全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た

2020-03-05 09:48:07 | 書籍

数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、彼に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る勝利者の一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。

「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神の選民)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしであるすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、力ある全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行ったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを救済し、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを作った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行う。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終りの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖罪の働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行い、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行ってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行い、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から救われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度救うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行われるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。


聖書について(4)

2020-02-27 14:32:24 | 書籍

多くの人は、聖書を理解することと解釈できることは、真の道を探すのと同じことだと信じている。しかし、実際、物事はそんなに単純だろうか。聖書の実際は誰も知らない。つまり、聖書は単なる神の働きについての歴史的記録であること、神の以前の二段階の働きについての証しであること、神の働きの目的については何も教えていないことである。聖書を読んだことのある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代の二つの段階での神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と創造から律法の時代の終わりまでのヤーウェの働きを記録している。新約では四福音書に、イエスの地上の働きと、パウロの働きを記録している。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。聖書を読めば、せいぜいイスラエルの歴史が少しだけ、またアブラハムやダビデ、モーセの生涯を学び、彼らがどのようにヤーウェを崇めたか、ヤーウェが自分に敵対する人々をどのように火で罰し、その時代の人々にどのように話したかといったことがわかるだろう。神が過去に行った働きのことだけがわかるだろう。聖書の記録は、初期のイスラエルの人々がいかに神を崇め、ヤーウェの導きの下で生きたかということに関連している。イスラエル人は神の選ばれた民であったので、旧約では、イスラエルのすべての人々のヤーウェへの忠誠や、ヤーウェに従う人々が神からどのように守られ祝福を受けたかがわかる。また、イスラエルで働いたとき、神は慈悲と憐れみに満ちていたが、また激しい炎ももっていたこと、イスラエルの民は卑しい者から強い者まですべてがヤーウェを崇め、そのためすべての民は神から幸いを受けたことを知ることができる。これが旧約に記録されているイスラエルの歴史である。

聖書は神のイスラエルでの働きの歴史記録であり、古代の預言者たちの数多くの預言と、ヤーウェが当時その働きについて述べたことの一部が記録されている。だから、人々はこの本を神聖なものとして尊ぶ(神は聖く、偉大であるから)。もちろん、これはみな、人々のヤーウェへの畏敬と神への尊崇から来ている。人々がこの本をこのように扱うのは、神の被造物が自分たちの創造主を深く畏敬するためで、この本を天の書と呼ぶ者さえいる。実際のところ、これは人間の記録でしかないのだが。これはヤーウェが直接名付けたものではないし、ヤーウェが直接その作成を導いたものでもない。つまり、この本の著者は神ではなく、人間なのだ。聖書は、人間が敬ってつけた書名に過ぎない。この書名は、ヤーウェやイエスが話し合って決めたものではない。これは人間の考えでしかない。この本はヤーウェの著書ではないし、ましてイエスの著したものでもない。そうではなくて、多くの古代の預言者や使徒たち、予知する者の書いたものを後の世代が編集して、その人々にはとりわけ聖いものと映った古代の文書を一冊の本に、未来の世代によって解読されるのを待っている多くの計り知れない深遠な奥義を含んでいるとその人々が信じた一冊の本に、まとめたものである。だから、よけいに人々はこの本を天の書だと考えがちである。四福音書と黙示録の追加によって、この本への人々の態度は、他のどの本とも異なっていて、誰一人、この「天の書」を解明しようとしない。――それはあまりに「神聖」だからだ。

