全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

素晴らしい讃美聖歌 「いのちの水の川」

2020-01-31 16:29:40 | 全能神教会いのちの経験の讃美歌MV

素晴らしい讃美聖歌 「いのちの水の川」

いのちの水の川は水晶のように透き通り
神と子羊の玉座から流れ出ている
川の両側にある命の木は毎月12種類の果実を実らせ
木の葉は民の病を治す
もはや呪いはなく
神と子羊の玉座は都にあり
僕たちは神に仕え  神の顔を見るだろう
その額には神の名がしるされる
そこには夜がなく
明かりも太陽の光さえもいらない
主なる神が光を与えるからだ
彼らは永遠に統べ治めるだろう

聖なる都である新しいエルサレムは
神のいる天から下ってくる天から
神の幕屋は人と共にあり
神は人と共に住む
彼らは神の民となり
神は彼らの神となるだろう
涙は拭われ
死も  悲しみも  嘆きも  苦しみもなくなる
古きものは過ぎ去り
神は全てを新しくする
神はアルパでありオメガであり 
初めであり終わりである
渇いている者に神は命の泉の水を与える
打ち勝つ者はすべてを受け継ぎ
神はその人の神となり
その人は神の子となる

稲妻は東からきて西を照らす
終わりの日のキリスト  全能神は人々のもとに来た
全能神は真理  道  いのちであり
言葉は肉において現れる
人々は神の玉座の前で
神の国の訓練と完全にされることを受け入れる
終わりの日のキリストは
いのちへの永遠の道をもたらした
民は神と顔を合わせ
甘美なる神の言葉を楽しむ
言葉はもろ刃の剣
人を清め救うために裁く
神の家から終わりの日の審判が始まった
全ての民が全能神の名を讃える
神の国に全能神が来て
業は成就した
神は全ての栄光を獲得した!
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


天国に入るための条件

2020-01-30 10:16:14 | 福音问答

質問1.私達は主のために働き、苦労もあります、それでも変わらず嘘をつき、欺き、だまそうとします。毎日自己弁護ばかりしています、横柄でわがままで人に恩を着せたりします。罪を犯し告白を繰り返し、肉の束縛から逃れられません。主の言葉を実行しないし、御言葉通りの現実を生きていません。こんな私達が天の国に招かれますか?罪を犯しても、主は私達を罪のない者だと見てくださると言う人もいます。パウロの言葉にあるからです。「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(コリント人への第一の手紙 15:51-52)主が戻られたとき、私たちの姿が変わり天の国に召されると信じる根拠です。でもそうじゃないと言う人もいます、信仰があり救われていてもよく罪を犯す者は、天の国には入れない。これは主イエスの言葉にあるからです「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書 7:21)「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(レビ記 11:45)これは誰もはっきりと答えを持たない争点なので、どうか私たちに教えてください。
解答: 私達も、パウロのような使徒の言葉を神の言葉だと、以前は考えていました。パウロの言葉をもとに、主のために働いていました。さらに、主のお戻りに関しても、パウロの言葉に従っていました。しかし主の言葉を無視しています。問題ではありませんか?信者としては、神の言葉に従いますか?それとも人の言葉?聖書のパウロの言葉ですが、神と人間どちらの言葉でしょう?神の言葉か人間の言葉かは一旦置いておいて、聖書にあるヤーウェと主イエスの言葉は確実に神の御言葉だと言えますね。誰も否定できませんね。一方パウロのような使徒たちの言葉は、聖霊の啓きがあったとしても人間の言葉です。神の言葉ではありません。主も聖霊も使徒の言葉が神の言葉だとは証言していないし、使徒たちも自らの言葉が神の言葉だとは言っていません。そうでしょう?聖書の人間の言葉は、人間の言葉で神の言葉ではない、神の言葉として利用してはいけません。聖霊の啓きを受けた人間の言葉もあれば、人の意志が混ざったものもあるからです。真理を示すものではない。人間の言葉を真理として扱うと人々はどこにも導かれはしません。なぜ宗教界に何千もの宗派があるのでしょう?聖書にある人間の言葉を神の言葉として解釈したために、大きな混乱を招いたからです。天国へ入るかどうかは主イエスの言葉で判断すべきです。なぜなら主イエスは受肉されたキリストであり、唯一の救い主なのです。主イエスの言葉だけが真理であり権威を持つのです。パウロはただの人間です、真理を示すことはできない、そのため彼の言葉には人の意思や想像が混ざっています。パウロ自身も自分の言葉が神の霊感によるとか、手紙が神の言葉だとは言っていません。パウロの言葉を神の言葉とみなすのはおかしな話でしょう?私たちは、神の御心に叶っているか天国に行く資格があるかどうかを、主イエスの言葉に従って真理を探し求め、答えを見つける必要があります。

 少し全能神の言葉を読んでみましょうか。全能神は言われます。「今日、人々は聖書が神であり、神は聖書だと信じている。また、聖書の言葉のすべてだけが神の語った言葉であって、それはみな、神が語ったと信じている。神を信じている人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだけれど、これらはみな神から霊感を受けており、聖霊の告げたことを記録しているのだとさえ考えている。これは人々の解釈が誤っているのであって、事実に完全に沿ったものではない。実際、預言の書以外、旧約のほとんどは歴史的記録である。新約の書簡のいくつかは人々の経験に基づいたもので、またいくつかは聖霊の啓きによるものである。たとえば、パウロの書簡はひとりの人間の働きから生まれたもので、それはみな、聖霊の啓きを受けた結果であった。また、その書簡は教会のために書かれたもので、教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語った言葉ではなかったのである。パウロは聖霊の代わりに語ることはできなかった。また、彼は預言者でもなかったし、まして幻を見てもいない。パウロの書簡はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、その他の教会に向けて書かれた。だから、新約のパウロの書簡はパウロが諸教会に向けて書いた手紙で、聖霊の霊感によるものではないし、また、聖霊が直接語ったものでもない。……彼が人々に向けて言った信仰を養い、確信に満ちた言葉はみな正しかったが、それは聖霊の言葉を代弁していたのではないし、パウロにも神の代理はできなかった。一人の人間の経験の記録や手紙を聖霊が諸教会に向けて語ったものとして扱うのは、ばかげた解釈であり、ひどい冒瀆である。……彼の身分は単に活動中の使徒であって、単に神に遣わされた使徒だった。彼は預言する者でも、予知する者でもなかった。だから、彼にとって自分の働きと兄弟姉妹の生活が最も重要なものであった。それで、彼は聖霊を代弁することはできなかったのだ。彼の言葉は聖霊の言葉ではなかったし、まして、神の言葉であったとは到底言えない。パウロは神の被造物でしかなく、受肉した神では絶対になかったのだから。彼の身分はイエスの身分とは違っていた。イエスの言葉は聖霊の言葉で、神の言葉であった。イエスの身分はキリスト、神の子であったのだから。どうしてパウロがイエスと対等になれるのか。もし人々がパウロの書いたような手紙や言葉を見て、聖霊の言葉として神のように崇めるなら、それはあまりにも分別がないと言うことになるだろう。もっと厳しい言い方をすれば、これは冒瀆以外の何物でもないのではないか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、どうして人々は人間の手紙や語った言葉の記録をまるで聖なる書か天の書であるかのように、その前に額づくことができるのであろうか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(3)」より)

 「神の言葉は人の言葉として語ることはできないし、ましてや人の言葉は神の言葉としては語ることはできない。神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。……人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。神によって語られた言葉を単に聖霊による啓示と見なし、使徒や預言者の言葉を神自らが語る言葉として受け取るならば、それは間違っている。とにかく、あなたは決して正しいものを誤りとするべきではないし、高いものを低いものとして話すべきではないし、深いものを浅いものとして話すべきではない。とにかく、あなたは真理であると知っていることを決して故意に論駁するべきではない。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 主の信者の多くが主の出現を待つ間、パウロの言葉に従っています。「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(コリント人への第一の手紙 15:51-52)これは非常にばかげた話です。人間の言葉は神の言葉を代表できず、人間の意図を含んでいるからです。たとえその意味が近かったとしても、それは神の言葉ではない。パウロが言ったことは、主が言われたことですか?預言者の言葉はどうですか?聖霊はパウロの手紙が神の御言葉だと証しましたか?聖霊の啓きは、主の再臨に備えるためにパウロに従えと言いましたか?言っていない。そんな事実も証言もどこにもないのです。よってパウロの言葉はあくまで参考にすぎません。主に引き上げられ天の国に召されることについては、主がお見えになったとき、一瞬にして姿を変えてくださるといったパウロの言葉に頼っていては、間違いを犯して、主に見捨てられるかもしれません。事実、終わりの日に主が為される働きや人間を聖なるものにどう変えるかは、聖書に預言されています。

「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)

「わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48)

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。……真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。……またが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。」(ヨハネによる福音書 17:15、17、19)

 このような聖句からも、終わりの日に主が再臨されると神の家から裁きの働きをされ、人間を真理へ導き悟らせるのです。神の御言葉の裁きを受ければこそ真理を理解し清められ、神の国へ入る資格を得るのです。つまりパウロが言った「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(コリント人への第一の手紙 15:51-52)これは不正確で誤解を招く発言です。多くの信者が姿を変え天の国に召されると信じています、主の御言葉も実行せず神の御心に叶う方法も知りません、自分の熱意だけで主のために努力し働き、罪を犯す本性に支配されたまま、罪深く生き悔い改めることに毎日を費やしています。こうした人々はパウロの言葉だけを信じて主の出現を待っているのです。現実的ではない、主がされることですか?皆さん、パウロのこの「預言」はいのちの成長を得る役に立ちますか?この言葉のように主の再来を待って預言は成就しますか?「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる 福音書 10:27)これで預言は成就しますか?積極的に真の道を模索して神の声を聞くことができますか?

 終わりの日の全能神の働きでは神が大災難の前に、勝利者のグループを作られたことが分かります。大災難は急速に近づいています、終わりの日に神が出現され働く時から大災難が起きるまでに約30年あります。その期間はあっという間です、決してパウロが言ったように、人が一瞬で聖なるものに変えられるわけではありません。パウロの言葉は漠然としていて、超自然的です。そして、主イエスの預言にある神の声を聞き婚宴に招かれることには触れていません、主の預言は現実的で事実に即していて、預言が成就すれば、私たちは理解できるのです。全能神が現われ、語られると多くの人が神の声を聞き全能神を信じます。神の裁きと刑罰を受けることは、黙示録の預言を成就するものです。「小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである。」(ヨハネの黙示録 19:9)パウロの「預言」は成就されていません。それどころかパウロは預言者ですらない、彼の「預言」は想像によるものでしょう。主の預言は成就されていますが、パウロの言葉は実現していません。その差は非常に大きいのです。これが人間と神の言葉の違いです。パウロの言葉に頼っていては天の国に入れないのです。信仰する人がパウロの言葉を頼りに、主がお見えになるのをただ待っていれば、主に見捨てられ愚かなおとめとなるでしょう。

 お判りになりましたか?聖書の預言が成就すると、主の信者たちにはそれが判るのです。しかしパウロの言葉は、現実になることはないでしょう。なぜでしょうか?パウロの言葉は神に霊感を受けていないからです、神の御言葉のはずがない。主のおっしゃった事に、実現しないものはないということがお判りでしょう?違いますか?終わりの日全能神は、数多くの真理を『言葉は肉において現れる』に記されました。『言葉は肉において現れる』が出版され、全能神の言葉を沢山読んで、様々な宗派や教派の良き羊も全能神の言葉は真理であり、神の声だと言い従っています。彼らは賢いおとめであり、大災害の前に神の御座に連れられ、子羊の婚宴に迎えられるのです。主の預言を成就するものです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)主の預言が完全に成就されたことがお判りですか?主が語った言葉や預言者による神の御言葉は、そのすべてが成就されるでしょう。主が言われた通りです。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイによる福音書 24:35)パウロの言葉の中に成就されたものは?皆さん、パウロの語った言葉が神の霊感によるものでも、神の言葉でもないとはっきりしましたか?パウロの言葉だけを信じて、主の声を聞こうとも、神の働きを学ぼうともせずに、主が雲に乗って現われ姿を変えてくださるのを待つのは、愚かなおとめだとは思いませんか?そのような者が神の玉座の前に連れて行かれますか?

