全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

全能神の御言葉カード

2017-12-31 11:50:40 | 全能神御言葉カード

 は言われた。




 [東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日キリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。 



全能神教会御言葉讃美歌「神の業が達成しようとする最終効果」

2017-12-30 00:30:04 | 全能神教会御言葉讃美歌

全能神教会御言葉讃美歌  創造主礼拝せよ 

の業が達成しようとする最終効果」

I
神の業を真に体験した者は
誰でも神を礼拝し そして畏れるだろう
それは称賛に勝る
神の裁きや 刑罰を通して人々は
神の性質を見て 心から畏れるだろう
神は畏れられるべきでありまた 従われるべきである
それは神自身や神の性質は 被造物に勝っているから
神のみ畏れられ 敬い従うべき方

II
神の業に携わった者や
神を真に知る者は 神を畏れるだろう
神に意見し 神を畏れない人々は
神に征服されない 元から不従順なのだ
神のこのような業は次のことを 達成するためである
それは全てのものが創造主を畏れるように
彼ら全てが神に 心から従えるように

III
それは神自身や神の性質は 被造物に勝っているから
神のみ畏れられ 敬い従うべき方
これこそが神の業が 最後に成し遂げること


                  『言葉は肉において現れる』より


 

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全能神の発表「新時代の戒め」

2017-12-29 00:15:56 | 全能神の発表

 

 あなたがたはの言葉をもって自らを備えるよう言われているが、あなたがたのために何が備えられていたとしても、神が自らの手で指揮するものであるから、あなたがたの熱心な祈りや嘆願は必要ではない。それらは役に立たないのである。しかし、現在の状況から見れば、あなたがたの直面する現実的な問題は、あなたがた自身には想像がつかない。もしあなたがたが単に神が物事を整えてくれることを待っているのであれば、あなたの進歩は非常に遅く、どのように経験するかわからない人にとっては消極的な要素が多い。だから、もしあなたがこれらのことを通して完全に理解できないのであれば、あなたの経験においてあなたは混乱していて愚かであるということになる。また、もしあなたがたが言葉だけで現実を伴わないのであるならば、それは間違っているということの表われではないのか。あなたがたこの一団に当てはまる人たちには、この間違いが多く見て取れる。今日では、あなたがたは「奉仕する者」の様に試練を乗り越えることはできないし、神の言葉に関連してその他鍛錬される点を考えつくこともできなければそれを成し遂げることもできないのである。実践が必要なものの多くは、固く守らなければならないことである。つまり、人は自分の為すべき多くの本分に忠実でなければならないということである。これが、人が守りまた実行すべきことである。聖霊によって為されるべきことは聖霊にまかせるべきで、そこに人間のできることはない。人は人によって為されるべきことに忠実であるべきで、そこに聖霊は関係しない。これが正に人の為すべきことであり、旧約の時代に律法を守っていたように、戒めとして守るべきなのである。今は律法の時代ではないが、律法の時代の言葉に似た多くの言葉がやはり存在し、それらを守らなければならない。それらの言葉は、単に聖霊の働きに頼るのではなく、人が守るべき事柄によって実現する。例えば、実際神の働きを裁いてはならない。神の証しする者に反抗してはならない。神の前では、自分の本分を守り放蕩であってはならない。口数は少なくし、自分の言葉と行動が神の証しする者の按配に従うものでなければならない。神の証しを敬い畏れなければならない。神の働きとその口から出る言葉を無視してはならない。神の口調と言葉を真似てはならない。外見では神の証しする者に明らかに反抗することは一切してはならないなどである。これらのこと全てが、人がそれぞれ守るべき事である。神は時代ごとに律法のような多くの規則を定め人に守らせてきた。これらの規則を通して、神は人の性質を拘束してその誠意を測るのである。旧約聖書時代の言葉「あなたの父と母を敬え」を例に取ってみよう。この言葉は今日では適用されない。当時、これらの言葉は、単に人の外面的な性質を拘束していたのであり、人の神に対する信仰の誠意を示すために使われ、神を信じていることの一つの印であった。現在は神の国の時代であるが、人が守るべき規則はまだ多くある。過去の規則は適用できないため、現在は人が実行するのにより適当な実践が多く存在する。それらは不可欠であり、聖霊の働きと関係なく、人によって為されるべきことである。