なぜ、聖書を読むとすぐに、実践の正しい道を聖書の中に見つけることができるのだろうか。なぜ人々には不可解であったものを幾分でもとらえることができるのか。今日、わたしはこのようにして聖書を分析しているが、これはわたしが聖書を憎んでいるからではないし、また、参考としての価値を否定するものでもない。わたしが聖書の本来の価値とそのなりたちを説明し、明確にしているのは、あなたが闇の中にとどまることのないようにである。人々は聖書について実に多くの解釈をしており、その多くは誤っているので、聖書をこのように読むのは、得るべきものを得ることを妨げるだけではなく、さらに重要なことに、わたしのしようとする働きの妨げとなる。これは未来の働きのために、はなはだしく邪魔なものとなり、有用さより欠点ばかりをもたらす。だから、わたしがあなたに教えていることは、単に聖書の本質とその内部事情である。わたしは聖書を読むなと言っているのではないし。また、聖書がまったく無価値だと告げて歩けとも言っていない。ただ、聖書に関して正しい知識と見方をもつべきだというのだ。あまり偏った見方をしないことだ。聖書は人間の書いた歴史書だが、これはまた、古代の聖人や預言者が神に仕えた原則とともに、近い時代の使徒たちが神に仕えた経験を記した文書でもある。これらはみな、そうした人々が実際に見て、知った事柄であり、この時代に真の道を求める人々に関する参考としては役立てることができる。だから、聖書を読めば、他の書物からは得られない多くのいのちの道について知ることができる。これらの道は、預言者や使徒たちがかつて経験した、聖霊の働きのいのちの道であり、その言葉の多くは貴く、人々の必要とするものを与えてくれる。だから、人々はみな聖書を読むことを好むのである。聖書にはまことに多くの事が隠されているから、人々の聖書の見方は偉大な宗教家の著作に対するものとは異なっている。聖書は古代と新しい時代にヤーウェやイエスに仕えた人々の経験と認識を集めた記録で、後の世代は、これにより多くの啓示、洞察、実践への道を学ぶことができた。聖書がどの偉大な宗教家たちの著作よりも高位にあるのは、彼らの著したものが聖書から引き出したものであり、彼らの経験はみな聖書から来ていて、いずれも聖書を解説しているからである。そこで、人々は偉大な宗教家の著書から糧を得られるが、彼らはまだ聖書を崇める。聖書がじつに偉大で深遠に思われるからだ。聖書はパウロ書簡やペテロの書簡といった、いのちの言葉の書の一部を収めているし、また、人々はこれらの書から必要なものや助けを得ることができるものの、これらの書は時代遅れで、過去の時代に属するものである。どれほど優れていても、一つの時代にだけ通用するもので、永遠ではない。神の働きは常に進展しており、ただパウロやペテロの時代にとどまることはできないし、いつまでもイエスが十字架につけられた恵みの時代にとどまることもできない。だから、これらの書は恵みの時代にのみふさわしいものであって、終わりの日の神の国の時代にはふさわしくない。これらは恵みの時代の信者の必要を満たすものであって、神の国の時代の聖徒のためのものではない。どんなにすぐれたものであっても、それらは過去のものなのだ。これはヤーウェの創造の働きやイスラエルでの働きも同様だ。働きがどんなに偉大なものであっても、それは過去のものであって、それが廃れる時が来ることは決まっていた。神の働きもまた同じである。偉大だが、終わる時が来る。いつまでも創造の働きにとどまることはできないし、十字架刑の時代にとどまっていることもできない。十字架刑の働きがいかに説得力があり、サタンを打ち負かすことにおいてどれほど効果的であっても、結局、働きは働きであり、時代もまた時代なのである。働きはいつまでも同じ基礎の上にとどまれない。また、時代がけっして変わらずにあるということはありえない。創造があったのだから、終わりの日がなければならない。これは必然だ。だから、今日、新約のいのちの言葉、つまり使徒たちの書簡とそれに四福音書は歴史的な書となり、古い年鑑となった。古い年鑑がどうして人々を新たな時代に導けるであろうか。年鑑がどれほど人々にいのちを与えることができたとしても、人々を十字架に導くことができたとしても、時代遅れなのではないか。価値がないのではないか。だから、盲目的にこれらの年鑑を信じるべきではないと言うのだ。ああしたものは古すぎて、あなたを新たな働きに至らせることができず、重荷になるだけだ。新たな働き、新たな進路に至らせることができないばかりか、古い宗教的な教会に入らせる。もしそうなると、神への信仰において退歩していることになるのではないか。