『変えられる瞬間』の映画台本から


神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である

2020-01-29 11:16:28 | 書籍
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神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である                                                                                                                                                                                    人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代の三つの段階の働きのことである。天地創造の働きは、人類全体を作り出す働きであった。それは人類を救う働きではなく、人類を救う仕事には関係がなかった。なぜなら、天地創造の時、人類はサタンによって堕落させられておらず、人類を救う働きを実行する必要がなかったからである。人類を救う働きは、人類がサタンに堕落させられた後にようやく始まり、そこで人類を経営する働きも人類が堕落させられた後にようやく始まったのである。言い換えれば、人を経営する神の働きは、人類を救う働きの結果として始まったもので、天地創造の働きから生じたものではない。人類が堕落した性質を持つようになったあと初めて、経営の働きが存在するようになった。だから人類を経営する働きは、四つの段階もしくは四つの時代というよりも三つの部分を含むのである。これこそが人類を経営する神の働きへの正しい言及の仕方である。最後の時代が終わるとき、人類を経営する働きは完全に終わっている。経営の働きの終結は、人類すべてを救う働きが完全に終了し、人類がその旅路の終わりに到達したことを意味する。人類全てを救う働きがなければ、人類を経営する働きも存在しないし、三つの段階の働きもないだろう。それは正に人類の堕落ゆえに、また人類がそれほど性急に救いを必要としていたがために、ヤーウェは天地創造を終わらせ、律法の時代の働きを始めたのである。そうして初めて、人類を経営する働きが始まったのだが、それはつまり人類を救う働きもそこで初めて始まったことを意味する。「人類を経営する」とは、新たに造られた地上の人類(つまり、まだ堕落させられていない人類)の生活を導くという意味ではない。むしろそれは、サタンによって堕落させられた人類の救いであり、つまりは、この堕落した人類を変化させることである。これが人類を経営することの真意である。人類を救う働きが天地創造の働きを含まないのだから、人類を経営する働きも天地創造の働きを含まず、ただ天地創造とは別の三つの段階の働きだけが含まれる。人類を経営する働きを理解するには、三つの段階の働きの歴史を知ることが必要であるが、これは、救われるために、すべての人が知っていなければならないことである。被造物としてあなた方は、人は神によって造られたということを認識しなければならないし、人類の堕落の源、さらには人の救いの過程を認識しなければならない。あなた方がもし、神に喜ばれるために教理に従って行動することだけは知っているが、神がいかにして人類を救うかに関して、あるいは人類の堕落の源を少しも知らないのであれば、あなた方には被造物としてこの部分が欠けているのである。あなたは、神の経営する働きのより幅広い範囲を知らないままでいるのに、それらの実践できる真理を理解するだけで満足してはならないし、もしそうなら、あなたは教条的すぎるということになる。三つの段階の働きは、神による人の経営の内部事情であり、全宇宙の福音の到来であり、全人類における最大の奥義であり、また福音を述べ伝えることの基盤でもあるのだ。もしあなたが自分のいのちに関係する単純な真理を理解することだけに集中し、この最大の奥義とビジョンに関しては一切知らないとすれば、あなたのいのちは、ただ眺めること以外に役に立たない不良品と言えるのではないか。

もし人が実践することだけに集中し、神の働きと人の認識を二次的なものと見るならば、「一文惜しみの百失い」であることと同じではないのか。あなたは、認識すべきことは認識すべきであり、実践すべきことは実践しなければならない。そうして初めてあなたは真理をどのように追及すべきか知る人になるのだ。あなたが福音を述べ伝える日が来た時、「神は偉大な正義の神であり、神は最も優れた神であって、いかなる偉大な人も比較できる者がおらず、それ以上に高い者もいない…」ということしか言えず、これらの見当違いで上辺だけの言葉しか言えず、非常に重要で中身のある言葉を全く話すことができず、神を認識すること、あるいは神の働きについて何も言うことができず、そしてさらには真理を説明すること、あるいは人間に欠けているものを提供することができないのであれば、あなたのような人は、立派にその本分を尽くすことはできない。神を証しし神の国の福音を述べ伝えることは、決して簡単な仕事ではない。あなたは、まず真理を身に付け、理解するべきビジョンを身に付けなければならない。神の働きの様々な側面のビジョンと真理について明確に知っているとき、あなたは心の中で神の働きを認識することになり、神が何をするかに関わらず、例えばそれが正義の裁きでも人を精練することでも、あなたは自らの基盤として最大のビジョンを備え、実践すべき正しい真理を備えることになり、結果として、最後まで神に付き従うことができるようになるのである。あなたは、神の働きが何であれ、その働きの目的は変化せず、神の働きの核心は変化せず、そして神の人に対する心も変わらないことを知らなければならない。神の言葉がどれほど厳しいものであっても、環境がどれほど不利であっても、神の働きの原則は変わらないし、人を救うという神の意図も変わらないのである。それが人の終わり、あるいは人の終着点の啓示ではなく、最終段階の働き、あるいは神の経営(救いの)計画全体を終わりにする働きでもないならば、また神が人に対して働いている最中のことであるならば、神の働きの核心は変わらない。つまりそれは常に人類の救いなのである。これこそがあなた方の神への信仰の基盤であるべきだ。三つの段階の働きの目的は全人類の救いであり、すなわちそれは人をサタンの領域から完全に救い出すことを意味する。三つの段階の働きには、それぞれ異なる目標と意味があるが、そのいずれもが人類を救う働きの一部であり、人類が必要とするものに応じて実行される異なる救いの働きなのだ。いったんこの三つの段階の働きの目的を知れば、各段階の働きの意味をどのように正しく認識すれば良いかが分かるし、神の心を満たすためにはどのように行動すれば良いかが理解できる。この点に到達することができれば、最終的にこの最大のビジョンが神へのあなたの信仰の基盤になるだろう。あなたは実践のためのたやすい方法、あるいは奥深い真理を追い求めるだけでなく、実践とビジョンを組み合わせるべきだ。そうすれば、実践できる真理とビジョンに基づく知識の両方が在ることになる。そうして初めて、あなたは完全に真理を追求する者になれるのである。

三つの段階の働きは、神の経営(救い)全体の核心にあるもので、 その三つの段階の中に、神の性質、そして神であるものが表されているのである。神の三段階の働きを知らない者は、神がどのようにしてその性質を表現するかを理解できないだけでなく、神の働きの英知も知らず、そして神が人類を救う様々なやり方や、人類全体に対する神の心を知らないままでいる。三つの段階の働きは、人類を救う働きの完全な表明といえる。三つの段階の働きを知らない人々は、聖霊の働きの様々な手段や原則を知らないままでいる。つまり、一つの段階の働きからそのまま残っている教義に厳格にこだわる人々は、神を教義に限定する人たちであり、神に対する彼らの信仰は曖昧で不確かである。そのような人たちは、決して神の救いを得ることがないだろう。神の三段階の働きだけが神の性質の全てを余すところなく表せるのであり、人類全体を救う神の意図、そして人類の救いの全過程を完全に示すことができるのである。これは、神がサタンを打ち負かし人類を取り戻したということの証拠であり、神の勝利の証拠であり、そして神の性質全体の表明でもある。神の働きの三段階の内一つの段階だけを理解する者は、神の性質の一部しか知らない。人の観念においては、このたった一つの段階の働きは教義になりやすく、人は神に関する規則を定めるようになり、神の性質のこの一部分だけを神の性質全体の代表として使うようになる。その上、人の想像が少なからずこの中に混入するので、神の働きの原則に加えて、神の性質、存在、英知を限られた範囲内に厳格に制限し、神がかつてこのようであれば永遠にこのようであり、絶対に変わることはないと思うようになる。三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが様々な、多岐にわたる神の働きを認識しないからであり、さらに、彼らがごく僅かな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちは、経験は上辺だけのものなのに、本性が放漫かつ甘やかされており、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」する。また彼らはもったいぶって、自分たちの知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑されて拒絶されるのではないのか、そして新しい時代には排除されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人々は、狭量で偏狭な人々で、単に自分たちがいかに賢いかを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についての僅かな知識だけで天下の「学界」にまたがり、人に教える上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に転回させようと試み、目先のことしか見えないのに、一目で6000年に及ぶ神の働きを見極めようとするのである。この人たちは理性と呼べるようなものをもちあわせていない。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを評価するのに時間をかける。さらに、彼らは今日の神の働きについて知っていることを僅かしか語らないが、判断することは急がない。神に対して認識がない人ほど、傲慢で自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人は少しも価値のない人である。聖霊の働きを冗談事と捉える人たちはあさはかである。聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。このような人はいつか聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。そういう人たちは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜しているのである。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがないし、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。今日あなた方は、なぜ神の三つの段階の働きの重要性を知らなければならないのか理解すべきである。わたしが言う言葉はあなた方の有益になるものであり、無意味な言葉ではない。あなた方が、あたかも馬に乗って疾走しながら花を見物するかのようにただそれらを読むなら、わたしの大変な努力は全て水の泡になるのではないか。あなた方一人ひとりが自らの本性を知るべきである。あなた方のほとんどが議論は得意であり、理論的な質問に対する答えはすらすらと出てくるが、実質的な問題になると何も言うことがないのである。今日でさえ、あなた方は未だに浅はかな会話に身をゆだね、自分の古い本性を変えることができずにいるし、あなた方のほとんどは、より高い真理を達成するために追求する方法を変えるつもりがなく、いいかげんに自分の人生を生きているだけである。このような人たちがどうして最後まで神に従うことができるだろうか。たとえ道の最後まで辿り着けたとしても、あなた方にとってそれが何の得になるだろう。手遅れになる前に、真剣に追及するか、あるいは早く負けを認めて放棄して、考え方を改めた方が良い。時間がたつにつれ、あなた方は人にたかる寄生虫になる。そんな低くて卑しい役をあなた方は演じるつもりなのか。

三つの段階の働きは、神の働きすべての記録であり、神の人類の救いの記録であり、そしてそれは架空のものではない。もしあなた方が、神の性質全体を認識することを真剣に追い求めるのであれば、神によって為された働きの三段階を知らなければならず、しかもどの段階も欠けてはならない。これは神を知ろうと努力する人たちが達成しなければならない最低限のことである。人は思いつきのように独自で本当に神を知ることはできない。それは人が自分で想像できるものでもなければ、聖霊が特定の人に特別に恩恵を授けた結果でもない。むしろそれは、人が神の働きを経験した後に得る認識であり、神の働きの事実を経験した後にだけ訪れる神に対する認識なのである。そのような認識は、ふと思いついて得ることはできないし、教えられるものでもない。それは完全に個人的な体験に関係することなのだ。これらの三つの段階の働きの核心には、神の人に対する救いが在るが、この救いの働きの中には幾つかの働き方と、神の性質を表す手段が含まれている。これは、人がもっとも識別し難いことであり、また理解するのがむずかしいことである。時代の区分、神の働きの変化、働きの場所の変化、この働きの受益者の変化等、これら全てが三つの段階の働きに含まれている。特に、聖霊の働き方の違い、神の性質、姿、名前、身分、その他の変化など、これら全てが三つの段階の働きの一部である。一つの働きの段階は、一部しか表すことはできず、特定の範囲に限られている。それは時代の区分や神の働きの変化には関連がなく、他の側面にはさらに関連性がない。これは完全に明らかな事実である。三つの段階の働きが人類を救う神の働きの全てなのだ。人は、人類を救う働きの中で、神の働き、そして神の性質を認識しなければならず、この事実なしには、あなた方の神に対する認識は、ただ無意味な言葉でしかなく、机上の空論にすぎない。そのような認識では、人を納得させることも征服することもできず、そのような認識は実情にそぐわないし、また真理でもない。その認識がたとえ十分で、聞こえの良いものであっても、神の元来の性質と合致しないのであれば、神はあなたを容認しない。神はあなたの認識を称賛しないだけでなく、神を冒涜した罪びととしてあなたに天罰を下す。神を認識する言葉は軽々しく語られるものではない。たとえあなたが流暢で弁が立ち、あなたの言葉が死人を生き返らせ、生きている人を死なせることができるとしても、神に対する認識を語ることに関しては素人同然である。神は、あなたが急いで判断を下したり、気軽に褒めたり、また無頓着に中傷したりできる対象ではない。あなたは誰でもどんな人でも褒めるが、それでもなお神の大徳と恩恵を描写する適切な言葉に悪戦苦闘し、これは全ての失敗者が体験することなのである。神を描写することのできる言語の専門家は大勢いるが、その描写の正確さは、神に属し、限られた語彙しか持たずとも豊かな経験を身に着けている人々によって語られる真理の百分の一にすぎない。よって神への認識は、巧みに言葉を使うことや豊富な語彙によるものではなく、正確さと現実性にかかっていること、また人の知識と神への認識は、全く関係がないことが見て取れる。神を認識するという学びは、人類のどの自然科学よりも高尚である。それは、神を認識することを探し求める非常に少数の人間によってのみ達成できる学びであって、才能があれば誰でも達成できるわけではない。よってあなた方は、神を認識することと真理を追求することを、ほんの子供でも達成できる、という見方をしてはならない。あなたは、家庭生活、仕事の経歴あるいは結婚生活においては完全に成功を収めているかもしれないが、真理および神を認識する学びに関しては、自分では見せられるものは何も持たないし、また何の成果も上げていない。真理を実践するとはあなた方にとって非常に難しいことであり、神を認識することは更に困難な問題であると言ってよい。これはあなた方にとって困難なことであり、同時に人類全体が直面している難事である。神を認識するために何らかの達成した人たちの中で、標準レベルに達する人はほとんどいない。人間は、神を認識することが何を意味するのか、あるいはどうして神を認識する必要があるのか、またはどの程度で神を認識していると見なせるのかを知らないのである。これは人類を非常に困惑させるものであり、ごく簡単に言うと人類が直面する最大の謎であり、誰もこの質問に答えることができないし、誰も進んで答えようとはしないのだが、その理由は、今日まで人類のうち誰一人としてこの働きの研究に成功したことがないからだ。おそらく、三つの段階の働きの謎が人類に明らかにされるときは、神を認識する才能集団を成す人たちが次々と現れるだろう。もちろん、そうなることをわたしは望むし、さらにわたしはこの仕事を実践中であり、近い将来そのような人材がもっとたくさん現われることを願う。彼らは、三つの段階の働きの事実を証しする者となり、そしてもちろん、三つの段階の働きを証しする最初の者となるだろう。神の働きが終わる日になって、もしそのような才能ある者がいなかったならば、あるいは一人か二人しかいなかったならば、そしてこの一人か二人は受肉した神によって完全にされることを自ら受け入れていたとしたら、これ以上悲しく、また悔やまれることはない。もちろんこれは最悪のシナリオにすぎないが。いずれの場合も、真剣に追及する者がこの祝福を得られることを願う。世の始まりの時から、このような働きはかつて一度も存在しなかったし、人類の発展の歴史の中で、かつてなかった仕事である。もしあなた方が本当に最初に神を認識する者達の一人になることができるならば、被造物全ての中で、最も名誉なことではないだろうか。人類のなかで神によってこれ以上に称賛される人がいるだろうか。このような仕事は簡単に達成できるものではないが、それでも最終的には成果を収める。性別や国籍に関わらず、神を認識することのできる人々は皆、最後に神から最高の名誉を受けるだろうし、また神の権威を備える唯一の者たちとなる。これが今日の仕事であり、未来の仕事でもあるが、要はこれが最終の、また過去6000年の働きの中で達成される最高の仕事ということであり、それによって人間の各区分を明らかにする仕事の一手段である。人に神を認識させるための働きを通して、人の異なるランクが明らかにされる。つまり、神を知る者は神の祝福を受け、神の約束を受け取る資格があるが、一方で、神に対する認識を持たない者は神の祝福を受ける資格、神の約束を受け取る資格がないことになる。神を知る者は、神の知己であり、神に対して認識を持たない者は神の知己とは呼ばれない。すなわち、神の知己は、神のあらゆる祝福を受けることができるが、神の知己でない者は、神の働きのどれにも値しない。苦難であれ、精錬あるいは裁きであれ、全ては人が最終的に神に対する認識を得られるようにするためであり、人が神に服従するようになるためである。これが最終的に達成される唯一の成果である。三つの段階の働きはどれも秘密ではなく、これは人が神を認識するのに役に立つことで、人が神についてもっと完全で徹底的な認識を得る手助けとなる。この働きは全て人のためである。

