全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

死の試練の中で

2020-12-19 20:07:17 | キリストの裁きの座の前における経験の証し

 全能神は言われます。「神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。従って、あなたがたが受けるのは刑罰、裁き、容赦のない鞭だけである。知りなさい。この無情な鞭打ちの中に罰はほんの少しもない。わたしの言葉がどんなに辛辣であったとしても、あなたがたに降りかかるのは、あなたがたにはまったく無情だと思われるかもしれないほんの数語だけであり、わたしがどれほど怒っていようとも、あなたがたに注がれるのは教えの言葉であり、わたしはあなたがたに危害を加えるつもりはないし、あなたがたを殺すつもりもない。これはすべて事実ではないのか。今日、義の裁きであろうと、無情な精錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日各人が種類に応じて分類されようと、人の範疇が露わにされようと、神の発する言葉と働きのすべての目的は本当に神を愛する人を救うことである。義の裁きは人を清めるためにもたらされ、無情な精錬は人を浄化するために行われる。厳しい言葉、あるいは懲らしめはどちらも純化のためであり、救いのためである」(「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」『言葉は肉において現れる』)。神の御言葉には本当に感動し、20年以上前、死の試練の中で体験した忘れられない出来事について考えさせられる。神の裁きと刑罰は、人間に対する愛であり、救いである、ということに実に理解するようになった。神の御言葉は、どんなに厳しく、当惑するものであっても、それは、私たちを清め、変えるためでしかない。

 1992年2月のこと。効力者の試練の後、神は私たちを、神の国の時代の民として引き上げ、要求を提示した。神の御言葉を読むこと、それらを実行に移すことに専念し、神を知ろうとすること、試練を通して神の証しをすること、神の国の民の基準にできるだけ早く到達すること。当時、神は、たびたび、「わたしの家の民」や「わたしの国の民」という言葉を使われた。これらの御言葉を聞くと、いつも、神は私たちを家族として見ておられるということを感じさせてくれる。そんな温かみと励ましの感覚をもらい、私は、神の民の仲間入りをすべく、その基準を追求し始めた。神の御言葉を読んで祈り、その御言葉から神の御旨を熟考した。できる限りの本分を尽くし、生涯、神に従うことを決心した。22歳だった。同い年の男たちは、ほとんど皆、すでに妻子がいた。信仰していない私の家族は、私に妻を見つけようとしたが、全て断った。

 私は、『神の国の讃歌』を歌うのがとても好きだった。特にこの歌が。「神の国の礼砲が鳴り響くと、サタンの国はよろめき倒れ、神の国の賛歌がとどろく中で滅び、二度と立ち上がることはない。地上の誰があえて立ち上がり抵抗するというのか。地に降り立つ神は焼き尽くす火をもたらし、怒りをもたらし、ありとあらゆる災難をもたらす。地上の国々はいまや神の国である」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』)。神の国が、地上にはっきり現れ、神のなせる働きが完了し、大災害が起こり、神に反対する者たちがみな滅びる様子が思い浮かんだ。反対に、神に従う私たちは、生き延び、神の国へ導かれ、永遠に続く祝福を享受することができる。このように考えるのはとても素晴らしいことだった。当時、私は全能神の御名を受け入れ、引き上げられて神の国の民の仲間入りをすることは、この人生で、神の国に入ることが確定されたことを意味し、誰もそれを奪えないと考えていた。私は非常に胸を高鳴らせていた。私たちの霊がよみがえり、喜びで満ちていた。私たちは神のために、たゆむことなく自分の全てを捧げた。

 しかし、神は義であり、聖なる存在だ。神は、私たちの心を見抜く。神は、私たちが心に抱く、観念、想像、途方もない欲求をご存知だ。私たちが、まもなく神の国に入り、その恩恵にふけることができるだろうという希望に満たされた頃、4月後半に神は、私たちを死の試練へと導く新たな御言葉を発せられた。