聖書に記されているのは、イスラエルにおける神の働きであり、そこにはイスラエルの選ばれた民によって行われたことも幾つか含まれている。つまり、これはヤーウェのことについて述べたものだ。これについて、聖霊は批判してはいない。聖書の成り立ちの過程にはどの部分を入れどの部分を除くかという選択があり、聖霊はこれを認めないが、批判もしない。聖書はイスラエルと神の働きの歴史の記録でしかない。人々、物事、そしてその記録していることは、みな事実であり、それらには象徴的な意味は全くなかった。――もちろん、イザヤとダニエルと、その他の預言者たちやヨハネの幻の書を除いては。イスラエルの初期の人々は知識が豊富で教養があり、彼らの古代の知識や文化はきわめて進んだものであり、彼らの書いたものは今日の人々のものより高度であった。だから、彼らがこれらの書を著せたのは驚くにあたらない。ヤーウェは彼らの間で実に多くの働きをし、彼らは多くを見たのだから。ダビデはヤーウェのわざをその目で見、自らそれを味わい、多くのしるしと不思議を見た。そこで、ヤーウェのわざをたたえて、あの多くの詩歌を書いた。彼らがそうした書を著すことができたのは、その置かれた状況のためであり、彼らが神聖であったためではない。彼らがヤーウェをたたえたのは、ヤーウェを見たからである。もしあなたたちがヤーウェをまったく見たことがなく、神の存在を知らなければ、どうして神をたたえることができたであろうか。ヤーウェを見たことがなければ、神をたたえることも、崇めることも知らないままであろうし、まして神をたたえる歌を書くこともできないであろう。そして、たとえヤーウェのわざを何かでっち上げてくれと言われても、できないであろう。今日、あなたたちが神をたたえ、神を愛するのは、あなたたちが神を見て、神の働きを経験したからでもある。そして、もしもあなたたちの能力が向上したなら、あなたたちもまた、ダビデのように神をたたえる詩を書けるようになるのではないか。

聖書を理解し、歴史を理解するが、聖霊が今日何をしているかを理解しない──これは間違っている。あなたは歴史を学ぶことはよくできたし、実にすばらしい成果を上げた。しかし、聖霊が今日している働きについては、何も理解していない。これは愚かなことではないか。人々があなたに「神は今、何をしているのですか。あなたたちは今日、何に入るべきなのですか。あなたのいのちの探究はどうはかどっていますか。あなたは神の御心を理解しているのですか」と尋ねても、あなたには答えることができないであろう。それで、あなたは何を知っているのか。あなたは、わたしは肉に背を向け、自分を知らなければいけないことを知っているだけですと言うであろう。そして、もし相手が「他には何を知っているのですか」と尋ねたなら、あなたは、神のすべての計画に従うことを知っている、そして、聖書の歴史について少し知っている、それで全部だと答える。それが、この数年間神を信じてきて、学んだことのすべてなのだろうか。それがあなたが理解していることのすべてなら、あなたには実に多くのことが欠けている。だから、あなたたちの今日の背丈では、わたしがあなたたちに求めることを満たすことは基本的にできないし、また、あなたたちの識別力とあなたたちの理解している真理はあまりにわずかである。つまり、あなたたちの信仰はあまりに表面的なのだ。あなたたちは、もっと真理を身につけなければいけない。あなたたちにはもっと認識が必要だ。あなたたちはもっと多くを見なければいけない。そうしてはじめて、福音を広められる。これがあなたたちの成し遂げるべきことなのだから。


聖書について(2)