神自身の働きは、人が知らなければならないビジョンである。神の働きは人には達成できないし、人には備わっていないものだからである。三つの段階の働きが神の経営の全てであり、人が認識すべき最大のビジョンである。もし人がこの偉大なビジョンを知らないとすれば、神を認識することも神の心を理解するのも容易ではないし、さらに人が歩む道もますます困難になる。ビジョンがなければ、人はここまで来ることはできなかっただろう。人を今日まで守ってきたのはビジョンであり、人に最大の保護を提供してきたのはビジョンである。将来、あなた方の認識はより深くなるべきであり、あなた方は神の心の全て、そして三つの段階の働きにおける神の賢明な働きの本質を認識するようにならなければならない。これこそがあなた方の真の背丈なのだ。働きの最終段階は、独立した段階ではなく、それ以前の二つの段階と一緒に形成された全体の一部であるから、三つの段階の働きのうち一つだけを行うことで救いの働き全体を完成させることは不可能である。たとえ働きの最終段階が人を完全に救うことができたとしても、必要なのはこの単独の段階を実践することだけという意味にはならないし、人をサタンの影響力から救うために、その前の二つの段階の働きは必要ないということにはならない。救いの働き全体が三つの段階の働きであって、その中の一つの段階ではないため、三つの段階の働きのうちどの段階も単独に取り上げて全人類の唯一の認識すべきビジョンとすることはできない。救いの働きが完成されていない限り、神の経営(救い)も完全に終わることはできない。神の存在、性質、そして英知が救いの働き全体の中に表現されており、初めは人に対して明らかにされていなかったが、救いの働きの中で徐々に表されるようになった。救いの働きの各段階それぞれが神の性質と神の存在を部分的に表しているが、働きの各段階が直接かつ完全に神の存在全体を表すことはできない。つまり、救いの働きは三つの段階の働きが完成した後全部終わるのだから、神のすべてに関する人の認識は三つの段階の働きから切り離すことはできない。人が一つの段階から得るものは、単に神の働きの一部で表される神の性質にすぎず、それは前後の段階で表される性質と存在を代表することはできない。なぜなら、人類を救う働きは一時期または一箇所ですぐ終わるものではなく、異なった時期、異なった場所で人類の発展の状況によって次第に深くなっていくものだからである。それはいくつかの段階で行われる働きであって、一つの段階で終わるものではない。だから神の英知の全ては、一つの個別の段階よりはむしろ、三つの段階において具体化されるのである。神の存在の全て、神の全ての英知が、これらの三つの段階の中に配置されていて、どの段階の働きの中にも神の存在があり、神の働きの英知が記されている。人は、これらの三つの段階の中に表現されている神の性質の全体を認識しなければならない。この神の存在の全てが人類全てにとって非常に重要であり、神を礼拝するときに、人がもしこの認識を持たないのであれば、彼らはブッダを崇拝する人々と何ら変わらないことになる。人の間で行う神の働きは人に隠されておらず、神を崇拝するすべての人に認識されるべきである。神は、人の間で人を救う三つの段階の働きを行ったのだから、人は、これらの三つの段階の働きの中で表現されている神が持つもの、また神であるものを認識すべきである。これは人がすべきことである。神が人から隠すことは、人が達成できないこと、また人が知るべきでないことであり、一方、神が人に見せることは、人が知るべきこと、そして人が身に付けるべきことなのである。三つの段階の働きの各段階は、それぞれの前の段階を基礎として実行されるもので、単独には働きは行われず、また救いの働きから切り離しては行われない。実行された働きの時代と種類には大きな違いがあるが、その核心はやはり人類の救いであり、救いの働きの各段階は、その前の段階のものより深くなる。各段階の働きは、そのひとつ前の段階を基礎として続くものであり、それは無効にならない。このようにして、神の働きは古くならず、常に新しく、その中で神は、今まで見せたことのない自らの性質の側面を人に対して絶えず表現し、そして常に神の新しい働きと存在を明らかにし、たとえ古くからの宗教家たちが最大限反抗し公然と反対するとしても、神は常に意図している新しい働きを実行する。神の働きは常に変化しているため、常に人の反対にあう。そこで、神の働きの時代とその対象と同様に、神の性質も常に変化している。その上、神は常にこれまでしたことのない働きを行い、人から見れば以前と矛盾あるいは相反する働きさえする。人は、一種類の働き、あるいは一つの実践方法だけしか受け入れることができない。人にとって、自分たちと相反する、あるいは自分たちよりも高尚な働きや実践方法は受け入れがたい。しかし聖霊は常に新しい働きを行っていて、そのために神の新しい働きに反対する宗教専門家の団体が次から次へと出現する。こういう人たちが専門家になったのは、どうして神が常に新しくて古くならないのかを人が認識しておらず、また神の働きの原則についての認識も持たず、そしてさらに神が人を救う様々な方法についての認識も持っていないがためである。というわけで、人はその働きが聖霊から出たものであるかどうか、あるいは神自身の働きかどうかの区別がつかない。多くの人は、前に発せられた言葉と合致すれば受け入れるが、以前の働きと違う点があれば反対して拒絶するという態度にしがみついている。今でも、あなた方はみなそのような原則に縛られているのではないだろうか。救いの三つの段階の働きは、あなた方にはあまり効果を上げておらず、また前の二つの段階の働きは負担になるものだからまったく認識する必要がないとさえ信じる者もいる。彼らは、これらの段階は、大衆には発表すべきでなく、早々に撤回されるべきだと考えている。三つの段階の働きのうちの前の二段階によって人々が混乱しないようにである。多くの人は、前の二段階の働きを示すのは余計なことであり、神を認識するのに全然役に立たないと思っている―これがあなた方の考えである。今日、あなた方は皆、そのように行動することは正しいと考えているが、いつかわたしの働きの重大さに気づく時が必ず来る。わたしは意義のない働きは行わないことを知らなければならない。わたしがあなた方に三つの段階の働きを示している以上、それらはきっとあなた方のためになる。これら三つの段階の働きは神の経営全体の核心であるのだから、きっと全宇宙で全ての人の注目の的となる。いつかあなた方は皆この働きの重要性に気づくだろう。あなた方が神の働きに逆らう、あるいは自分の観念により今日の働きを判断するのは、あなた方が神の働く原則を知らないからであり、またあなた方が聖霊の働きを真剣に受け止めないからだということを認識しなさい。あなた方が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなた方自身の観念と生まれつきの尊大さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなた方が元々あまりにも反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後に、人がどこから来たのかということさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きが正しいかそうでないかについて演説を行ったりする。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。彼らは人間性が非常に低俗で、思慮分別のかけらも持っていないのである。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識しない代わりに、神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図までする。このように理不尽な人たちがどうして神を知ることができるだろう。人は、神を求め、経験する過程で、神に対する認識を得るようになる。つまり、気まぐれに神を批判する中で聖霊の啓発を受けて神を認識するのではない。神に対する認識が正しいほど、人は神に反発しなくなる。逆に、神への認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格や道徳観は、あなたが神に逆らう「資本」であり、あなたが堕落して下劣で低俗であるほど、あなたはますます神の敵対者になる。欲深い観念の持ち主や独りよがりな性質の者は、さらに受肉した神の憎しみを買い、そのような人たちは反キリストである。もしあなたの観念が正されなければ、常に神に敵対することになり、永久に神と融和することができず、そしていつも神から離れていることになる。

自分の古い観念を捨ててこそ、新しい認識を得ることが可能であるが、古い認識は古い観念であるとは限らない。「観念」とは、人が想像したことで、現実と反するもののことを言う。もし古い認識が古い時代にもう時代遅れとなり、それが新しい働きの中に入るのを阻んでいたなら、そのような認識も観念である。もし人がそのような認識に対して正しく対処することができ、神をいくつか違った側面から認識し、古いものと新しいものを合わせることができれば、古い認識でも人の助けとなり、人が新しい時代に入る基盤となることができる。神を認識するという学びにおいては、例えば、どのようにして神を認識するための道へ入るのか、神を認識するためにはどの真理を理解すべきなのか、またいかにして自分の観念と古い性質を取り除き、神の新しい働きの計画すべてに従うようになるのか等、多くの原則を習得する必要がある。神を知るという学びに入るための基盤としてこれらの原則を用いれば、あなたの認識はますます深くなる。もしあなたが三つの段階の働き、つまり神の経営(救い)の全計画に対してはっきりした認識を持ち、前の二つの段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きであると捉えることができれば、あなたはこれ以上ないほど強固な基盤を持つことになる。三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。神の三つの段階の働きは、異なる時期に異なる場所で行われており、またその内容もそれぞれ異なるが、それらは全て唯一の神によってなされたものである。すべてのビジョンの中でも、これが人の認識すべき最も偉大なビジョンであり、もし人がこれを完全に理解するなら、自分の立場を貫くことができる。現在、様々な宗教や宗派が直面している最大の問題は、彼らが聖霊の働きを認識していないということであり、聖霊の働きと聖霊のものでない働きを区別できず、そのために彼らは、先の二つの段階の働きと同様に、この段階の働きが神ヤーウェによるものかどうかが解らないのである。神に従ってはいても、ほとんどの人がそれが正しい道なのかどうかを区別できない。人は、この道が神が自ら導いているものかどうか、神の受肉が事実であるのかどうかを気に病んでいるが、ほとんどの人は、このことに関し、どのように見分ければ良いのか一切手掛かりがないのである。神に従っている人たちは、取る道を決断できず、よって、発せられる言葉はこのような人たちの間では部分的な効果しか持っておらず、また完全な効果を発揮できないために、そのような人々がいのちに入ることに影響を及ぼしている。三つの段階の働きにおいて、それらが違う時期に、違う場所で、そして違う人々に対して神が為したことであると人が見きわめることができ、たとえ働きが違っていても、それらは全て唯一の神によって為され、それは唯一の神によって為される働きである以上、正しく、間違いがあるはずはなく、またそれが人の観念とは合致せずとも、唯一の神の業であることは否定できないということ――もし人がそれは唯一の神の働きであると確信をもって言えるならば、人の観念はほんの些細な事となり、言及する価値もなくなるであろう。人のビジョンが明確でない上に、人はヤーウェが神でありイエスが主であることしか知らず、現在の受肉した神について決めかねているために、多くの人はヤーウェとイエスの働きに専念することに留まり、今日の働きについての観念に悩まされ、ほとんどの人は常に疑いを抱き、今日の働きを真剣に受け止めていないのである。人は、見ることができなかった先の二つの段階の働きに関しては、何の観念も持っていない。それは、人が先の二つの段階の働きの実情を理解せず、またそれらを自ら目撃しなかったからである。見えないからこそ、人は好きなように想像するが、どんなに想像しても証拠となる事実はないし、またその誤りを正す者もいない。人は、本能のままに警戒心を捨てて想像力を逞しくさせているのだが、立証する事実がないので、証拠があるかどうかに関わらず、人の想像したことが「事実」となっている。従って、人は自分で想像した神を心の中で信じているわけで、実際の神を求めないのである。一人の人間が一種類の信仰を持つとすると、100人の人が居れば100通りの信仰があることになる。人は、神の働きを実際に見たことがないため、また耳で聞いたことがあるだけで、自分で目にしたことがないために、そのような信仰に取りつかれている。人は伝説や物語を聞いたことがあっても、神の働きという事実の認識についてはほとんど聞いたことがない。したがって、信者になってたった一年の人も、自らの観念をとおして神を信じているし、生涯信者である人も同様である。事実を見ることができない者は、神に対する観念がある信仰から抜け出すことはできない。人は自らの古い観念の束縛から解放され、新しい境地に入ったと信じている。神の真の顔を見ることができない者の認識は、観念や言い伝え以外の何物でもないことを人は知らないのだろうか。人はみな自分の観念が正確で間違いないのだと思い、自分の観念は神から来るものだと思っている。今日、人は神の働きを目の当たりにすると、長年にわたって蓄積した観念を放つのである。だが、過去の想像と考え方がこの段階の働きの障害になったため、人がそのような観念を手放し、またそのような考え方に反論するのが困難になっている。今日まで神に従ってきた多くの人たちの持つ、この段階的な働きに対する観念は以前にも増して危機的なものになっており、これらの人たちは、徐々に受肉した神に対する頑固な敵意を形成しているが、この憎しみは人の観念と想像から出ているのである。事実は人に想像する自由を与えず、さらに人によって簡単に反論されることはない一方、人の観念と想像は事実の存在を許さず、その上に人は事実の正確さと信憑性には考慮せず、ただひたすら自分の観念を自由に働かせ、自分自身の想像力をたくましくするために、人の観念と想像は、人の観念とは相いれない今日の働きの敵となったのである。これは、もっぱら人の観念の誤りと言えるもので、神の働きの誤りではない。人が何を想像しようが自由だが、神の働きの事実は人が侵すことができないものだから、神の働きのどの段階でも、あるいは働きのごく一部でも、それについて軽々しく異議を唱えるべきではない。あなたは自由に想像しても構わないし、ヤーウェとイエスの働きについて、すばらしい話をまとめても構わないが、ヤーウェとイエスの働きの各段階の事実について反論してはならない。これは原則であって、行政命令でもあるが、あなた方はこれらの問題の重大さを理解しなければならない。人はこの段階の働きは人の観念と合致しないが、先の二つの段階の働きはその限りではないと信じている。人はその想像の中で、先の二つの段階の働きは今日の働きと同じでないことを確信しているが、神の働きの原則は全て同じであり、神の働きは常に実践的であること、時代に関係なく、いつも神の働きの事実に逆らい反対する人が大量に現れることを考えたことがあるだろうか。今、この働きの段階に逆らい、反対する人たちは、過去の時代においても間違いなく反対していただろう。そのような人々は常に神の敵だからだ。神の働きの事実を理解している人たちは、三つの段階の働きを、唯一の神の働きとして捉え、自分の観念は捨てるのである。このような人々が神を知る人々であり、真に神に従う人々である。神の経営(救い)の一切が終わりに近づくとき、神は万物を種類に応じて分類する。人は創造主の手で造られたのだから、最後には神が人を神の支配のもとに戻さなければならないのである。これが三つの段階の働きの終結である。終わりの日の働きの段階と、イスラエルとユダヤにおける前の二つの段階は、全宇宙における神の経営(救いの)計画である。これは誰にも否定できないし、そしてこれが神の働きの事実である。人々はまだこの働きのほとんどを経験もしていなければ見てもいないが、事実は事実であり、人はだれもこれを否定できない。神を信じる全宇宙各地の人々はみなこの三つの段階の働きを受け入れるであろう。もしあなたが一つの特定の段階の働きだけを認識して、他の二段階の働きを理解せず過去の神の働きも理解しないならば、あなたは神の全経営(救いの)計画の真相を語ることはできないし、あなたの神の認識は偏ったものである。神への信仰においては、あなたは神を知らず、理解していないために、あなたには神を証しする資格がないのである。あなたの現時点でのこれらの事柄に関する認識が深かろうと浅かろうと、最後には、あなた方は認識を持ち完全に納得するようになるはずであり、あらゆる人が神のすべての働きを目にして、神の支配の下に服従するようになるのである。この働きの終わりには、全ての宗教が一つにまとまり、全ての神の被造物が創造主の支配の下に戻り、唯一の真の神を礼拝して、全ての邪悪な宗教は無に帰して、二度と現れることはない。

