全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

日々の神の御言葉「あなたは誰に忠実なのか」抜粋333

2020-08-31 23:35:41 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「あなたは誰に忠実なのか」抜粋333

もしわたしが今あなたがたの前に富を置いて、わたしがあなたがたを非難しないことを前提に自由に選ぶように言うなら、ほとんどの人は富を選び、真理を捨てるだろう。あなたがたの中でより良い人たちは、富をあきらめ、不承不承に真理を選び、中間の人たちは富を片手に、真理を片手に掴むだろう。このように、あなたがたの真の姿は自明ではないだろうか。真理かあなたがたが忠実であるものかどちらかを選ぶとき、あなたがたすべてがそのような決断を下し、あなたがたの態度は変わらないだろう。そうではないだろうか。あなたがたの間に、正と悪の間を行ったり来たりした者が大勢いるのではないだろうか。正と負、黒と白を争うとき、あなたがたは確かに、家族と神、子どもたちと神、平和と破壊、富と貧困、高い地位と凡俗、支持されていることと捨てられること、などの間であなたがたが行った選択に気づいているのである。平和な家族と崩壊した家族の間では、あなたがたは何の躊躇いもなく前者を選び、富と本分の間では、岸辺に戻る意思すら欠いて、あなたがたは前者を選ぶ。贅沢と貧困の間では、あなたがたは前者を選び、息子、娘、妻、夫とわたしの間では、あなたがたは前者を選び、観念と真理の間では、あなたがたは同じように前者を選ぶ。あなたがたがありとあらゆる悪行に直面して、わたしはあなたがたへの信頼を全く失ったと言うしかない。わたしはあなたがたの心が柔和になることを拒んでいることに全く驚いている。長年の献身と努力は、あなたがたのわたしへの諦めと絶望しかもたらさなかったのは明らかだ。しかし、あなたがたに対するわたしの望みは日ごとに大きくなっていく。というのは、わたしの日はすべての人の前で完全に展開されているからだ。しかし、あなたがたは暗闇や悪に属することばかり求め、あなたがたが持っているものを手離すことを拒絶する。そうなら、あなたがたはどんな結果に出会うだろうか。あなたがたはこのことを以前注意深く考えたことがあるだろうか。もし再び選択を迫られるなら、あなたがたの立場はどうだろうか。依然として前と同じだろうか。あなたがたがわたしに捧げてくれるものは、やはり失望とみじめな悲しみだろうか。あなたがたの心は依然としてほんの少ししか温かみがないだろうか。あなたがたは依然としてわたしの心を慰めるために何をしたらよいか気が付いていないだろうか。この時点で、あなたがたの選択は何だろうか。あなたがたはわたしの言葉に従うだろうか、それともうんざりするだろうか。わたしの日はあなたがたの目の前でまさに展開されてきた。そしてあなたがたが直面しているのは新しい生活と新しい出発点である。しかし、わたしはあなたがたにこの出発点は過去の新しい働きの始まりではなく、古いものの終わりであると言わなければならない。つまり、これは最後の一幕なのである。わたしはあなたがたすべてがこの出発点に関して何が普通とは違うか理解するだろうと信じている。しかし、いつか近いうちに、あなたがたはこの出発点の本当の意味が分かるだろう。だから、共にそこを通り越して歩いて行き、次のフィナーレに入って行こうではないか!しかし、わたしが引き続き不安なのは、不義と正義に直面したとき、あなたがたは常に前者を選ぶことである。しかし、それはすべてあなたがたの過去においてである。あなたがたの過去に起こったことを、一つ一つ、わたしの心から取り去りたいと願っているが、とても難しいことである。しかし、わたしにはそれを行うよい方法がある。未来が過去に取って代わり、今日のあなたがたの真の姿と交換に、あなたがたの過去の影を追放させよう。そのためには、もう一度あなたがたに選択させ、あなたがたが誰に忠実であるかを知る必要がある。

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日々の神の御言葉「受肉した神の職分と人間の本分の違い」抜粋159

2020-08-30 23:35:41 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「受肉した神の職分と人間の本分の違い」抜粋159

あなたたちは神の働きのビジョンを知り、神の働きが一般的にどの方向に向かっているかを把握しなければいけない。これが正しくいのちの道に入るということだ。ひとたびビジョンの真理を正確に理解したなら、あなたがその過程を歩み始めるのは確かである。神の働きがどのように変化しようと、あなたの心は堅固で、明確なビジョンをもち、成長と追求の目標を持つことになる。そのようにして、あなたの内の経験と認識のすべてがより深くなり、さらに練られる。ひとたびこの全体像を完全に把握すれば、あなたは、いのちにおいて何も失わない。また、あなたは失われることがない。こうした働きの段階を知らないでいれば、あなたはそのどれも失う。あなたはほんの数日だけで方向転換することはできない。たとえ数週間経っても正しい進路に戻ることはできないだろう。それは、後退することではないのか。あなたたちが身につけるべき、よい行いや習慣は、たくさんある。だからあなたは、神の働きのビジョンについて次のような幾つかの点を把握していなければならない。即ち、神の征服の働きの意義、将来完全にされるための道、試練や患難を経験することによって何が達成されなければならないか、裁きと刑罰の意義、聖霊の働きの原則、完全になることと征服の原則などである。こうしたことはみな、ビジョンの真理である。その他のことは、働きの三つの段階、つまり、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代、と将来の証しである。これらもまた、ビジョンに関する真理であり、最も基本的であるとともに、最も大事なことである。現在のところ、あなたたちが入るべきことと実践すべきことはあまりに多い。そしてそれらは今、重層的でより詳細になっている。もしあなたがこれらの真理について何の認識も持っていなければ、それは、あなたがまだ入っていない証拠だ。たいていの場合、人間の真理についての認識はあまりに浅く、ある種の基本的な真理を実践することができず、ほんの些細なことでさえどう対処すればよいのか分からない。人間が真理を実践できないのは、その反抗的な性質のためであり、また、今日の働きについての認識があまりに表面的で一面的だからだ。これでは人間が完全にされるのは、容易なことではない。あなたの反抗心は強すぎて、古い自己をあまりにも多くもち続けている。あなたは真理の側に立つことができないし、最も明らかな真理も実践できない。このような人間は救われないし、また、まだ征服されていない人々なのだ。もしあなたの過程に詳細も目標も欠けているなら、あなたの成長は遅々として前へ進まないだろう。もしあなたの成長の過程にほんのわずかの現実性もなければ、あなたの努力は虚しく終わるだろう。もしあなたに真理の実質内容が分かっていないのなら、何も変わらないままだろう。人間のいのちの成長と人間の性質の変化はみな、現実に入ることによるのであり、さらに、詳細な経験に入ることによるのだ。もしあなたが、成長の過程に多くの詳しい経験をし、実際の認識と成長の過程を豊かに持つなら、あなたの性質は速やかに変化する。たとえあなたが、今のところ実践においてそれほど目が開かれていなくとも、少なくとも、働きのビジョンについて明察を得ていなければならない。もしそうでなければ、あなたは入ることができない。まず初めに真理についての認識がなければ、そうすることはできない。聖霊があなたの経験の中で導き示してはじめて、あなたは真理についてより深い理解を得て、より深く入れる。あなたたちは神の働きを知らなければならない。