2020-02-24 14:28:44 | 書籍

聖書は旧約・新约聖書とも呼ばれる。あなたたちは、「約」の意味を知っているだろうか。「旧約」の「約」とは、ヤーウェがエジプト人を殺してイスラエルの民をパロから救ったときの、ヤーウェとイスラエルの民との契約に由来する。もちろん、この契約の証しは鴨居につけた羊の血で、神はそれをもって人間と契約を結んだ。この契約は、二本の門柱と鴨居に羊の血のついた家の者はイスラエル人で、彼らは神の選ばれた民であり、ヤーウェは彼らを通り過ぎる(このとき、ヤーウェはエジプト人の初子たちと羊や牛の初子をみな殺そうとしていた)という内容であった。この契約には二重の意味がある。ヤーウェはエジプト人とその家畜を一切救わず、男の初子と羊と牛の初子をみな殺す。そこで、多くの預言書は、エジプト人がヤーウェの契約のために厳しい刑罰を受けることを預言していた。これが契約の第一層の意味である。ヤーウェはエジプト人の初子と家畜の初子をみな殺したが、イスラエルの民は、すべて見逃した。つまり、イスラエルの地に住む民はヤーウェの慈しむ者たちであり、みな助かるであろうということである。ヤーウェは彼らのために長期におよんで働こうと思い、羊の血で彼らと契約を結んだ。それ以後、ヤーウェはイスラエル人を殺すことなく、彼らは永遠に自分の選んだ民であると告げた。イスラエルの十二部族の間で、ヤーウェは律法の時代を通して働きを開始する。イスラエル人に律法を示し、彼らの中から預言者と士師を選び、彼らを神の働きの中心に置いた。ヤーウェは彼らと契約を結んだ。時代が変わらない限り、ヤーウェは選ばれた民の間でだけ働く。ヤーウェの契約は変えられないものだった。それは血で結ばれたからである。そして、神が選んだ民との間で結ばれたのである。より重要なことに、ヤーウェは時代全体を通じて働くために適切な範囲と対象を選んだ。そこで、人々は契約をとりわけ重要なものと見た。これが契約の第二層の意味である。契約締結前の創世記を例外として、旧約の他の書はみな、契約を結んだ後のイスラエル人の間での神の働きを記録している。もちろん、異邦人のことを述べている箇所もあるが、総体的に旧約はイスラエルにおける神の働きを記録している。ヤーウェのイスラエル人との契約のため、律法の時代に書かれた書は「旧約」と呼ばれている。これはヤーウェのイスラエル人との契約に因んで名付けられた。

新約は、イエスが十字架上で流した血と、イエスを信じる者たちとの間での契約に因んで名付けられた。イエスの契約はこうである。ただイエスを信じれば、イエスの流した血により罪を赦され、救われ、イエスをとおして生まれ変わり、もはや罪人ではない。神の恵みを受けるにはイエスを信じさえすればよい。そうすれば、死後、地獄の苦しみを受けることがない。恵みの時代に記された書はみな、この契約の後のものだ。そしてみな、働きと、そこで述べられた言葉を記録している。これらの書は主イエスの磔刑による救い、あるいは契約より先には進まない。これらは、すべて経験をした主における兄弟たちが記した書である。だから、これらの書も契約に因んで名付けられ、「新約」と呼ばれる。この二つの契約には、恵みの時代と律法の時代だけが含まれていて、終わりの時代には何のつながりもない。したがって、聖書は終わりの時代の今日の人々にとってそれほど役に立たない。せいぜい、臨時の参照用になるが、基本的にはほとんど無価値である。しかし、宗教関係者は、まだこれを最も貴重なものとしている。彼らは聖書を知らない。彼らは聖書を説明する方法を知っているだけで、基本的にそのなりたちを知らない。そうした人々の聖書への態度は、聖書に書かれていることはすべて正しい、そこには不正確なことや誤りはない、というものである。彼らは聖書は正しく、誤りはないと最初から決めているので、大いに興味をもって学び調べる。今日の働きの段階は、聖書で預言されていなかった。最も暗い場所における征服の働きについてはどこでも触れていなかった。これは最新の働きだからだ。働きの時代は異なるものだから、イエス自身でさえ、この段階の働きが終わりの日に行われるとは知らなかった──では、終わりの日の人々がこの段階の働きを聖書の中に見つけることなどできるであろうか。