なぜこのように連続して三つの段階の働きに言及するのか。時代の移り変わり、社会の発展、自然の変貌はみなこの三段階の働きが変化するにつれて変わるのである。人類は神の働きに合わせて変化するのであって、人類が単独で発展しているのではない。神の三つの段階の働きに触れるのは、全ての被造物と、あらゆる宗教、あらゆる宗派の人々全てを、唯一の神の支配の下に集めるためである。あなたがどの宗教に属していようと、最終的にあなたは皆神の支配の下に従うのである。神自身だけがこの働きを実行できるのであって、それはどの宗教の代表にも不可能である。世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表あるいは指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表や指導者ではなく、人類全体が、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているということであり、またこれは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるが、その大きさに関係なく、それらの全てが創造主の支配の下に存在しているのであって、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の進化、そして自然科学の発達、これらはそれぞれ創造主の計画から切り離すことはできないし、この働きは特定の宗教の代表にできるものではない。宗教を代表する人というのは、特定の宗教組織の指導者というだけで、神、つまり天地と万物の創造主の代理を務めることはできない。宗教の代表は、その宗教全体の内において人々を率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表は単なる指導者であり、神(創造主)と対等の立場にはなれない。万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。神だけが万物の中で最も高い地位にいるのであり、すべての被造物の中の最高の支配者でも神の支配の下に帰らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、誰も万物をその種類に応じて分類することはできない。ヤーウェ自身が人類を造り、人々をそれぞれその種類に分類したのだから、終わりの時にもやはり神は自身でその働きを行い、万物をその種類に従い分類するが、これは全て神以外にはできないことである。初めのときから今まで、三つの段階の働きは全て神自身が行ったのであり、それは唯一の神がしたことである。三つの段階の働きの事実は、人類全体に対する神の統率力の事実であり、誰も否定できない事実である。三つの段階の働きの終わりには、万物が種類に応じて分別されて神の支配の下に帰り、そしてそこには全宇宙を通してただ唯一の神だけが存在し、その他の宗教は存在しなくなる。世界を造ることができない者は、世界を終わらせることもできないが、世界を創造した神は、必ず終わらせることもできる。だから、もし誰かが一つの時代を終わらせることができず、単に人がその心を養うのを手助けできるだけなら、その人は断じて神ではないし、断じて人類の主でもない。そのような者にこのような偉大な働きは可能でなく、このような偉大な働きは唯一の存在によってのみ可能である。そしてこのような働きができない者はみなきっと神以外の敵である。全ての邪悪な宗教は神とは相いれない。そして、神と相いれないなら、それらは神の敵である。すべての働きはこの唯一の真の神が為すものであり、全宇宙がこの真の神の支配下にあるのだ。神の働く場所がイスラエルでも中国でも、またその働きが聖霊によるものでも肉体によるものでも、全ては神自らによって行われるもので、他の誰にもできないことである。神が全人類の神だからこそ、神はどんな条件にも制限されず自由に働き、これはすべてのビジョンの中で最大のものである。もしあなた方が、神の被造物の一人として被造物の本分を尽くし、神の心を理解したいのであれば、神の働きを理解し、神の被造物に対する心を理解しなければならず、また神の経営(救いの)計画、そして神の為す仕事の意義の全てを理解しなければならない。これらの事が理解できない者は、神の被造物としての資格がない。もしあなた方が、神の被造物として、自分がどこから来たのかが分かっておらず、人類の歴史や神が行った働きの全てを知らず、さらには人類がいかにしてここまで発展してきたか、また全人類を支配するのは誰なのかを理解していないのであれば、あなた方には、その本分を尽くすことはできない。神は今日まで人類を導いてきた。そして神が人類をこの地上に造ってからこれまで、神は一度も人の傍を離れたことがない。聖霊は休むことなく働き続け、人類を導き続けて、一度も人から離れたことがない。それなのに、人は神の存在に気づかず、ましてや神を知らないが、神の全ての被造物にとって、これほど屈辱的なことがあろうか。神は自ら人を導いているのに、人は神の働きを理解していない。あなたは神の被造物であるのにも関わらず、自分たちの歴史も知らず、これまで自分の旅路の中で誰が自分を導いてくれたのかも分からずにいて、神による働きに気付かないから、神を認識できないのだ。あなたがもし今だに知らないとすれば、神を証しする資格はずっとないであろう。今日、創造主は、もう一度あらゆる人々を自ら導き、そしてあらゆる人々に神の英知、全能性、救い、そしてすばらしさを見せている。それでもあなたはまだ気付かず、あるいは理解できずにいるから、それであなたは救いを得られない者になっているのではないか。サタンに属する者たちは神の言葉を理解できず、神に属する者たちには神の声を聴くことができる。わたしの話す言葉に気付いて理解する全ての人々は、救われる者たちであり、また神を証しする者たちなのだ。わたしが言った言葉を理解しない全ての人々は神を証しすることができず、排除される者たちなのだ。神の心を理解できず、また神の働きに気付かない人々は、神の認識を達成することができず、そのような人々は神を証しすることはない。もしあなた方が神を証ししたいと願うなら、あなた方は神を知らなければならないし、その神の認識は、神の働きを通して達成される。結局のところ、神を知りたいと望むならば、神の働きを知らなければならない。つまり、神の働きを知ることが最重要なのである。三つの段階の働きが終わるとき、神を証しする者たちの一集団、つまり神を知る者たちの一団が作られる。この人たちはみな神に対する認識があり、真理を実行することができる人たちである。彼らには人間性と理知があり、皆三つの段階の救いの仕事を認識している。これが最後になし遂げられる働きであり、この人たちは6000年にわたる経営(救い)の働きの結晶であり、最終的にサタンを打ち負かした最も有力な証しである。神を証しすることができる者は、神の約束と祝福を受けることができる上に、最後の時に残り、神の権威を持ち、神を証しする一団になるだろう。もしかすると、あなた方の全ての人がこの一団の一員になれるかもしれず、あるいは半分か数人だけがそうなれるかもしれないが、それはあなた方の意思と追求にかかっている。


キリスト教映画「待ち焦がれて」抜粋シーン(5)主が私達に用意してくださった場所はどこにある

2020-01-28 09:38:48 | 全能神教会ミュージカル

今から二千年前、主イエスはお約束をされました。「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。」(ヨハネによる福音14:2~3)主は天国へ行かれ、私達のために場所を準備されていると多くの者が信じています。果たしてこれは主の御言葉に沿っているのでしょうか?このお約束にはどういう奥義が隠されているのでしょう?

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聖書映画「夢からの目覚め」抜粋シーン(4)終わりの日のキリストを受け入れ、神の御国に招き入れられる事

2020-01-27 10:13:39 | 全能神教会映像

聖書映画「夢からの目覚め」抜粋シーン(4)終わりの日のキリストを受け入れ、神の御国に招き入れられる事

もし私達が信じさえすれば、主イエスの道を踏み外さず、終わりの日の全能神の裁きの御働きを受け入れなければ、果たして清められ神の御国に入ることはできるのでしょうか。あなたは神の御国の祝福を受けるために、神の歩みにしたがう賢い乙女になりたいですか。どうぞこの動画をご覧ください。

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「玉座から命の川の水が流れ出る」から、その四「裁きの仕事の意義」

2020-01-26 10:49:22 | 全能神教会映像

あらすじ

私たちは主の恵みを受けてすでに救われました。なぜまた全能神の世の終わりの裁き、清めの仕事を受け入れてこそ天国に入れるのでしょうか?この短編映画があなたのためにその奥義を開きます。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く

2020-01-25 11:05:32 | 书籍
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人は現在の働きと将来の働きを少しは理解しているが、人類が入る終着点については理解していない。被造物として、人はその本分を果たすべきである。つまり、人は神のなすことが何であれ彼に従うべきである。わたしがあなたがたにどんな道を示そうが、その道を歩むべきである。あなたには自分のために采配を下す術はなく、自分自身に対する支配力も持っていない。すべては神の采配に委ねられなければならない。また、すべてのことは神の手中に握られている。もし神の働きによって人に結末、すなわち素晴らしい終着点が前もって与えられ、神がこれを用いて人を引きつけて、従わせるなら、――つまり、神が人と取引をするなら――これは征服ではなく、人のいのちに働きかけることでもない。神が人を支配し、人の心を獲得するために結末を用いるなら、それは神が人を完全にすることにも、人を獲得することにもならず、ただ終着点を使って人を支配しようとしているだけである。人が気に掛けることといえば、将来の行く末、終着点、そして自分が何か良いことを望めるかどうかだけである。もし征服の働きの間、人に素晴らしい望みが与えられ、人の征服に先立って人が追い求めるに適した終着点が与えられるとしたら、人の征服はその効果を達成しないばかりか、征服の働きに影響を及ぼすだろう。すなわち、征服の働きは、人から運命や前途を奪い取り、人の反抗的な性質を裁き、罰することによってその効果を達成するのである。それは、人との取引、つまり人に祝福や恵みを与えることによって達成されるものではなく、人の「自由」を剥奪し、人の前途を絶つことにより、人の忠誠心を明らかにすることで達成される。これが征服の働きの本質である。もし最初から素晴らしい望みが与えられ、刑罰や裁きがそのあとで行われるなら、人は自分の前途が開けることを基にしてこの刑罰や裁きを受け入れるだろう。そして、最終的には、すべての被造物による造り主への無条件の服従と崇拝が達成されることはないだろう。そこには盲目的で無知な従順さしかないか、人が神に盲目的に何かを要求するだけで、人の心を完全に征服することはあり得ないだろう。その結果、このような征服の働きによって人を獲得するのは不可能であり、神を証しすることなどなおさらできない。そのような被造物はその本分を果たすことができず、ただ神と取引するだけである。これでは征服ではなく、憐れみと祝福である。人の最も大きな問題は、人が自分の運命と前途のことしか考えず、それらを偶像としていることである。人は自分の運命と前途のために神を追い求めるだけで、神への愛から神を礼拝することはない。そのため、人を征服するには、人の身勝手さや貪欲、そして神を崇拝する妨げとなるものは、すべて排除しなければならない。そうすることによって、人の征服の効果が達成されるだろう。その結果、人を征服するもっとも最初の段階で、まず人の野心や最も致命的な弱点を一掃し、これを通して人の神への愛を現わし、人生についての認識を変え、また神に対する見方、自身の生存の意味などを変える必要がある。このようにして人の神への愛は清められる。つまり、人の心が征服されるのだ。しかし、全ての被造物に対する神の姿勢は、征服することだけを目的として征服するというものではない。そうではなく、彼は、人を獲得するため、自らの栄光のため、そして人の一番最初の本来の姿を回復するために、人を征服するのである。彼が征服することだけを目的として征服するなら、征服の働きの意義が失われてしまうだろう。つまり、もし人を征服した後、神が人に見切りをつけ、人の生死に気を留めないないなら、これは人類に対する経営(救い)にも、人の救いのための征服にもならないであろう。人が神により征服されたあとに神のものとされることと、素晴らしい終着点へ到達することのみが全ての救いの働きの中核であり、これによってのみ人の救いの目的が達成されるのである。すなわち、人が素晴らしい終着点に到着し、安息に入ることのみが、全ての被造物が持つべき前途であり、造り主によってなされるべき働きである。もし人がこの働きをしようものなら、それはあまりにも制限されたものになるだろう。人はある所までは行くことができても、永遠の終着点まで行くことはできないであろう。人は自分の運命を決めることはできないし、自分の前途や未来の終着点を保証することなど、尚更できない。しかし神によってなされる働きは異なる。彼は人を造ったからには、人を導く。彼は人を救ったからには、完全に救い、完全に人を獲得する。彼は人を導くからには、人を適切な終着点に連れて行く。そして、神は人を創造し、経営するからには、人の運命と前途のために責任を負わなければならない。これこそが造り主によってなされる働きである。征服の働きは人の前途を絶つことでなされるが、人は最終的に神によって用意された適切な終着点に連れて行かれなければならない。人が終着点を持ち、人の運命が確かにされるのは正に、神が人に働きかけるからである。ここで言及されている適切な終着点とは、過去に取り除かれた人の望みとか前途のことではない。この二つは異なったものである。人が望んだり追い求めたりするものは、人にふさわしい終着点というより、肉の途方もない欲求の追求である。一方、神が人のために用意したものは、人が清くされた後に与えられる祝福と約束であり、それは神が世界を創造した後に人のために用意したもので、人の選択、観念、想像、あるいは肉などによってされていない。この終着点はある特定の人に用意されたものではなく、全人類の安息の地である。したがって、この終着点は人類に最適な終着点である。