『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「本物の人とは何を意味するのか」抜粋349

2020-08-29 22:59:32 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「本物の人とは何を意味するのか」抜粋349

 

人類は、今日まで、何万年もの歴史を通じて発達してきた。しかし、わたしが最初に創造した人類は、はるか昔に堕落へと落ち込んでしまった。彼らはすでにわたしが意図したものではなく、わたしの目にはすでに人類という名前に相応しいものではなくなっている。彼らは、サタンによって略奪された人間のくず、そしてサタンが中に住み、外側を覆っている腐敗した歩く屍と言うに相応しい。人々は、些かといえどもわたしの存在を信じず、わたしの到来を歓迎もしない。人類はただ渋々とわたしの要求に応え、一時的にそれらの要求に合意する。彼らは人生の喜びや悲しみを心からわたしと共有したりしない。人々はわたしを不可解な存在と見るので、渋々わたしに微笑むふりをし、権力に擦り寄る姿をうっかり見せてしまう。これは、人々がわたしの働きについて、ましてや今日のわたしの意図について何の知識も持ち合わせないからである。わたしはあなた方すべてに正直に言う。その日が来ると、わたしを崇めるすべての人の苦しみは、あなた方の苦しみほどではないだろう。あなた方の信仰は実際、ヨブのそれを超えていない──ユダヤのパリサイ人の信仰ですら、あなた方の信仰を上回る──したがって、差し迫る、火で焼かれる日にあなた方は、イエスに非難される時にはパリサイ人達よりも多くの苦しみを受け、モーセに抵抗した250人のリーダーよりも多くの苦しみを受け、滅びのときに焼けるような炎の下に置かれたソドムよりも重い苦しみを受けるだろう。モーセが岩を打ち、ヤーウェが授けた水がほとばしり出たのは、モーセの信仰によるものである。ダビデがわたしヤーウェを賛美する音楽を奏でたとき――彼の心は喜びで満たされていたが――それは彼の信仰によるものであった。ヨブが多くの家畜を失い、膨大な家族の財産を失い、体が腫物で覆われたとき、それは彼の信仰があったからであった。彼が、わたしヤーウェの声を聞くことができ、わたしヤーウェの栄光を見ることができたのは、彼の信仰によるものであった。ペテロがイエスキリストに付き従うことができたのは、彼の信仰によるものであった。彼がわたしのために十字架に釘づけにされ、素晴らしい証となったのは、彼の信仰によるものであった。ヨハネが人の子の輝かしい姿を見たのは、彼の信仰によるものであった。彼が終わりの日の幻を見たのは、なおさら彼の信仰によるものであった。いわゆる異邦人の国の人々がわたしの啓示を受け取り、わたしが肉となって帰ってきて人々の間で働きをするのが分かっているのは、また彼らの信仰によるものである。わたしの厳しい言葉によって打ちのめされ、そうして慰められ救われた人はすべて、彼らの信仰のゆえにそうされたのではないだろうか。わたしを信じ、困難に苦しむ人たちも、世の拒絶を受けるのではないだろうか。わたしの言葉の外で生き、試練を逃げている人々、彼らは世界を漂っていないだろうか。彼らはあちらこちらへひらひらと揺れる秋の葉のようで、休む場所もなく、ましてやわたしの慰めの言葉などない。わたしの刑罰や精錬が彼らの後を追うことはないが、彼らは天国の外の通りをあてもなくさまよう乞食ではないだろうか。世界は真に、あなたの安息の場所だろうか。あなたは本当に、わたしの刑罰を避けることでこの世から安堵の微笑みを得ることができるだろうか。あなたは本当に、つかの間の楽しみで隠しおおせない空虚さを覆うことができるだろうか。あなたは自分の家族ならだますことはできるだろうが、わたしをだますことは到底できない。あなたの信仰は貧弱なので、いのちが与える喜びを今日まで見出すことができないままだ。わたしはあなたに助言する――人生の全てを平凡で肉のための多忙な日々として送り、耐え難い苦しみを耐えて生きるより、その半分をわたしの為に真心から生きるようにと。わたしの刑罰から逃げるほどまで、自身を大事にして何の役に立つのだろうか。永遠の苦難、永遠の刑罰の報いをただ取り込んでしまうためにわたしの一時的な刑罰から自身の身を隠すことは何のために役立つのだろうか。わたしは、実際には誰も強制的にわたしに従わせることはしない。もし人が、わたしの全ての計画に喜んで従うなら、わたしはその人を粗末には扱わない。しかし、わたしは、すべての人が、ヨブがわたしヤーウェを信じたようにわたしを信じることを要求する。もしあなた方の信仰がトマスのそれを超えているなら、わたしの称賛を得、あなた方の忠誠心はわたしの喜びを得、あなた方の日々においてわたしの栄光を見出すだろう。しかしこの世を信じ、悪魔を信じる人たちの心はソドムの町の人々の心のように頑なになり、その目には砂粒が吹き込み、口には悪魔の捧げ物を含んでいる。彼らの心は欺かれ、世界を略奪した邪悪なものによってとうの昔に所有され、その考えのほとんどすべてが古代の悪魔に奪われてしまった。したがって、人類の信仰は風に吹き飛ばされ、彼らはわたしの働きに気づかない。彼らはサタンの毒に占拠されてしまっているため、彼らができることはざっと対応するか分析することが全てである。


