-4)

  「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう」(ヨハネの黙示録 22:12)

 関連する神の言葉

  イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了して人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。『言葉は肉において現れる』の「序文」より引用

   神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。『言葉は肉において現れる』の「序文」より引用

   終わりの日に受肉した神が地上に来たのは、おもに言葉を述べるためである。イエスが来た時、天国の福音を広め、十字架の贖いの働きを成就した。イエスは律法の時代を終わらせ、古いものをすべて取り除いた。イエスの来たことで律法の時代が終わり、恵みの時代を招き入れたのである。終わりの日の受肉した神が来て、恵みの時代は終わった。神は、おもに言葉を述べるために来た。言葉を用いて人間を完全にし、人間を照らし、啓き、人間の心にある漠然とした神のいる場所を取り除くために来た。これはイエスが来たときに行った段階の働きではない。イエスが来た時には、多くの奇跡を行い、病人を癒やし、悪霊を追い払い、十字架で贖いの働きを行なった。その結果、人間の観念では、神はこのようでなければならないと考える。イエスが来た時、漠然とした神の姿を人間の心から取り除く働きはしなかったからである。イエスが来た時、十字架につけられ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、天国の福音を広めた。ある意味で、終わりの日の神の受肉は、人間の観念において漠然とした神が占めている場所を除き、それにより人間の心に漠然とした神がもはや存在しなくなるようにするのである。神はその実際の言葉と働き、地上のあらゆる場所を移動すること、そして人々の間で行う極めて現実的かつ普通の働きを通じて、人々に神が実在することを知らせ、人間の心にある漠然とした神の場所を取り除くのである。別の意味では、神は肉の体が語る言葉を使って人間を完全にし、すべてを成就する。これが神が終わりの日に達成する働きである。『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知ること」より引用

   終わりの日の働きは言葉を語ることである。言葉により、大きな変化が人の中で生じ得る。現在、それらの言葉を受け入れた人たちに生じる変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちに生じた変化よりもはるかに大きい。と言うのも、恵みの時代において、悪霊は按手と祈りによって人から追い出されたが、人の中の堕落した性質が依然残っていたからである。人は病を癒され、罪を赦されたが、人の中にある堕落したサタン的性質がいかに清められるかについて言えば、その働きはまだなされていなかったのである。人は信仰のゆえに救われ、罪を赦されただけで、人の罪深い本性は根絶されず、依然としてその内面に残っていた。人の罪は神の受肉を通じて赦されたが、それはその人の中にもはや罪がないという意味ではない。人の罪は、罪の捧げ物を通じて赦されることができたものの、どうすれば人がこれ以上罪を犯さないようになり、その罪深い本性が完全に根絶され、変化するかということについて言えば、人にはその問題を解決する術がないのである。人の罪は神による磔刑の働きゆえに赦されたが、人は以前の堕落したサタン的性質の中で生き続けた。そのため、人は堕落したサタン的性質から完全に救われなければならない。そうすることで、その人の罪深い本性が完全に根絶され、二度と芽生えなくなり、かくして人の性質が変わるのである。そのためにも、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変える道を把握しなければならない。さらに、人はこの道に沿って行動することが求められる。その結果、人の性質は次第に変わり、その人は光の輝きの下で生き、何事も神の旨に沿って行ない、堕落したサタン的な性質を捨て去り、サタンの闇の影響から自由になることができ、それにより罪から完全に抜け出せるのである。このとき初めて人は完全なる救いを受けることになる。イエスが働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識はいまだ漠然として不明瞭だった。人はずっとイエスをダビデの子と信じ、イエスは偉大な預言者で、人の罪を贖う慈悲深い主であると宣言した。信仰のおかげで、イエスの衣の端を触っただけで癒された人もいたし、盲人たちは見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的性質が自分自身に深く根づいているのを見出すことができず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、そして病人の癒しなど、多くの恵みを受けた。残りは人の善行や外見上の信心深さだった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまずの信者だと思われた。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされたのだが、それは彼らが救われたという意味だった。しかし、このような人たちはその生涯において、いのちの道をまったく理解していなかった。ひたすら罪を犯しては告白することを繰り返すばかりで、自身の性質を変える道はもたなかったのである。これが恵みの時代における人間の状態だった。人は完全な救いを得たのか。いや、得てはいない。したがって、その段階の働きが終わったあとも、依然として裁きと刑罰の働きが残っているのである。この段階は言葉によって人を清めるものであり、それによって人に従う道を与える。悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。と言うのも、人の罪深い本性が根絶されることはないだろうし、人は罪の赦しで行き詰まるはずだからである。罪の捧げ物を通じ、人は罪を赦されてきた。なぜなら、十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に残っており、人は依然として罪を犯し、神に抵抗することができ、よって神はまだ人類を得ていない。そのため、神はこの段階の働きにおいて、言葉を用いて人の堕落した性質を暴き、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもさらに有意義であり、いっそう有益である。と言うのも、今、人に直接いのちを施し、人の性質を完全に一新させられるのは言葉だからである。それははるかに徹底的な働きの段階である。ゆえに、終わりの日における受肉は神の受肉の意義を完成させ、人を救う神の経営計画を完全に終わらせたのである。『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