造り主はすべての被造物を指揮することを欲している。あなたは神が為すことが何であれ、放棄したり背いたりしてはならないし、神に反抗すべきではない。神が為す働きは、最終的には彼の目的を達成し、それによって彼は栄光を受ける。なぜ現在は、あなたがモアブの子孫であるとか、赤い大きな竜の子孫であるとか言われないのか。なぜ選びの民については何も語られず、被造物についてのみ語られるのか。被造物――これが人の本来の呼び名であり、人が本来持っている身分である。呼び名が異なるのは、働きの時代や期間が異なるからに過ぎない。実際、人はごく普通の被造物である。すべての被造物は、最も堕落したものであれ、最も聖いものであれ、被造物としての本分を尽くさなければならない。征服の働きを実行するとき、神はあなたの前途や、運命や、終着点を利用してあなたを支配することはない。実際そのように働く必要はない。征服の働きの目的とは、人に被造物としての本分を尽くさせ、造り主を礼拝させることである。その後初めて人は素晴らしい終着点に入ることができるのだ。人の運命は神の手によって掌握されている。あなたは自分自身を掌握することはできない。いつも自分自身のことであくせく動き回っているのにもかかわらず、人は自分自身を掌握することができないままでいる。あなたがもし自分の前途を知ることができ、自分の運命を掌握できるなら、それでもあなたは被造物だろうか。端的に言うと、神がどのように働いたとしても、彼の働きはすべて人間のためである。たとえば、人に仕えるために神が造った天、地、そして万物――神が人のために造った月、太陽、星など、また動物や植物、春、夏、秋、冬など――はすべて人が生存するために造られたのである。したがって、神がどのように人を罰し、裁くにしても、それはすべて人の救いのためである。神が人から肉的な望みを剥奪したとしても、それは人を清めるためであり、人の清めは人の生存のためである。人の終着点は造り主の手の中にあるのだから、人はどうして自分自身を掌握できるだろうか。

一旦、征服の働きが完了すると、人類は美しい世界に連れて行かれる。もちろん、この生活はまだ地上にあるが、現在の人間の生活とは全く違う。それは全人類が征服された後の生活であり、それは地上の人間にとって新しい始まりとなり、人類がそのような生活を送ることは、彼らが新しく美しい領域に入ったという証拠となるであろう。それは地上における人と神の生活の始まりとなる。そのような美しい生活の前提として、人は清められ征服されたあと、造り主の前に服従する。それゆえ、征服の働きとは、人類が素晴らしい終着点に入る前の、神の働きの最終段階である。そのような生活は地上における人類の未来の生活であり、それは地上で最も美しい生活、つまり人が待ち焦がれていたような生活であり、世界史上、人が決して達成したことのないような生活である。それは六千年の経営(救い)の働きの最終的結果であり、人類が最も待ち望んでいたものであり、それはまた、神が人間に約束していたものでもある。しかし、この約束はすぐには実現されない。終わりの日の働きが完成され、人が完全に征服され、すなわちサタンが完全に打ち負かされて、初めて人類は未来の終着点に入るのである。人は精錬された後、罪の性質がなくなる。なぜなら、神はサタンを打ち負かしたので、敵対勢力による侵略はなく、人の肉を攻撃する敵対勢力がなくなるからである。そのようにして、人は自由になり、聖くなり、永遠の中に入るだろう。暗闇の敵対勢力が縛られて初めて、人はどこに行っても自由で、反抗や抵抗もなくなるであろう。人が無事であるためには、サタンは縛られなければならない。現在、サタンは地上あちこちで問題を引き起こしており、神の経営(救い)の働きはまだ全て終わってはいないので、人は無事ではない[a]。一旦サタンが打ち負かされると、人は完全に解放される。人が神を得てサタンの領域から抜け出すと、義の太陽を見ることになる。正常な人にふさわしい生活が取り戻される。正常な人が持っているべきもの――善悪を見分ける能力、衣食のあり方への理解、正常に生活する能力など――これらすべてが取り戻される。もしエバが蛇に誘惑されていなかったら、人は最初に創造された後、普通の生活を送っていたはずである。人は食べ、服を着て、地上の普通の人の生活を送ったはずである。しかし人が堕落してから、このような生活は夢物語となり、現在も、人はそのようなものを敢えて想像することもない。実際のところ、人が待ち望むこの美しい生活は不可欠である。もし人がそのような終着点を持っていないなら、地上での堕落した生活は決して終わることがないだろう。そして、もしそのような美しい生活がないなら、サタンの運命やサタンが地上を支配する時代に終結はないだろう。人は暗闇の勢力が及ばない領域に達しなければならない。そうするとき、サタンが打ち負かされたことが証明されるのである。このようにして、一旦サタンの妨害がなくなると、神は自ら人類を掌握し、人間生活の全てを指揮し、支配する。これによって初めてサタンが敗北したことになる。現在、人の生活は大方汚れの生活であり、やはり苦しみと患難の生活である。これをサタンの敗北と呼ぶことはできない。人はまだ苦難の海から脱しておらず、人生の苦痛、あるいはサタンの影響から抜け出しておらず、依然として神に関しては、未だに微々たる認識しか持っていない。人のすべての困難はサタンによって造り出され、人の人生に苦難をもたらしたのはサタンであるので、サタンが縛られて初めて、人は苦難の海から完全に逃れることができるのである。しかし、サタンを束縛することは、人の心を征服し獲得することを通して、また、人をサタンとの闘いの戦利品にすることによって達成される。

現在、人が勝利者になること、完全にされることを追い求めるのは、地上で正常な人の生活を送る以前に追求すべきことであり、サタンが束縛される以前に人が求めるべき目標である。勝利者になること、そして完全にされること、あるいは大いに用いられることを人が追い求めることは、実質的には、サタンの影響から逃れることである。人が追求しているのは、勝利者になることだが、最終的な結果はサタンの影響から逃れることである。サタンの影響から逃れることによってのみ、人は地上で正常な人間の生活、神を礼拝する生活を送ることができる。現在、人は勝利者になり、完全にされることを追い求めているが、それは地上での正常な人間の生活を送る以前に求めるべきことである。それらのことは、おもに清められ真理を実行に移すために追求され、また造り主の礼拝を達成するために追い求められる。もし人が地上で正常な人間の生活、困難や苦悩のない生活を送っているなら、人は勝利者になることを敢えて追い求めはしないだろう。「勝利者になること」と「完全にされること」とは、神が人に追求するように与えた目標であり、これらの目標を通して、神は人が真理を実践し、意義深い人生を送るようにするのである。その目的とは、人を完全にし、人を獲得することであり、勝利者になることと完全にされることを追求することは、単なる手段に過ぎない。もし将来、人が素晴らしい終着点に入ることになるなら、勝利者になることと完全にされることについて言及されることはなく、被造物がそれぞれの本分を尽くすだけである。現在は、単に人間の範囲を定義するために、人にこれらの事を求めさせているだけで、それによって人の追求がより目標を得て、さらに実践的になるためである。これなしには、人が永遠のいのちに入ることを追求しても、それは漠然として抽象的になるだろうし、もしそうなれば、人はもっと哀れではないだろうか。目標や原則なしに、このように追い求めるのは――自己欺瞞ではないだろうか。最終的には、このような追求は当然実を結ぶことがなく、その後も人は依然としてサタンの領域の下に生きることになり、そこから脱け出すのは不可能だろう。なぜ自分自身をそのような目的のない追求に従事させるのか。永遠の終着点に入るとき、人は造り主を礼拝する。そして、人は救いを得て、永遠の中に入ったので、人は何の目的も追求しないし、その上、サタンによって包囲される心配もない。この時、人は自分の立場を知り、本分を尽くす。そして、罰されたり裁かれたりしなくとも、人はそれぞれ自分の本分を尽くすだろう。その時、人は身分においても、地位においても被造物となる。高低の差別はもはやない。人はそれぞれの異なる役割を果たすだけである。但し、人は依然として人類の秩序ある適切な終着点の中で生きており、造り主を礼拝するために本分を尽くす。そして、このような人類は永遠の人類となるであろう。その時、人は神に照らされた生活、神の配慮と守りの下にある生活、そして神と共に生きる生活を獲得することになる。人類は地上で正常な生活を送り、全人類が正しい軌道に乗ることになる。六千年の経営(救いの)計画は徹底的にサタンを打ち負かすことになるだろう。つまり、神は創造直後の人間の本来の姿を回復させ、そうして、神の本来の意図が成就される。最初、人類がサタンによって堕落させられる前、人間は地上で正常な生活を送っていた。その後、サタンに堕落させられた時、人はこの正常な生活を失った。そこで、神の経営(救いの)の働きと、人の正常な生活を取り戻すためのサタンとの闘いが始まった。六千年にわたる神の経営(救い)の働きが終わって初めて、全人類の生活が地上で正式に始まり、そうして初めて人は素晴らしい生活をすることができ、神は最初に人を創造したときの目的と人の本来の姿を回復するだろう。したがって、一旦地上で人類の正常な生活を始めると、人は勝利者になることや完全にされるということを追求しなくなるだろう。というのは、人は聖くなるからである。人によって語られた勝利や完全さは、神とサタンとの戦いの間に、人が追い求めるために与えられた目標である。そして、それらの目標は、人が堕落したので存在しているだけである。あなたに目標を与え、あなたにこの目標を追求させることによって、サタンは打ち負かされるのである。勝利者になったり、完全にされたり、用いられたりすることをあなたに求めることは、サタンを辱めるために証しすることをあなたに要求することである。最後には、人は地上で正常な人間の生活を送り、聖くなるだろう。そして、このことが起こるとき、それでも彼らは勝利者になることを求めるだろうか。彼らはみな被造物ではないか。勝利者になることと、完全なものにされることは、どちらもサタンと人の汚れに向けられている。この「勝利者」とはサタンや敵対する勢力に勝利することを指しているのではないだろうか。あなたが自分は完全にされていたと言うとき、あなたの中のどこが完全にされたのだろうか。それは、あなたが神への崇高な愛に達することができるよう、堕落したサタンの性質を自分から取り除いたということではないだろうか。そのようなことは、人の中にある汚れたもの、そして、サタンと関連して語られる。それらは神と関連して語られるのではない。

現在、あなたが勝利者になり完全にされることを求めないなら、将来、人類が地上で正常な生活を送るとき、そのような追求の機会はないであろう。その時、あらゆる部類の人間の最後が明かにされるだろう。その時、あなたがどのような種類のものか明らかにされ、もしあなたが勝利者になることや、完全にされることを願っても、それは不可能であろう。人はその反抗心ゆえに、明らかにされてから、懲罰を受けるだけである。その時、人間が追求するものは、他の人達より高い地位ではない。勝利者となることを追求する人があれば、完全にされることを追求する人もあり、また神の長子となることを追求するものや神の子になることを追求する人もいるが、彼らはこれらのことを追求しない。すべての人たちは神の被造物となり、すべての人たちは地上で生活し、すべての人たちは神と共に地上で生活するだろう。今こそ、神とサタンとの戦いの時である。この戦いはまだ終わっておらず、人はまだ完全に神のものとされていないので、これは移り変わりの期間である。それゆえ、人には勝利者になるか、神の民の一員になるかを追求することが要求される。現在、地位に区別があるが、時が来ればそのような区別はなくなるのである。勝利を得たすべての人たちの地位は同じで、彼らはすべて資格のある人間となり、地上で平等に生きるであろう。つまりそれは、彼らはみな資格のある被造物となり、彼らに与えられる物はすべて同じという意味である。神の働きの時代は異なり、神の働きの対象も違うので、もしこの働きがあなたがたになされるなら、あなたがたは完全にされ、勝利者になる資格を持つ。もしそれが国外でなされたとしたら、彼らは征服されるための最初の群、また完全にされるための最初の群になる資格を持つ。現在、この働きは国外ではなされていない。だから、彼らには完全にされ、勝利者になる資格はなく、彼らが最初の群になるのは不可能である。神の働きの対象、神の働きの時代、そして神の働きの範囲が異なっているので、最初の群、つまり、勝利者たちがいて、完全にされる者たちからなる第二の群もいるだろう。完全にされた者たちからなる最初の群ができれば、模範とひな型も存在するだろう。だから将来は完全にされた人達の第二、第三の群が存在するだろうが、永遠においてはみな同じであり、地位においても分類はないであろう。彼らはただ異なった時に完全にされるのであって、地位の違いは全くない。すべての人たちが完全にされ、全宇宙におよぶ働きの終わりが来ると、地位に区別はなく、すべての者が平等になるであろう。現在、この働きがあなたがたの間でなされているのは、あなたがたは勝利者になるためである。もしこれがイギリスでなされたら、イギリスに、あなたがたと同じように、最初の群ができるであろう。わたしがあなたがたの中で現在の働きを実行しているのは、あなたがたに特に恵み深くしているだけのことである。そして、もしわたしがこの働きをあなたがたの間でしなかったら、あなたがたも同じように、二番目の群、もしくは三番目、四番目、五番目の群となるだろう。これは単に働きの順序の違いによるものである。一番目と二番目の群があることは、一方の地位が高く、もう一方の地位が低いという意味ではない。それは単にこの人たちが完全にされる順番を意味しているだけである。現在、これらの言葉があなたがたに伝えられているが、なぜあなたがたはもっと早く知らされていなかったのだろうか。なぜなら、過程がなければ、人々は極端に走る傾向があるからである。たとえば、イエスは当時、わたしは去ったときと同じように、再び来ると言った。現在、多くの人たちはこの言葉に夢中になり、白い衣を着て天に携挙されるのを待つことだけを望んでいる。したがって、早急に語らない方が良い言葉が沢山ある。もし早急に語ってしまうと、人は極端に走るからである。人の霊的背丈はあまりに低く、これらの言葉の真理を見抜くことができない。