 恵みの時代に、律法の時代の実践の多くは当時の働きに特に効果がなかったため廃止された。それらが廃止された後に、当時に適応した実践が定められ、その多くが今日の規則にもなっている。そして今日の神が現れた時に、これらの規則は免除されて守る必要がなくなり、神が今日の働きに適応する実践を多く定めた。今日これらの実践は規則ではなく、効果を発揮するためのものであり、今日の状況に適応している。もちろんいつかは規則になる可能性もあるが。要するに、あなたは今日の働きに有益なものを守るべきなのである。明日の事は気にかけずとも良い。今日のことは今日のために為されるのである。もしかしたら明日は、あなたが行うのにもっと良い実践があるのかもしれないが、特にそれは気に留めずに、神に背かないよう今日守るべきことを守らなければならない。今日人が守るべき最も肝心なことは次の通りである。あなたの目の前にいる神を欺くまたは神から何か隠すことをしてはならない。神の面前で、みだらな話をしたりでたらめを言ってはならない。神の信頼を得るために、あなたの目の前の神を上手い言葉やたくみな話で欺いてはならない。神の前で不遜な態度を取ってはならない。神の口から話された全ての言葉に従うべきで、それに対し反抗したり逆らったり議論してはならない。神の口から話される言葉を自分の好きなように勝手に解釈してはならない。あなたの舌を戒めなければならない。それは、あなたの舌ゆえに悪い者の欺瞞的な計画に陥らないためである。あなたの歩みを戒めなければならない。それは、あなたが神の定めた境界線を超えて、神の立場から自惚れた尊大な話をして、神に忌み嫌われないためである。むやみに神の口から話された言葉を繰り返してはならない。でなければ他人があなたをあざけり悪魔が嘲笑するだろう。今日の神の仕事に全て従わなければならない。例えあなたが理解していなくとも裁いてはならず、ただ探し求めて尋ねていき、他者と交わるべきである。誰も神の本来の地位を超えてはならない。あなたにできるのは、人の立場から、今日の神に奉仕するだけである。人の立場から今日の神を説いてはならない。これは間違ったやり方であるからだ。誰も神の証しする者の地位に立ってはならない。あなたがたの言葉、行動、内なる思いにおいて、人の立場に立っていなければならない。これは従うべきことであり、人の責任であり、誰にも変更ができず、変更したときには神の行政に背くことになる。そして、これが全ての人が覚えておくべきことである。

 神が長い間、話しまた声を発することに多くの時間を費やしてきたため、人は神の言葉を読んで暗記することを第一の勤めとするようになった。つまり、誰もそれを実践することに注意を向けず守るべきことを守らなかったため、あなたがたの奉仕に多くの問題が生じているのである。もし、神の言葉を実践する前に、あなたが守るべきことを守らなければ、あなたは神に見捨てられる。あなたは、実践を真剣かつ誠実に守り、束縛と思わず、戒めとして守るべきである。どのような効果を達成できるのかということは、今は考えずとも良い。つまり、これが聖霊の働く様であり、それに背く者は死ななければならない。聖霊に感情はなく、あなたが現時点でどれほど理解しているかということには配慮しない。もしあなたが今日聖霊に背けば、彼は罰するし、あなたがもし彼の「管轄内」で彼に背けば、彼は容赦しない。あなたがどれほど真剣にイエスの言葉を守っていようが神は配慮しないし、もしあなたが今日過ちを犯せば、それは死刑を意味するのである。それでもなお、あなたは守ることをしないと言えるだろうか。それがたとえ多少の痛みを伴うとしても、忠実に守らなければならないのである。いかなる分派、集団、国家あるいは宗派であろうと、今後これらの実践に皆従わなければならない。それは、誰一人例外とせず、全ての人が免れることがない。これらの実践が今日の聖霊が為す業であるから、誰も背いてはならない。これらの実践は大きな働きではないが、復活した後天に昇ったイエスによって人に示された戒めであって、人は皆行なわなければならない。「道…(7)」の中で、イエスは、あなたを正しいとするか罪有りとするかは、あなたの今日の神に対する態度によると言わなかっただろうか。誰もこの点を見逃してはならない。旧約のパリサイ人は先祖代々神を信仰してきたが、恵みの時代が到来したときイエスを知ることをせず、イエスに反抗した。つまり、彼らがそれまで行って来たことを全てを無駄にし、神はそれを良しとしなかった。もしあなたがこの点を見て取るなら、あなたは容易に罪を犯さないだろう。おそらく多くの人が神と対比して自らを計ってきただろうが、神に逆らうとき、どんな味がするのだろうか、苦いのか甘いのか。あなたは、理解できないふりをせず、このことを良く心得ていなければならない。おそらく心の中では未だ納得していない人もいるだろうが、果たしてどんな味がするのか試してみてほしい。そうすることで、多くの人が常に疑わないで済むのである。神の言葉を読みながら心の中では神に反発している人も多いのだろうが、そのように反発した後は、胸がえぐられるような思いをして、仮に家庭での不和や、身体の不調または子供達に関する悩み事などを生むのではないだろうか。たとえあなたの肉体が死を免れたとしても、神の手から逃がれることはできないし、そのような単純なことではないのである。これは、神に近い人ほど特に気をつけるべきことである。あなたは、時が経つにつれてこのことを忘れ、気付かないうちに誘惑に嵌り、全てに無頓着になり、そしてその時からあなたが罪を犯す始まりになる。これは取るに足らない些細な問題だと、あなたは思われるだろうか。もし実践を守れば、あなたは完全にしてもらう機会を得る。そして神の面前で、神の口から直接その助言を受けることができる。それを重要としないのであれば、あなたにとってこれは災いになる。つまり、神に対し反抗的になり、あなたの言葉と行動が放蕩になり、遅かれ早かれ強風と巨大な波に流されるということである。あなたがたは一人ずつ、これらのことを心に留めておくべきである。神の証しする者は、あなたを罪に定めないかもしれないが、神の霊はあなたの裁きを終えていないし、神はあなたを赦さない。それでもあなたは、神に対して罪を犯すことができるのか。そういうわけで、神が何を言っても、あなたは神の言葉を実践し、あらゆる手段を使って忠実に守らなければならない。それは決して容易なことではないが。