 ある日、教会の指導者が集会を開き、神の御言葉を読んだ。「人が夢見る間、わたしは世界の国々を旅して、人の中にわたしの手にある『死の臭い』を振りかける。人々はすぐに生命力を失い、人生の次の段階に入る。人間の中に生けし者を見ることはできなくなり、屍があちこちに散らばって、生命力に満たされたものは直ちに跡形もなく消え去り、屍の息の詰まるような臭いが地に充満する。……今日、ここではすべての人の屍が無秩序に横たわる。わたしは人知れずわたしの手の内にある疫病を放つ。人の体は腐り、肉は頭からつま先まで跡形もなく朽ち落ち、わたしは人から遠く離れたところへ行く。わたしが再び人と集うことは決してなく、人の内に来ることも決してない。わたしの経営全ての最後の段階が終わりを迎え、わたしが再び人間を創造することはなく、人を再び心に留めることもないからである。わたしの口から出た言葉を読んだ後、人はすべて、死にたくないがゆえに希望を失う。しかし、『生き返る』ために『死』なない人があろうか。わたしには人を生き返らせる不思議な力はないとわたしが人に言うとき、彼らは苦痛の中で泣き叫ぶ。実に、わたしは創造主ではあれども、人を死なせる力しか持たず、人を生き返らせる力はない。これについては、人に詫びを言おう。それゆえに、わたしは人に『わたしはあなたに対して支払えない負債を負う』と前もって伝えたが、人はわたしが単に礼儀正しいだけだと考えた。今日、その事実の到来において、わたしは今なおこう言う。わたしが話すとき、わたしは真実に背かない。人は観念の中で、わたしの話し方は多すぎると思い込んでいるため、いつも他の何かを望みながらわたしが彼らに与える言葉にしがみつく。これは、人の誤った動機ではなかろうか。人がわたしを心から愛してはいないとわたしがあえて『はっきりと』述べるのは、これらの状況ゆえである。わたしは良心に背を向けず、真実をゆがめることもない。わたしが人を理想の地に連れて行くことはないからだ。そしてついにわたしの業が終わる時、わたしは人を死の地へと導くであろう」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」「第四十章」)。なかでもこの御言葉、「わたしは創造主ではあれども、人を死なせる力しか持たず、人を生き返らせる力はない」の部分に、私はとても困惑した。「なぜ神は、そのようなことをおっしゃるのだ?」と。「人間の生と死は、神の御手に委ねられている。なぜ神は、人間を生き返らせる『力』がないとおっしゃるのだ? 私たち信者は、やはり最後には本当に死ぬことになるのか? 私たちは、神の国の民なのに、なぜ死ぬのだ? そんなことはないはずだ! しかし、神が私たちをからかうはずはない。神は、はっきりとおっしゃられた。『わたしの業が終わる時、わたしは人を死の地へと導くであろう』。それは、私たちがやがて死に直面するのを意味しているのではないか? これは一体どういうことだ?」私は、神がなぜそのようなことをおっしゃるのか、理解ができなかった。私の周りにいた他の兄弟姉妹たちも、途方にくれている様子だった。それから、教会の指導者が交わりをした。「私たちの肉は、サタンによって深く堕落させられている。サタン的性質に満ちている。横柄、虚偽、利己主義、貪欲、さらに、常に嘘をつき、不正をする。神を信じ、神のために自分を費やすが、神の御言葉を実行に移せない。試練と苦難がやってきた時でさえ、私たちは神を裁き、とがめる。これは、私たちの肉がサタンのもので、神に抵抗していることを表している。神の性質は、義であり、聖であり、犯すことができない。サタンに属する人間を、どうして神の国に入れられるだろうか? 神のなせる働きが完了する時、大災害が起こる。信者であっても、真理を得ていなければ、いのちの性質が変わっていなければ、やはり死ぬのだ」。