聖書を解説する人のほとんどは、論理的推測をしているので、実際の背景を知らない。彼らは単に、多くのことを論理的に推測しているだけだ。何年ものあいだ、あえて聖書を細かく調べたり、聖書に「否」といったりする人は誰もいなかった。この本は「聖なる書」であり、人々は聖書を神のように崇めているからである。これが数千年も続いている。神は気にしないし、誰一人として聖書のなりたちを発見していない。わたしたちは、聖書を大切なものとするのは偶像崇拝だと言うが、そうした敬虔な信者たちは誰もそのように見ようとはしない。その人たちは「兄弟!そんなことを言うのではありません。それはひどい。どうして神を冒瀆できるのです」と言うであろう。次には辛そうな顔をして、「ああ、慈悲深いイエス、救いの主、この人の罪をお赦しください。あなたは人間を愛する主で、わたしたちはみな罪を犯しました。どうか、わたしたちを憐れんでください。アーメン」と言う。彼らの「敬虔」とはこのようなものである。彼らが真理を受け入れるのは容易なことではない。あなたの言うことに、彼らはひどく怯えるだろう。聖書が人間の考えや観念によって汚されているかもしれないとは、誰も考えようとしない。また、誰にもこの欠陥が見えない。聖書のある部分は人間の経験や認識であり、一部は聖霊の啓示であり、また、人間の知性や思考が混じっていもする。神はこうしたことに介入したことはないのだが、物事には限界がある。これらは通常の人間の考えを超えられない。もしそうなれば、神の働きに介入し、邪魔していることになる。通常の人間の考えを超えるものはサタンの働きである。それは本来人間のするべきことを奪うからである。それはサタンの働きで、サタンの指示によるもので、このような時、聖霊はあなたがそのように行動することを許さない。時に、兄弟姉妹が「これこれのやり方で働いていいのですか」と尋ねる。わたしは彼らの背丈を見て、「いいですよ」と言う。また、「もしわたしがこれこれの働き方をしたら、わたしの状態は正常でしょうか」と尋ねる人もいる。そこでわたしは「はい。それは正常です。ごく正常です」と言う。別の人は「こういうふうに働いていいですか」と言う。そこでわたしが「いけません」と言うと、「なぜあの人はよくて、わたしはいけないのですか」と尋ねてくる。そこで、わたしは「あなたがしていることは、サタンから来ているからです。それは混乱させます。あなたの動機は逸脱しています」と答える。また、働きが十分に進んでいないが、兄弟姉妹はそれに気づいていないときがある。わたしに、こういうふうに働いていいかと尋ねる人たちもいる。それを見て、その人たちの行動が将来の働きを妨げないものなら、わたしは、それでよい、と言う。聖霊の働きは人々にひとつの範囲を与える。人々は聖霊の願うことに厳格に従う必要はない。人々は普通の考え方と弱点を持っているし、身体的な必要もあり、現実的な問題を抱えており、頭の中には自分では基本的には抑制のできない考えもあるからである。わたしが人々に求めることにはみな、一定の限界がある。わたしの言葉が曖昧で、わたしがみなに、適当に行動するよう指示を出していると思っている人がいる。それは、わたしの要求には適切な範囲があることを理解していないからである。あなたたちの想像のとおりなら──もしわたしが同じ要求を例外なく全員にしていたなら、みな同じ背丈を達成することを要求するなら──それではうまくいかないであろう。これは不可能な要求というものだ。それに、これは人間の働きの原則であって、神の働きの原則ではない。神の働きは、人々の実際の状況に従って行われるのであって、人々の生まれながらの素質に基づいている。これはまた、福音を広める原則でもある。あなたは、自然に任せ、誰かに真理を明瞭に話すときのみ、ゆっくりと進まなければいけない。そうしてはじめて、人々は理解し、そうなってはじめて、聖書を脇に置くだろう。もし神がこの段階の働きをしなければ、誰が因習を打ち破れるのか。誰が新しい働きをできるのか。誰が聖書の外に新たな道を見いだせるのか。人々の伝統的な観念と封建的倫理とが甚だしいので、人々は自分ではこれらを捨て去る能力をもたず、そうする勇気もない。今日の人々が聖書にある死んだ言葉のいくつかに捕らえられていること、言葉に心を奪われていることは、言うまでもない。どうしてそんな人々が聖書を捨てようと思うであろうか。どうして聖書の外にある道を容易に受け入れることができるであろうか。つまり、あなたが聖書の内部事情と聖霊の働きの原則を明瞭に話して、すべての人々を完全に納得させることができなければ、である。これが最も必要なことだ。これは、宗教を信じているすべての人が聖書を尊重し神として崇拝しているから、神を聖書の内に閉じ込めようとしているから、さらには再び神を十字架につけなければ、そんな人々の目的は達成できないという事態だからである。


