全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

全能神教会御言葉讃美歌「神は天におり、地にもいる」

2017-08-31 20:50:28 | 全能神教会御言葉讃美歌

 

は天におり、地にもいる

地にいる時の 神は
人の心の中の 実際の神
天にいる時の 神は
あらゆる被造物の 支配者
かつて神は 山と海を巡り
人類の間を そっと歩んで来た
誰が逆らえよう 実際的な神に
誰が逃れられよう その支配から
誰が言い切れよう 神は天にいるのだと
誰が言い切れよう 神は地にいると
誰も言い切れない 神の居場所など

天にいる時の 神は
超越的な神 それだけなのか
地にいる時の 神は
実際的な神 それだけなのか
神がすべて 支配するというだけで
人の痛みをも 味わうというだけで
誰が決められよう 神は実際的だと
誰が言い切れよう 神は天にいるのだと 
誰が言い切れよう 神は地にいると
神は天におり 地にもいる 
全ての物の間に 神は存在し
全ての人の間に 神は存在する
人はどんな時も 神と交われるのだ
人はどんな時も 神に会えるのだ
『言葉は肉において現れる』より


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その他の資料:全能神教会ツイッター


全能神の発表「十一番目の言葉」

2017-08-29 21:59:42 | 全能神の発表

 

 人間は誰もみな、わたしの霊による観察を受けなければならない。自分のすべての言葉と行動を細かく調べ、さらに、わたしの驚くべき行いを見なければならない。の国が地上に来るとき、あなたがたは、どのように感じるだろうか。わたしの子らと民がわたしの玉座に来るとき、わたしは大きな白い玉座の前の裁きを正式に始める。これはつまり、自ら地上での働きを開始し、裁きの時代が終わりに近づくと、わたしの言葉を全宇宙に向け始め、わたしの霊の声を全宇宙に放つということだ。わたしの言葉を通して天と地のすべての人々と物事を洗い清め、地はもはや穢れと淫乱の地ではなく、聖なる国である。わたしはすべてを新たにし、わたしが用いることができるようにし、もはや地上の息を含まず、もはや土のにおいに汚れていないようにする。地上では、人間はわたしの言葉の目的と根源を手探りし、わたしの業を観察したが、誰一人ほんとうにわたしの言葉の根源を知らず、誰一人わたしの業のすばらしさを真に見ていない。ようやく今日、わたしが自分で人間たちの間に来て言葉を発してはじめて、人間はわたしについてわずかの認識を得、彼らの考えにあった「わたし」の場所を取り去り、意識の中に実際の神のための場所を作ったのだ。人間は観念と好奇心に満ちている。誰が神を見ることを望まないだろう。誰が神に会うことを望まないだろう。しかし、人間の心に確かな位置を占めるのは、ただ人間がぼんやりと抽象的に感じている神なのだ。わたしが平明に告げなければ、誰が気づくだろう。わたしがほんとうに存在していると、誰がほんとうに信じるだろう。まことに疑いの影もなく。人間の心にある「わたし」と実際の「わたし」との間には大きな隔たりがあり、誰一人、その二つの違いを述べることができない。わたしが受肉しなければ、人間はけっしてわたしを知らず、たとえわたしを知るようになったとしても、そうした認識は観念的なものに過ぎないのではないか。わたしは毎日、とだえることのない人間の流れの中を歩き、毎日、すべての人の中で働く。人間が真にわたしを見ると、わたしの言葉の内にわたしを知り、わたしの語る方法、わたしの心を理解する。