 指導者からのこの交わりを聞いていると、感情が溢れてきて、どう感じたら良いのかわからなかった。天が突然大きな音を立てて崩れ落ちたような衝撃を受けた。困惑と憤りが心に充満し、こう思った。「最後の世代であるなら、最も祝福されているのではないか? 神は私たちを神の国の時代の民として引き上げた。私たちは神の国の柱だ。どうして最後の最後に死ぬことができよう? 私は神に従うために、青春と結婚への希望を捨てた。神のために駆け回り、自分を費やし、多くの苦難を耐えた。中国共産党に逮捕され、迫害され、未信者たちからは嘲笑われ、中傷を受けた。どうして最後の最後に死ななければならないのだ? 私の苦しみは全て無駄だったのか?」それを考えると、非常に胸が痛くなった。身体に重みがずっしりとのしかかるのを感じ、息ができないほどだった。私の周りの人たちも皆同じように感じていることに気付いた。静かに泣いている人もいた。手で顔を覆って泣き叫んでる人もいた。集会の後、私の母はため息まじりに言った。「私は60歳を過ぎているし、死を受け入れている。でもあなたはまだ若い。あなたの人生は始まったばかり……」母がそんなふうに言うのを聞いて、私は余計動転し、涙を堪えられなかった。その夜はベッドで寝返りを繰り返し、一睡もできなかった。理解できなかった。私は神のために熱心に自分の全てを費やし、神に従うために全てを諦めてきた。それなのに、なぜ大災害で死ななければならないのだ? その事実を受け入れられず、私は神の御言葉に目を通し始めた。手がかりが見つかること、結果が変わることを願いながら。しかし、求めている答えは見つからなかった。唖然として、こう思った。「神は本当に私たちを咎め、死は確定したかのように見える。誰もそれを変えられない。天が定めたことなのだ」。

 それからの数日間、気持ちがとても沈んでいた。言葉を発してもほとんど聞き取れないほどしか声が出ず、何もする気が起きなかった。私はいつも長時間、神の御言葉を書き写したものだった。手が痛くなっても、気にならなかった。兄弟姉妹に、神の新たな発言をできるだけ早く読んでもらいたいと思っていた。だが、そのような責任感は、もう消え失せてしまった。私の焼けつくような熱情は、突然冷めてしまった。神の御言葉を書き写していると、こう思った。「私はまだ若く、天国の祝福を享受していません。このまま死にたくはありません!」そう考えると、泣けてきた。当時の私の心は重く、胸をナイフで突き刺されたような痛みを感じていた。世界におもしろみがなくなった。大災害がすぐにでも来るかのように感じ、いつ死ぬのかわからなかった。世界が終わったように感じられた。