 

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世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しまょう



全能神教会ミュージカル 「小真の物語」

2017-12-27 10:18:38 | 全能神教会ミュージカル

 

「小真の物語」

                                クリスチャンの紆余曲折な人生  

 小真はもともと単純で善良なクリスチャンの一人で、いつも真心ですべての友達と接していました。しかし、利益の前に、昔の友達が敵のようになりました。悲惨な目に遭われた後、小真はやむなく自分の真心を捨て、人としての原則も捨て、良心と魂をごまかし、この邪悪な世界と同調し始めました。……彼女は堕落し続け、この世界に踏みにじられ、傷だらけになりました。彼女が窮地に陥り、徹底的に絶望していた時、全能神の呼び掛けが、小真の心と霊を呼び覚ましました。……


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全能神教会はイエス・キリスト終わりの日の再臨によって創られた教会です


全能神の発表「現実をどのように知るか」

2017-12-26 00:02:12 | 全能神の発表

は実際的な神である。神の全ての働きは現実であり、神が話す全ての言葉は現実であり、神が示す全ての真理が現実である。神の言葉でないものは全て空虚で、存在しないも同然であり、確かでない。今日、聖霊は人々を神の言葉に導いている。もし人々が現実に入ることを追求しようとするならば、彼らは現実を求めて、現実を知らなくてはならない。そしてその後、現実を体験し、また現実を生きなければならない。人々が現実を知れば知るほど、ますます他者の言葉が現実であるかどうか見分けることができるようになる。人々が現実を知れば知るほど、ますます観念を持たなくなる。人々が現実の体験をすればするほど、ますます神の真実の業を知るようになり、ますます、堕落したサタンの性質から離れるのが容易くなる。人々が現実を積めば積むほど神を知るようになり、ますます肉を嫌悪し真理を愛するようになる。そして、人々が現実を積めば積むほど、ますます神の要求する基準に近づくようになる。神のものとされた人々は現実が備わった人々であり、現実を知っている。神のものとされた人々は、現実の体験を通して神の現実的な業を知るようになった。実際に神と協力し自分自身を抑制すればするほど、ますます聖霊の働きを得るようになり、さらなる現実を得るようになり、神による示しと導きを得るようになる。こうして、あなたの神の真の業に関する認識がますます広がっていく。もしあなたが現在の聖霊の光の中に生きることができるならば、実践への現在の道はあなたにとってより明確になるだろうし、そして過去の宗教的観念と古い習慣からあなた自身がもっと切り離されることができるだろう。今日、現実に焦点を当てている。人々が現実を積めば積むほどますます人々の真理に関する認識が明確になり、神の心の理解が増し加わる。現実は全ての文字や教義に優り、全ての理論や専門知識に優る。人々が現実に焦点を当てれば当てるほど、心からさらに神を愛するようになり、神の言葉に対する飢え渇きが強くなる。あなたが常に現実に焦点を当てていれば、あなたの人生哲学、宗教的観念、そして生来の個性が、神の働きを受けて自然に消滅していくだろう。現実を追求しない人々、現実に関する認識を持っていない人々は、超自然的なものを追及しやすいがゆえに、彼らは簡単に騙されてしまうであろう。聖霊はこのような人々に働く術を持たず、ゆえに彼らは虚しさを感じ、自分の人生には何の意味もないと感じる。

 聖霊は、実際にあなたが自分自身を訓練し、実際に探し求め、実際に祈り、そして真理を探究するための苦痛もいとわない時にのみ働くことができる。真理を求めない人々は、文字や教義、空虚な理論ばかりで、真理を知らない人々は、当然ながら神に関して多くの観念を持っている。こういった人々は、神が彼らの肉の体を霊の体に変えて、第三の天に戻れるようにしてもらうことだけを切望している。なんて愚かな人たちだ!このようなことを言う人たちは全て、神の認識や現実に関する何の認識も持ち合わせていない。このような人々は、神と協力することはできず、受動的に待っているだけだ。人々が真理を理解し、真理を明確に知り、さらには真理に入り、真理を実行するには、実際に自分自身を訓練し、実際に探求し、実際に飢え渇きを持たなくてはならない。あなたが飢え渇く時に、そしてあなたが実際に神と協力する時に、神の霊は確実にあなたの心を動かし、そしてあなたの内に働く。それは、あなたにさらなるに啓示を運び、さらなる現実に関する認識を増やし、あなたのいのちのもっと助けとなる。