 神の国が正式に地上に着くと、すべての中で、何が沈黙しないだろう。すべての人の中で、誰が恐れないだろう。わたしは宇宙世界のいたるところを歩き回る。すべては、わたしが自分で定めた。このとき、誰が、わたしの業がすばらしいものだと知らないだろう。わたしの手はすべてを支え、同時に、すべての上にある。今日、わたしの受肉とわたしが実際に人間の間にいることとは、わたしの謙遜さと神秘のほんとうの意味なのではないか。表向きには、多くの人がわたしを善であるとしてたたえ、美しいとほめるが、誰がほんとうにわたしを知っているのか。今日なぜわたしは、あなたがたがわたしを知るように要求するのか。わたしのねらいは赤い大きな竜を辱めることではないのだろうか。わたしは、人間にわたしをたたえるよう強制はしたくない。しかしわたしを知り、それを通じてわたしを愛するようにさせ、そうしてわたしをたたえるようにする。そのようなたたえはその名にふさわしく、むなしい言葉ではない。そのようなたたえだけが、わたしの玉座に届き、天に昇るのだ。人間はサタンに誘惑され、堕落させられたから、人間は観念的思考に囚われてしまったから、わたしは自分で全ての人間を征服し、人間の観念を暴き、人間の考えを引き裂くために受肉したのだ。その結果、人間はもはやわたしの前で誇示せず、もはや自分の観念でわたしに仕えることをしなくなる。そうして、人間の観念の中にある「わたし」は完全に消される。わたしの国が来るとき、わたしはまず、この段階の働きをはじめ、それをわが民の間で行う。赤い大きな竜の国に生まれたわが民であれば、まことにあなたがたの中の赤い大きな竜の毒素は、ほんの少しでも、一部だけでもない。だから、わたしの働きのこの段階は、主にあなたがたに集中する。そして、これがわたしの中国での受肉の意義の一面なのだ。たいていの人は、わたしの語る言葉のかけらも理解できない。そして、たとえできたにしても、彼らの理解は曖昧で混乱している。これは、わたしの話す方法の転換点の一つだ。もしすべての人がわたしの言葉を読み、その意味を理解できるなら、誰が救われて、ハデスに投げ落とされずに済むだろう。人間がわたしを知り、従うとき、わたしは憩う。そのときこそ、人間はわたしの言葉を理解できる。今日、あなたがたの背丈は低すぎる。哀れなほどに小さく、わざわざ言う甲斐もない──あなたがたのわたしについての認識は言うまでもない。

 わたしの子らや民を牧養するために天使たちが派遣されはじめたと、わたしは述べているが、誰一人わたしの言葉の意味を理解できない。わたしが自分で人間たちの間に行き、天使たちが同時に牧養の働きを始めると、天使たちの牧養する間、子らと民はみな、試練と牧養とを受けるだけではなく、あらゆる幻をも、その目で見ることができる。わたしは神性において直接働いているので、全ては新しい始まりに入る。また、神性が直接働いているため、人性に少しも束縛されない。そして、人間の目には超自然的な状況下で自由に働いているように見える。しかし、わたしには、すべて正常で(人間は直接神性を経験したことがないため、これが超自然現象だと思い込む)。そこには人間の持つ観念は存在せず、人間の意思を少しも含まない人々は正しい道に入ってはじめて見るだろう。今は始まりであり、人間がその道へ入るということになると、人間には数多くの欠点があり、そのような過ちや不透明さを避けて通ることはできない。今日わたしがこの時点まで導いてきたのだから、わたしには適切な計画があり、わたし自身の目的がある。もしわたしがそれらについて今日語るなら、あなたがたは、ほんとうにそれがわかるだろうか。わたしは、人間の考え方と、人間が心に望むこととをよく知っている──自分で逃げ道を探したことがない人などいるだろうか。自分の行く末について何も考えたことがない人などいるだろうか。しかし、人間は豊かで多彩な知性を持っているが、長い時の果てに現在がこのようになるとは、誰が予想しただろう。これが、ほんとうにあなたの主観的努力の成果なのか。これが、あなたの疲れを知らぬ努力の報いなのか。これが、あなたが心に描いた美しい情景なのか。もしわたしがすべての人々を導かなければ、誰がわたしの定めから離れて別の出口を見出せるだろう。今日まで人間を導いてきたのは、人間の思いや願いなのか。多くの人は生涯、願いをかなえることなく生きる。これはほんとうに、その人たちの考えが間違っているせいだろうか。多くの人の生は、思いがけない幸福と満足で満たされている。これはほんとうに、彼らが多くを期待しないせいなのか。すべての人間の中で、誰が全能者の目に見守られていないのか。誰が全能者の定めの中で生きていないのか。誰の生と死が自分の選択で訪れているのか。人間は自分の運命を左右できるのか。多くの人は死を求める。しかし、それは彼らからは遠い。多くの人は人生において強くありたいと願い、死を恐れる。しかし、彼らの知らないところで死の時は近づいてきて、彼らを死の淵に陥れる。多くの人は空を見て、深い溜め息をつく。多くの人は激しく叫び、泣いて嘆きの声を上げる。多くの人は試練の中に倒れ、多くの人は誘惑に囚われる。わたしは姿を現して人間にはっきり見られるようにはしないが、多くの人はわたしの顔を見ることを恐れ、わたしが彼らを打ち倒すのではないか、彼らを消し去るのではないかとひどく恐れる。人間はほんとうにわたしを知っているのか、知らないのか。誰一人、確かなことは言えない。そうではないか。あなたがたは、わたしとわたしの刑罰を恐れる。しかし、あなたがたはまた、立ち上がって真正面からわたしに敵対し、わたしを裁こうとする。そうなのではないか。人間がわたしを知らずにきたのは、けっしてわたしの顔を見たことがなく、また、わたしの声を聞いたこともないからだ。そこで、わたしは人間の心の中にいるのだが、心の中にいるわたしが朦朧としていて不可解なものでない者がいるだろうか。心の中のわたしが完全に明瞭な人が、誰かいるだろうか。わたしは、わが民までもがわたしをぼんやりと、不明瞭に見ていることを望まない。そこで、この大いなる業に取り掛かったのだ。

