今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たすからである。青春を犠牲にし、家族や職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。最終的な目的のために関心のありどころを変え、人生観を変え、求めるものの方向を変えさえする。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分なりの理想を管理するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に出遭おうと、死をも恐れず目標達成に努力する。どんな力がそのような献身を続けさせるのだろうか。彼らの良心だろうか。偉大で高潔な人格だろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意だろうか。報いを求めずに神を証しする信仰心だろうか。神の心を実現させるためにすべてを捨てようとする忠誠心だろうか。それとも、途方もない個人的な欲求を一貫して放棄する奉仕の精神だろうか。神の経営の働きを知らない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただ驚くべき奇跡である。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げているかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの行動は分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解しない人々がそれほどまでに神に捧げる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで認識されていなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、甘受と欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになっているかを、どれほどの人がほんとうに理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。
神の経営は人間には深遠に思えるだろうが、人間に理解不可能なものではない。神の働きはすべて神の経営に連結しており、人間の救いの働きに関係しており、人類のいのち、生活、終着点に関わっているからである。神が人間の間で、そして人間に対して行なう働きは、まことに実際的で意義深いものだと言える。それは人間が目で見、経験できるものであり、抽象的なものではまったくない。神のする働きすべてを人間が受け入れることができないなら、この働きにどんな意味があるというのか。また、どうしてそうした経営が人間の救いにつながり得るのか。神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けるかや、どうして災いを避けるかということだけに気をもんでいる。神の働きと神の経営と聞くと、彼らは口を閉ざし、興味を失う。彼らはそうした退屈な問題について知っていても、いのちに成長を与えるわけでも、これといった役に立つものでもないと思い込んでいるため、神の経営についての言葉を聞いてはいても、いい加減に扱うのである。そして、受け入れるべき大切なことだとは思わず、まして、自分たちのいのちの一部として受け取ることもない。そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの目当て、つまり祝福を受けることしかない。そこで、その目的に関わりあること以外に関心を向けることは怠惰すぎてしないのである。彼らにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならない。その目的を果たすことができないことには、全く心を動かされない。
あなたの呼びかけを聞いて
私は御前に帰る
御言葉は私を照らし
自らの堕落を悟る
Ⅰ
私はあなたに冷たく
あなたを傷つけ 悲しませた
頑なに反抗して あなたを独りにした
人間への愛は何故痛みで報われるのか?
自分の頑なさと ひどい堕落を私は憎む
私はあなたに会う価値もなく
その愛にも価しない
私はこんなにも 反抗的な人間なのだ
どのようにして私はあなたの心を知り
どのようにして私はあなたの愛を悟れようか?
あなたの愛は真実で
私は多くの借りがある
Ⅱ
あなたは誰のために
肉となり恥を忍ばれたのか?
人間の拒絶に苦しみ 惨めな生活だったが
あなたは一度も 不平を言われなかった
あなたは天から来て
頭を休める場所さえない
世の楽しみを味わったこともなく
ただ人々を救い
心を得るために静かに真理を表わす
私が罰せられる時 あなたはそばにいて下さり
精錬される時 あなたの心は痛む
私が悲しい時 あなたはそこにおられる
私に欠けるところを あなたは埋めて下さり
愛に直面する時 心は引き裂かれる
あなたの愛は心を溶かし
私の心は変わった
Ⅲ
どうして待ち続け 遅らせることが出来ようか?
御心を思いやり 愛に報い
精錬と苦痛に耐え
満足させるために証ししよう!
あなたを愛し生きるため 私の心は覚まされた
真理を追求し 御言葉によって生きよう
あなたを愛し ついて行き
永久に証ししよう!
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
誰もが神による経営(救い)を未知のものだと感じる。なぜなら、神の経営は完全に人間と無関係だと人々は考えるからである。人々はこの経営は神だけの働き、神独自の用事だと考えるので、神の経営の働きに無関心である。こうして、人類の救いは漠然とした不明瞭なものとなり、今では空虚な言葉にすぎないものとなっている。人間は救われて美しい終着点に達するために神に付き従うのだが、神がどのように働きを行なうのかについて無関心である。人間は、神が何を行なおうとしているか、救われるために自分が果たすべき役割については考えていない。なんと悲しいことか。人間の救いは神の経営と不可分であり、まして、神の計画と切り離すことなどできない。それなのに、人間は神の経営について何も考えず、ますます神と離れて行く。そのため、ますます多くの人々が創造とは何か、神を信じるとはどういうことか、神をどう礼拝するか等、人間の救いに密接に関係のある事柄を知らずに神に付き従うようになっている。だからここでは神の経営の働きについて話し、信者の一人一人が神に付き従うこと、神を信じることの意義について明らかに知るようにしなければいけない。そうすれば、ただ祝福を得ようとして、あるいは災いを避けようとして、あるいは成功するために神に付き従うのではなく、歩むべき道をもっと正確に選べるようになる。
全能神は言われた「ヤーウェの働きの後、人のあいだで神の働きを行うためにイエスは受肉した。イエスの働きは単独で実行されたのではなく、ヤーウェの働きの上に築かれた。それは律法の時代を神が終わらせた後の新しい時代のための働きであった。同様に、イエスの働きが終わった後、神は次の時代のためにさらに神の働きを続行した。神による経営(救いの)計画全体はいつも前進しているからである。古い時代が過ぎると、新しい時代に置き換えられ、古い働きが完了すると、新しい働きが神の計画を続行する。……サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、命を得るだろう。」
『言葉は肉において現れる』より