日々の神の御言葉「神は人間のいのちの源である」抜粋260

2020-08-28 22:59:32 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「神は人間のいのちの源である」抜粋260

この世に来る者はすべて、生と死を経験しなければならず、多くの者が死と再生のサイクルを経験した。生ける者は間もなく死に、死せる者は間もなく返ってくるだろう。これはすべて、生ける者それぞれのために神によって手配された人生の行路なのである。しかしながら、この行路とサイクルは、神が人に見てほしい事実、神によって人に授けられたいのちは無限で、肉、時間、空間の拘束を受けないという事実なのである。これは、神によって人に授けられたいのちの奥義であり、いのちが神から来たことの証なのである。多くの者は、いのちが神から来たと信じないかもしれないが、神の存在を信じるか、否定するかにかかわらず、人は必然的に神から来るものすべてを享受する。いつの日か、もし神が突然心変わりをし、世に存在するものすべてを取り戻し、神が与えたいのちを取り戻したいと望むなら、すべてのものはなくなるだろう。神は自分のいのちを使って生けるものといのちのないもの両方のすべてのものを供給し、神の力と権威によって、すべてに良き秩序をもたらすのである。これは、誰も想像できず、たやすく理解できない事実であり、これらの理解不可能な事実こそが、神の生命力の顕示と証明なのである。今わたしはあなたにひとつの秘密を教えよう。神のいのちの偉大さとその力は、いかなる被造物にも推し測ることができない。これは今もそうであり、昔もそうであったし、これからもそうであろう。わたしが伝える第二の秘密はこれである。すべての被造物のいのちの源は神から来るのである。いのちの形や構造にいかなる違いがあっても、あなたがどのような生命体であっても、神が定めたいのちの道と逆方向に動くことはできないのである。いずれにしても、わたしが人に理解してほしいことは、人がどんなに努力しても、奮闘しても、神の配慮、守り、備えなしには、人は受け取るはずであったものを何も受け取ることができないということである。神からのいのちの供給なしには、人は生きる価値を失い、いのちの意義を失う。神のいのちの価値を無駄にする人が、それほどのんきでいることを神がどうして許すことができるだろうか。もう一度言うが、神があなたのいのちの源であることを忘れてはならない。もし人が、神が授けたものを大事にできなければ、神は与えたものすべてを取り戻すだけではなく、人は神が費やしたものすべてを償うために、二倍を返さなくてはならないのである。

『言葉は肉において現れる』より引用

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日々の神の御言葉「本物の人とは何を意味するのか」抜粋348

2020-08-27 22:59:32 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「本物の人とは何を意味するのか」抜粋348

