全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

全能神の発表「道の最終行程をいかに歩むべきか」抜粋 1

2018-10-31 00:49:26 | 全能神の発表

 あなたがたは今、道の最終行程にあり、これは道の中でも極めて重要な部分である。おそらくかなりの苦難に耐え、多くの働きを行い、多くの道を歩み、多くの説教を聞いてきたであろう。また現在に至るまでは容易ではなかったであろう。もしも目の前にある苦難に耐えることが出来ず、またこれまでと同様に継続するならば、あなたが完全にされることは不可能であろう。これはあなたを怖がらせようとしているのではなく、事実である。ペテロは神の働きをずいぶん経験した後、ある程度の識見と大いなる分別を得た。またペテロは奉仕の原則をかなり理解し、イエスがペテロに託したことに後になって完全に専念することが出来た。ペテロが受けた大いなる鍛錬は、そのほとんどがペテロが自分の行いにおいて神への借りが大きすぎて決して神に返すことが出来ないであろうと感じたこと、また人間が極めて堕落していることを認識したために良心の呵責を感じたためである。イエスはペテロに対して数多くの言葉を述べたが、その時ペテロはほんの僅か理解したに過ぎなかった。ペテロは依然として、時折反抗したり反逆したりしていた。イエスが十字架に架けられた後、やっとペテロに多少の目覚めが訪れて、自分は酷く罪深いと感じた。最終的に、ペテロの目覚めは、誤った考えが浮かんだ時に取り乱すほどの段階に達した。ペテロは自らの状態と主の聖さをよく知っていた。その結果、主を愛する心がペテロの中で一層膨らみ、ペテロは自らのいのちに一層集中するようになった。それが原因でペテロは大いなる苦難を受け、ときにはあたかも重病を患い、臨終の時が迫っているかのようになることあったが、このような鍛錬を何度も受けた後、自らに関する認識を増やし、そのようにして初めて主への真の愛がペテロの中で育まれた。ペテロはその生涯を鍛錬の中で、そしてそれ以上に刑罰の中で過ごしたと言えるであろう。ペテロの経験は他の誰の経験とも異なり、ペテロの愛は、完全にされなかったあらゆる者の愛を超越していた。ペテロが規範に選ばれたのは、ペテロが人生において最も多くの苦痛を経験し、またその経験が最も成功したからである。あなたがたが真にペテロのように道の最終行程を歩むことができるならば、あなたがたの恵みを奪うことが出来る被造物は一つとしてないであろう。


全能神教会の御言葉カード

2018-10-30 00:50:00 | 全能神御言葉カード

全能神は言われた。

 事実を述べると、もし誰かが、余暇に創造主の言葉や業について考え、理解し、創造主の心と、その心による言葉に注意を払ったとすれば、神の心、言葉、業は見ることが出来るものであり、明瞭なものであることに気付くのは困難ではない。同様に、創造主は常に人間の中にあり、人間や創造物すべてとの対話を行い、新たな業を毎日行っていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされない。


全能神教会の音楽「万物の主権を握るお方」

2018-10-29 00:36:02 | 全能神教会ドキュメンタリー

全能神教会の音楽「万物の主権を握るお方」合唱とドキュメンタリー

 広大な宇宙に広がる天体。それぞれが寸分の狂いもなく軌道を回る。天の下では山も、川も、湖もそれぞれの領域を守り、あらゆる生物はいのちの法則に従い、四季を通じて生き、繁殖する・・・全ては美しく、完璧に作られ、配置されている―それを支配する力強い手は存在するのか。この世に生まれた瞬間から、だれもがその人生に託された役割を担う。人はみな生まれ、老い、病み、そして死ぬ―喜びと悲しみを繰り返しながら・・・人はいったいどこから来てどこへ行くのか?私たちの運命は誰が握っているのか。太古の昔から今日まで、偉大な国家が興り、王朝が栄えては、衰退していった。歴史の渦の中で、国々と民族が繁栄しては消えていった・・・自然の法則同様、人類発展の法則にも神の奥義がある。あなたはその答えが知りたいだろうか。ドキュメンタリー「万物の主権を握るお方」が、あなたをその真髄へと導き、奥義を明らかにする。