   終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。

 中略

  ……「裁き」という言葉を出せば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉をあなたはたぶん思い浮かべるであろう。それらの言葉の厳しさにもかかわらず、それらは神の人への裁きの言葉ではなく、様々な環境において、つまり異なる脈絡において、神が語った言葉にすぎなかった。それらの言葉は、終わりの日にキリストが人間を裁きつつ語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より引用

   今日、神はおもに「言葉が肉において現れる」という働きを完成するために、言葉を用いて人を完全にするために、そして人が言葉による取り扱いと精錬を受け入れるように、肉になった。神の言葉において、あなたは神に施され、いのちを与えられる。神の言葉において、あなたは神の働きと業を見る。神はあなたを罰し精錬するために言葉を用いる。したがって、もしあなたが苦難に会うなら、それはまた神の言葉によるものである。今日、神は事実でなく言葉を用いて働く。神の言葉があなたに届いてはじめて、聖霊はあなたの中で働きをすることができ、あなたに苦痛を感じさせたり甘美さを感じさせたりすることができる。神の言葉だけが、あなたを現実に至らせることができ、神の言葉だけが、あなたを完全にすることができる。したがって、終わりの日に神が行う働きはおもに言葉を用い、すべての人を完全にし、人を導くことであることを、せめてあなたは理解しなければならない。神はその働きのすべてを言葉を通じて行なう。神はあなたを罰するために事実を用いない。時には神に抵抗する人もいる。神はあなたに大きな不快感をもたらさず、あなたの肉は罰せられず、あなたは苦痛を味わうことはない。しかし、神の言葉があなたに届き、あなたを鍛錬するようになるとただちに、それはあなたにとって耐えられないものになる。そうではないであろうか。効力者の期間に、人を底なしの穴に投げ入れると神は言った。人は実際に底なしの穴に落ちたであろうか。人を鍛錬するための言葉だけで、人は底なしの穴に入っていった。このように、神が肉となる終わりの日には、神はすべてを成し遂げ、すべてを明らかにするためにおもに言葉を用いる。神の言葉の中においてのみ、神であるものを知ることができる。神の言葉の中においてのみ、神が神自身であることを知ることができる。肉となった神が地上に来るとき、神は言葉を話すこと以外のどのような他の働きもしない。したがって、事実は必要でない。言葉で十分である。おもにこの働きをするために、神の力と至高を人が神の言葉の中に見ることができるように、神が身を低くして自身を隠していることを人が神の言葉の中に見ることができるように、そして神の完全性を人が神の言葉の中に知ることができるように、神は来たからである。神が所有するものおよび神の存在のすべてが、神の言葉の中にある。神の知恵や素晴らしさも神の言葉の中にある。この中に、神が言葉を話す多くの方法を人は見ることができる。『言葉は肉において現れる』の「すべては神の言葉が達成する」より引用

   神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代の到来を知らせ、その働きの方法を変え、その時代全体の働きを行う。これが言葉の時代における神の働きの原則である。神はさまざまな視点から語るために肉となって、肉に現れた言葉である神を人間が真に目のあたりにし、神の知恵と驚くべき素晴らしさを目にできるようにした。このような働きは人間を征服し、完全にし、淘汰するという目的をより効果的に達成するために行われており、それが言葉の時代に言葉を用いて働きを行うことの真の意味なのである。こうした言葉を通して、人々は神の働き、神の性質、人間の本質、そして人間が何に入るべきかを知るようになる。言葉を通して、神が言葉の時代に行おうとしている働きの全体が実を結ぶのだ。こうした言葉を通して、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人々は神の言葉を目にし、その言葉を聞き、その言葉の存在を認識した。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、そして神の人間への愛と、人間を救いたいという願望とを信じるようになった。「言葉」という語は単純でごく普通かもしれないが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがし、人々の心を変革し、人々の観念と古い性質を変革し、世界全体の古い現れ方を変革する。多くの時代の中で、今日の神だけがこのように働いてきており、そして今日の神だけがこのように語り、このように人間を救いに来る。これ以降、人間は言葉の導きの下に生き、神の言葉により牧され、施しを受けることになる。人々は神の言葉の世界で、神の言葉の呪いと祝福の内に生きている。そしてさらに多くの人々が、神の言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになっている。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、そして過去の創造による世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、言葉をもって全宇宙の人々を導き、言葉をもって彼らを征服し救う。そして最終的に、神は言葉をもって古い世界全体を終わらせ、その経営(救いの)計画全体を完了させる。『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代である」より引用