人を経営する(救う)ことはわたしの仕事であり、わたしが人を征服するのは尚の事、わたしが世界を創造したときに決められていた。人々は、終わりの日にわたしが彼らを完全に征服することを知らず、わたしがサタンを打ち負かす証拠は、不従順な人間たちを征服するためのものだということにも気づいていない。しかしわたしは、わたしの敵がわたしと戦ったとき次のことを伝えた。すなわち、わたしは、サタンに奪われ、久しくその子となり、サタンの家を見守る忠僕となった人たちの征服者になる。征服する本来の意味は、打ち負かす、辱しめることである。イスラエルの人々の言い方では、それは完全に打ち負かすこと、破壊すること、そして人をもうこれ以上わたしに抵抗できない状態にすることである。しかし今日、あなた方の間で用いられる意味は、普通に征服することである。人類の邪悪であるものを完全に根絶させ、破滅に至らせ、そうすることによって、もはやわたしに反逆することはできなくなり、まして、わたしの働きを妨害したりかき乱したりするための命を持つことができないようになることがわたしの意図であることを、あなた方は知るべきである。したがって、人間に関する限り、征服とは、そのことを意味する。この言葉の含意するところのものが何であれ、わたしの働きは人類を打ち負かすことである。なぜなら、人類はわたしの経営に付属するものであることは確かだが、もっと正確に言うなら、人類はわたしの敵以外の何ものでもない。人類は、わたしに抵抗し従わない邪悪な者である。人類は、わたしによって呪われた邪悪な者の子孫以外の何ものでもない。人類は、わたしを裏切ったかの大天使の末裔以外の何ものでもない。人類はすでに、わたしによって嫌悪され捨てられ、わたしと対立するようになった悪魔の遺産以外の何ものでもない。全人類の上にかかる空は、暗く陰鬱であり、澄み渡った明るさなど微塵もない。人間の世界は漆黒の闇であり、そこで生きるとき、人は伸ばした自身の手を見ることができないし、顔を上げても太陽を見ることはできない。足の下の道路は、ぬかるみ、くぼみだらけであり、さらに曲がりくねっている。全土に死骸が散乱している。暗がりの隅は遺骸で溢れている。冷たく暗い、奥まった場所は、居を定めている大勢の悪魔たちが群がっている。人類がいる至る所に、悪魔の群れもまた行ったり来たりしている。汚れにまみれた無数のけだものの子孫が残忍な戦いの中で競い合っている。そしてその音が人を震え上がらせる。そのような時代、そのような世界、そしてそのような「地上のパラダイス」において、人は人生の至福を探し出すのにどこへ向かうだろうか。人は、人生の終着点を見出すのにどこへ向かうだろうか。遠い昔にサタンに踏みつけられた人類は、サタンの似姿で行動し続けてきた――それどころかサタンの化身でさえあった。彼ら自身がサタンの明確な証人である証拠だ。そのような人類、そのような人間のくず、あるいは、そのような堕落した人間家族の子孫――彼らがどうして、神の証しに立つことができようか。どこからわたしの栄光は現れるのだろうか。わたしの証しに立てるものはどこにいるのか。わたしに敵対し人類を堕落させている敵はすでに、わたしが創造し、わたしの栄光とわたしの生きることで満ち溢れた人類に汚点を残した。敵はわたしの栄光を奪ってしまった。そしてそれが人に吹き込んだものはサタンの醜悪さで並々と飾られた毒と善悪の知識の木の果実からの汁に他ならない。はじめにわたしは人類を造った。すなわち、わたしは人類の先祖であるアダムを造った。彼は形作られ、命に溢れ、活力に溢れ、さらにわたしの栄光とともにあった。それはわたしが人を造った輝かしい日であった。続いてエバがアダムの体から生み出された。彼女も人の祖先である。そうして、わたしが生み出したこの人たちは、わたしのいのちの息で満たされ、わたしの栄光で溢れんばかりであった。アダムはもともとわたしの手によって形作られ、わたしの形を表現したものであった。したがって、「アダム」の元の意味は、「わたしの息を吹き込まれ、わたしの栄光を吹き込まれ、有形ですばらしい形をとり、そして霊と息をもつ、わたしの創造物」である。アダムはわたしを表すことができ、わたしのかたちをもつことができ、わたしのいのちの息を受け取り、霊を賦与された唯一の創造物であった。はじめにエバは、わたしが造ることを決めていた、いのちの息を与えられた2番目の人であって、「エバ」の元の意味は、「わたしの栄光を持続するための創造物」であり、わたしの生命力で満たされ、さらにはわたしの栄光が賦与された。エバはアダムから生れた。したがって、彼女もまたわたしの似姿をとっていた。なぜなら、彼女はわたしをかたどった2番目の人であったからである。「エバ」の元の意味は、「霊を与えられ、肉と骨で存在し、わたしの2番目の証であると同時に人類におけるわたしの2番目の形である生きた存在となる」というものである。彼らは人類の祖先であり、純粋で貴重な宝であり、生来霊をもって生きている存在であった。しかし、邪悪なる存在が人類の祖先の子孫を踏み潰し略奪し、人間の世界を暗闇にした。その結果、子孫たちはもはやわたしの存在を信じない。なお一層いまいましいのは、この邪悪なるものが人々を堕落させ踏み潰すと同時に、残酷にも、わたしの栄光、わたしの証しとなるもの、わたしが人々に授けた生命力、わたしが彼らに吹き込んだ息やいのち、人間世界におけるわたしのすべての栄光、さらには、わたしが人類に注ぎ込んだ骨身を惜しまない努力のすべてを奪い去ってしまうことである。人類はもはや光の中にはおらず、わたしが彼らに与えたすべてのものを失ってしまった。そして、わたしが授けた栄光を捨ててしまった。一体彼らはどうやって、わたしが創造主であることを認めることができるだろうか。どうやって天上のわたしの存在を信じることができようか。地上でわたしの栄光が現れるのを、どうやって見出すことができようか。どうやって、この孫息子や孫娘たちは、彼らの先祖たちが崇めた神を彼らの創造主と理解することができようか。この哀れな孫息子や孫娘たちは、わたしがアダムとエバに授けた栄光も姿も、証となるものも、さらに彼らが寄り掛かっている授けられた命をも、その存在をほんの少しも顧慮することもなく邪悪なるものに、気前よく、「差し出してしまった」。そして、わたしの栄光のすべてを邪悪な者に与えてしまった。だから「人間のくず」と言われるのではないだろうか。そのような人類、そのような邪悪な悪魔、そのような歩く屍、そのようなサタン、そのようなわたしの敵が、どうやってわたしの栄光を得ることができようか。わたしは、わたしのものであった栄光、人々の間でのわたしの証しとなるものや遠い昔人類に与えたものである、かつてわたしに属していたものすべてを取り戻し、人類を完全に征服する。しかしあなたは、わたしが造った人間がわたしの似姿と栄光を伴う聖なる人であったことを知らなくてはならない。彼らはもともとサタンのものではなく、サタンに踏みつけられる対象でもなく、サタンの毒の痕跡すらない、純粋にわたしが現れたものであった。それだからわたしは、わたしの手によって造られた、他の何ものにも属したことのないわたしの最愛の聖なる人間たちだけを欲することを全ての者に知らせる。さらに、わたしは彼らに喜びを感じ、彼らをわたしの栄光として見る。しかしわたしが欲するのは、サタンによって堕落させられ、今日サタンに属しているような人類ではない。彼らはもはや、わたしの本来の創造物ではない。わたしは人間の世界でわたしの栄光を再び得ることを望んでいるから、サタンに対するわたしの勝利によるわたしの栄光の証拠として、人類の生き残りどもを完全征服する。わたしは、わたしに対する証をわたしの結晶化としてしか受け止めず、喜びとしてしか受け止めない。わたしの意図はそのようなものである。