 わたしは静かに人間の間に来て、そっと去る。これまで誰か、わたしを見た者がいるだろうか。太陽は燃える炎があるから、わたしを見ることができるのだろうか。月はそのさやかな光のおかげで、わたしを見ることができるのだろうか。星々は空でそれぞれの場所にいるから、わたしを見る事ができるのだろうか。わたしがいつ来るのか、人間は知らないし、あらゆるものは知らずにいる。また、わたしがいつ去るかも、人間は気づいていない。誰がわたしについて証しできるのだろう。地上の人々のたたえだろうか。野に咲く百合だろうか。空を飛ぶ鳥だろうか。山々で吠える獅子だろうか。誰一人、わたしを完全に証しできない。誰一人、わたしのする働きができない。たとえ人々がこの働きをしてみても、それでどんな効果があるのか。わたしは毎日、大勢の人々の行いを見、毎日、多くの人々の心や考えを探る。誰一人、わたしの裁きから逃れた者はいない。また、誰一人、わたしの裁きの実際を免れた者はいない。わたしは空の上に立ち、遠くを見やる。無数の人々がわたしに打ち倒された。しかしまた、無数の人々がわたしの憐みと慈愛の中で生きているのだ。あなたがたもまた、そうした中で生きているのではないか。

199235


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全能神教会御言葉讃美歌「人への神のあわれみ」

2017-08-28 23:12:32 | 全能神教会御言葉讃美歌

 

 

人へののあわれみ

「あわれみ」はさまざまな意味をもつ 

それは愛・守り・心遣い 

「あわれみ」は深いきずな

  それは痛みを感じるほど激しい思いやり

  何よりも愛と優しさの反映 

あるいは人を見捨てない気持ち

  何よりも愛と優しさの反映

あるいは人を見捨てない気持ち

これが人への神の慈しみと寛容

  神は人にありふれた言葉を使ったが それが自身の心の声と

  人への態度を伝える

  神が語ると

 すべてが明らかにされた 

ソドムと同じくニネベの通りも

  堕落・邪悪・残虐で満ちていた 

だがニネベは悔い改め

  神の心が変わり 

ニネベは破滅を逃れた

  神の言葉と指示に対して 

ソドムとは違う態度だった 

神の言葉と指示に対して 

ソドムとは違う態度だった 

ニネベの服従は完全で徹底し

  罪の悔い改めは全く真実だった 

彼らは真剣で 全てに誠実 

だから神はもう一度 心からのあわれみを示し

ニネベに授けた 

『言葉は肉において現れる(続編)』より


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全能神の発表「八番目の言葉」

2017-08-26 22:50:27 | 全能神の発表

 