    神がこの時代に実行する働きは、おもに人間のいのちのための言葉を与えること、人間の堕落した性質および人間の本性の実質を暴くこと、そして宗教的観念、封建的思考、時代遅れの考え、さらに人間の知識と文化を一掃することである。これらのことはすべて神の言葉による暴きを通して清められなければならない。終わりの日において、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、それにより人間が言葉の中に神の知恵と愛らしさを見、神の性質を知り、神の業を目にするようにする。『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知ること」より引用

   時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである。『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

   刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。この働きが終わる時、生き残ることを許された人は、みな清められ、人類のより高い境地に入って、地上でのさらにすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。……悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より引用


クリスチャン映画「福音の使者」 神の福音を伝えることはクリスチャンの責任だ 予告編 日本語吹き替え

2020-11-30 19:05:34 | クリスチャン映画

 キリスト教徒チェン・イーシンは主を長年信じ、終わりの日の主イエス・全能神をお迎えする幸運に恵まれていた。彼女は全能神の御言葉から、人類を一刻も早く救いたい神の御心と、被造物が果たすべく使命と責任を理解したため、福音を伝えて終わりの日の神の働きを証し始めた。その間、多くの都市や省に渡り、何度も宗教界からの抑圧と拒絶や中共政府による追跡と迫害に見舞われる。多くの苦難に遭う彼女だが、神の御言葉の導きの下、使命を背負い続け、危険を恐れず勇敢に前進する。

 もっと多くの映画を推薦しあなたに悔い改めるの内容について理解させます。


救われることとは、完全な救いを得ることとは何か

2020-11-29 22:04:33 | 全能神教会のアプリ

参考聖書箇所

 「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」(マルコによる福音書 16:16)

 「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(マタイによる福音書 26:28)

 「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書 7:21)

関連する神の言

   当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より

   人類は主イエスを救い主として受け入れるだけで罪が赦されるようになった。名目上は、人間の罪はもはや救いを得て神の前に出る妨げとはならず、サタンが人間を責める手立てではなくなったということである。それは、神自身が実際的な働きをし、罪深い肉の形を取り経験し、罪のための捧げ物となったからである。こうして、神の肉、罪深い肉の形をとった神のおかげで人間は贖われ、救われて、十字架から降りた。『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より

   人の肉はサタンに属しており、不従順な性質に満ちており、嘆かわしいほど汚れており、不純なものである。人々は肉の喜びを過度に切望し、肉の現れは多過ぎ、そのため神は肉をある程度嫌っている。人々が、汚れて、堕落したサタンのものを置き去りにする時、神の救いを得る。しかし、彼らが汚れや堕落を投げ捨てることができないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下にとどまるだろう。人々の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はサタンのものである。あなたを救うことによって、神はあなたをこれらのものから切り離す。神の働きは間違っていることはなく、すべては人々を闇から救うためである。あなたがある程度信じていて、肉体の堕落を脱ぎ捨てることができ、もはやこの堕落の束縛を受けない時、あなたは救われているのではないだろうか。サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう。『言葉は肉において現れる』の「実践(2)」より

   彼らが救われることを願うのであれば、そして完全に神のものとされることを願うのであれば、神に従う全ての人は誘惑とサタンからの大小の攻撃に直面しなければならない。このような誘惑や攻撃から抜け出た者が、サタンに完全勝利することができる。このような者が、神に救われた者である。つまり、神により救われている者は神からの試練を経験したものであり、サタンの誘惑と攻撃を何度も受けたことのある者である。神により救われている者は神の心と要求を理解でき、ひたすら神の支配と采配に従い、サタンの誘惑のただ中にあっても、神を畏れ悪を避ける道から逸れることがない。神により救われている者は正直であり、心優しく、愛と憎しみを区別し、義と理性を知っており、神を配慮し神の全てを大切にする。そのような人々はサタンに束縛されておらず、監視されておらず、非難されたり虐待されたりしていない。完全に解放されており、全く自由である。…『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

   現在の真理は、真理を切望し、求める者たちに与えられている。この救いは、神により救われることを切望する者たちに授けられており、あなた方が得るためだけのものではなく、あなた方が神によって得られるためでもある。神によって得られるために、あなた方は神を得るのだ。今日、わたしはあなた方にこの話をし、あなた方はそれを聞いたので、あなた方はこの言葉に従って実践すべきである。最終的に、あなた方がこれらの言葉を実践する時こそ、わたしがこの言葉によりあなた方を得る時である。それと同時に、あなた方はこれらの言葉を得る、すなわち、あなた方はこの至高の救いを得るであろう。あなた方が清められる時こそ、あなた方は真の人間となるであろう。『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