『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「神の働きと人間の実践」抜粋290

2020-08-26 22:51:07 | 日々の神の御言葉


日々の神の御言葉「神の働きと人間の実践」抜粋290

人間は、神を信じているのであれば、神の足取りに緊密かつ段階的に追随する必要がある。人間は「子羊が行く場所であれば、どこへでもついて行く」必要がある。そうした人々のみが真の道を求める者であり、聖霊の業を知る者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の業により既に排除された者である。各期間において、神は新たな業を開始し、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」ないし「イエスはキリストである」といった、ある1つの時代のみに該当する真理のみに従うのであれば、人間は聖霊の業と足並みを揃えることは決して出来ず、聖霊の業を得ることは永遠に出来ないであろう。神がどのように業を行うかを問わず、人間は全く疑うこと無く、緊密に付き従う。このような場合、どうして人間が聖霊により排除されることがあろうか。神がどのような業を行うかを問わず、それが聖霊の業であることを人間が確信し、人間が何も疑わずに聖霊の業に協力し、神の要求を満たそうとする限りにおいて、どうして人間に罰が与えられることがあろうか。神の業は嘗て一度も停止したことが無く、神の足取りは立ち止まったことが無い。また神の経営の業の完了前、神は常に多忙にしており、休んだことが無い。しかし、人間はそれと異なる。人間は、わずかに聖霊の業を得て、それが決して変わらないかのように扱う。人間は、わずかに知識を得て、立ち上がってそれよりも新しい神の業の足取りに追随しない。人間は、わずかに神の業を見て、神を特定の木の人形として即座に決めつけ、神は常に人間の見る形であり、従前も今後も常にそのような形であると考える。人間は、表面的な知識だけを得て、有頂天になって自分自身を忘れ、全く存在しない神の性質や在り方をみだりに主張する。そして聖霊の業の1段階に固着して、神の新たな業を宣言するのがどのような人間であれ、人間はそれを受け容れない。そうした者は聖霊の新たな業を受け容れることが出来ない者である。そうした者は保守的すぎて、新しい物事を受け容れられない。そうした者は、神を信じているが、同時に神を拒否している者である。人間は、イスラエルの民が「ヤーウェのみを信じてイエスを信じなかった」のは誤っていると考えるが、殆どの者が「ヤーウェのみを信じてイエスを拒絶する」役そして「メシアの再来を待ち望み、しかしイエスというメシアに反対する」役を演じている。それならば、人間が聖霊の業のうちひとつの段階を受け容れた後も、依然としてサタンの領域で生活し、依然として神の祝福を受けていないことに、何の不思議も無い。これは、人間の反逆性の結果ではなかろうか。現在の新たな業から遅れている世界各地のキリスト教徒は、自分達が幸いな者である、神は自分の望みを全て満たすであろうという考えに固執している。しかし、そうした者は神が自分達を第三の天へと引き上げるのが何故かを明確に述べることが出来ず、イエスがどのようにして白い雲に乗って自分達を採り集めるかについても確信しておらず、ましてや自分達が想像している日に、本当にイエスが白い雲の乗って来られるかどうかを絶対的な確信を持って述べることなど出来ない。そうした者は皆不安であり、迷っている。そうした者は、各教派で讃美する少数の多様な人間である自分達を神が全員引き上げられるかどうかさえ知らない。神が現在行っている業や、現在人間が存在する時代、神の心といった物事について、そうした者は全く把握しておらず、自分の指で日数を数える事しか出来ない。最後まで子羊の足取りに追随する者のみが、最後の祝福を得ることが出来るが、そうした最後まで付き従えないにもかかわらず、自分が全てを得たと考えている巧妙な者は神の姿の証しに立つことが出来ない。そうした人々は全員、自分が地上で最も賢いと信じており、何ら理由なく神の業の継続的な展開を中断させ、そうした「神に対する至高の忠義があり、神に付き従い、神の言葉を遵守する」自分を、神は天に引き上げられると、完全な確信を持っているようである。そうした者は、神の言葉に対して「至高の忠義」があるにもかかわらず、言動が極めて忌まわしい。なぜなら、そうした者は聖霊の業に反対し、謀略や邪悪をはたらくからである。最後まで付き従わない者、聖霊の業から遅れる者、旧来の業に固執する者は、神への忠誠を満たせなかったどころか神に反抗する者となり、新たな時代に拒否され、罰を受ける者となっている。それ以上に哀れなことがあるだろうか。多くの者は、旧来の律法を拒否して新たな業を受け容れた者は、良心が無いとさえ信じている。良心に関して話をするだけで聖霊の業を知らない者は、究極的には自らの良心のために見通しを中断される。神の業は教義に準拠しておらず、またそれは神自身の業であるが、神はそれに固執しない。否定されるべき物事が否定され、排除されるべき物事が排除される。しかし、人間は神の経営の業のうち、ほんの一部に固執し、よって自ら神と対立している。それは人間の不合理ではなかろうか。それは人間の無知ではなかろうか。人間が神の祝福を得られないことを畏れて臆病になり、用心し過ぎればし過ぎるほど、より大きな祝福と、最後の祝福を得ることが一層不可能となる。盲目的に律法を遵守している人々は皆、律法に対して最高の忠義を示し、そうした者が律法に対して最高の忠義を示せば示すほど、そうした者は一層神に反抗する反逆者である。現在は律法の時代ではなく神の国の時代であり、現在の業を従来の業と比較することはできず、過去の業を現在の業と比較することは出来ない。神の業は既に変化しているので、人間の実践もまた変化した。現在の実践は、律法を守ることでも、十字架を負うことでも無い。したがって、律法や十字架に対する人間の忠義は、神の承認を得ないであろう。