 もし人々が神を知ろうとしたら、人々はまず神が現実の神であることを知り、神の言葉を知り、肉となった神の現実的な出現、神の現実的な働きを知らなくてはならない。神の全ての働きが現実であることを知った後でのみ、あなたは神と実際に協力することができ、それを通してのみ、あなたはあなたのいのちを成長させることができる。現実の認識を持たない人はみな、神の言葉を経験する術を持たず、彼らは自分たちの観念にのみ込まれてしまい、空想の中に生きる。その結果、彼らは神の言葉に関する認識を何も持たない。あなたの現実の認識が広ければ広いほど、あなたは神により近くなり、神とさらに親密になる。反対に、あなたがたがぼんやりとした抽象的なものと教義を求めれば求めるほど、あなたは神から遠く離れてしまうであろう。その結果、神の言葉を体験することはより厳しく難しく、神の言葉に入ることがより出来なくなってしまうと感じるようになる。神の言葉の現実に入り、霊的な生活の正しい軌道に乗りたいのであれば、あなたはまず現実を知り、曖昧で超自然的な物から離れなければならない。つまり、聖霊がどのように実際に内側からあなたを啓かせ、導くかを理解しなければならない。このように、もしあなたが、あなたの中に働かれる聖霊の実際的な働きを真に把握することができるならば、あなたは、神によって全き者とされる正しい道へと入るであろう。

 今日、全てのことは現実から始まる。神の働きは最も現実的なものであり、人々が触れることができるものである。それは人々が体験でき、また獲得できるものである。人々の中には曖昧で超自然的なものが多く存在し、自身が神の現在の働きを知ることの妨げとなっている。従って、人は経験において常に逸脱しており、常に困難を感じているが、それは全て人の観念によって引き起こされている。人々は聖霊の働きの原理を把握することができなく、現実を知らず、そのため自らの成長の過程において常に消極的であり、神の要求を遠くから見るだけで、達成することはない。彼らは神の言葉が本当に良いということが分かるだけで、成長する道を見出すことはできない。聖霊はこの原則によって働く。人々の協調を通して、人々が積極的に祈り、探求して神に近づくことで成果が達成し、聖霊による啓発を受け、光に照らされる。聖霊が一方的に行動する、あるいは人が一方的に行動するということはない。両者の行動が必要不可欠である。人々が聖霊と協力すればするほど、そして、神の要求する基準に達することを求めれば求めるほど、聖霊の働きは大きくなる。聖霊の働きに人々の真の協力が伴ってのみ、神の言葉の本当の経験と実質的な認識が生まれる。このような経験を通して徐々に、完全にされた人が最終的に生み出される。神は超自然的なことは行わない。人は、神が全能で、全てのことが神によってなされるという観念を持っている。その結果、人々は消極的に待ち、神の言葉を読んだり、祈ったりせず、聖霊に触れられることを待っているだけである。しかし正しい理解を持っている人々は次のように信じている。「神の行いは私が協力する範囲にのみに及び、私の中における神の働きの効果は、私がどう神と協力するかにかかっている。神が語られるときには、私は神の言葉を求め、神の言葉に向かって突き進むために、あらゆる努力をすべきだ。これが私の達成すべきことだ。」

 ペテロとパウロのうち、現実により注意を向けたのはペテロであることは明らかだ。ペテロの経験したことを見ると、彼は過去に失敗している人たちから多くを学び、かつての聖なる者たちの優れた点を自分のものにしたことが分かる。このことから、ペテロの経験がいかに現実的なものであったかが分かる。人々が触れ、実践でき、達成可能なものであった。しかしパウロは違った。第三の天に行くことや玉座へと昇ること、義の栄冠など、彼が話したこと全てが曖昧であり、目に見えないものばかりである。パウロが焦点を当てたことは外側のもので、地位や、人々への叱責、自らの長い経験の誇示と聖霊に触れられることなどである。彼が追求したもので現実的なものは何一つなく、大部分が空想であった。聖霊がどれほど人の心を動かすか、どれほど大きな喜びを人々が楽しむか、第三の天に行くこと、もしくは通常の訓練やそれをある程度楽しむこと、また神の言葉を読み、それをある程度楽しむことなど、全てが超自然的であり、いずれも現実的ではない。全ての聖霊の働きは普通であり、現実である。あなたが神の言葉を読み、祈る時、あなたの内側は輝き、揺るぎないものとなり、外の世界に妨げられることはない。あなたは喜んで神を愛し、すすんで前向きなものに関わろうとし、邪悪な世界を嫌う―これは神の内に生きているということで、人が言うような、楽しくてたまらないという意味はあまりない。そのようなものは現実的ではない。今日、全てが現実から始まる。神が行うこと全てが現実であり、あなたの経験において、あなたは真に神を知ること、神の働きの足跡を探し求めることに注意を払い、聖霊が人々に触れ、導き示す手段に注意を払うべきである。あなたが神の言葉を飲食し、祈り、より現実的な方法で協力し、ペテロのように過去の良いものを取り入れ、悪いものを拒絶し、あなたが耳で聞き、目で観察し、頻繁に祈り、心で思い巡らし、神の働きに協調するためにできる限りのことをするならば、神は確かにあなたを導くであろう。