   人生観や、生存の意義と基盤がすっかり変わり、骨の髄まで変化して別人になる日が来るまで人が経験するならば、それは驚くべきことではないですか。まさに驚天動地の巨大な変化です。この世の名声、富、地位、金銭、悦楽、贅沢に無関心になり、それらをわけなく捨て去ることができるようになって初めて、人間らしさを得ます。最後に完全にされるのはこのような人たちです。彼らは真理のため、神のため、そして正しいことのために生きます。それが真の人間らしさです。

神の説教より


真理とは何か。聖書の知識と教義とは何か

2020-11-28 18:18:07 | 全能神の発表

参考聖書箇所

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネによる福音書 1:1)

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。…めぐみとまこととに満ちていた。」(ヨハネによる福音書 1:14)

「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書 14:6)

「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」(ヨハネによる福音書 17:17)

「イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。…こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。」(マルコによる福音書 7:6-13)

 関連する神の言葉

   人間の言語に置き換えられた真理は人間の格言です。人間は決して真理を完全には経験しませんが、それに頼って生きるべきです。真理の一欠片により、全人類が何千年にもわたって生き残ることができるのです。

  真理は神自身のいのちであり、神の性質を表し、神自身の実質を表し、神におけるすべてを表わしています。『キリストの言葉の記録』の「真理とは一体何なのか知っていますか」より

   真理は定式的なものでも、規則でもない。真理は死んだものではなく、いのちであり、生きているものであり、被造物が従うべき法則であり、人生に必要とされる法則である。真理は、経験によって一層深く理解する必要があるものである。自分の経験がどの程度に達しているかを問わず、あなたは神の言葉や真理と離別不可能であり、神の性質や神の中にある物事や神の存在に関して得た認識は、すべて神の言葉に明示されている。すなわち神の言葉と真理の間には、不可分な繋がりがある。神の性質と神の中にある物事や神の存在それ自体が真理であり、すなわち真理とは、神の性質や神の中にある物事、そして神の存在の真の顕現である。神の中にある物事や神の存在は真理により具体的なものとなり、明示的に述べられる。神が好む物事、神が好まない物事、神が望むあなたの行動、神が許さないあなたの行動、神が蔑む人々、神が喜ぶ人々が、真理により一層率直に述べられる。神が明示する真理の背景では、神の喜び、怒り、悲しみ、幸福、そして神の本質を理解することができる。これが神の性質の啓示である。『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より

   実際、真理とは、人生の格言の中でも最も現実に則しており、人類の全ての格言に勝るものなのだ。それは神が人間に要求すること、神が自ら為した業である。だから、人生の格言と呼ばれる。これは何かから要約された格言ではなく、また、偉人の有名な引用でもない。そのようなものではなく、これは天と地と万物の主から人間に告げたものであり、人間によって要約された言葉ではなく、神本来のいのちなのである。だからそれは、至高のいのちの格言と呼ばれるのだ。『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

   神の業はすべて真理であり、いのちである。人間にとって真理とは、人間の生活に不可欠なものであり、真理なしで生活することは決して出来ない。真理が最も偉大なものであると言うことも出来るであろう。真理は、見ることも触ることも出来ないが、あなたがたにとってその重要性を無視することは出来ない。心の安息をもたらすことができるのは、真理だけである。『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より

   働き、説教し、表面上は神の言葉を説いているように見えるものの、話していることは神の言葉の文字通りの意味だけで、実質的なことは何も述べていない人がいます。このような人の説教は語学の教科書をもとに教えているようなものです。神の言葉は項目ごと、側面ごとに配列され、説教が終わると誰もが賛美を唱え、「この人は現実を自分のものにしている。とても見事に詳しく説教した」と言います。彼らは説教を終えると、人々にそれを整理してあらゆる人に伝えるように命じます。彼らの行動は他人を惑わすものとなり、説くことはすべて誤りです。表面上は神の言葉だけを説き、真理と一致しているように見えます。しかし注意深い識別力があれば、それが文字と教義と誤った論法に人間の想像と観念が伴ったものに過ぎず、そして神の範囲を定める部分的なものでしかないことがわかります。このような説教は神の働きを妨げるものではないでしょうか。それは神に反抗する奉仕です。『キリストの言葉の記録』の「真理がなければ、神を侵すのは簡単である」より