 神の御言葉を読むと、いくらか自己認識を得られた。それからゆっくり、時間が経つにつれて自由を感じられた。こんな神の御言葉を読んだ。「今日、神の国の門へと進む時になると、人々は皆、力強く前進を開始する。――しかし、人々が門の前に着くと、わたしは門を閉める。わたしは人々を締め出して、入門証を見せるよう人々に要求するのだ。このような奇妙な行動は人々の予想外であり、皆仰天する。今までいつも大きく開いていた門が、なぜ今日突然ぴしゃりと固く閉ざされるのか。人々は足踏みをしながら歩き回る。彼らは想像する。ごまかして門の中に入れるのではないかと。しかし、彼らがわたしに偽の入門証を手渡すと、わたしはその入門証を炎の中に放り込むのだ。そして、人々は自分たちの『必死の努力』が炎の中にあるのを見て、希望を失う。人々は神の国の美しい景色を見ても、中に入れないので、顔を覆って泣くのだ。それでも、わたしは哀れな状態の彼らを中に入れない。誰が好き勝手にわたしの計画を台無しにできようか。未来の祝福は人々の熱意と引き換えに与えられるのか。人間の存在の意味は、人間の好きなようにわたしの国に入ることにあるのか。……わたしが人間を信じなくなってから、かなりの時が経つ。わたしが人々に希望を見いだせなくなってから、かなりの時が経つ。というのは、人々に大志がないからだ。神を愛する心を人々がわたしにくれたことが一度もないからだ。その代り、人々はいつもわたしに自分の意欲を伝えてきた。わたしは人間に多くを語ってきたが、未だに人々はわたしの助言を無視している。だから将来わたしの心を誤解しないように、わたしは人々にわたしの見解を伝えよう。今後人々の生死は、人々の問題である。わたしにはどうすることもできない。人々は自分で生き残りの道を見つけてほしい。わたしはこれに関して無力である」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」「第四十六章」)。「人々が自らの命を犠牲にする覚悟がある時、全てがささいなものとなり、彼らをしのぐ者はいなくなる。命よりも大切なものがあろうか。だから、サタンは人の中でこれ以上何も行なえず、人に対して何もできなくなる。『肉体』の定義では、サタンによって堕落させられているものとあるが、人々が自分自身を真になげうち、サタンに振り回されることがないなら、誰も彼らを打ち負かすことはできない。そのとき、肉体は別の機能を果たし、正式に神の霊の導きを受け始める。これは必要な過程であり、段階的に進まなくてはならない。そうでなければ、神が人間の頑なな肉に対して働く術はない。神の知恵はそのようなものである」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」「第三十六章」)。神の御言葉をじっくりと考えて、私はとても困惑した。ネガティブに考え、苦しみを感じていたのは、死を恐れ、祝福を過剰に求めていたからではないか? 最初の頃は、祝福を受け、天国に入るために、神を信じていた。効力者の試練を経験したけれど、そして、祝福への欲を少し捨てられ、神へ奉仕をすることを決心したけれど、不実で邪悪なサタンの本性が深く根ざしてた。神が私たちを神の民にすると、私の胸はまた期待に高鳴った。今回は、確かに天国に入れるだろうと思った。神の御名を受け入れること、神に引き上げられること、神の国の民の1人となること、全てを諦めて自分を費やすことによって、もちろん天国に入れるだろうと思った。確実に。神のなせる働きが私の観念を打ち砕き、私の期待と終着点を奪った時、私は弱って否定的になり、神に文句を言った。神のために払った犠牲さえ後悔した。全ての努力によって、見返りとして、天国の祝福を受けられると思っていた。私は、神と取引をしていたのではないか? 神をだまし、神を利用していたのではないか? 私があらわにしたのは、全ての試練への反抗と不平以外の何ものでもない。神に従いたかったが、できなかった。よく理解していたはずの真理を実践できなかった。私は本性では神に抵抗していた、サタンと同じだったのだ、と悟った。サタン的性質で満ちた私のようなものは、死んで滅びるべきだ。神の国に入るには、全く相応しくなかった。これは、神の義の性質によって定められていた。神に従い、神の義の性質を知る機会を得たことは、私の人生は無駄ではなかったということを意味していた。それから私は神に祈った。「これ以上、自分の肉のために生きたくはありません。神の支配と采配に服従したいと思います。私の最期がどうなろうと、たとえ死のうと、私は神の義を賛美します」自分の最期と終着点を考えるのをやめた時、神の采配に、自分の命をかけてでも従うことを望んだ時、素晴らしい解放の感覚を味わった。

 しかしその時は、私たちが自分の結末を顧みずに服従し、神に従うことができても、追うべき目標を持っていなかった。しかし、1992年5月に、神はさらに御言葉を表された。生きているうちに神を愛し、意味のある人生を生きることを求めるようにとおっしゃられた。神は私たちを神を愛する時代に導かれ、死の試練は終わった。神の御言葉を読むこと、集会と交わりを通してわかった。人間の運命は神の御手に委ねられていて、誰も死を逃れられないけれど、神の御旨は、私たちが死に否定的に立ち向かうことではない。神は、私たちが生きている間に神を愛するようになること、真理を実践できるようになり、堕落した性質を捨て去り、完全に救われることをお望みなのだ。その時にこそ私たちは神の国に入れるようになるのだ。やっと理解ができた。死の試練に導くことで、神は私たちを死に導いているのではなく、神の義の性質をあらわにされている。神がこれを行うのは、神が救うのは誰か、滅ぼすのは誰か、神の国に入るのにふさわしいのは誰かを、私たちに知らしめるためだ。私はまた、自分がどれだけサタンによって堕落させられているかを知り、自分の観念、想像、祝福への欲を捨て去ることができた。神の支配と采配に服従できるようになり、真理を本当の意味で実践し始めた。これは神の、私に対する救いだ! 神は、私たちを憎んでいるとか苦しめたいという理由で、裁いたり、罰したりはしない。かわりに、私たちが真理を求め救われるための正しい道へ導いてくれるのだということがさらによくわかった。神が私たちに行う全てのことは、事実の出現によるものではない。神は、私たちを裁き、罰し、試し、精錬する御言葉をあらわすことで結果を得ておられる。神のなせる働きはとても思慮深く、神の人間に対する愛と救いは本物である!