 わたしの啓示が最高に達し、わたしの裁きが終わりに近づいたとき、わが民はみな明かされ、完全にされる。わたしの歩みは宇宙世界の隅々に及ぶ。わたしの心にかない、わたしが用いるにふさわしい者たちを、いつでも探しているからだ。立ち上がり、わたしに協力できる者はあるだろうか。人間のわたしへの愛はあまりにささやかで、わたしへの信仰はあわれなほどに小さい。わたしの言葉が人間の弱さを直接打たなければ、人間はまるで地上のことに関して全知全能であるかのように、自慢し、誇張し、尊大に、高尚な理論を唱えるだろう。かつてわたしに忠実」であって、今わたしの前で「堅固に立って」いる者たちのうちに、あえて自慢するものがあるだろうか。誰が、自分の前途について、ひそかに喜んでいないだろう。わたしが直接現れないとき、人は隠れる場所もなく、恥にさいなまれた。わたしが他の手段で語ったなら、どれほどひどいことになるだろう。人々は、より大きな負い目を感じるだろう。人々は、自分たちを治せるものは何もないと思い込み、自分たちの消極性のためにまったく動きがとれなくなってしまうだろう。人間が希望を失うと、の国の礼砲が正式に鳴り響く。それは、人間が語るところの「七倍に強められた霊が働きをはじめる時」である。つまり、神の国の生活が公式に地上で始まる時であり、わたしの神性が(頭での解釈抜きに)直接行動するために来る時なのだ。すべての人は蜂のように忙しくなる。人々はまるでよみがえったようであり、夢から醒めたようであり、目覚めるとすぐに、自らの置かれた状況を知って驚愕する。わたしは昔、教会を建てることについて多くを語り、多くの奥義を明らかにした。教会の建設は最盛期に至ると、突如として終わった。しかしながら、神の国の建設は異なっている。霊的領域における戦いが最終段階に達したとき、わたしは地上で新たに働きをはじめる。つまり、人間が退こうとするときはじめて、わたしは正式に新たな仕事を始め、起こすのである。神の国の建設と教会の建設との違いは、教会建設では、わたしは神性に支配される人間性の下で働いたということだ。わたしは人間の古い性質を直接取り扱い、人間の醜い自我を直接明らかにし、人間の本質をあらわにした。その結果、人間は、それに基づいて自己を知るようりになり、確信を得た。神の国の建設では、わたしは直接神性のもとに行動し、すべての人々がわたしの持っているものおよびわたしであるものを知るようにし、わたしの言葉についての認識に基づいて、最終的には、肉の体の中にいるわたしについての認識を得られるようにした。そうして、全人類が漠然とした神を探し求めることを終わらせ、人間の心にある「天にまします神」を終わらせる。つまり、それによって人間は、肉におけるわたしの業を知ることができ、わたしの地上での時代は終わるのだ。

 神の国の建設は、霊的領域を直接目指している。つまり、わが民すべての間に霊的領域における闘いが明瞭になり、そこから、すべての人々が、教会の中だけではなく、神の国の時代にはもっと、常に戦っていること、そして人間は肉の体をもっているが、霊的領域は直接明かされるのであり、人間は霊における生活に携わることがわかる。だから、あなたがたが忠実であるようになると、わたしの働きの次の段階に正しく備えなければならない。あなたがたは、心のすべてをささげなければならない。そうしてはじめて、わたしの心を満足させることができるのだ。人間が以前に教会で何をしていたかは問わない。今日では、わたしの国での活動が大事なのだ。わたしの計画において、サタンは一歩ごとにかかとに噛み付いてきたのであり、わたしの知恵の引き立て役として、いつでもわたしの本来の計画を邪魔をする方法を探っている。しかし、わたしがサタンの欺きに満ちた策略に屈するものだろうか。天と地のすべてはわたしに仕えている。サタンの欺きに満ちた策略も同様ではないのか。これはまことにわたしの知恵の交わるところ、これはまことにわたしの業の驚くべき点であり、これはまことにわたしの全経営(救いの)計画が実行される原理なのだ。神の国建設の時代にも、わたしはサタンの欺きに満ちた策略を避けず、なすべき働きを続ける。宇宙のあらゆるものの中で、わたしはサタンの行いをわたしの引き立て役に選んだ。これはわたしの知恵ではないか。これはまさに、わたしの働きの驚くべき点ではないのか。神の国の時代が始まると、天と地のあらゆる物事が大きな変化を経、そして祝い喜ぶ。あなたがたも同じなのではないか。誰が蜂蜜のように甘い思いを心に抱かないだろう。誰が心に喜びがあふれないだろう。誰が喜びに踊らないだろう。誰が賛美の言葉を語らないだろう。