 

東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

 


全能神の御言葉カード

2017-12-25 00:01:38 | 全能神御言葉カード

  は言われた。 

  

 

 

 東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。 


全能神教会御言葉讃美歌「神の真の愛」

2017-12-24 00:54:17 | 全能神教会御言葉讃美歌

 

全能神教会御言葉讃美歌 を礼拝し、賛美する ハレルヤ

の真の愛」

今日私は再び神の御前に来たり
彼の美しい顔を見て、心から話すことがたくさんある
そして、過去の漂流生活に別れを告げる
神の御言葉を楽しむと
私の心はたとえようのない甘美さで満たされるのだ
神の優しい言葉は水となって私に注がれ、私を養い、成長させる
神の厳しい言葉は倒れてしまった私を励まし
再び立ち上がらせる
おお神よ!私たちが今日あなたを誉め讃えられるのは
すべてあなたの祝福のおかげなのです!
私たちを引き上げて下さったのはあなただから!
神よ!あなたは私たちをこんなにも愛する
私たちはあなたを愛します、全能なる真の神よ!

あなたは日々言葉を楽しませて下さいます
毎日新しい啓示を与えて下さいます
私たち神の民の上に水を注ぎ、食べ物を与えて下さいます
私たちを導き、サタンの勢力から解き放って下さいます
神の優しい言葉は水となって私に注がれ、私を養い、成長させる
神の厳しい言葉は倒れてしまった私を励まし
再び立ち上がらせる
おお神よ!私たちが今日あなたを誉め讃えられるのは
すべてあなたの祝福のおかげなのです!
私たちを引き上げて下さったのはあなただから!
神よ!あなたは私たちをこんなにも愛する
私たちはあなたを愛します、全能なる真の神よ!

兄弟姉妹たちよ
今すぐ立ち上がれ!共に私たちの神を讃美しよう
私たちは今日共に集った
神の与えし良い機会を大切にすべきである
全ての肉の重荷を捨て去り
実際の行為をもって神を愛すのだ!
全身全霊で私たちの使命を果たし
私たちは永遠にあなたを愛します、全能なる真の神よ!
私たちは決してあなたから離れません
神の優しい言葉は水となって私に注がれ、私を養い、成長させる
神の厳しい言葉は倒れてしまった私を励まし
再び立ち上がらせる
おお神よ!私たちが今日あなたを誉め讃えられるのは
すべてあなたの祝福のおかげなのです!
今日私たちはあなたを讃えます

神の優しい言葉は水となって私に注がれ、私を養い、成長させる
神の厳しい言葉は倒れてしまった私を励まし
再び立ち上がらせる
おお神よ!私たちが今日あなたを誉め讃えられるのは
すべてあなたの祝福のおかげなのです!
私たちを引き上げて下さったのはあなただから!
神よ!あなたは私たちをこんなにも愛し
私たちはあなたを愛します、全能なる真の神よ!
私たちを引き上げて下さったのはあなただから!
神よ!あなたは私たちをこんなにも愛し
私たちはあなたを愛します、全能なる真の神よ!


             『言葉は肉において現れる』より

 

 

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世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しまょう