『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」抜粋300

2020-08-25 22:45:30 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」抜粋300

数千年にわたる堕落の後、人は麻痺し、物分かりが悪くなり、神に反対する悪魔になり、神に対する人の反抗の歴史は「史記」に記録されるほどになり、人自身でさえその反抗的行いに充分な説明ができなくなってしまっている──サタンによって大いに堕落させられ、惑わされてしまったので、どこで向きを変えたらよいかわからなくなっているのだ。今日でさえ、人はまだ神を裏切っている。人は神を見ると裏切り、見ることができないときもやはり神を裏切る。神の呪いや怒りを目の当たりにしても、それでも神を裏切る人々さえいる。そこでわたしは、人の理知は最初の機能を失い、人の良心も最初の機能を失ったと言う。わたしが目にする人は人の装いをした獣、毒のある蛇であり、わたしの目の前でどんなに哀れっぽく見せようとしても、わたしは決して寛大にはならない。人は白と黒の違い、真理と非真理の違いを把握していないからである。理知は大いに麻痺しているにもかかわらず、人はまだ恩恵を得ようと願い、人間性はひどく下劣であるにもかかわらず、まだ王としての統治を保有しようと願う。そのような理知の持ち主がいったい誰の王になれるというのか。そのような人間性の者がどうして玉座に着くことができようか。実に人は恥を知らない。身の程知らずな卑劣漢である。恩恵を得たいと願うあなたがたに対し、わたしはまず鏡を見つけて、そこに映る自分自身の醜い姿を見ることを勧める。あなたは王になるために必要なものを持っているだろうか。あなたは恩恵を得ることのできる者の顔を持っているだろうか。性質にわずかな変化もなく、真理は何一つ実践していないにもかかわらず、あなたはまだ素晴らしい明日を願っている。あなたは自分自身を欺いている。ひどく汚れた国に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のために進んで何かを投げ出そうという者は一人としておらず、進んで神に従う者は一人としておらず、さらには神の出現を進んで探し求める者も一人としていない。それどころか、人はサタンの支配下で快楽を追求しているだけで、泥の地で肉体の堕落にふけっている。真理を耳にしたときでさえ、暗闇に生きる人々はそれを実行に移そうとは考えず、たとえ神の出現を見たとしても、神を探し求める気持ちにはならない。こんなにも堕落した人類がどうして救いの機会を持つことができようか。どうしてこんなにも退廃した人類が光の中に生きることができようか。

『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「あなたは信仰について何を知っているか」抜粋322

2020-08-24 22:36:36 | 日々の神の御言葉


日々の神の御言葉「あなたは信仰について何を知っているか」抜粋322

人は信仰という不確かな言葉だけは知っているが、人は何が信仰を構成しているかを知らないし、ましてやなぜ信仰を持っているのかも知らない。人はあまりにも少ししか理解していないし、あまりにも欠乏している。人はあまり考えず知識もないままわたしに信仰を持っている。人は信仰とは何かもなぜわたしを信仰しているのかも知らないけれど、執拗にわたしを信仰し続けている。わたしが人に求めることは、ただ単に人がこのように執拗にわたしを求めたりすることだけでもなく、気まぐれにわたしを信じたりすることだけでもない。なぜなら、わたしのする働きは人がわたしを見たり、わたしを知ったりするようになるためであり、人がわたしの働きの故に心を動かされ、新しい光の中でわたしを見るためではない。わたしは以前には多くのしるしと不思議を顕し、多くの奇跡を行った。当時のイスラエル人たちはわたしに大いなる賞賛を示し、病人を癒し悪魔を追い出すことのできるわたしの並はずれた能力を大いにあがめた。当時、ユダヤ人たちはわたしの癒しの力は見事で並はずれていると思った。わたしのそのような多くの行いのために、彼らはわたしを尊敬の念をもって眺め、わたしの力のすべてに対し大いに賞賛した。よって、わたしが奇跡を行うのを見た人たちはわたしにぴったりと従った。その結果わたしが病人を癒すのを見るため何千人もの人たちがわたしを取り巻いた。わたしは非常に多くのしるしと不思議を示したが、人は単にわたしを熟練した医師と見なしただけだった。わたしはまた当時の人たちに多くの教えを語ったが、彼らは単にわたしを弟子よりまさっている教師としてしか見なさなかった。今日に至るまで、人々はわたしの働きの歴史的な記録を見てきたのに、わたしは病人を癒す偉大な医師であり、無知な人のための教師であると彼らは引き続き解釈している。そして、彼らはわたしが憐れみ深い主イエス・キリストであると決断した。聖書を解釈する人たちはわたしの医術よりまさっていたかもしれないし、今や彼らの教師をのり越えた弟子たちでさえあるかもしれないが、世界中に名が知られているそのような有名な人たちは、わたしのことをただの医師と同程度に低く考えている。わたしの行いは海岸の砂の粒子より数が多く、わたしの知恵はソロモンの全ての子孫の知恵より偉大であるのに、人はわたしのことをただの医師や人の名もない教師としてしか思っていない。何人の人たちが、わたしに癒やされたいためにわたしを信じるだろうか。何人の人たちが、わたしの力で彼らの体から汚れた霊を追い出して欲しいためにわたしを信じるだろうか。そして何人の人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じ、何人の人たちが、無事にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすためだけに、わたしを信じるだろうか。何人の人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためだけにわたしを信じるだろうか。何人の人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいるだろうか。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人が本来持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人はわたしに癒してくれるように頼んだが、わたしは彼を認めることもせず嫌悪を感じたとき、人はわたしから離れ、魔術師や魔術などの方法を求めた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、彼らはすべて形跡も残さず消えた。だから、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう。ユダヤ人たちはわたしの恵みの故にわたしを信じ、わたしが行く所はどこへでもついて来た。限られた知識と経験しかない無知なこの人たちは、わたしが顕したしるしと不思議な業を見ることだけを求めた。彼らはわたしを偉大な奇跡を行うことができるユダヤ人たちの家長として見なした。だから、わたしが人から悪魔を追い出したとき、彼らは、わたしはエリヤであるとか、モーセであるとか、すべての預言者たちの中で最も老齢な預言者であるとか、すべての医師の中で最も偉大な医師であるとか、非常に混乱して語り合った。わたしがいのちであり、道であり、真理であるというわたしの言葉は別として、だれもわたしという存在そのものあるいは、わたしの正体を知り得なかった。わたしの父が住むところは天であるというわたしの言葉は別として、誰もわたしが神のひとり子であり、神自身であることが分からなかった。わたしがすべての人類に贖いをもたらし、人類を贖い戻すというわたしの言葉は別として、だれもわたしが人類の贖い主であることが分からなかった。人は、情け深く哀れみ深い人としてわたしを知っていただけだった。わたしがわたし自身のすべてを説明できることは別として、誰もわたしを認識せず、わたしが生ける神のひとり子であると信じなかった。人はわたしに対してそのような信仰しか持っておらず、このようにわたしを欺く。人はわたしのことをそんな風に見ているのに、どうしてわたしの証人となることができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』より引用