聖書について(3)

2020-02-23 12:57:21 | 書籍

聖書にあることがみな、神が直接語った言葉の記録だというわけではない。聖書はただ、神の働きのうちの前の二段階を文書で記録しているに過ぎない。そこには預言者たちの預言と、各時代で神に用いられた人々の経験と認識を記したものが含まれる。人間の経験には人間の意見や認識が紛れ込んでいるが、これは避けられないことである。聖書の多くの書には、人間の観念、人間の偏見、人間の愚かしい解釈が含まれている。もちろん、ほとんどの言葉は聖霊による啓示と教えの結果で、それらは正しい解釈である。しかし、すべてが真理を正確に表現しているとは言えない。ある物事についての見方は、個人的な経験による知識に過ぎないか、聖霊による啓示である。預言者たちの預言は神が直接指示したものだ。イザヤ、ダニエル、エズラ、エレミヤ、そしてエゼキエルの預言は聖霊が直接指示したものだ。これらの人々は預言者で、預言の霊を受けた。彼らはみな旧約の預言者であった。律法の時代、ヤーウェの霊感を受けたこれらの人々は、多くの預言を語った。それはヤーウェが直接指示したものであった。それでは、なぜヤーウェは彼らの内で働いたのだろうか。イスラエルの人々が神の選ばれた民だったからだ。預言者の働きは彼らの間で行わなければならなかったし、彼らはそうした啓示を受ける資格をもっていた。実際のところ、彼ら自身は神の啓示を理解していなかった。聖霊が彼らの口を通して言葉を述べたのは、未来の人々がそれらのことを理解し、それらがほんとうに神の霊、聖霊の働きであって、人間から出たものではないとわかるようにであり、聖霊の働きを確認させるためであった。恵みの時代には、イエス自身が彼らに代わってこの働きをすべて行った。だから、人々はもはや預言を語らなかった。では、イエスは預言者だったのだろうか。イエスは、もちろん、預言者だった。しかし、イエスはまた、使徒の働きもできた。イエスは預言を告げることも、全土の人々に教えを説くこともできた。しかし、イエスのした働きと、その身分は同じではない。イエスはすべての人間を贖うために、罪を贖うために来たのである。イエスは預言者、使徒であったが、それ以上にキリストであったのだ。預言者は預言を告げることができるが、だからといって、その人がキリストだとは言えない。当時、イエスは多くの預言を語ったので、イエスは預言者であったと言うことはできるが、預言者であったからキリストではないとは言えない。つまり、イエスは神自身を代表して一つの段階の働きを実行したのであり、その身分はイザヤとは違う。イエスは贖いの働きを完了するために来た。イエスはまた人間にいのちを与えた。また、神の霊が直接イエスに訪れた。イエスの行った働きには、神の霊の霊感やヤーウェからの指示はなかった。その代わりに霊が直接働いた──このことは、イエスが預言者と同じではなかったことの十分な証拠である。イエスの行った働きは贖いの働きで、それに次ぐのが預言を語ることであった。イエスは預言者、使徒、そしてそれ以上に贖い主であった。一方、預言者たちは、預言ができるだけで、他の働きをして神の霊を代表することはできなかった。イエスは、かつて人間がしたことのない働きをかなり行ない、人間の贖いの働きをしたので、イザヤのような人々とは違っていた。現在の流れを受け入れない人々がいるのは、これがその人たちの妨げとなっているからである。その人たちは言う。「旧約では多くの預言者もまた多くの言葉を語っています。では、なぜあの人たちは受肉した神ではなかったのですか。今日の神は言葉を語る──それで、あの人が受肉した神であると証明するのに十分なのですか。あなたは聖書を重視していないし、聖書の勉強もしない──では何を根拠にしてあの人が受肉した神だと言うのですか。あなたは、彼らは聖霊に導かれていて、あなたは、この段階の働きは神が自ら行う働きだと信じています。――でも、その根拠は何なのですか。あなたは今日の神の言葉に注意を集中し、まるで聖書を否定して、脇に置いてしまったかのようです。」それで、人々はあなたが異端の教えを信じており、邪教集団の一員だと言う。