   あなたたちの「真理の要約」は、人々が真理からいのちを得たり、性質の変化を成し遂げたりするために行なわれていません。そうではなく、人々が真理から何らかの知識や教義を習得するためです。人々は神の働きの背後にある目的を理解したかのように見えますが、実際には言葉や教義をいくつか習得したに過ぎません。真理の暗示された意味を理解しておらず、神学を学んだり聖書を読んだりするのと何ら変わりません。あなたはあれこれ書籍や資料をまとめ、人々は教義や知識の側面をあれこれと自分のものにします。そうした人たちは教義については第一級の語り手ですが、語り終えたあとはどうなりますか。人々は経験できないままで、神の働きについての認識を持たず、自分自身についての認識も持ちません。最終的に、彼らが得たのは公式や規則だけであり、そのようなわずかな事柄以外には何も語ることができません。神が何か新しいことをしたならば、それを自分の知っているすべての教義と突き合わせることができますか。つまり、あなたが有しているのは規則に過ぎず、人々に神学を学ばせているだけであって、神の言葉や真理を経験できるようにはしていないのです。書籍を編纂することで、人々は神学や知識、公式や規則、慣習にたどり着けるだけです。書籍は人々を神の前に連れて行くことも、真理や神の心を認識させることもできません。書籍が次から次へと問題を提起し、そしてそれに答え、概略や要約が書き出されれば、兄弟姉妹は簡単にそれらの問題を理解できるようになる、とあなたは考えています。簡単に覚えられるだけでなく、問題が一目でわかり、これは素晴らしい方法だとあなたは考えています。しかし人々が理解していることは、真理の実際の暗示された意味ではなく、現実と符合しません。単なる言葉と教義に過ぎないのです。

   そうすることは、人々に知識を理解させ習得させることです。あなたは宗教の教義に他人を連れ込み、その内部で彼らが神に従い、神を信じるようにさせます。それはまさにパウロと同じではありませんか。あなたたちは、真理の知識を習得することはとりわけ重要で、神の言葉の文章を暗記し、教義について語り、神の言葉の中にある公式を発見することが極めて大事だと考えていますが、人々がどのように神の言葉を理解するかはまったく重要ではないのです。そのため、誰もが同じ賛美歌集で歌い、同じことを言い、同じ教義を語るように、また誰もが同じ知識を持ち、同じ規則を守るように、あなたたちはいつもこれらの物事を体系化したいのです。それがあなたたちの目的なのです。あなたたちがそうするのは、人々が理解を得るためのように見えますが、それとは逆に、神の言葉の真理から外れた規則の中に人々を連れ込んでいるとは、これっぽっちも考えていません。『キリストの言葉の記録』の「真理がなければ、神を侵すのは簡単である」より

   神の言葉における実際の意味を本当に理解することは、決して単純なことではありません。神の言葉の文字通りの意味を解釈できて、みんなにいいと言われて賛成してもらえれば、それで神の言葉を理解したことになる、と考えてはいけません。それは神の言葉を理解することと同じではありません。神の言葉の内側から何らかの光を得て、神の言葉の真の意義を感じ取ったなら、またそれらの言葉における神の心は何か、それらが最終的に成し遂げるのは何かを表現できるなら、そのすべてがいったんはっきりしたところで、神の言葉についてある程度の理解に達したことになります。ゆえに、神の言葉を理解することはそれほど簡単ではないのです。神の言葉の文面を美辞麗句で説明できるからといって、神の言葉を理解していることにはなりません。神の言葉の文面をどれだけ説明できたとしても、それはやはり人間の想像であり考え方でありに過ぎず、何の役にも立ちません!…あなたがそれを文字通りに、または自分自身の考えや想像によって解釈するなら、どれだけ雄弁に解釈できるとしても、あなたの理解は本物ではありません。文脈から意味を切り離して神の言葉を誤って解釈することさえあり得ますが、それはさらに大きな問題です。ゆえに真理は、神の言葉を知ることで聖霊から啓きを受け取ることによっておもに得られます。神の言葉の文字通りの意味を理解している、あるいはそれを説明できるとしても、真理を得たとはみなされません。神の言葉の文面を解釈するだけでいいのなら、聖霊からの啓きに一体何の意味があるのでしょうか。そうであれば、ある程度の教育を受けていなければならず、教育を受けていない人はまったく困った状況に置かれることになります。神の働きは人間の頭脳で理解できるものではありません。神の言葉を真に理解することは、おもに聖霊からの啓き次第です。それが真理を得る過程なのです。『キリストの言葉の記録』の「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」より

   たとえあなたがたが、神の言葉をたくさん読んでいても、文章の意味を理解するだけで、実際の体験を通して得た、神の言葉に関する実地の知識がなければ、神の言葉を知ることはないであろう。あなたにとって、神の言葉はいのちではなく、いのちのない文字の羅列に過ぎない。そして、いのちのない文字に固執するだけなら、神の言葉の真髄を把握することはできず、神の意志を理解することもないであろう。あなたが神の言葉を実体験で経験して初めて、神の言葉の霊的な意味が明らかになる。また、あなたが多くの真理の霊的な意味を把握できるのは、体験の中だけであり、体験を通してのみ、神の言葉の奥義の鍵を開けることができるのである。あなたが神の言葉を実践しないなら、神の言葉がいかに明瞭でも、あなたが把握するのは、空文と教義だけであり、それはあなたの宗教的規則となってしまうのだ。それはパリサイ人たちが行ったことではなかろうか。あなたがたが神の言葉を実践し、経験するならば、神の言葉はあなたがたにとって実践的なものになる。あなたがたが神の言葉を実践することを求めないなら、神の言葉はあなたがたにとって第三の天の逸話程度のものに過ぎない。…