神に仕えることは私の幸運

2020-12-16 18:40:59 | キリストの裁きの座の前における経験の証し

 全能神は言われます。「神は何を通じて人を完全にするのであろうか。それは、義という神の性質によるのである。神の性質は主として義、怒り、威厳、裁き、呪いであり、神は主に裁きを通じて人を完全にする」(「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」『言葉は肉において現れる』)。「効力者の時代の前、人はいのちを追求、神を信じる意味、あるいは神の働きの知恵を何ら理解しておらず、神の働きが人を試すことができることも理解できなかった。効力者の時代から今日に至るまで、人は人知を超える神の働きがいかに素晴らしいかを知り、神がいかに働くかを自分の頭脳で想像できないことを理解し、さらに自分の霊的背丈がいかに小さいかや、自分があまりにも不従順であることを知っている。神が人を呪った時、それはある効果を得るために為したのであり、人を死に追いやることはなかった。神は人を呪いはしたものの、それは言葉によって行われたのであり、神の呪いは実際に人に災いをもたらすことはなかった。なぜなら、神が呪ったのは人の不従順であり、従って神の呪いの言葉は人を完全にするためでもあったからである。神が人を裁く際も、呪う際も、それは人間を完全にする。どちらも人の内にある穢れたものを完全にするためのものである。この手段を通して人は精錬され、人の内に欠けているものは神の言葉と働きを通して完全にされる。神の働きのどの段階も、厳しい言葉であれ、裁きであれ、刑罰であれ、人を完全にする、あくまで適切なものである。あらゆる時代を通じ神はこのような働きを為したことはない。今日、神はあなたがたの内にあって働いているので、あなたがたは神の知恵を理解できた。あなたがたは内にある何らかの苦痛を味わってはいるものの、心は安定していて平安である。神のこの段階の働きを享受できるのはあなたがたにとって祝福である。将来得られるものが何であるかにかかわらず、今日あなたがたの内に神の働きとして理解できるものは愛である。人が神の裁きと精錬を経験しないならば、その行いと熱い思いは常に外にあり、その性質は常に変わらないであろう。そんな状態は、神に得られたと言えるであろうか」(「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」『言葉は肉において現れる』)。この御言葉は本当に感動的で神の裁きと刑罰の働きがすべて人類を清め救うためのものだと実感できます。これからお話しするのは終わりの日の裁きの働きを受け入れた私が経験した初めての試練、効力者の試練についての理解です。

 1991年2月のある日、いつものように参加した集会である兄弟がうれしそうに「聖霊が言葉を発した!」と言い兄弟姉妹が次の御言葉を読み始めました。「シオンに讃美がもたらされ、神の存する場所が現れた。栄光に満ちた聖なる名はあらゆる人に讃えられ、広まる。ああ、全能神よ。宇宙の頭、終わりの日のキリスト。この方こそ、全宇宙に堂々と威厳に満ちてそびえ立つシオンの山に登った輝く太陽である」「あなたは勝利者の群れを作り、神の経営(救いの)計画を全うした。諸国民はこの山に集い、玉座の前に跪く。あなたこそ唯一の真の神であり、栄光と栄誉はあなたにふさわしい。すべての栄光、讃美、権威がその玉座にあるように」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第一章」)。すべては理解できずとも、これを聞いた時こんなに特別で感動的な言葉は、人には表せないと思いました。この御言葉は神から生まれ、聖霊が発したものだと確信したその後、次々と教会に届く聖霊の御言葉は信仰や聖書の謎についての多くの真理を啓示し真理の実践といのちの入りへの道を開いてくれた。当時は毎日集会があり、聖霊の御言葉を読みました。それは私の心を強くし、潤しました。みんなが歓びに浸り、幸福でした。私たちは神の前に到達する最初の者であり神に成された勝者であり、神の王国に受け入れられ、神の約束と祝福を受ける資格があると思った。信仰心に満ち、神のために多くを費やした。聖霊の御言葉を書き写す者や、音楽に合わせて讃美歌を作る者もいました。当時私たちは苦しい状況にありました。多くの兄弟姉妹が集会の最中に逮捕されました。私はおびえも恐れもせず、熱意をもって神に自分を捧げた。