 わたしがここまで話してきたことから、あなたがたは、わたしの言葉の狙いと、その源を把握しただろうか、どうだろうか。わたしがこう尋ねなければ、たいていの人は、わたしがただしゃべり続けているだけだと信じて、わたしの言葉がどこから来たかを知ることができないだろう。注意深く考えてみれば、わたしの言葉の重要性がわかるだろう。よく読んでみるとよいだろう。わたしの話したことの何が、あなたのためにならないだろう。どれが、あなたのいのちの成長のためにならないだろう。どれが、霊的領域の現実について語っていないだろう。たいていの人は、わたしの言葉には何の根拠もない、何の説明も解釈もないと考える。わたしの言葉は、ほんとうにそんなに抽象的で、不可解なものだろうか。あなたがたは、ほんとうにわたしの言葉に従うだろうか。あなたがたは、ほんとうにわたしの言葉を受け入れるだろうか。あなたがたは、わたしの言葉を玩具にしないだろうか。あなたがたは、わたしの言葉を醜い外見を覆う衣として使わないだろうか。この広大な世界で、誰がわたしから直接調べられたろう。誰が、わたしの霊の言葉を直接聞いただろう。まことに多くの人々が、闇の中で手探りし、まことに多くの人々が逆境にあって祈り、まことに多くが飢え、凍えながら、希望をもって見守り、まことに多くの人々がサタンに縛られている。しかし、まことに多くの人々が頼りとするものを持たずにいる。まことに多くの人々が、幸福の中でわたしを裏切り、まことに多くの人々が恩を知らず、まことに多くの人々がサタンの欺きに満ちた策略に忠実でいる。あなたがたの中の誰がヨブなのか。誰がペテロなのか。なぜわたしは繰り返しヨブについて触れているのか。そして、なぜわたしはペテロについて何度も触れているのか。あなたがたは、わたしがあなたがたに望んでいることを理解したことがあるだろうか。あなたがたは、そうしたことについて、もっと時間をかけて考えなければならない。

 ペテロは長年わたしに忠実であったが、けっして不平を言わず、不満に思うこともなかった。そして、ヨブでさえ、ペテロには及ばなかった。長い年月にわたって現れた聖徒たちもまた、みなペテロには遠く及ばなかった。ペテロはわたしについての認識を求めただけではなく、また、サタンが欺きに満ちた策略を用いていた時にも、わたしを知るようになった。それが、何年もの間、わたしの心にかなう奉仕をすることにつながり、その結果、サタンに利用されることがついになかった。ペテロはヨブの信仰に学んだが、また、明らかに、彼の短所をも知っていた。ヨブは深い信仰の持ち主だったが、霊的領域に関する知識を欠いていた。そのため、現実に沿わないことを数多く言っていた。このことから、彼の認識がまだ浅く、完全には至っていなかったことがわかる。そこで、ペテロは常に霊を理解しようとし、いつでも心して霊的領域の動態を観察していた。その結果、わたしの望むことについて何かしらを究明することができただけでなく、サタンの欺きに満ちた策略についても多少理解していた。そのため、ペテロの認識はいつの時代の誰よりも豊かだった。

 ペテロの経験から、人間がわたしを知りたければ、霊について注意深く考察することに集中しなければならないということは、容易にわかるだろう。わたしはあなたがたに、外面的に多くのものをわたしに「ささげよ」とは言わない。それはあまり重要なことではない。わたしを知らないなら、あなたがたの語る信仰や愛、忠誠はすべて幻想にすぎない。それは中身のないものであり、そうした人は、必ずやわたしの前で大いに自慢するが、自分を知らず、そのため再びサタンの罠にかかり、自由になることができないという破目になる。そうした人は地獄の子になり、破滅に襲われる。しかし、わたしの言葉に冷淡で無関心であるなら、その人は必ず、わたしに敵対している。これは事実であり、うまくいけば、あなたは霊的領域の門の向こう側に大勢の多様な霊がわたしの刑罰を受けているのを見ることになる。そうした人々の中に誰か、わたしの言葉に受動的でなく、冷淡でなく、わたしの言葉を拒まなかった者がいるだろうか。そうした人々の誰が、わたしの言葉に冷笑的でなかったろう。そうした人々の誰が、わたしの言葉に機会を見つけようとしなかったろう。そうした人々の誰が、わたしの言葉を「自分を守るため」の「防御用武器」として用いなかったろう。彼らはわたしの言葉を通じて、わたしについての認識を求めようとせず、単に玩具としてもてあそんだだけなのだ。それでは、その人々はわたしにじかに敵対したのではないか。誰がわたしの言葉なのか。誰がわたしの霊なのか。わたしは何度も何度も、こうした言葉をあなたがたに繰り返してきた。しかし、あなたがたの理解がより高度で、明瞭であったことがあるだろうか。あなたがたの経験が真実であったことがあるだろうか。もう一度言っておく。わたしの言葉を知らず、受け入れず、実践しないのなら、必ずわたしから刑罰を受けることになる。そのような人は、必ずサタンの餌食になる。

1992229



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全能神教会いのちの経験の讃美歌MV「人は誰のために生きるべきか」