    …ほとんどの人々が神の言葉の文面を理解するだけで満足し、その深さを実際に体験せずに、教義を身に付けることに重点を置くが、それはパリサイ人のやり方ではなかろうか。ならば、彼らにとって、どうして「神の言葉はいのちである」という言葉が本当でありえようか。人間が神の言葉を実践する時のみ、いのちが真に花開くのであり、単に神の言葉を読むだけでは、それは成長できない。神の言葉を理解しさえすれば、いのちと霊的成長を得ることができる、というのがあなたの信仰ならば、あなたの理解は歪んでいる。神の言葉の真の理解は、あなたが真理を実践する時に生まれる。あなたは「真理は、実践して初めて理解できる。」ということが解からなければならない。『言葉は肉において現れる』の「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」より


クリスチャンの証し 2020「正しい道に戻る」日本語吹き替え

2020-11-27 23:05:43 | クリスチャンの証し

 チェン・グァンは教会の指導者。自身の指導者、同労者、兄弟姉妹たちから認められ評価されようと、休むことなく教会の仕事に打ち込み、兄弟姉妹を支え助けます。その努力はいくらか結果も生みますが、いつのまにか彼は集会での説教で自分を誇示するようになり、注目を浴びようとするようになります。そしてこの振る舞いによって新参者の兄弟姉妹からたたえられ、あがめられるようになり、知らないうちに誤った道に足を踏み入れてしまうのでした。そんなある日、同労者から厳しく取り扱われたチェン・グァンは、ようやく自らを反省し始めます……。最終的に、彼はどうやって誤った道を歩んでいることに気づき、正しい道に戻るのでしょうか。どんな適切な実践の道を見つけるのでしょう?

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クリスチャンの証し 2020「苦しみから喜びを」日本語吹き替え

2020-11-26 17:33:47 | クリスチャンの証し

    鍾心銘(チョン・シンミン)は教会の指導者で、本分のためなら苦しみに耐えることができ、良心と責任感を兼ね備えています。腰に問題を抱えていますが、痛みに負けず本分を尽くし続けます。しかし病状は悪化し、検査の結果、脊椎の四番目と五番目がヘルニアに冒されていると判明します。すぐに治療を受けなければ、寝たきりになるかもしれません。彼女は少し不安を覚えますが、この病状は神の許しを得て生じたもので、神は自分に試練を与え、自分の信仰と献身を試しているのだと信じます。そして治療に協力して本分を尽くし続ける限り、神はきっと守ってくださると思うのです。しかし時間が経つにつれて病状はますます悪化し、いつ身体が麻痺してもおかしくない状態に陥ります。病気というこの試練を彼女はどう乗り越えるのでしょう? そして最後にどうやって喜びを得るのでしょう? 『苦しみから喜びを』をご覧になり、その答えを見つけてください。

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キリスト教会漫才「パンデミックに直面して」

2020-11-25 14:49:40 | キリスト教会漫才

 このパンデミックが世界中に広がるにつれ、大災害が迫るのを多くの人が感じています。人々はパニックに陥り、自主隔離して自宅にこもる以外はどうすればいいかわかりません。パンデミックから身を守る方法も、大災害から逃れる方法もわからないのです。主イエスは昔こう預言しました。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起こり……」(ルカによる福音21:10–11)パンデミックやその他の災害は全て、神の許可があって起こります。神はそれらを用いて人類に警告を与え、一刻も早く悔い改めなくてはならないと告げているのです。しかし、真の悔い改めとは何でしょうか? 多くの信者たちは、より熱心に主に祈って懺悔することが真の悔い改めであり、そうすれば神が大災害から救ってくれると思っています。しかし本当にそうなのでしょうか? この漫才『パンデミックに直面して』をご覧になり、私たちがこれらの災害に直面した際、いかにして心から神に悔い改めるべきかを突き止めてください。

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クリスチャンの証し 2020「神の御声に耳を傾け、主をお迎えする」日本語吹き替え

2020-11-24 18:21:52 | クリスチャンの証し

    主人公はかつて家庭教会の伝道師で、主のために長年働き、主イエスの再臨を絶えず待ち望んでいました。主は終わりの日に再臨するとき、復活した霊体をまとい、雲に乗って公然と姿を現わすと、彼女は堅く信じています。主が終わりの日に肉となって再臨したという喜ばしい知らせを聞いた彼女は、それを信じず調べようとさえしません。その後ある集会で、「人の子の降臨」、「人の子が来る」、そして主が「盗人のように」来るといった預言が数多くあることを彼女は知ります。これらの預言はどれも、主は終わりの日に再臨するとき、肉において密かに来るということを述べています。彼女は自分の観点にあえてしがみつこうとせず、そこで反省して探求し始めます。では、主はいったいどのようにして終わりの日に降臨し、私たちの前に姿を現わすのでしょうか? 主人公はいかにして主をお迎えするのでしょうか? 『神の御声に耳を傾け、主をお迎えする』の中にその答えがあります。