日々の神の御言葉「唯一無二の神自身 5」抜粋148

2020-08-23 22:21:44 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「唯一無二の神自身 5」抜粋148

サタンはいかに科学を用いて人間を堕落させるか

科学とは何ですか。ほぼすべての人の考えにおいて、科学は威信のあるもので、深いものとみなされていませんか。(はい、そうです。)科学と言うと、「それは一般人には把握できなくて、科学研究者か専門家だけが触れることのできる話題だ。我々のような一般人とは何の関係もない」と人は感じませんか。しかし、関係はありますか。(あります。)サタンはいかに科学を用いて人間を堕落させますか。わたしたちは、人々が生活においてしょっちゅう遭遇すること以外の物事については話しません。遺伝子について聞いたことがありますか。この用語は皆さん、よく知っていますね。遺伝子は科学を通して発見されましたか。(はい。)人にとって遺伝子とは正確に何を意味しますか。遺伝子は、人体とは神秘的なものだと人に感じさせませんか。この題目に導き入れられると、もっと知りたい、あるいはもっと詳細が欲しいと思う、特に好奇心の強い人がいないでしょうか。好奇心の強い人たちは、この主題に全力を注ぎ、忙しくないときに書籍やインターネットで情報を調べ、さらに詳しく学ぼうとします。科学とは何ですか。はっきりと言うと、科学とは人間が好奇心をもっている物事、未知で神から人間に向けて語られていない物事に関する思想と理論です。科学とは、人間が探索したいと思う奥義の思想と理論です。科学の範囲とは何ですか。それはすべての物事を含むと言えますが、人間はどのように科学の仕事を行ないますか。研究を通してですか。それには、物事の細目や法則を研究し、疑わしい理論を発表することが含まれます。その結果、「この科学者たちは本当にすばらしい!よく知っていて、これらの事柄を理解するだけ十分な知識をもっている!」と誰もが思うのです。人々は科学者に大いに感服します。そうですね。科学の研究を行なう人々は、どのような意見をもっていますか。彼らは宇宙を研究し、自分の関心のある分野における神秘的な物事を研究したいのではありませんか。(そうです。)その最終的な成果は何ですか。科学には人が推測により結論を導き出す分野や、人の経験に依存して結論を出す分野があります。さらに、人の経験あるいは歴史的観察や背景の考察により結論を導き出す分野もあります。そうですね。(はい。)それでは、科学は人のために何をしますか。科学が人にするのは、対象物を物理的世界において見ることができるようにすることだけで、単に人間の好奇心を満たすに過ぎません。それは人間に神が万物を支配している法則を見せてはくれません。人間は科学に解答を見出しているようですが、その解答は不可解で、一時的な満足感、人間の心を物理的世界に閉じ込めることだけに役立つ満足感をもたらすだけです。人間は既に科学に解答を見出したと感じているので、どのような問題が起きようとも、科学的意見に基づいてそれを証明したり受け入れようとします。人間の心は科学に取りつかれたようになり、科学に魅惑されるあまり、もはや神を知り、神を拝み、万物は神から来て、解答を得るには人は神に向かうべきであると信じる心をもたなくなります。そうではありませんか。人が科学を信じれば信じるほど、人は愚かになり、全てに科学的な解決策があり、研究によって何もかも解決できると信じるのです。人は神を求めず、神の存在を信じません。長年神に従って来た人でさえ、気まぐれに細菌の研究を始めたり、問題の答えを求めて情報を調べたりします。このような人は、問題を真理の視点から検討せず、ほとんどの場合、科学的な見解と知識か問題解決のための科学的解答に頼りますが、神に頼らず、神を求めません。このような人の心に神はいますか。(いません。)科学と同じ方法で神について研究したい人さえいます。例えば、大洪水の後に箱舟がたどり着いた場所に行った宗教専門家が多くいます。彼らは箱舟を見ましたが、箱舟の外観に神の存在を見ないのです。彼らはただ物語と歴史を信じ、それが彼らの物理的世界に関する科学的研究の結果です。物理的なものを研究すれば、それが微生物学であれ、天文学であれ、地理学であれ、神が存在する、あるいは神は万物を支配するということを示す結果を見つけることは決してありません。そうですね。(はい。)では、科学は人に何をするのですか。それは人間を神から遠ざけるのではありませんか。科学は人が神について研究するようにしていませんか。科学は神の存在について人をますます疑い深くしているのではないのですか。(そうです。)では、サタンは人間を堕落させるためにどのように科学を用いたいのですか。サタンは科学的結論を用いて人を騙し麻痺させ、曖昧な解答を用いて人の心にしがみつき、人が神の存在を追及したり信じたりしないようにしたいのではありませんか。(その通りです。)ですから、これがサタンが人を堕落させる方法の一つであるとわたしたちは言うのです。