全能神の発表「肉となった神と神に使われる人々との間の本質的違い」

2017-12-23 00:00:01 | 全能神の発表

 これまで幾多の年月に渡って、の霊はこの地上で探るように働きを続けている。これまで数々の時代に渡って、神は自らの働きを行うために非常に多くの人々を使ってきた。しかし神の霊には依然として、ふさわしい安息所はない。そのため神は、さまざまな人々の間を移動しながら自らの働きを行い、に人々を用いてそれを行う。これまでの長い年月、神の働きは一度も止まったことがないのである。それは今日まで、人において絶えず進められている。神はとても多くを語り、とても多くを行ってきたが、人は依然として神を知らず、それはすべて、神が人の前に一度も現れたことがなく、形のない存在だからである。そのため神は、あらゆる人々に実際神の実際的な意義を知らせるという働きを完遂する必要がある。その目的のために、神は自らの霊を人々に明白に示し、人々の間で働きを行わなければならない。神の霊が肉的な姿を担い、肉と骨となり、人々の間を目に見える形で歩き、自らの姿をある時は現し、ある時は隠しながら、人々の生活の中に伴うという場合にのみ、人々は神をさらに深く認識できるようになる。神は、もし常に肉に留まり続けていたら、自らの働きを完全に全うできなかったであろう。神は、一定の期間において肉で働きを行い、肉で行われる必要がある職分を全うした後、肉から離れ、肉の姿で霊界での働きを行わねばならないが、それは、イエスが普通の人間性において一定の期間で働きを行い、彼が全うする必要があるすべての働きを全うした後、そのように行ったことと、ちょうど同じである。あなたがたは、『道…(5)』からそのことを思い起こすことができる―「わたしは、父がわたしに語った、『この世ではわたしの心だけを遂行し、わたしの委託だけを全うしなさい。他のことはあなたとは関係がない。』という言葉を思い出す。」この一節で何が分かるだろうか。神は、この世に至る時、神性の働きのみを行う。それは、肉となった神への、天の霊の委託である。神がやって来る目的は、どこにでも行って語ることに尽き、さまざまな方法で、さまざまな視点から、自らの言葉を発することになる。神は、自らの目標と働きの原則として、主に人への施しと教えを続ける。神は、人間関係や人々の生活での詳細に関わることはない。神の主な職分は、霊の代わりに語ることである。神の霊が肉に実際的に現れるとき、神の行うことは、人のいのちのための施しと、真理の普及に尽きる。神は人の事柄に関わることはない。つまり、神は人間性の働きに関与することはない。人間は神性の働きを行えず、神は人の働きに関わることはないのである。神は、この世で自らの働きを行ったすべての歳月において、自らの働きを行うためにいつでも人々を使ってきた。けれども、それらの人々は肉となった神と見なされることはない。彼らは単に神によって使われる人々として見なされる。けれども、今日の神は、神性の視点から直接語り、霊の声を送り出し、霊の代わりに働きを行うことができる。数々の時代に渡って神が用いたすべての人々は、その体を通して神の霊に働きを行ってもらっているわけだが、なぜ彼らは神と呼ばれえないのだろうか。今日の神は肉で直接働きを行う神の霊であり、イエスも肉で働きを行う神の霊だった。それら後者2つの存在は神と呼ばれる。それではその違いは何なのだろうか。代々わたって、神が用いた人々は皆、普通の思考と理知を持っている。彼らは皆、振る舞い方を心得ており、生活上の問題に対処する。彼らは、普通の人間の観念を保持し、普通の人々が持つべきあらゆるものを備えている。彼らのほとんどは、特別な才能と生来の知性を持っている。神の霊は、それらの人々を通して働きを行うことで、神からの授かりものとなる彼らの才能を生かす。彼らの才能を生かし、彼らが自らの強みを通して神に仕えるようにするのは、神の霊である。けれども、神の本質は観念や思考を持たないものである。そこには人間の考えが組み込まれておらず、人間が普通に持つものを欠いていさえする。つまり神は、人間の行為の原則を理解することさえない。今日の神がこの世に来るときはこのようである。神は、人間の考えや人間の思考を組み込むことなく、働きを行い、語りかけるが、霊が元々の意図を直接示し、神の代わりに直接働きを行う。それは働きを行うために霊が現れ、人の考えを組み込むことないことを意味する。つまり、肉となった神は、直接的に神性を体現し、人間の思考や観念がなく、人間行為の原則に対する理解を伴わない。もし神性の働きしかなかったならば(その働きを行う神自身しか存在しなかった場合には)、神の働きがこの世で実行されることは不可能だった。だから神は、この世に来るとき、神性における自らの働きと関連して人間性での働きを行うために自らが使う人々を幾人か備えている必要がある。つまり、神は自らの神性の働きを支えるために人間の働きを使うのである。そうでなければ、人は神性の働きに直接関わるようにはなれなかっただろう。イエスと弟子達においても同様であった。イエスはその生涯において古い律法を廃止し、新しい戒めを確立した。また彼は多くを語った。そのすべては神性において行った。ペテロ、パウロ、およびヨハネといった他の者は皆、イエスの言葉を基礎として、続く働きを行った。つまり神は、その時代に始まりの働きを行い、恵みの時代へと導いた。神は新しい時代をもたらし、古い時代を完結させ、「神は初めであり、終わりである」という言葉を実現させた。つまり人は、神性の働きに基づいて人間性の働きを行わねばならない。イエスが語るべき言葉を全て語り、地上での働きを完遂した後、人から離れた。イエスの後の人々は、神の言葉にある原則に基づいて働き、神が語った真理に従って実践した。すべての人々がイエスのために働きを行った。もしその働きをイエスが1人で行っただけであれば、どれだけ多くを彼が語ったとしても、人々は依然として神の言葉に接するようにはなれなかっただろう。彼は神性において働きを行い、神性の話を語れるだけであったからだ。普通の人が彼の言葉を理解できるように説明することは不可能であった。だからイエスは、自らの後に続く使徒や預言者に自らの働きを補足させる必要があったのだ。これが肉となった神が働きを行うための原則であり、それは、神性の働きを完遂するために受肉を使って語り、行ない、それから、神の心にかなう少数またはそれ以上の人々を使って神の働きを補うことである。つまり神は、人間性において牧養し、注ぐために、自らの心にかなう人々を使うのであり、そうして、すべての人々は真理を受け取ることができる。