もしあなたが終わりの日の神の働きを証ししたいのなら、聖書の内部事情、聖書の構成、そして聖書の本質を理解しなければいけない。今日、人々は聖書が神であり、神は聖書だと信じている。また、聖書の言葉のすべてだけが神の語った言葉であって、それはみな、神が語ったと信じている。神を信じている人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだけれど、これらはみな神から霊感を受けており、聖霊の告げたことを記録しているのだとさえ考えている。これは人々の解釈が誤っているのであって、事実に完全に沿ったものではない。実際、預言の書以外、旧約のほとんどは歴史的記録である。新約の書簡のいくつかは人々の経験に基づいたもので、またいくつかは聖霊の啓きによるものである。たとえば、パウロの書簡はひとりの人間の働きから生まれたもので、それはみな、聖霊の啓きを受けた結果であった。また、その書簡は教会のために書かれたもので、教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語った言葉ではなかったのである。パウロは聖霊の代わりに語ることはできなかった。また、彼は預言者でもなかったし、ましてヨハネが見たような幻を見てもいない。パウロの書簡はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、その他の教会に向けて書かれた。だから、新約のパウロの書簡はパウロが諸教会に向けて書いた手紙で、聖霊の霊感によるものではないし、また、聖霊が直接語ったものでもない。あれは単に、パウロが働きの間に諸教会に向けて書いた勧告と慰めと励ましの言葉である。また、当時のパウロの活動の大部分の記録でもある。あれは主における兄弟姉妹のために書かれたもので、当時のすべての教会の兄弟姉妹に、パウロの助言に従い、主イエスの教えを守らせるためのものだった。当時の教会であれ、未来のものであれ、パウロは自分の書いたものをみなが飲み食いしなければならないとは絶対に言わなかったし、また、自分の言葉がみな神から出たものだとも言わなかった。当時の教会の状況に合わせて、パウロは単に兄弟姉妹と心の交流をして、彼らを励まし、彼らの信仰を深めようとしていた。そして、彼は単に説教をしたり思い起こさせたりして、勧告していたのだ。彼の言葉は、彼自身の重荷に基づいて、言葉によって人々を支えたのだ。彼は当時の教会の使徒としての働きをした。彼は主イエスに用いられた働き手だった。そして、教会の責任を与えられていた。彼は教会の仕事を行なうよう任じられていて、兄弟姉妹の状況を調べなければいけなかった。そのために、主においての兄弟姉妹すべてに手紙を書いたのだ。彼が人々に向けて言った信仰を養い、確信に満ちた言葉はみな正しかったが、それは聖霊の言葉を代弁していたのではないし、パウロにも神の代理はできなかった。一人の人間の経験の記録や手紙を聖霊が諸教会に向けて語ったものとして扱うのは、ばかげた解釈であり、ひどい冒瀆である。パウロが諸教会に向けて書いた手紙については、特にそうである。彼の手紙は当時の各教会の事情や状況に基づいて兄弟姉妹に向けて、主における兄弟姉妹を励まし、主イエスの恵みを受けられるようにと書いたものなのだから。彼の手紙は、当時の兄弟姉妹を奮起させるためのものであった。これは彼自身の重荷であり、聖霊が彼に負わせたものだったといえる。結局のところ、彼は当時の教会を導いた使徒で、諸教会に手紙を書いて励ました。それが彼の責任であった。彼の身分は単に活動中の使徒であって、単に神に遣わされた使徒だった。彼は預言する者でも、予知する者でもなかった。