人類が地上で真の人間生活を達成し、サタンの全勢力が縛られると、人は地上で楽に生きることになるだろう。物事は現在ほど複雑ではなくなるだろう。人間関係、社会関係、複雑な家族関係など……。それらは厄介で、本当に苦痛である。地上の人間生活はとてもみじめである。一旦征服されると、人の心と思いは変わるだろう。人は神を畏敬する心と、神を愛する心を持つだろう。全宇宙で神を愛することを求めるすべての人たちが征服され、つまりサタンが打ち負かされ、サタン――暗闇の全勢力――が縛られると、地上での人の生活は困難でなくなり、地上で自由に生きることができるだろう。もし人の生活に肉の関係がなく、肉の複雑さがないなら、どれほど楽なことだろう。人の肉的な関係はあまりにも複雑で、人にとってそのようなものを持つことは、その人がまだサタンの影響から解放されていない証拠である。もしあなたが兄弟姉妹と同じ関係を持ち、家族と同じ関係を持っていたら、あなたは何の心配もしないだろうし、誰かを心配する必要もないだろう。これ以上良いことはないだろうし、これなら人は苦しみの半分から解放されるだろう。地上で正常な人間の生活をすると、人は天使のようになる。依然として肉体を持っているけれども、人は天使のようになるだろう。これは最後の約束、人に授けられる最後の約束である。現在、人は刑罰や裁きを受けるが、あなたは、人間がそのような体験をすることを無意味だと思うのか。刑罰の働きや裁きの働きが何の理由もなく行われるだろうか。以前、人を罰し、裁くことは人を底なしの穴に落とすことだと言われてきた。それはつまり、人の運命や前途を奪い取ることを意味する。これはただ一つのこと、つまり人を清めるためである。神は人を故意に底なしの穴に落しておいて、人間に見切りをつけるのではない。むしろ、人の中にある反抗心を取り扱い、最終的に人の中にあるものが清められ、神に対して真の認識を持ち、人が聖なる者のようになるためである。もしこのことがなされるなら、すべてのことが成就されるだろう。実際、人の中にある取り扱われるべきこれらのものが取り扱われ、人が響きわたるような証しをするなら、サタンは打ち負かされ、たとえ人の中に生来あるものがまだ完全に清められず、少しは残っていても、一旦サタンが敗北すると、もはやサタンが困難をもたらすことはなく、その時こそ人は完全に清められるであろう。人はそのような生活は体験したことがないが、サタンが打ち負かされると、すべてに決着がつき、人の中にある些細なことはすべて解決される。主な問題が解決されると、他の全ての問題も解決する。神が今回地上で受肉している期間、彼が人の間で自ら働きをなす時、彼がなす全てのことは、サタンを打ち負かすためである。そして、彼は人を征服し、あなたがたを完全にすることによって、サタンを敗北させるのである。あなたがたが響きわたるような証しをするとき、これもまた、サタンの敗北のしるしとなるであろう。人は、サタンを打ち負かすために、最初に征服され、最終的に完全にされるのだ。けれども、実質的に、これはサタンの敗北であると同時に、全人類がこのむなしい苦悩の海から救われることでもある。この働きが全宇宙で実行されるのか、中国で実行されるのかに関わらず、そのすべてはサタンを打ち負かすためであり、人が安息の地に入ることができるよう全人類に救いをもたらすためである。受肉した神、即ちこの普通の肉体は、正にサタンを打ち負かすためである。肉なる神の働きは、神を愛する天の下にいる全ての人たちに救いをもたらすために用いられ、それは全人類を征服するためであり、さらには、サタンを打ち負かすためである。神の経営(救い)の全ての働きの中核は、全人類に救いをもたらすためのサタンの敗北と切り離せない。この働きの多くにおいて、あなたがたに証しをするように常に言うのはなぜだろうか。そしてその証しは誰に向けられるのか。それはサタンに向けられているのではないか。この証しは神のためになされ、神の働きがその効果を達成したことを証しするためのものである。証しすることはサタンを打ち負かす働きと関係している。もしサタンとの戦いがなかったら、人は証しをするよう要求されないだろう。サタンは敗北しなければならないので、神は人を救うと同時に、サタンの前で人が神に証しすることを要求する。人を救い、サタンと戦うために神はそれを用いるのだ。したがって、人は救いの対象であり、またサタンを打ち負かすための道具でもある。そのため、人は神の経営(救い)全体の働きの核心に置かれており、サタンは滅ぼす対象、つまり敵にしかすぎない。あなたは自分は何もしていないと感じるかもしれないが、あなたの性質が変わることで、証しとなっている。そしてこの証しは人に対してではなく、サタンに向けられている。人はそのような証しを享受するに適していない。神によってなされた働きが、どうして人に理解できようか。神の戦いの対象はサタンであり、一方、人は救いの対象に過ぎない。人は堕落したサタンの性質を持っているので、この働きを理解することはできない。これはサタンによる堕落だからである。それは人の中に生まれつきあるのではないが、サタンによって仕向けられる。現在、神の主な働きはサタンを打ち負かすことである。つまり、人を完全に征服し、その結果、人がサタンの前で、神に最後の証しをするためである。このようにして、全てのことが成就されるだろう。多くの場合、あなたの肉眼では、何もなされなかったように見えるが、実際、働きはすでに完成されているのである。人は完成したすべての働きが目に見えることを要求するが、それがあなたに見えなくても、わたしは働きを完成させたのである。というのは、サタンが服従したからであり、それは、サタンが完全に打ち負かされ、神の知恵、力、権威のすべてがサタンに勝利したという意味である。これこそが立てられるべき証しであって、人に明白な表現はなく肉眼には見えなくても、サタンはすでに打ち負かされたのである。この働きのすべてがサタンに向けられており、サタンとの戦いの故に実行される。したがって、人には成功したように見えない多くの事があるが、神の目にはずいぶん前に成功しているのである。これは神のすべての働きの秘められた真理の一つである。

一旦サタンが打ち負かされると、すなわち、人が完全に征服されると、人はこのすべての働きが救いのためであり、この救いの手段はサタンの手から取り戻すということであると理解するだろう。神の経営(救い)の六千年の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代というように三段階に分かれている。これら三段階の働きはすべて人類の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落させられてきた人類の救いのためである。けれども、それは同時に、神がサタンと戦うためでもある。したがって、ちょうど救いの働が三段階に分かれているように、サタンとの戦いも三段階に分かれおり、この二つの側面の神の働きが同時に行われる。サタンとの戦いは実際、人類の救いのためであり、また、人類の救いの働きは一つの段階ではうまく完成できるものではないから、サタンとの戦いもまた段階と期間に分けられている。そして戦いは、人間の必要とサタンによる人間の堕落の程度に応じて、サタンに対して遂行される。おそらく人は、二つの軍勢が戦うように、神がサタンに向かって武器を取って戦うのだろうと想像の中で考えているだろう。人の知恵はこれくらいしか想像することができない。それはこの上なく曖昧で、非現実的な考えであるが、それが人の信じることである。そして、人の救いの手段はサタンとの戦いを通してである、とわたしがこうして言うので、人はそのような戦いの様子を想像する。人の救いの働きは三段階で実行された。すなわち、サタンとの戦いは、サタンが完全に打ち負かされる前に三段階に分割されたということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きに秘められた真理は、人に恵みを施し、人の罪祭となり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器を持って立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神を証しすることである。サタンはこのようにして打ち負かされるのである。人の堕落した性質を変えることを通してサタンは打ち負かされる。サタンが敗北すると、つまり、人が完全に救われると、そのとき辱めを受けたサタンは完全に縛られ、こうして人は完全に救われることになる。ゆえに、人の救いの実質はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いに反映される。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、また、人をサタンの領域から完全に救う働きでもある。人の征服の秘められた意味は、サタンの化身、つまりサタンに堕落させられた人間が征服に引き続いて造り主に戻ることであり、これにより人はサタンを見捨て、完全に神に戻る。このようにして、人は完全に救われるだろう。したがって、征服の働きはサタンとの戦いにおける最後の働きであり、サタンを打ち負かすための、神の経営(救い)における最終段階である。この働きがなくては、人の完全な救いは最終的には不可能で、サタンの完全敗北もまた不可能になるであろう。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることができず、サタンの影響から自由になることもできないだろう。従って、人の救いの働きを、サタンとの戦いが終結する前に完了することはできない。というのは神の経営(救い)の働きの核心は人類の救いであるからである。最初の人類は神の手の中にあったが、サタンによる誘惑と堕落によって、人はサタンに縛られ、悪しき者の手中に落ちてしまった。こうしてサタンは、神の経営(救い)の働きにおいて、打ち負かす対象となった。サタンは人間を自分の所有物としたが、人は神の全経営の資本であるので、人が救われるには、サタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、人間はサタンの虜となった後に連れ戻されなければならないのである。かくして、サタンは、人間の古い性質の変化、人間の本来の理知を回復する変化によって打ち負かされなければならず、こうして、虜となっていた人間をサタンの手から取り戻すことができる。もし人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンは辱められ、人は最終的に取り戻され、サタンは打ち負かされるであろう。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、人はこのすべての戦いの戦利品となり、この戦いが終わるとサタンは懲罰の対象となるそのとき、人類を救う働きのすべてが完了するのである。