 そして祝福と神の王国への希望で満たされたその時神の新たな御言葉が私たちに効力者の試練を与えたのです。10月のある日、聖霊の新たな御言葉を受け取りに40キロ離れた教会に行くよう言われた私は素晴らしい知らせに違いないと思い胸を躍らせ鼻歌を歌いながら自転車で集会場へ向かった。しかし到着すると兄弟姉妹が浮かない顔でうなだれていました。兄弟が言いました。「聖霊が御言葉を発した。神は私たちはみな効力者だと仰った」姉妹は目に涙を浮かべ「みんな効力者です。中国人は神に仕える者。祝福を受けられないの」と言います。信じられませんでした。急いで聖霊の御言葉と、この神の御言葉を読みました。「中国では、わたしの長子とわたしの民を除けば、他のすべての者は赤い大きな竜の子孫であり、投げ捨てられるべきであることを、あなた方は理解しなければならない。結局、中国はわたしによって呪われた国であり、そこにいる僅かばかりのわたしの民は、わたしの将来の働きのために奉仕する者に過ぎないということを、あなた方は理解しなければならない。別の言い方をすれば、わたしの長子たちを除いては、他に誰もいないのである──彼らはみな滅びることになっている。わたしの業においてわたしが極端過ぎると思ってはならない。これはわたしの行政命令である。わたしの呪いを受ける者たちは、わたしの憎しみの対象であり、これは確かなことである」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第九十五章」)。驚くばかりでした。効力者については過去に何度も聖霊の御言葉で言及され不信心者のことだと思っていましたがそれは私たちのことでした。中国人は神に呪われる効力者で奉仕を終えると底なしの穴に放り込まれるとありました。体中の力が抜けました。まさか自分が効力者だなんて。長年の信仰は無駄だったのか? 神の王国で祝福されないばかりか、底なしの穴だなんて! 深淵に放り込まれたように惨めで怨む心が芽生えました。主に従うために学業を諦めたこと。世間に笑われ、友人や家族からも理解されなかったこと。中共の迫害、そして危うく逮捕されそうになったこと。それでも私はひるまず、神に自分を捧げ犠牲を払いました。深く苦しんだ分、神の王国で祝福を享受すると思ったのに賤しい効力者となった。訳もわからず、ため息をつきながらただ座っていました。他の兄弟姉妹はうなだれ涙を流す者や、顔を覆い嗚咽をもらす者大声で泣き叫ぶ兄弟もいました。

 集会のあと帰路についても自転車をこぐ気力すらありません。「なぜ私が効力者?」という想いが頭から離れず考えるほどに被害者のような気がして、涙が止まりません。家に戻っても何もする気になれず誰とも話す気になれずうつむいて歩くだけ。息をするのも辛く感じ自分が効力者で、祝福を全く受けないなんて認められませんでした。

 その後新たな御言葉が次々に届きましたがその一篇ずつを熱心に読み、御言葉の中に、私の帰結を変える希望の光を求めました。しかし見つけたのは祝福どころか厳しい裁きばかり。特に次の御言葉がそうです。「効力者たちと悪魔に属する者たちは霊的に死んだ者であり、そのような者たちは滅ぼされて無に帰さなくてはならない。これはわたしの経営(救いの)計画の奥義であり、わたしの経営(救いの)計画において人間には計り知れないことである。しかしわたしは、これを全ての者たちに公にした。わたしに属さない者はわたしに敵対するものである。わたしに属するものはわたしと相容れるに適った者である。これは疑いの余地のないことであり、サタンに対するわたしの裁きの原則である。この原則を知るべきである――サタンから来る全てもの者は裁かれ、焼き尽くされ、灰となる。これはわたしの怒りでもあり、人はわたしの性質をさらに知ることができる」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第百八章」)。「今日わたしの為に奉仕した後に、全員去らなければならない。わたしの家に残ってはならない。恥知らずな居候であってはならない。サタンに属する者はみな悪魔の子であり、永遠に消滅する」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第百九章」)。神が効力者を裁き、呪うのを見てすべての希望を失い、底なしの穴に落ちていくようで、あんなみじめな気持ちは言葉で表せません。神の懐に抱かれ、神の愛を享受していたのに今や神に捨てられ、非難と呪いを受け、底なしの穴へと放り込まれた。苦痛という精錬に沈みこみ、とても消極的になりました。祈ったり、讃美歌を聴いたり、御言葉を読む気力もなく、これまでの献身と犠牲を後悔する気持ちさえ抱きました。こんなことになるなら、逃げ道を残しておいたのに。私にはもう何もない。私が効力者となり果て、すべてを失ったと知れば、信仰のない友人や家族に際限なくからかわれる。とても顔を見せられない。どうしよう。それを考えると、自分をとがめる気持ちが深くなりました。これまでの信仰を思い返すと多くの苦難もあったが、私は神の恵みと祝福を十分享受した。今日もまた神に持ち上げられ新たな御言葉を聴き多くの謎と真理を学んだ。何があろうと神からは離れられないのだ。