 神の心にかなうある数の人々を追加して神に協力させることなく、神が肉となり神性の働きを行うだけであれば、人は、神の意志を理解できないだろうし、神に接触することはできないだろう。神は、自らの心にかなう普通の人々を使って、その働きを完遂させ、教会を世話し牧養しなければならず、そうすることで人の思考や人の脳は神の働きを想像することができる。言い換えれば、神は自らの心にかなう限られた数の人々を使って、神性における働きを「翻訳」し、それを明かす、つまり神性の言語を人間性の言語に変換することによって人々は皆、全てを把握し理解することができる。もし神がそう行わなかったなら、誰も神の神性の言語を理解しないだろう。神の心にかなうそのような人々は結局少数に限られており、人の持つ理解能力が弱いからである。これが、神が受肉を通して働きを行うとき、この手法を選ぶ理由である。もし神性の働きしか存在しなかったら、人は神の言語を理解しないため、人は神を知りえないだろうし、神と接触できないだろう。神が、自らの心にかなう人々を使い、神の言葉を明確にすることでのみ、人はその言語を理解することができる。けれども、人間性における働きのみを行うそのような人々しかいなかった場合、それは人の普通の生活を維持することしかできないだろう。人の性質を変換することはできないだろう。神の働きは新しい出発を行えないだろう。そこには、同じ古い歌、同じ古い決まり文句しかないだろう。人々のいのちの性質が変わることができ、人々が時代と共に導かれうるのは、受肉した神により語られる必要があるすべてが語られ、行われる必要があるすべてが行われ、その後の人々が神の言葉に従って働き、経験することによってのみ可能である。神性において働くのは神を表し、人間性において働くのは神に用いられる者である。つまり、肉となった神は、神によって用いられる人々とは実質的に異なる。肉となった神は神性の働きを行えるが、神によって用いられる人々にはそれができない。各時代の始まりにおいて、神の霊は自ら語りかけ、新しい時代を始め、人を新しい始まりへ導く。神が自らの語りを完遂するとき、神性における神の働きが達成されたことを意味する。その後人々はみな、神によって用いられる者たちの導きに従っていのちの経験に入ることになる。同様に、この段階において、神は人を新しい時代へ導き、すべての人々に新しい始まりを与える。それをもって、肉における神の働きは完結する。

 神がこの世に来るのは、神の普通の人間性を完成させるためではない。神は普通の人間性の働きを行うためではなく、普通の人間性の中で神性の働きを行うためだけに来る。神が普通の人間性と見なすものは、人間が想像するようなものではない。人は「普通の人間性」を、妻または夫、息子や娘を持つことと定義する。人にとって[a]、それらは対象者が普通の人であることを意味する。けれども神の考えは違う。神は普通の人間性を、普通の人間の思考を持ち、普通の人間の生活をし、普通の人々のもとに生まれることとして捉える。しかし神における普通性とは、人が普通性と見なす、妻または夫、および子どもを持つことを含まない。つまり、神が語る普通の人間性とは、人にとっては人間性がなく、感情がないかのようであり、肉的必要がないかのようであり、ちょうどイエスのように、単なる普通の人の外見をし、普通の人として現れることとなったが、本質的に普通の人が伴うものを完全に伴っているわけではなかった。そのことから、肉となった神の本質とは普通の人間性全体を包含するものではなく、普通の人間生活の規則と普通の人間の理知を維持するために人々が持つべき一部の事柄だけを包含する、と理解できる。ただ、それらの事柄は、人が普通の人間性と見なすものとは関係はない。それらは肉となった神が持つべきものである。肉となった神は、妻、息子や娘といった家族を持つ場合にのみ、普通の人間性を持つと言える、と主張する人もいる。家族を持たない場合、神は普通の人間ではないと彼らは言うのである。それではあなたに尋ねよう。神には妻がいるだろうか。神が夫を持つことは可能だろうか。神は子を持つことができるだろうか。それらは誤った考えではないのだろうか。それでも、肉となった神が、岩の割れ目から現れたり、空から落ちてきたりすることはありえない。神は単に普通の人間の家族に生まれうる。そのため神には親や姉妹がいる。それらは、肉となった神の普通の人間性が伴わねばならないものである。イエスの場合、そうであった。イエスには父と母、姉妹、および兄弟がいた。それは全く普通のことである。けれどもイエスに妻、息子や娘がいたなら、神は肉となった神において、自らが望んだ普通の人間性の存在とはなっていなかっただろう。その場合、彼は自らの働きで神性を表すことはできなかっただろう。彼が神性の働きを行えたのは、彼が、妻や子どもを持たないものの、普通の家族に普通の人間から生まれたためである。さらに明確に言えば、神が普通の人と見なすものは、普通の家族に生まれた人である。そのような人のみが神性の働きを行う資格がある。一方、妻、子ども、または夫がいる人は、神性の働きを行うことができない。それは、その人が神の求める普通の人間性ではなく、人間の求める普通の人間性を伴っているに過ぎないからである。神の思考と人々の理解は、しばしば大きく異なり、かけ離れている。この段階での神の働きの多くは人々の観念にぶつかり、大きく異なる。この段階の神の働きは、すべて神性の実践によって行われ、そこでは人間性が支えとなると言って良い。自身の働きを人にさせるのではなく自分で遂行するために神は地上に来るので、その働きのために神自身が(不完全な、普通の人間として)受肉するのである。神は、新しい時代を人間に示し、神の働きにおける次の段階を人間に伝えるためにその受肉を使うのであり、それにより彼らは神の言葉が述べる道に従って実践することができる。それをもって、神は肉における自らの働きを完結する。神は人間から離れる必要があるが、普通の人間性となるその肉の中にもはや留まることはなく、むしろ自らの働きの他の部分を行うために人から移り去ってゆくのである。神はそれから、自らの心にかなう人を使い、この世における自らの働きをこの一団の中で続けるが、それは人間性における働きである。