神は被造物に対して悪意はなく、サタンを打ち負かすことだけを願っている。神の働きのすべては――それが刑罰であろうと裁きであろうと――サタンに向けられている。それは人類の救いのために実行され、すべてサタンを打ち負かすためであり、目的はひとつである。それはサタンと最後まで戦うことである。そして神はサタンに勝利するまで、決して休むことはない。神はサタンを打ち負かして初めて休息する。神によってなされるすべての働きはサタンに向けられており、また、サタンに堕落させられた人たちはすべてサタンの領域で支配され、みなサタンの領域で生きているので、サタンと戦ってそれを断ち切ることがなければ、サタンはその人たちへの掌握をゆるめないだろうし、彼らが神のものとされることもないだろう。もし彼らが神のものとされなかったら、それはサタンが打ち負かされておらず、征服されていないことの証明となるだろう。したがって、神の六千年の経営(救いの)計画の最初の段階で、神は律法の働きをなし、第二段階で恵みの時代の働き、すなわち、十字架の業をなし、第三段階では、人類征服の働きをなした。このすべての働きは、サタンが人類を堕落させた度合いに応じており、それはすべてサタンを打ち負かすためであり、サタンを打ち負かすためではない段階は一つもない。神の経営(救い)の六千年の働きの実質は、大きな赤い竜に対する戦いであり、人類を経営する(救う)働きもまたサタンを打ち負かす働き、サタンと戦いを交える働きである。神は六千年も戦い、このようにして、人を最終的に新しい領域に連れて行くため六千年も働いてきた。サタンが打ち負かされるとき、人は完全に自由になる。これこそ現在の神の働きの方向ではないだろうか。これこそ正に現在の働きの方向である。つまり、人を完全に解放し自由にすることである。その結果、人はどんな規則にも支配されず、あらゆる束縛や抑制にも制限されなくなる。この働きのすべてはあなたがたの霊的背丈とあなたがたの必要に応じてなされる。つまりそれは、あなたがたが達成できるものは何であれ与えられるという意味である。それは、「アヒルを追いやって木に止まらせる」というような、あなたがたに能力以上のことを強制するものではない。そうではなく、このすべての働きは、あなたがたの実際の必要に応じて実行されるのである。それぞれの段階の働きは、人の実際の必要や人への要求とに応じてなされ、それはサタンを打ち負かすためである。実際、初めは造り主と彼の創造物との間に壁はなかった。それらはすべてサタンが引き起こしたのである。人はサタンによる妨害と堕落によって何も見えなくなり、何も触ることができなくなった。人は犠牲者であり、欺かれた者である。サタンが敗北すると、被造物は造り主を見上げ、造り主は被造物に目を注ぎ、自ら彼らを導くことができる。唯一これのみが、人が地上で送るべき生活である。したがって、神の主な働きはサタンを打ち負かすことであり、サタンが敗北すると、すべてが解決される。現在、あなたは、神が人々の間に来たことが特別なことであることを知っただろう。神はあなたがたの欠点を毎日見つけてあれこれ指摘するために来たのではなく、単に自らの容貌、話し方、生き方を見せるために来たのでもない。神が肉となったのは、単にあなたがたが神を見上げるようになるためでも、あなたがたの目を開くためでもなく、また、自らが語る奥義と自らが開いた七つの封印に関して聞かせるためでもない。むしろ、神はサタンを打ち負かすために肉となったのである。神は人を救うために、またサタンと戦うために、肉となって自ら人の所に来た。そしてこれこそが彼の受肉の意義である。もしそれがサタンを打ち負かすためでなかったなら、彼は自らこのような働きをしないだろう。神は人々の間で自らの働きをなすため、人に自らを現すため、また、人が神を見上げるようになるために地上に来た。これは些細なことだろうか。これは実に驚くべきことである。人の想像とは違い、神が来たのは、人が彼を見上げるようになり、神は実在し、漠然として空しい存在ではなく、いと高き方であるが謙っていることを人が理解するためである。これはそれほど単純なことだろうか。神が肉の姿をとってサタンと戦い、自ら人を牧さなければならないのは、正確に言えば、サタンが人の肉体を堕落させたからであり、人間こそが神の救おうとするものだからである。神の働きに有益なのはこれのみである。神の二度の受肉はサタンを打ち負かすために存在し、また、より効果的に人を救うために存在した。なぜなら、サタンと戦いを交える方は、それが神の霊であれ、神の受肉であれ、神をおいては他にいないからである。要するに、サタンと戦いを交える者は天使のはずはなく、ましてやサタンに堕落させられた人間であるはずもない。天使にそのような力はなく、人間はもっと無力である。そのように、もし神が人のいのちに働くことと、人に働くために自ら地上に来ることを望むなら、神は自ら肉となり、つまり、自ら肉の姿をとり、神の本来の身分と神がしなければならない働きをもって、人を救うために人々の間に来なければならない。もしそうでなく、この働きをしたのが神の霊か、人間であったなら、この戦いは永遠にその効果を達成することはなく、決して終わることもないだろう。神が肉となり、人々の間で自らサタンに戦いを挑むとき初めて、人に救いの機会があるのだ。さらに、その時初めてサタンは辱められ、利用する機会も、企てる計画もまったくないままの状態になるだろう。受肉の神によってなされる働きを、神の霊によって成し遂げることは不可能であり、神の代わりに肉なる人間によって成し遂げることはなおさら不可能である。というのは、神がなす働きは人のいのちのためであり、人の堕落した性質を変えるためであるからだ。人がこの戦いに加わるとしたら、惨めにも混乱してただ逃げるだけで、彼らには人間の堕落した性質を変えることはまったくできないであろう。人には十字架から人間を救ったり、反抗的な人類すべてを征服したりすることは不可能であり、原則に従って古い働きを少しするか、サタンの敗北とは関係のない他の働きをすることしかできないだろう。それならなぜ思い煩う必要があるのか。人間を獲得することも、ましてサタンを打ち負かすこともできない働きに何の意味があるのか。したがって、サタンとの戦いは神自らによってのみ遂行されるのであって、人にはまったく不可能である。人の本分は服従して従うことである。というのは、人は新しい時代を切り開く働きも、サタンと戦う働きを遂行することもできないからである。人はただ神自らの指導の下で、造り主を満足させることができだけで、サタンは、それを通して打ち負かされるのである。これは人ができる唯一のことである。それゆえ、新しい戦いが始まるたびに、すなわち、新しい時代の働きが始まるたびに、この働きは神自らによってなされ、それを通して、神はその時代全体を導き、全人類のために新しい道を切り開く。それぞれの新しい時代の幕開けは、サタンとの戦いの新しい始まりであり、それを通して、人は神自らが導くより新しく、もっと美しい領域と新しい時代に入る。人は万物の主人だが、神のものとされた人たちはサタンとのすべての戦いの実となるであろう。サタンはすべての物を堕落させる者であり、すべての戦いの終わりには敗北者となり、また、これらの戦いに続いて懲罰される者である。神、人、サタンのうち、サタンだけが忌み嫌われ、拒絶される者である。その一方で、サタンのものにされ、神によって取り戻されない人たちは、サタンに代わって懲罰を受ける者たちである。これら三者の中で、神だけが万物に礼拝されるべきである。一方、サタンに堕落させられたが、神によって連れ戻され、神の道に従うようになった人たちは、神の約束を受け、神のために邪悪な者たちを裁く者となるだろう。神は必ず勝利し、サタンは必ず敗北するが、人々の中には、勝利する者と敗北する者がいる。勝利する者たちは勝利者に属し、敗北する者たちは敗北者に属する。これはそれぞれの者を種類によって分類することであり、それは神のすべての働きの最終結果であり、神のすべての働きの目的でもあり、それは決して変わることがない。神の経営(救いの)計画の主な働きの核心とは、人の救いに焦点を置くことである。そして、神は主にこの核心と、この働きのために、またサタンを打ち負かすために、肉となるのである。神が初めて肉となったのも、サタンを打ち負かすためであった。神は最初の戦いの働き、すなわち人類の贖いの働きを完了させるために、自ら肉となり、自ら十字架に釘付けにされた。同じように、この段階の働きも、人の間で働き、自ら言葉を語り、人が神を見ることができるようにするために肉となった神自らによってなされるのだ。もちろん、神がその働きの途中で他の働きもすることは避けられないが、彼が自らその働きを遂行する主な理由は、サタンを打ち負かすためであり、全人類を征服するためであり、また、これらの人たちを自らのものとするためである。したがって、神の受肉による働きは本当に重要である。もし彼の目的が、神はへりくだっていて隠れた存在であり、神が実在することを人に示すことだけで、もしこの働きをするだけのことであったら、神が肉となる必要はなかっただろう。たとえ神が肉とならなかったとしても、神は自らがへりくだり、隠れた存在であること、そして自らの偉大さと聖さを人間に直接現すことができただろう。しかし、そのようなことは人類を経営する(救う)働きとは何の関係もない。それらによって人を救ったり、人を完全にしたりすることは不可能で、ましてやサタンを打ち負かすことなどできはしない。もしサタンを打ち負かすことにおいて、聖霊が霊と戦うだけなら、そのような働きの実践的価値はさらに低いだろう。それなら、人を神のものとすることは不可能となり、人の運命と前途を台無しにしてしまうだろう。そのように、現在の神の働きには深遠な意味がある。それは人が神を見ることができたり、人の目が開かれたり、人に多少の感動と励ましを与えたりするためではない。そのような働きは意味がない。もしあなたがこの種の認識についてしか語ることができないなら、それはあなたが神の受肉の真の意義を分かっていない証拠である。

神の経営(救いの)計画の働きの全ては神自身によって直接行われた。第一段階、即ち世界創造のあとの律法の時代の働きは、神自身によって直接行われた。神はモーセをもちいて律法を公布した。全人類を贖うという第二段階もまた受肉した神によって直接行われた。肉となった神以外には、それを行なう資格のある者は誰もいない。第三段階は言うまでもない――神のすべての働きを終わらせるためには、なおさら神自身が働くことが必要となる。全人類を贖い、征服し、獲得し、完全にする働きは、すべて神自身が直接遂行する。もし彼がこの働きを自ら行わないなら、彼の身分を人によって表すことはできないし、彼の働きが人によってなされることもないだろう。サタンを打ち負かし、人類を獲得するために、また、地上で正常な生活を人に与えるために、神は自ら人を導き、人の間で働く。神のすべての経営(救いの)計画とすべての働きのために、神は自らこの働きをしなければならない。もし人が、神が来たのは人に見られるため、また人を嬉しがらせるためであるとしか思わないなら、そのような認識には何の価値もなく、また何の意味もないだろう。人の認識はあまりにも浅い。神が自ら遂行して初めて、この働きは余すところ無く完全に行われるのである。人が神に代わってそれをすることはできない。人は神の身分も本質も持っていないので、神の働きをすることは不可能である。たとえ人がそれをしたとしても、何ら効果はないだろう。最初に神が肉となったのは贖いのためであり、それはすべての人間の罪を贖い、人間が清められること、その罪が赦されることを可能にするためであった。征服の働きも神自らによって人の中でなされる。もし、この段階の間、神が預言しか語らないのであれば、預言者か、誰か賜物のある者を見つけて、その人が神に代わることもできよう。もし預言のみが語られるなら、人は神の代役を務めることができよう。しかし、もし神自身の働きを人が自らなし、人が人間のいのちに働くなら、この働きをなすのは不可能であろう。それは神自らによって直接されなければならない。神はこの働きをなすために自ら肉とならなければならない。ことばの時代に、もし預言しか語られないのであれば、この働きをするために預言者イザヤかエリヤを見つけてくればよいし、神自身が直接それをする必要はないだろう。この段階においてなされる働きは、預言を語ることだけではなく、人を征服し、サタンを打ち負かすために用いられる言葉の働きの方が更に重要なので、この働きは人間には不可能であり、神自身によって直接なされなければならない。律法の時代にヤーウェは神の働きの一部を行い、その後、預言者を通していくつかの言葉を語り、働きをなした。それは人がヤーウェの働きの代役を務めることができ、預言者は物事を預言し、神に代わって夢を解き明かすことができたからである。初めになされた働きは、人間の性質を直接変える働きではなく、人間の罪とも関係がなく、人は律法を守ることだけを要求されていた。それゆえ、ヤーウェが肉となって自らを人に現すことはなかった。そして、ヤーウェはモーセや他の人たちに直接語り、ヤーウェの代わりに彼らに語らせ、働かせ、人々の間で彼らが直接働くようにしたのである。神の働きの第一段階は人を指導することであった。それがサタンとの戦いの始まりだったが、この戦いはまだ正式には始まっていなかった。サタンとの正式な戦いは神の最初の受肉とともに始まったが、それは現在に至るまでずっと続いてきた。この戦いの最初の実例は、受肉の神が十字架に釘付けされた事である。受肉の神が十字架に付けられたことによってサタンは打ち負かされたが、それはこの戦いでの最初の成功段階であった。受肉の神が人のいのちに直接働き始めるときこそが、人を取り戻す働きの正式な始まりであり、これは人間の古い性質を変える働きなので、サタンと戦いを交える働きである。初めにヤーウェによってなされた働きの段階とは、地上での人間生活の指導に過ぎなかった。それは神の働きの始まりであって、まだいかなる戦いも、いかなる大きな働きも関与していなかったが、それはこれから来る戦いの働きの基盤を築いた。その後、恵みの時代の働きの第二段階には、人間の古い性質を変えることが含まれたが、それは神自らが人のいのちに働いたことを意味している。これは神自らが行わなければならなかった。それは神が自ら肉となることを必要とした。そして、もし彼が肉とならなかったなら、他の誰ひとりとしてこの段階の働きにおいて神に代わることはできなかっただろう。というのは、それはサタンと直接戦う働きを表していたからである。もし、人間が神に代わってこの働きをしたとしたら、人がサタンに立ち向かっても、サタンは服従することはなかっただろうし、サタンを打ち負かすことは不可能だったろう。サタンを打ち倒すのは、受肉の神でなければならなかった。なぜなら、受肉の神の本質は依然として神性であり、神がまとう肉は人間の命を持っており、これこそが造り主の現れであるからだ。何が起ころうとも、神の身分と本質は変わらないのである。したがって、神は肉の形をとって、サタンの完全服従をもたらす働きをなした。終わりの日の働きの段階で、もし人がこの働きをなし、言葉を直接語らなければならないとしたら、人はそれらを語ることはできないだろう。そして、もし預言が語られるなら、人間を征服することは不可能であろう。神は、肉の形をとって、サタンを打ち負かして完全服従させるために来る。彼が完全にサタンを敗北させ、完全に人を征服し、完全に人を神のものとすると、この段階の働きが完了し、働きが成功する。神の経営(救い)において、人は神の代役を務めることはできない。特に、時代を導き、新しい働きを始めることは、神自身によって直接なされる必要がある。人に啓示を与えたり、預言を与えたりすることは、人間によってなされることが可能だが、もしそれが、神自らがなすべき働き、また神自身とサタンとの戦いの働きであるなら、人間がこれをなすことは不可能である。働きの第一段階で、サタンとの戦いがないときは、ヤーウェは預言者たちによって語られた預言を用いて、自らイスラエルの民を導いた。その後、第二段階はサタンとの戦いとなり、神自らが肉の中に入り、肉となり、この働きを行った。サタンとの戦いが必要とされることは、何であれ神の受肉も必要とする。つまりそれは、この戦いは人間には行うことができないということである。もし人間が戦うことになれば、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。サタンの支配下にある人間に、どうしてサタンと戦う力を持つことができようか。人は真ん中にいる。もしあなたがサタンの方に傾くなら、あなたはサタンに属し、あなたが神を満足させるなら、あなたは神に属す。この戦いの働きを神に代わって人がなすなら、人はそれを成し遂げることができるだろうか。もしそうしていたら、人はとうの昔に滅びていたのではなかろうか。人は黄泉の国にとうの昔に入っていたのではなかろうか。このように、人は神に代わってその働きをなすことはできない。すなわち、人は神の本質を持っておらず、もしあなたがサタンと戦いを交えたなら、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。人にはある程度の働きしかできない。人は幾人かを勝ち取ることはできるだろうが、神自身の働きにおいて神の代役を務めることはできない。どうして人間がサタンと戦うことなどできようか。サタンは、あなたが戦い始めるやさきに、すでにあなたを虜にするだろう。神自身がサタンと戦い、このことに基づいて人間が神に従い服従するとき初めて、人は神のものとされ、サタンの束縛から逃れることができる。人が自分自身の知恵、能力で達成できることは、あまりにも限られている。人には人間を完全にしたり、導いたり、さらには、サタンを打ち負かしたりすることは不可能である。人の知能と知恵では、サタンの計略を阻止することなど不可能である。どうして人がサタンと戦うことなどできようか。