2017-08-25 08:33:24 | 全能神教会いのちの経験の讃美歌MV

人生の意味を見つけよう「人は誰のために生きるべきか」(公式ミュージックビデオ)

 

 

人は誰のために生きるべきか

人は誰のために生きるべきか、よくわからなかった
現在、私はその答えを得た
私は嘗て自分のためだけに生き
地位と名声のみを求めていた
美辞麗句に満ちた祈りをにささげていたが
実生活では自分のやり方を堅持していた
信仰は将来と運命に基づいていて
私には真理が無かった
儀式と規則が自分の信仰を制限し
私に残されたのは空虚感だけだった
人間として生きることが出来ない私は
神の私に対する愛を受けるに相応しい者では無い

今は自分の心が目覚め
神の愛に報いるべきだと私に言っている
私は良心が無く
神に従わないで神の御心を傷つけていたために自分を嫌悪する
神の心を気にかけたことは皆無で
神の御言葉について気にしたことも全く無かった
良心も理知も無かったら
どうして私は人として認められようか
神の裁きにより、私は自分がサタンによって
深く腐敗させられていることに気付いた
この世は邪悪で罠に満ちており
真理こそ信者が選ぶべきものである
神よ、あなたは私を救うために出来る限りを尽くしておられ
それほどまでに私を深く愛してくださっている
あなたが私にしてくださったことを
私はこれからもずっと心に留めます!決して、絶対に忘れない

神の心を気にかけること、それが私のすべての意志
私は真理を追求すると固く決意した
神のために自らを費やし
自分自身をささげて神の愛に報いつつ
自分自身をささげて神の愛に報いつつ
『小羊に従って新しい歌を歌おう 』より

 

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全能神の発表「六番目の言葉」

2017-08-23 21:07:47 | 全能神の発表



 霊の内のことについて、あなたがたは、細心の注意を払わなければいけない。わたしの言葉を心して聞きなさい。あなたがたは、わたしの霊と肉の体、わたしの言葉と肉の身とを切り離すことのできない単一のものと見ることができるようになるよう努め、わたしの前にあって、すべての人間がわたしを満足させる状態になるようにしなければならない。わたしは、この足で全宇宙を踏み、全宇宙の隅々にまで目をやり、すべての人間の間を歩き、人間であることの甘、酸、苦、辛を味わった。しかし、人間はけっして真にわたしを認識することがなかったし、わたしが歩き回っていても、それと気づかなかった。なぜなら、わたしは何も言わず、超自然のわざを何も行わなかったので、誰一人、真にわたしを見なかったのだ。物事は、かつてとは違っている。わたしは創造の初めから世界の誰も見なかったことをしよう。わたしは人間が、はるか昔からずっと、かつて聞いたことのないことを語ろう。なぜなら、すべての人間が肉におけるわたしを知るようになってほしいからだ。それがわたしの経営(救い)の手順である。人間にはそれがどういうものか、まるで考えもつかないことなのだ。それらについて、わたしが公然と語っても、人々はまだ頭が混乱しているため、すべてを詳らかに言い表してやることができないのだ。ここに人間の絶望的な低劣さがあるのだ。そうではないか。だからこそ、わたしは人間の内を修復したいのだ。そうではないか。長い年月、わたしは人間に何一つせずに来た。長い年月、受肉したわたしの体と直接接触した者でさえ、わたしの神性から直接発せられた言葉を聞いた者はいなかった。だから、人間にわたしについての知識が欠けているのは、やむを得ないことである。しかし、この一事だけでは、この長い年月、人間のわたしへの愛には影響がなかった。しかしながら、今、わたしはあなたがたに無数の奇跡的で人には推し量ることのできない働きを示し、多くの言葉で語ってきた。それなのに、そうした状況にあっても、実に多くの人々が、いまだに、面と向かってわたしに敵対しているのだ。いくつか例を示そう。

 あなたがたは、毎日、漠然とした神に祈りを捧げ、わたしの意向を理解しようとし、いのちを感じようとする。しかし、わたしの言葉が実際に与えられると、それをありのままにとらえない。あなたがたは、わたしの言葉と霊とを一つの不可分のものと考えていながら、人間を蹴りのける。人間であるわたしには、そもそも、こうした言葉を語ることができないと考え、わたしの霊がそうさせているのだと思っているのだ。あなたはこの状況をどう認識しているのか。あなたがたは、わたしの言葉をある程度まで信じるけれど、わたしのまとう肉の身については大なり小なり自分なりの考えを抱き、毎日自分の頭で考えては、「なぜあの人は、ああいうふうに物事をするのか」と言う。「これは神から来ているものなのだろうか。ありえない。思うに、あの人は、わたしとほとんど変わるところがない、普通のただの人間だ。」もう一度尋ねるが、こういう状況をどう説明するのか。