 肉となった神は永遠に人に留まることはできないが、それは神にはすべきことが他にもたくさん存在するからである。神が肉に縛られることはない。神は自身がなすべき働きを肉のイメージで行うが、肉を捨ててそれをしなければならない。神は、この世に来る時、普通の人が死んで地上を離れるまでに到達する状態まで待つことはしない。彼の肉体年齢に関係なく、自らの働きが完遂するとき、神は人を離れて行く。神には年齢がなく、人の年齢に基づいて自らの年齢を数えることはない。その代わり神は、自らの働きの段階に従って、肉での生涯を終える。肉となった神は、ある段階に発達し、大人になり、老年に達し、肉体が機能しなくなる場合にのみ去るはずだ、と思っている人がいるかもしれない。それは人の想像であり、神はそのようには働きを行わない。神は自身がすべき働きを行うためだけに肉となるのであり、両親のもとに生まれ、成長し、家族を形成し、就職し、子どもを持ったり、または人生の浮き沈みを経験したりといった、普通の人生のさまざまなことを経験することがその目的ではない。神が地上に来るということは神の霊が肉となることであり、肉に入るということであるが、神が普通の人間の生活をする訳ではない。神は自身の経営(救いの)計画の一部を遂行するだけのために来る。その後、神は人間から去る。神が肉に入るとき、神の霊は肉における普通の人間性を全うすることはない。むしろ、神があらかじめ決めた時に、その神性は直接に働きを行う。それから、神が行う必要のあるすべての事柄を行い、自らの職分を完遂した後、その段階における神の霊の働きは完了し、神の肉が死ぬ時期に至っているか否かにかかわらず、肉となった神の人生が終わる。つまり、その肉が人生のいかなる段階に到達していようと、それがこの世で生きた期間がどれだけであろうと、すべては霊の働きによるのである。それは人が普通の人間性と見なすものとは関係がない。イエスを例にとってみる。イエスは肉となって33年と半年を過ごした。人間の体の寿命から言えば、その年齢で死に、去るべきではなかった。けれども神の霊にとってそれは問題ではなかった。神の働きが終わったとき、その体は取り去られ、霊とともに消えた。これが、神が肉で働きを行う原則である。そのため、厳密にいえば、肉となった神には普通の人間性がない。もう一度言うが、神がこの世に来るのは普通の人間の生活をするためではない。神は、初めに普通の人間生活を作り上げてから働きを始めるのではない。むしろ神は、普通の人間の家族に生まれる限り、神性の働きを行うことができる。神は人の考えを少しも用いることはない。神は肉的でなく、社会の流儀を適用したり、人の思考や観念に関わったりすることはなく、ましてや人生哲学とは関わらないのである。これが肉となった神が望む働きであり、神の受肉の実際的な意味である。神が肉に入るのは、主に、肉で行われる必要がある段階の働きを行うためである。神は他の取るに足りないプロセスを踏まず、普通の人の経験をすることもない。肉となった神が行う必要のある働きは、普通の人間の経験を含まない。それだから、神が肉に入る目的は、神が肉で達成する必要がある働きを達成することのみである。他の事柄は神とは関係がない。神はそのような取るに足りないプロセスを経験することはない。自身の働きが完了すれば、神の受肉の意味は終わる。この段階を完了することは、神が肉で行うことが必要な働きが終わり、神の肉の職分が完成したことを意味する。ただ、神はいつまでも肉で働きを続けることはできない。神は働きを行うべき他の場所へ向けて、その肉の外に出てゆかねばならない。そのようにしてのみ、神は自らの働きを完遂し、さらにその働きを拡大することができる。神は自身の計画に従って働きを行う。神は、自らが行う必要のある事柄と、自らが完遂した事柄をよく知っている。神は自身があらかじめ定義した道に沿って全ての人を導く。誰もそれを逃れることはできない。神の霊の導きに従う者だけが、安息を得られるだろう。後の働きにおいては、神が肉において語ることで人を導くのではなく、触れることのできる霊が人の生活を導くかもしれない。そのとき初めて人は実際に神に触れ、神を見、神が求める現実に入り、実際の神によって完全なものとされるだろう。これが神が成し遂げたい働きであり、神が長きに渡り計画してきたことである。そこからあなたがたはみな、進むべき道を知るべきである。

 脚注:

 a. 原文では「人にとって」を省略。


東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。