進んで完全にされたいと思う者たちは皆、完全にされる機会がある。だから皆落ち着いていなければならない。将来、あなたがたはみな終着点に入るだろう。しかし、もしあなたが進んで完全にされようとせず、素晴らしい領域に入る意欲がないなら、それはあなた自身の問題である。進んで完全にされようとし、神に忠誠を尽くす者たち、服従する者たち、そして自分の役割を忠実に果たす者たち、――そのような人たちは皆、完全にされることが可能である。現在、自分の本分を忠実に尽くさない者たち、神に忠誠を尽くさない者たち、神に服従しない者たち、とりわけ、聖霊の啓示と照らしを受けたが、それを実践しなかった者たち、――そのような人たちはみな完全にされることが不可能である。神に進んで忠誠を尽くし、従う者は、たとえ多少無知であっても、皆完全にされることが可能である。進んで追求する者たちは皆完全にされることが可能である。この点で心配する必要はまったくない。あなたが進んでこの方向を追求している限り、あなたが完全にされることは可能である。わたしは、あなたがたの中の誰をも、見捨てたり、排除したりすることを願わないが、もし人が一生懸命努力しないなら、あなたは自分自身に破滅をもたらしているだけである。あなたを排除するのは、わたしではなく、あなた自身である。もしあなた自身が一生懸命努力しないなら――もしあなたが怠慢で、自分の本分を尽くすことも、忠誠を尽くすこともなく、真理を追求せず、いつも自分の好き勝手なことをし、無謀にふるまい、自分の名声と富のために争い、異性に対して不道徳な接し方をするなら、あなたは自分の罪の結果を自分で負わなければならない。誰の同情にも値しない。わたしの目的は、あなたがたがみな完全にされることであり、少なくとも、あなたがたが征服され、その結果、この段階の働きが成功をもって完了することである。神の願いは、一人ひとりが完全にされ、最終的に神のものとされ、神によって完全に清められ、神に愛される者となることである。あなたがたは進歩が遅いとか、力量が乏しいとか、わたしが言おうと、気にすることはない――これはすべて事実である。わたしがこう言っても、それは、わたしがあなたがたを見捨てようとしており、あなたがたに望みを失ってしまった証拠ではなく、ましてや、あなたがたを救う意欲が無い証拠などではない。現在、わたしはあなたがたの救いのための働きをなすために来ており、すなわちそれは、わたしがなす働きは、救いの働きの続きだということだ。完全にされる機会は各人に与えられている。あなたが進んで受け入れるなら、また、あなたが追求するなら、最後には、その効果を達成でき、あなたがたの誰一人として見捨てられることはないだろう。もしあなたの力量が乏しければ、わたしはその乏しい力量に合ったことをあなたに要求する。もしあなたの力量が大きいなら、わたしはその大きな力量に合ったことをあなたに要求する。もしあなたが無知で無学なら、わたしはあなたの無学に合ったことを要求する。もしあなたに教養があるなら、わたしはあなたの教養に合ったことを要求する。もしあなたが高齢なら、わたしはあなたの年齢に合ったことを要求する。もしあなたに人をもてなすことができるなら、わたしはそれに合ったことを要求する。もしあなたが人をもてなすことはできず、特定の役割しか果たせないと言うのなら、それが福音を伝えることであれ、教会の管理であれ、その他の一般的なことに対応することであれ、あなたが果たす役割に応じて、わたしはあなたを完全にするであろう。忠誠を尽くすこと、最後の最後まで従うこと、神への崇高な愛を求めること――これこそあなたが達成しなければならないことであり、この三つよりすぐれた実践はない。最終的に、人はこれら三つの事を達成することを要求されている。そして、もしそれらを達成できるなら、その人は完全にされるだろう。しかし何にもまして、あなたは真剣に追い求め、消極的になるのではなく、積極的に前に進み、上を目指さなければならない。すべての人に完全にされる機会があり、完全にされることは可能である、とわたしは既に言った。これは有効だが、もしあなたが、自分の追求において向上しようとしないなら、また、もしこれら三つの必要条件を満たすことができないなら、あなたは最後には排除されなければならない。わたしはすべての人が追い付いて、すべての人が聖霊の働きと啓きを得て、最後まで従うことができることを望んでいる。なぜなら、これは、あなたがた一人ひとりが尽くすべき本分であるからだ。あなたがたがみな本分を尽くし終えたとき、あなたがたはみな完全にされ、響きわたるような証しを持つだろう。証しを持っている者たちは皆サタンに勝利し、神の約束を手に入れた人たちである。そして彼らこそ、素晴らしい終着点で生き続ける人たちである。

脚注

a.原文は「人が無事でないのは、サタンが地上のあちこちで問題を引き起こし、神の経営の働きがまだ完全には終わっていないからである」となっている。

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Ⅳ.恵みの時代の救いと救われることの真理について

2020-01-24 01:03:10 | 書籍

                                                                                                                                                                  1.当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。

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『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より

 2.人類は主イエスを救い主として受け入れるだけで罪が赦されるようになった。名目上は、人間の罪はもはや救いを得て神の前に出る妨げとはならず、サタンが人間を責める手立てではなくなったということである。それは、神自身が実際的な働きをし、罪深い肉の形を取り経験し、罪のための捧げ物となったからである。こうして、神の肉、罪深い肉の形をとった神のおかげで人間は贖われ、救われて、十字架から降りた。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より

 3.人の肉はサタンに属しており、不従順な性質に満ちており、嘆かわしいほど汚れており、不純なものである。人々は肉の喜びを過度に切望し、肉の現れは多過ぎ、そのため神は肉をある程度嫌っている。人々が、汚れて、堕落したサタンのものを置き去りにする時、神の救いを得る。しかし、彼らが汚れや堕落を投げ捨てることができないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下にとどまるだろう。人々の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はサタンのものである。あなたを救うことによって、神はあなたをこれらのものから切り離す。神の働きは間違っていることはなく、すべては人々を闇から救うためである。あなたがある程度信じていて、肉体の堕落を脱ぎ捨てることができ、もはやこの堕落の束縛を受けない時、あなたは救われているのではないだろうか。サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「実践(2)」より

 4.神により救われている者は神からの試練を経験したものであり、サタンの誘惑と攻撃を何度も受けたことのある者である。神により救われている者は神の心と要求を理解でき、ひたすら神の支配と采配に従い、サタンの誘惑のただ中にあっても、神を畏れ悪を避ける道から逸れることがない。神により救われている者は正直であり、心優しく、愛と憎しみを区別し、義と理性を知っており、神を配慮し神の全てを大切にする。そのような人々はサタンに束縛されておらず、監視されておらず、非難されたり虐待されたりしていない。完全に解放されており、全く自由である。……

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

 5.イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

 6.イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 7.人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 8.あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む──あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている──あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。

『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より

 9.病気を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を顕すことによっても、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。人から悪霊を追い出したり、人を贖ったときは、それはただサタンの手から人を捕まえ、神のもとに戻したことでしかなかった。神によって清められていないし、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には、依然として汚れ、敵対心、そして不従順が存在する。人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 10.終わりの日の働きは言葉を語ることである。大きな変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 11.神が人々を獲得する時、神はおもに実践的神の言葉と発言を通して、人々の欠点を取り扱い、反抗的な性質を裁き、明らかにし、人々に必要なものを得させ、神が人々の間に到来したことを示すためである。最も重要なことだが、実践的神の行う働きは、すべての人をサタンの影響から救い、彼らを汚れた地から切り離し、彼らの堕落した性質を一掃することである。実践的な神に獲得されることの最も深遠な意義は、実践的神を模範として、モデルとすることができ、正常な人間として生き、実践の神の言葉と要求を実践できるようになり、少しのズレや逸脱もなく神の言われる通りを実践し、神が求められることを達成できるようになることである。このようにして、あなたは神のものとされる。

『言葉は肉において現れる』の「実践的な神は神自身であることを知るべきである」より

 12.神のものとされた人々は、完全に神に従う人々であり、サタンに堕落させられたものの、今は神の働きにより救われ征服され、苦難に耐え、そして最後に完全に神のものとされ、もはやサタンの領域で生きることはなく、不義から解き放たれ、聖く生きることを望む人々である。それらが最も高潔な人々であり、聖なる者たちである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より

 13.神が人々を完全にする時、神は彼らを清め、人々は清くなればなるほど、神によってより完全にされる。汚れ、反抗、敵対心、あなたの中にある肉に属するものが取り除かれ、あなたが清められた時、あなたは神に愛されるであろう(言い換えれば、あなたは聖者になる)。あなたが神によって完全にされ、聖者になった時、あなたは千年神の国の中にいるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」についての短い話」より

 14.人は精錬された後、罪の性質がなくなる。なぜなら、神はサタンを打ち負かしたので、敵対勢力による侵略はなく、人の肉を攻撃する敵対勢力がなくなるからである。そのようにして、人は自由になり、聖くなり、永遠の中に入るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

 15.終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。神の働きが終わる時、生き残ることのできる人は、清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。彼らはかつて贖われたことがあり、また裁かれもし、懲らしめも受け罰せられたことがある。彼らはまた神への奉仕をしたこともあるが、終わりの日がきたら、彼らはやはり、自身の悪さ、自身の不従順さ、贖う術もないような有様が原因で、排除され、滅ぼされる。彼らは未来の世界では存在しないし、未来の人類の間で生きることもない。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

 16.神の経営(救い)の六千年の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代というように三段階に分かれている。これら三段階の働きはすべて人類の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落させられてきた人類の救いのためである。けれども、それは同時に、神がサタンと戦うためでもある。したがって、ちょうど救いの働が三段階に分かれているように、サタンとの戦いも三段階に分かれおり、この二つの側面の神の働きが同時に行われる。サタンとの戦いは実際、人類の救いのためであり、また、人類の救いの働きは一つの段階ではうまく完成できるものではないから、サタンとの戦いもまた段階と期間に分けられている。そして戦いは、人間の必要とサタンによる人間の堕落の程度に応じて、サタンに対して遂行される。……人の救いの働きは三段階で実行された。すなわち、サタンとの戦いは、サタンが完全に打ち負かされる前に三段階に分割されたということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きに秘められた真理は、人に恵みを施し、人の罪祭となり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器を持って立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神を証しすることである。サタンはこのようにして打ち負かされるのである。人の堕落した性質を変えることを通してサタンは打ち負かされる。サタンが敗北すると、つまり、人が完全に救われると、そのとき辱めを受けたサタンは完全に縛られ、こうして人は完全に救われることになる。ゆえに、人の救いの実質はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いに反映される。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、また、人をサタンの領域から完全に救う働きでもある。人の征服の秘められた意味は、サタンの化身、つまりサタンに堕落させられた人間が征服に引き続いて造り主に戻ることであり、これにより人はサタンを見捨て、完全に神に戻る。このようにして、人は完全に救われるだろう。したがって、征服の働きはサタンとの戦いにおける最後の働きであり、サタンを打ち負かすための、神の経営(救い)における最終段階である。この働きがなくては、人の完全な救いは最終的には不可能で、サタンの完全敗北もまた不可能になるであろう。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることができず、サタンの影響から自由になることもできないだろう。従って、人の救いの働きを、サタンとの戦いが終結する前に完了することはできない。というのは神の経営(救い)の働きの核心は人類の救いであるからである。最初の人類は神の手の中にあったが、サタンによる誘惑と堕落によって、人はサタンに縛られ、悪しき者の手中に落ちてしまった。こうしてサタンは、神の経営(救い)の働きにおいて、打ち負かす対象となった。サタンは人間を自分の所有物としたが、人は神の全経営の資本であるので、人が救われるには、サタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、人間はサタンの虜となった後に連れ戻されなければならないのである。サタンは、人間の古い性質が変えられることによって打ち負かされ、それは人間の本来の理性を回復することになり、こうして、虜となっていた人間をサタンの手から取り戻すことができる。もし人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンは辱められ、人は最終的に取り戻され、サタンは打ち負かされるであろう。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、人はこのすべての戦いの戦利品となり、この戦いが終わるとサタンは懲罰の対象となるそのとき、人類を救う働きのすべてが完了するのである。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

 17.最初の受肉は人を罪から贖う、つまりイエスの肉体を通して人を罪から贖うためであった。つまり、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に留まった。二番目の受肉はもはや罪のためのいけにえとしての役割ではなく、罪から贖われた人たちを完全に救うことであった。それにより、赦されたものが罪から解放され、完全に清められ、性質が変えられ、それによりサタンの暗闇の影響を打ち破り、神の玉座の前に戻ってくるためである。このようにしてのみ、人は完全に清められる。神は律法の時代が終ってから、恵みの時代に救いの働きを開始した。これは神が人間の不従順に対する裁きと刑罰の働きを終えて人類を全く清める終わりの日まで続く。その時が来てはじめて、神は救いの働きを終え、安息に入る。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より


「いにしえは刺の如く」から、その六「救われることや天国に入ることについて討議する」

2020-01-23 22:55:22 | 全能神教会映像

常に罪を犯す者が天国に入れるでしょうか。どうすれば罪が取り除かれ、天国に入れるのでしょうか。本短編映画があなたにその答えを教えてくれます。 [東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

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クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(3)受肉の奥義を明らかにする

2020-01-22 20:43:06 | 全能神教会映像

クリスチャン映画「天国への危険な道」抜粋シーン(3)受肉の奥義を明らかにする

主を信じる人々は皆、主イエスが神の受肉された姿であることを知っていますが、受肉の真理を本当に理解できている人はひとりもいません。聖書の預言では、主は再び肉体の姿となり、終わりの日に御言葉を表し、働きをなさる、とあります。受肉された神を知らなければ、私たちには主の再臨を歓迎する術がありません。そのため、神の受肉を知ることが主の再臨を歓迎するための鍵となります。では私たちはどうしたら受肉された神を知ることができるのでしょうか?