 今わたしの述べたことについて、あなたがたの中に、そういう考えをもっていない人はいるだろうか。そんなふうに考えていない人がいるだろうか。それは、まるで、あなたが個人的な所有物でもあるかのようにしがみついていて、ずっと手放すのを渋っているもののようだ。まして、積極的に努力しようという気持ちもない。そうでなくて、わたしが自分で働きをするのを待っている。実のところ、わたしを求めることなく、容易にわたしを知るようになる人間は、ただの一人もいないのだ。まことに、わたしがあなたがたに説いている言葉は浅いものではない。あなたの助けとなるよう、異なった点から例を挙げることができるのだから。

 ペテロの名を聞くと、誰もがみな、たたえの心に満ち、ペテロについての物語のあれこれを思い出す──彼が三度神を否定したこと、さらに、サタンの手助けをしたこと、そうして神を試みたこと、しかし、最後には神のために十字架に逆さに釘で打ち付けられたこと、等々。今、わたしはペテロがどのようにしてわたしを知るようになり、最後にはどうなったかを語ることを重視している。このペテロという人は、すばらしい素質の持ち主だったが、彼の境遇はパウロのそれとは異なっていた。彼の両親はわたしを迫害した。彼らはサタンにとりつかれ、悪魔の側にいた。だから、二人がペテロに道を教えたとは言えない。ペテロは頭脳明晰で、生まれながらに豊かな知性をもち、子供のころから両親に可愛がられて育った。しかしながら、彼は両親の敵になった。というのも、ペテロがいつもわたしを知ろうと願い、その結果、両親に背を向けることになったからなのだ。それはつまり、第一に、彼は天と地はみな全能者の手の内にあり、すべてのよいものは神に発し、サタンの手を経ることなく、神から直接来ていると信じたからである。両親の悪い手本のおかげで、ペテロはかえって、わたしの愛と憐れみとをみてとることができ、そうして、わたしを求める欲求がより強く燃え上がることになった。彼はわたしの言葉を飲み食べるだけではなく、わたしの意図するところを把握しようと注意を払った。そして、常に思慮深く、慎重に考えた。だから、彼はいつでも霊が敏感で、その行いのすべてにおいて、わたしの心に適うようにすることができたのだ。ふだんの生活では、失敗の網にかかるようなことを深く恐れ、過去に失敗した人々の教訓を元に、より大きな働きができるよう、自らを励ました。ペテロはまた、遠い昔から神を愛した人々すべての信仰と愛から学んだ。このようにして、ペテロはどのような状況からも学び、急速に成長し、わたしの前で最もよくわたしを知る者となったのだ。このため、想像に難くないことだが、彼は所有物をすべてわたしの手に託し、もはや食べること、着ること、眠ること、どこに宿るかにおいてさえ、自分の主人であることをやめ、あらゆる点においてわたしを満足させ、それによってわたしの恵みを豊かに得たのである。まことに、わたしは何度もペテロを試した。もちろん彼は死にかけたのだが、そうした何百もの試練の中にあっても、彼は一度たりとわたしへの信仰を失ったり、わたしに失望したりしなかった。わたしがもう彼を捨て去ったと告げた時でさえ、ペテロの心が弱ってしまったり、絶望してしまったりすることなく、それまでと同じように、わたしへの愛を実現するため、自分の信じることを続けた。わたしは彼にこう告げたのだ。おまえをほめはしない。かえって、最後には、サタンの手中に投げ込む、と。そうした試練、肉の試練ではなく、言葉による試練の中にあって、ペテロはそれでもわたしに祈った──おお、神よ。 天と地ともろもろのものの中にあって、人間や生き物、あるいはその他のもので、全能者の手の中にないものが何かあるでしょうか。あなたが憐れみを示されるとき、その憐れみのために私の心は大いに喜びます。あなたが私に裁きを下されるとき、私はそれに相応しい者ではありませんが、その御業に神の計り知れない奥義をますます深く感じるのです。なぜなら、神は権威と知恵とに満ちておられるからです。私の肉は苦しみを受けても、霊においては慰められます。どうして神の知恵と御業とをたたえずにおられましょう。たとえ神を知って後に死ぬとしても、常に備えと心構えができています。おお、全能者よ。まことに、神がお姿をお示しにならないのは、そう望んでおられないためではないでしょう。まことに、私に神の裁きを受ける資格に欠けているからではないでしょう。私の中に、ご覧になりたくないものがあるということなのでしょうか。こうした試練の中にあって、ペテロはわたしの意図を正しく把握することはできなかったが、わたしに用いられることを(たとえそれが、人類にわたしの威厳と怒りとを示すため、裁きを受けるだけだったとしても)誇りと栄光であると考え、試練にさらされても、心砕けることがなかった。わたしの前で忠実であったため、また、わたしの与えた恵みのゆえに、ペテロは数千年もの間、人類のための手本、見習うべき者となったのだ。これこそは、あなたがたが見習うべき例ではないのか。今このとき、あなたがたは、わたしがなぜペテロのことを詳しく語っているのか、よくよく考えて、理解しなければならない。これをあなたがたの行動の原則としなければならない。