 一度、集会でこの御言葉を読みました。「わたしはただ、あなた方が心と思いを尽くし、また、あなた方の能力を尽くして、あなた方のすべての力をわたしに捧げることを望む。今日であろうと明日であろうと、あなた方がわたしのために効力者であろうと、祝福を受ける者であろうと、あなた方は皆、わたしの国のために、あなた方の力を尽くすべきである。これは、造られたすべての人々が担うべき義務であり、それはこのように行われ、実行されねばならない。わたしは、わたしの国の美しさを常に新しいものにし、わたしの家を調和させて統一させるために、すべてのものを動員して奉仕させる。誰もわたしに背くことは許されず、背く者は裁きを受け、呪われなければならない」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第百章」)。当時の教会指導者もこれについて交わってくれました。「効力者であることを恥ずかしいと感じる人は多いが、それは全くの間違いである。今日、私たちが神に仕えることができるのは、神が予め定められたことであり、それ以上に、私たちは神にそうするように選ばれたのである。実際、最高で全能なる神に仕えることは、非常に栄誉あることである。私たちはサタンに深く堕落させられてしまった人間であり、神の前ではちっぽけな被造物に過ぎない。誰が神に仕えるのにふさわしいというのか。全人類の中から、私たちは神に仕えるために選ばれた。私たちは多くのものを得てきており、これは本当に神から大きく高められていることである。このように言うのが一番公平であり、それを理解できないならば、途方もなく傲慢である。正直に言う。人間性にまったく欠けている私たちが、神に仕えることを神に許していただいている。だが、神がどれほどの屈辱を受けたか知っているだろうか。神は毎日私たちのような堕落した人に接しているが、神が受けている大きな屈辱について考えたことがある人が私たちの中にいるだろうか。私たちはいつも神に反抗し、逆らい、自分の観念や想像で神を裁き、神の心を砕いている。神はどれほどの苦悩を味わってきたのだろうか。私たちが堕落した性質で満ちており、神に仕えても神の要求を満たしていないということをよく心得なさい。そのようにふるまっていては、私たちは神に仕えることさえふさわしくない。ではどうして神の民となるにふさわしいと言うのか。」これを聞いて目が覚めました。創造主であり至高の存在である神に賤しくちっぽけな私が奉仕できるのは、神の高尚さでありやさしさなのだと。しかし私は自分の性質も地位も知らず効力者は賤しいと思い、神に仕える気持ちを持たなかった。ごう慢で理知に欠けていた。思い返すと、熱心に追求し犠牲を払い努力を費やしたのはすべて祝福を得るため、神の王国の祝福を享受するためでした。人への約束と祝福を示す御言葉に動機を与えられ中共の迫害にもひるまず頑張ってきたのに自分たちが底なしの穴に放り込まれる効力者だという御言葉を読み、神に不平を言い、責め立て、神を裏切り離れようとさえした。とても真の信心者といえません。私の献身と犠牲と努力は、自分の下心と不純によって汚されました。すべては祝福を受け、神を騙し、神と取引をするため。自分勝手で卑しい人間です。神の恵みと祝福を享受し、御言葉に栄養と水を与えられたのに祝福を受けられないと知ったとたん神を裏切ろうとするなんて良心も理知もない人間でした。深い後悔と自責の念を感じた。私は大きな赤い竜の子孫で、神の家ではなくサタンに属し信仰の動機は祝福を受けることでした。神は聖く、義であり、その性質はどんな背きも許さない。神への行動と態度をみれば、私には効力者になる価値すらなかった。とうの昔に神に呪われ地獄へ送られるべきでした。神は私を懲罰せず、生きることを許して下さった。私が神の言葉を聞き、いのちの栄養を受け取り、至高の神に仕えられるように。これは特別の賛美であり私は神に感謝こそすれ、文句をいう権利などありません。効力者として尽くさなければ!