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日々の神の御言葉「唯一無二の神自身 6」抜粋159

2020-08-22 00:27:34 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「唯一無二の神自身 6」抜粋159

 

サタンが人間を堕落させるとき、あるいは留まることを知らない危害を加えるとき、神は何もせず傍観することも、神の選民を無視したり、見て見ぬふりをしたりすることもありません。サタンが行うことは、神にとって全て明瞭であり、神はその全てを理解しています。サタンが何をしても、サタンがどのような動向を引き起こしたとしても、神はサタンが何をしようとしているかを知っており、神はその選民を見捨てることは無いのです。神は、その代わりに、誰の気を引くこともなく、秘密裏に、静かに、必要なことすべてを行います。神が誰かに対して働き始める時、誰かを選ぶ時、神はそれを誰にも告げず、またサタンに告げることも無ければ、それを誇示することが無いのは、なおさらです。神は静かに、そして自然に必要なことを行うのみです。まず、神はあなたの家族を選びます。家族の背景はどのようなものか、あなたの両親や祖先は誰かといった事柄は、既に神により決定されています。つまり、そうした事柄は神が取り急ぎ決めたことではなく、遠い過去に始まった業です。神があなたの家族を選ぶと、神はあなたが生まれる日を選びます。今、神はあなたが産声を上げてこの世に生まれて来るのを、あなたの誕生を見、あなたが最初の言葉を口にするのを見、あなたが躓きながら歩くことを覚えるのを見ています。あなたは最初の一歩を踏み出し、その後もう一歩を踏み出し、今では走ったり、跳んだり、話をしたり、自分の感情を表現できます。こうして人間が成長するにつれて、サタンの眼差しは獲物を睨む虎のように、人間ひとりひとりに注がれています。しかし神は働く時、人間や出来事、物事、場所、時間の制限を受けることが一切無く、神が行うべきこと、行なわなくてはならないことを行います。成長過程において、人が自分が好まない物事や疾病、挫折に遭遇することがあります。しかし、その道を進む時、あなたのいのちと将来は、完全に神の慈しみのもとにあります。神は、人生全体にわたってあなたの傍らにあり、あなたを守り、見守るという真の保証をあなたに与えます。あなたは、それを知らずに育ちます。あなたは新たな物事に接し、この世の中と人間を知るようになります。あなたにとってすべてが新鮮です。あなたは自分のことや、好きなことをするのを好みます。あなたは自分の人間性と生活環境の中で生活し、神の存在については一切の認識をもちません。それでも神はあなたが成長し、前進してゆく過程のすべてを見ています。あなたが知識を習得したり、科学を学習したりしている時でさえ、神はあなたの側から一歩も離れることが無いのです。あなたは、他の人々と全く同様に、世界を知り、世界と接触するなかで、あなた自身の理想を確立し、趣味を持ち、興味の対象を持ち、高尚な大志を抱くようになります。あなたは、自分の将来について頻繁に思索し、自分の将来がどうなるかを思い描きます。しかし、その過程で何があったとしても、神は全てをはっきりと見ています。あなたは自分の過去について忘れたかもしれませんが、神以上にあなたを深く理解している者はありません。あなたは神の見守る中で生活し、成長し、成熟します。この間、神の最も重要事項は、誰も気付くことができず、誰も知らないことです。神がそれについて、あなたに伝えることは当然ありません。その最も重要な事とは何でしょうか。…それは、神がある人間を救うという保証であると言えます。つまり、神はその人を救うことを望むので、神はそれを行う必要があり、その務めは人間にとっても神にとっても極めて重要なのです。知っていますか。あなたがたは、このことについて実感や概念が全く無いようなので、わたしが話します。あなたが生まれた時から現在に至るまで、神はあなたに対して多くの働きを行なってきましたが、神が行ったことを全て詳しく伝えることはありません。神はあなたに知らせることはなく、あなたに伝えませんでした。しかし、人間にとって、神の行いは全て重要です。神にとって、それは行うべき事です。神の心中には、神がなすべきことで、それらよりも遙かに重要なことがあります。何でしょうか。それは、人間が生まれてから現在に至るまで、神は人間ひとりひとりの安全を保証する必要があるということです。これを聞いても、あなたがたは完全に理解できないと感じ、「その安全とは、それほど重要なものなのか」と言うかも知れません。「安全」という言葉の文字通りの意味は何ですか。あなたがたは、それを平安である、災害や災難に遭遇することが無いことである、良い生活を送ることである、普通に生活することであるなどと理解しているでしょう。しかし、安全とはそれほど単純なものではないということを、あなたがたの心中で知らなければなりません。それでは、わたしがこのように話している、神が行うべきこととは一体何でしょうか。安全は、神にとって何を意味するのでしょうか。本当にあなたがたの安全の保証のことでしょうか。ちょうど現在のように。いいえ。それでは、神が行なうことは何でしょうか。この安全とは、あなたがサタンにより食い尽くされない、ということなのです。これは重要ですか。あなたはサタンに食い尽くされていませんが、そうであれば、これはあなたの安全に関連するでしょうか。これはあなた個人の安全に関わり、それよりも重要な事はありません。サタンにより食い尽くされたなら、あなたの魂も肉も、もはや神に属しません。神はあなたをもはや救いません。神はそうした魂や人々を見捨てるのです。ですから、神が行うべき最も重要なことは、あなたの安全、あなたがサタンに食い尽くされないことを保証することだと言うのです。これは極めて重要ではありませんか。それでは、あなたがたはなぜ回答できないのですか。あなたがたは、神の大いなる優しさを感じることができないようですね。

『言葉は肉において現れる』より引用