 たとえわたしを知る者がごく少なくとも、人類のうえに怒りを示しはしない。なぜなら、人間にはあまりに多くの欠点があるため、わたしの望む高みに至ることができないからである。だから、数千年の長きにわたり、今日に至るまで、わたしは人間に寛容であった。しかし、わたしが寛容であるからといって、基準を緩めるようなことをしてはならない。そうではなくて、ペテロを通してわたしのところへ来て、わたしを求め、ペテロの物語すべてから、これまでよりはるかに多くを示され、そうして、人間がかつて到達できなかった域に達するのだ。宇宙と無限の世界を通じて、無数の被造物、地上の無数の物、天の無数の物がみな、すべて、わたしの働きの最終段階のために全力をささげている。まことに、あなたがたは傍観者でいて、サタンの力によって、あちらこちらへ動かされていたくはないだろう。サタンはいつでも、人間がわたしについて心にもつ知識をむさぼっている。そして、牙と爪をむき出して、死を賭した戦いの中にある。あなたがたは、今このときに、欺きに満ちた策略によって捕らえられたいのか。あなたがたは、わたしの働きの最後の段階で、いのちを断たれたいのか。まことに、あなたがたはもう一度、わたしが寛容さを示すことを待っているのではあるまい。わたしを知ろうとすることが肝要だが、実践に注意を注ぐことを怠ってはならない。わたしが直接言葉によって明らかにしているのは、あなたがたがわたしの導きに従うことができるようになり、自分なりの野心や願望をもつことをやめるようにさせたいからなのである。

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全能神教会いのちの経験の讃美歌「私の愛する方よ、どうか待っていて下さい」

2017-08-22 22:34:21 | 全能神教会いのちの経験の讃美歌

東方閃電 全能神教会いのちの経験の讃美歌を分かち合います。

一生を捧げてを愛す「私の愛する方よ、どうか待っていて下さい」(公式ミュージックビデオ)

 

 

私の愛する方よ、どうか待っていて下さい

I
木々の上に、静かに月が昇る
私の愛するお方のように、純粋で美しく
ああ 私の愛する方よ、あなたはどこにいるのですか?
今私は涙を流しています。私の泣く声が聞こえますか?
あなたこそが、私に愛を下さる方
あなたこそが、私のことを心配して下さる方
あなたこそが、私のことをいつも想って下さる方
あなたこそが、私のいのちを育まれる方
月は夜空の向こうへ戻って行く
私の愛する方をあまり長く待たせないでおくれ
あの方に伝えておくれ。私はあの方が恋しくてならないと
私の恋心を忘れずに伝えておくれ
2
雁のつがいが遠くへ飛んでいく
あれは私の愛する方の便りを運んで来るでしょうか?
ああ おまえたちの翼を私におくれ
私が懐かしい故郷へ飛び帰ることができるように
私は愛する方の心配に報いる
私はあの方に告げたい。「悲しまないで下さい。」と
私は、あなたの喜ばれる返事を送ります
だから、あなたの払われた代価を、無駄にはしません
早く成長することを私はどんなに願っていることか
さすらいと苦しみの人生から解き放たれるために
ああ 私の愛する方よ、どうか待っていて下さい
私はこの世の栄華から飛び去ります
私は愛する方の心配に報いる
私はあの方に告げたい。「悲しまないで下さい。」と
私はあなたに、あなたの喜ばれる返事をします
だから、あなたの払われた代価を、無駄にはしません
だから、あなたの払われた代価を、無駄にはしません
『小羊に従って新しい歌を歌おう 』より

 

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