 11月後半になり、さらに新たな御言葉が届きました。全能神は言われます。「わたしがシオンに戻った後も、地上の者たちは、過去と同じようにわたしを讃美し続けるだろう。これらの忠実な効力者たちは、わたしに仕えるために今もなお待っているが、彼らの役割は終わるだろう。彼らにできる最善のことは、わたしが地上にいる状況を熟考することである。その時になると、わたしは災難を被るであろう人々に災害をもたらし始めるが、すべての者はわたしが義の神であると信じている。わたしは決してそれらの忠実な効力者たちを罰することはなく、彼らにわたしの恵みを受け取らせるだけである。なぜなら、わたしはすべての悪を行う者たちを罰し、善を行う者たちは、わたしが授ける物質的楽しみを受けるだろうと、わたしは言ったからである。これはわたしが正義と信実の神自身であることの啓示である」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第百二十章」)。神は私たちを見捨ててはいなかった。大きな赤い竜の子孫だから懲罰していたのではなかった。私たちは献身的な神の効力者として、地上で神を称えることができる。心が温かくなり、体に力がみなぎり、神の効力者であることは神の賞賛であり祝福だと感じました。あの頃は集会で「神様に仕えることは私たちの幸運」をいつも歌いました。「神の御言葉の啓示と裁きを通して、私たちは自らの深い堕落を知る。祝福への欲に満たされたままでは、神の前で生きるにふさわしいとは言えない。神の王国に入る資格のない私たちにとって、神に仕えることは昇進である。ああ! 神の恵みにより私たちは神に仕える。それは幸せなことである。待ち受けるのが祝福でも不幸でも、私は最後まで神に仕える」(「神様に仕えることは私たちの幸運」『小羊に従って新しい歌を歌おう』)。

 効力者として幸せを感じ、神に仕える心構えができた頃全能神が新たな御言葉を発しました。1992年2月20日、神は私たちを王国の民とし、効力者の試練を終わらせました。「状況は以前とは異なり、わたしの働きは新たな開始点に入っている。そういうわけで新しいやり方が出てくるだろう。わたしの言葉を読み、まさに自分のいのちとして受け入れる人々はわたしの国の人々である。彼らはわたしの国にいるので、わたしの国のわたしの民である。彼らはわたしの言葉によって導かれるので、わたしの民と呼ばれるが、この呼び名はわたしの『子供たち』と呼ばれることとまったく同じである」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」「第一章」)。神が効力者を王国の時代の民に変えたことで、幸福と後悔と自責の念を感じました。効力者の試練の間、消極的で弱々しくなり、希望を失い神に不満を抱き、神を誤解し責めたことを後悔しました。効力者になることをためらい、忠誠心も従順さもなかった。深い後悔と、神への負債が残った。大きな赤い竜の子孫であり、反抗的で堕落した私たちが試練を耐え抜いたことで神が私たちを高め、王国の民、神の家の一員としてくださった。神の偉大な愛を感じ神への感謝と称賛で満たされました。

 この試練を経験し、私は神の働きの英知を知りました。神は御言葉で人を裁き、罰し、呪いすらします。その厳しい言葉がもたらす痛みと苦しみはすべて私たちを清め、変えるためです。私は神の御言葉により精錬され神の義なる性質を目にしましたが神は私たちの動機と不純を憎み、祝福のための信仰を嫌いました。この経験の後、私の信仰に対する見方が少し変わりました。祝福や王国への入りを求めることなく効力者として創造主に仕えることは尊いことであり祝福なのです。誇りと名誉を感じました。