全能神の発表「神の業と人間の実践」抜粋 19

2018-10-28 01:32:07 | 全能神の発表

 遅かれ早かれ、そうした者は排除されるが、克服者は神の国に残るであろう。人間が神を真に求めているかどうかは、その者に対する業の試みすなわち神の試練により判断され、人間自身の判断とは無関係である。神が誰かを気まぐれで拒否することは無い。神が行う業は、全て人間が完全に確信するためのものである。神は、人間に見えない物事や、人間を確信させることが出来ない業を一切行わない。人間の信仰が本当であるかどうかは、事実により結果が求められるものであり、人間が決めることは出来ない。「麦を毒麦に変える事はできず、毒麦を麦に変える事も出来ない」ことは、間違い無い。神を真に愛する者は、全員最終的に神の国に残り、神は神を真に愛する者を虐げられることは無いであろう。神の国の中の克服者は、様々な役割と証に基づいて祭司として、あるいは信者として仕えるであろう。また苦難を克服した者は、全て神の国で祭司となるであろう。祭司の集団は、宇宙全体における福音の業が終わった時に結成されるであろう。その時が到来すると、人間がなすべき物事は、神の国において自分の本分を尽くし、神と共に神の国で生活することとなるであろう。祭司の集団には、長たる祭司と、祭司が居て、それ以外の者は神の子、神の人々となるであろう。こうしたことは、苦難の時における神に対する証により判断される。そうした地位は、気まぐれで与えられたものでは無い。人間の地位が確立した後、神の業は停止する。なぜなら、各人が分類され、元来の地位に戻されるが、それが神の業の成果のしるしであり、神の業と人間の実践の最終結果であり、神の業のビジョンと人間の協力の結晶だからである。結局、人間は神の国で平穏を得て、神もまた自らの生活場所に戻って休息を取るであろう。これが、神と人間の6000年におよぶ協力の最終結果である。


全能神教会の御言葉カード

2018-10-27 00:15:47 | 全能神御言葉カード

全能神は言われた。

 神が表現する行動の原理、神の心あるいは具体的な判断、あらゆる業には、全く欠点がない。神が判断をくだすと、神はその通り業を行う。そして神はこの要領で計画を全うする。その結果は正確かつ完璧である。なぜならその結果の元となるものが完璧だからである。神の怒りは、完璧である。同様に、いかなる創造物も持っていない神の憐れみや寛容さは聖なるものであり、完璧であり、いかなる議論にも経験にも耐えうるものである。


全能神教会の教会映画「足枷を解いて走れ」

2018-10-26 10:16:33 | 全能神教会映像

 李敏忠は韓国ソウルにある教会の長老でした。20年以上熱心に主に仕え、誠心誠意聖書から学んできました。宗教的指導者達に従い、主を信じることはすなわち聖書を信じることだと思っていました。そして、聖書を信じることと主を信じることは全く同じだと思っていました。聖書に従っていれば、神の国に招き入れられると信じていました。こうした考えは両足にはめられた枷のように彼を縛り、神の歩む道に従い神を信じることを阻みました。そのため李敏忠は、終わりの日の全能神の御働きを知ろうともしませんでした…


全能神の発表「神の業と人間の実践」抜粋 18

2018-10-25 00:13:11 | 全能神の発表

 人間性が欠如している者は、神を真に愛することが出来ない。環境が安全で安心なものである時、あるいはそうした者が利益を得る時、そうした者は神に対して完全に従順であるが、自分の望みが損なわれたり、最終的に否定されたりした時、そうした者は直ちに反乱を起こす。ほんのひと晩の間に、そうした者は、にこやかで「親切な」人間から、醜く残忍な殺人者となり、何の根拠も無く、それまでの恩人を生かしておけない敵として扱う。こうした一瞬にして殺しを行う悪魔が追放されていない場合、そうした者は、それ以上の苦難の根源となるのではなかろうか。人間を救う業は、征服の業が完了した後には実現しない。征服の業が終わったとしても、人間を清める業は終わっていない。そうした業は、人間が完全に清められ、真に神に服従する者が完全にされ、見せかけだけで神が自分の心に無いものが粛清され終えて、初めて完了する。神の業の最終段階において神に満足してもらえない者は完全に排除され、排除される者は悪魔である。そうした者は神に満足してもらうことができず、神に対して反抗し、そうした者は現在神に付き従っているが、それはそうした者が最後に残る者であることを証明するものではない。「神に最後まで付き従う者は救われる」において、「付き従う」とは、苦難の中で揺るぎなく耐えることである。現在、多くの者が、神に付き従うのは容易であると考えているが、神の業が終わろうとしている時、あなたは「付き従う」という言葉の真意を知るであろう。征服された後の現在も依然として神に付き従うことが出来るということだけでは、あなたが完全にされる者の一人であることは証明されない。試練に耐えることも、苦難を克服することも出来ない者は、最終的に、揺るぎなく耐えることが出来ず、最後まで神に付き従うことが出来ないであろう。真に神に付き従っている者は、自分に対する試練の業に耐えることが出来るが、真に神に付き従っていない者は、いかなる神の試練にも耐えることが出来ない。