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日々の神の御言葉「素質の向上は神の救いを授かるためである」抜粋447

2020-11-23 19:06:30 | 日々の神の御言葉

正常な人間性にはどのような側面が含まれているのか。識見、理知、良心、品格である。これらの側面それぞれについて正常性を達成できるならば、人間性は基準に達する。あなたは正常な人間の姿を備え、神を信仰する者らしく見えるべきである。過度な達成をしなくてもよく、外交に関わる必要はなく、ただ正常な人間の理知を備え、物事を見通すことのできる正常な人間であるべきであり、少なくとも正常な人間のように見えなければならない。それで十分である。現在あなたに要求されていることはすべてあなたの能力の範囲内である。これはアヒルを止まり木に登らせようとしているのではない。あなたに無駄な言葉や働きが述べられ、行われることはない。あなたの生活において表され明らかにされる醜悪さはすべて排除しなければならない。あなたがたはサタンに堕落させられ、サタンの毒に満ちている。あなたに求められているのは、その堕落したサタン的性質を捨て去ることだけである。高地位にある人物や有名人や偉人になることは求められていない。それは役に立たない。あなたがたに行われる働きは、あなたがたが生来備えているものを考慮している。わたしが人に要求することには限度がある。現在の人が全員、政府の官僚のように振る舞うことを要求され、政府の官僚のような口調で語る練習をしたり、政府高官のような話し方をする訓練をしたり、随筆家や小説家のような口調や身振りで自己表現する訓練をしたりするように要求されたとしたら、それもまたうまくは行かない。それは不可能である。あなたがたの素質を考慮すれば、少なくとも知恵を用い、機転を利かせて話し、物事を明瞭にわかりやすく説明できるべきである。要件を満たすにはそれだけで十分である。少なくとも、識見と理知を身に付ける必要がある。現時点で特に重要なことは、堕落したサタンのような性質を捨て去ることである。あなたは自分に表れる醜悪さを捨て去らなければならない。それを捨てずに、どうして至高の理知や至高の識見について語れるというのか。多くの人は時代が変わったことを知って、慎ましさや忍耐を実践しない。また、愛や聖徒のような品位を備えていないこともありえる。このような人はなんと愚かなことか。彼らには正常な人間性がほんの少しでもあるのか。語るべき証しがあるのか。彼らには識見や理知が一切ない。もちろん、人の実践のうち逸脱していたり誤っている側面は修正する必要がある。たとえば、彼らの過去における硬直した霊的生活や、麻痺した愚かな様相はすべて変わらなくてはならない。変えるということは、あなたを自堕落にさせたり、肉に耽溺したり、言いたいことを何でも言うことではない。だらしなく話してはならない。正常な人間として話し行動するということは、筋の通った話し方をし、「是」なら「是」とだけ、「否」なら「否」とだけ言うことである。事実にそって適切に話しなさい。ズルをしたり、嘘をついてはならない。性質の変化に関し普通の人が達することのできる限界を理解しなければならない。そうしないで現実性に入っていくことはできない。 『言葉は肉において現れる』より引用

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日々の神の御言葉「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」抜粋556