全能神教会の賛美聖歌 「『真理の道』を追い求めるための原則」

2018-10-23 00:45:48 | 全能神教会御言葉讃美歌

I
真理の道示す 基本の原則
まずは聖霊が働いてるか 見さだめることだ
真理が正しく 表されてるか よく見ることだ
誰が証しされ それが何をもたらすか悟りなさい
神を信じることは その霊を信じることであり
受肉した神への 信仰はその体が 霊の体現だから
受肉した肉体 その源こそ神の霊
この肉体となったものは まさしく神の言葉なのだ
II
この道に真理が あるかを知りなさい
それは正常な人間性の 命の性質
正しい知性と 見識と知恵と 人の常識
ずっと昔の 創造のときに神が望んだもの
その道は生活を 正しく導いてくれるもの
その真理はあなたに 正常な人として
生きるよう求めてくれているか?
現実的であり 時期や時代に即してるか?
そのような真理ならあなたの 経験は現実味帯びる
あなたの人間性と理知は完全になる
あなたの霊と、肉体の生活は
より秩序だったものになり
喜怒哀楽はより正常なものとなるだろう
III
真理を見極める 基準はもう一つ
神をいっそう 深く知る助けとなったかどうかだ
真理は心の中 神への愛吹き込んでくれる
神のもとに近づけ
実在感を与え 生命を充実させてくれる
この原理を見出し 真理の道を見つけなさい
真理の道を見つけなさい 真理の道を見つけなさい
『言葉は肉において現れる』より


全能神の発表「神の業と人間の実践」抜粋 17

2018-10-22 00:37:25 | 全能神の発表

 神の国の時代において、人間は全き者とされる。征服の業の後、人間は精錬と苦難の対象となる。この苦難を克服し、この苦難において証に立てる人間が、最終的に完全にされる者である。そうした者は、克服者である。この苦難の時において、人間はこの精錬を受け容れる必要があり、その精錬が神の業の最後に存在する物である。精錬は、神による経営の業全ての完了前に、人間が精錬される最後の時であり、神に付き従う者は全員、この最後の試練を受け容れる必要があり、この最後の精錬を受け容れる必要がある。苦難に煩わされる者には、聖霊の業と神の導きが不在であるが、真に征服され、神の心を真に求める者は、最終的に揺るぎなく耐えるであろう。そうした者は、人間性を備え、神を真に愛する者である。神がどのような業を行われても、そうした勝者はビジョンを奪われることが無く、証に立つことに失敗することなく、依然として真理を実践するであろう。そうした者は大いなる苦難を最終的に克服する者である。依然として嵐の海で漁をする者が他人にたかることが出来るとしても、最後の苦難を逃れられる者はおらず、最後の試練を逃れられる者は居ない。克服する者にとって、そうした苦難は大いなる精錬である。しかし、嵐の海で漁をする者にとって、それは完全な排除の業である。そうした者がどのようにして試されるとしても、心の中に神が存在する者の忠義は変わることが無い。しかし、心の中に神が存在しない者については、神の業が自分の肉に有利で無いならば、神に対する見方を変え、神から去ることさえある。そうした者が、最後に確固として耐えない者であり、神の祝福を求めるだけで、神のために費やし、神に自らを捧げる願望が一切無い者である。こうした下劣な人々は、神の業が終わりを迎えた時に全員排除され、同情の余地の無い者である。