2020-11-22 23:38:53 | 日々の神の御言葉

 真理を追求することでのみ、性質の変化を遂げることができます。これは人が完全に把握し、理解する必要のある事柄です。真理を十分に理解していなければ、容易に過ちをおかして道に迷います。いのちの成長を望むなら、万事において真理を求めなければなりません。何をしていても、どう振る舞えば真理と一致できるかを探求し、それに反するどのような汚れが自分の中にあるかを突き止める必要があります。こうしたことについて、あなたははっきり理解しなければなりません。自分が何をしていようとも、そこに価値があるかどうかを考えるべきです。有意義なことならしても構いませんが、無意味なことはしてはいけません。してもしなくてもよいことについて言えば、放っておけるものならそうしなさい。そうでなければ、そうしたことをしばらく行ない、後で放っておくべきだと気づいたなら、素早く判断してすぐに捨てなさい。これがあらゆる行為においてあなたが従うべき原則です。中には次のように疑問の声を上げる人もいます。「真理を求めて実践するのがこれほど難しいのはなぜなのか。まるで流れに逆らって舟を漕ぎ、漕ぐのをやめたら押し流されるようなものだ。悪事を犯したり無意味なことをしたりすることのほうが、流れに沿って舟を漕ぐようにずっと簡単なのはなぜなのか。どうしてそうなのか」。それは、人の本性が神を裏切るものだからです。人の中ではサタンの本性が主導権を握っていますが、それは反動的な力です。神を裏切る本性の持ち主は、当然ながら神を裏切ることをとかく行ないがちで、肯定的な物事をするのは自然と困難です。それはひとえに人の本性と本質に左右されます。ひとたび本当に真理を理解し、心からそれを愛するようになれば、真理と合致する物事を行なう力が生まれます。すると、それが普通のことになり、努力もいらず楽しいことにさえなって、否定的な何かをするのはかなりの努力が必要だと感じるようになります。それはあなたの心の中で真理が主導権を握ったからです。人生に関する真理やどのような人になるべきかの真理、つまり公明正大で率直な人、正直な人、神のために証しをして神に仕える人にどうすればなれるかを本当に理解すれば、神に背く悪事を行なうことはできなくなり、偽の指導者、偽の働き手、あるいは反キリストの役を演じることも二度となくなります。サタンがあなたを惑わそうと、悪人があなたをそそのかそうと、あなたがそうすることはありません。誰に強制されようと、あなたはそのように振る舞いません。人が真理を得て、真理がその人のいのちになったとき、その人は悪を憎み、否定的な物事に対して内なる嫌悪を感じることができるようになり、悪事を犯すのが難しくなります。それは、その人の性質が変わり、神によって完全にされたからです。

 自分の中に真理が本当にあれば、自然と正しい道を歩むようになります。真理がなければたやすく悪事を犯し、そうせずにはいられなくなります。たとえば、自分の中に傲慢さや自惚れがあれば、神に反抗しないようにするのは不可能であり、どうしても神に反抗せずにはいられません。意図的にそうするのではなく、自分の傲慢で自惚れた本性に支配されてそうするのです。自分の傲慢さや自惚れのせいで神を見下し、神を無価値なものと見なすようになります。そして自分を賞揚し、常に自分を誇示し、最後は自分を神の立場に置いて自分の証しをするようになります。最終的に、自分の発想や思考や観念を、崇拝すべき真理に変えてしまうのです。傲慢で自惚れた本性に支配された人がいかに多くの悪事を働くかをご覧なさい!自分の邪悪な行ないを解消するには、まず本性の問題を解決しなければなりません。性質の変化なくして、この問題の根本的解決は不可能でしょう。神について多少認識し、自分の堕落を見ることができ、傲慢さと自惚れが卑劣で醜いことに気づけるとき、あなたは嫌悪を覚え、気分が悪くなり、苦悩する。あなたは神を満足させることを意識的に行なうことができ、そうする中で安らぎを感じる。あなたは意識的に神に証しをすることができ、そうする中で喜びを感じる。あなたは意識的に仮面を脱いで自分の醜さをさらけ出し、そうすることで内面的に気分がよくなり、精神状態が改善したのを感じる。ゆえに性質の変化を求める第一歩は、神の言葉を理解して真理に入るのを求めることです。真理を理解してはじめて識別力を得られ、識別力があってはじめて物事を完全に理解できるようになります。そして物事を完全に理解してはじめて肉を捨て去ることが可能となり、神への信仰をもって正しい道を一歩ずつ歩めるようになるのです。このことは、真理を求める時に人の決意がどれほど固いかと関連します。本気で決意している人は、6か月から1年後に正しい道へ乗り始め、3年から5年以内に結果が生まれ、いのちの進歩を遂げつつあると感じるでしょう。神を信じているが真理を追求しないのであれば、10年信じても何ら変化を経験しません。最後は、これがまさに神を信じるということだ、以前に俗世で暮らしていたときとまったく同じで、生きていても無意味だと思うでしょう。これは、真理のない人生が空虚であることを真に示しています。何かしらの教義を語れても、依然として不快さと不安を感じるのです。神に関する認識があり、有意義な人生を送る方法を知り、神を満足させることを行なえるなら、それが真の人生であり、そのように生きることでのみ人生が有意義になると感じ、少しは神を満足させて喜びを覚えるには、そのように生きなければならないと思うでしょう。意識的に神を満足させ、真理を実践し、自分と自分の考えを捨て去り、神の旨に従い、それに配慮することをすべて意識的に行なえるなら、それが真理を正確に実践するということ、真理を真に実践するということであり、想像に頼り、教義や規則に固執していた以前の状態とはまるで違います。実際のところ、真理を理解せずに何かを行ない、教義や規則を守り、目標をもたず無闇に物事を行なうのは疲れることです。真理がなければ自由になれないというのは嘘でなく、真理があれば容易かつ幸せに物事を行なえます。このような状態の人が真理を自分のものにしている人、性質が変化した人なのです。『キリストの言葉の記録』より引用