だから、彼にとって自分の働きと兄弟姉妹の生活が最も重要なものであった。それで、彼は聖霊を代弁することはできなかったのだ。彼の言葉は聖霊の言葉ではなかったし、まして、神の言葉であったとは到底言えない。パウロは神の被造物でしかなく、受肉した神では絶対になかったのだから。彼の身分はイエスの身分とは違っていた。イエスの言葉は聖霊の言葉で、神の言葉であった。イエスの身分はキリスト、神の子であったのだから。どうしてパウロがイエスと対等になれるのか。もし人々がパウロの書いたような手紙や言葉を見て、聖霊の言葉として神のように崇めるなら、それはあまりにも分別がないと言うことになるだろう。もっと厳しい言い方をすれば、これは冒瀆以外の何物でもないのではないか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、どうして人々は人間の手紙や語った言葉の記録をまるで聖なる書か天の書であるかのように、その前に額づくことができるのであろうか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。それで、どう思うのか──パウロが諸教会に宛てて書いた手紙には、彼自身の考えが混じっているのではないか。どうして人間の考えで汚れていないと言えるであろうか。彼は自分の個人的経験や人生の幅に基づいて諸教会に向けて手紙を書いた。たとえば、パウロはガラテヤの諸教会に向けて手紙を書いているが、そこには、ある意見が含まれている。そして、ペテロも別の手紙を書いているが、別の意見が見られる。どちらが聖霊から出たものなのか。誰一人確かなことを言えない。だから、彼らは二人とも教会のために重荷を負っていたが、二人の手紙は彼らの霊的背丈を、彼らの兄弟姉妹に向けた備えと支えを、諸教会への彼らの責任を象徴している。その手紙は人間の働きを表しているに過ぎない。すべてが聖霊から出ていたのではないのだ。もしもパウロの手紙は聖霊の言葉だというのなら、その人は愚かで、冒瀆を犯している。パウロ書簡と新約のその他の書簡は、もっと最近の宗教活動家の回顧録のようなものだ。それらはウォッチマン・ニーの著書やローレンスの経験その他と同じようなものだ。簡単に言えば、最近の宗教活動家の著作は新約には含まれていないが、そうした人物の本質は同じである。彼らは一定の期間、聖霊に用いられた人々であったが、直接神を代表することはできなかったのである。

新約のマタイの福音書は、イエスの系図を記録している。冒頭で、イエスはアブラハムの子孫、ダビデの子孫、ヨセフの子であったと述べている。次に、イエスは聖霊によってもうけられ、処女から生まれたと述べている。すると、イエスはヨセフの子でもアブラハムの子孫でもダビデの子孫でもない ことになる。しかし、系図はイエスとヨセフのつながりを主張している。次に、系図はイエスが誕生した過程を記し始める。それによると、イエスは聖霊によってもうけられ、処女から生まれたのであり、ヨセフの子ではない。しかし、系図では、はっきりと、イエスがヨセフの子であると書いてあり、系図はイエスのために書かれているため、その記録は四十二世代に及ぶ。ヨセフの代になると、ヨセフがマリヤの夫であると手短に告げている。これらの記述は、イエスがアブラハムの子孫であることを証明するためのものである。これは矛盾ではないのか。系図は明らかにヨセフの祖先を列挙しており、それは確かにヨセフの系図なのだが、マタイは、それがイエスの系図だと主張している。これはイエスが聖霊によって生まれたことを否定するものではないのか。だから、マタイの系図は人間の考えではないのか。これはばかげている。このことから、この書がすべて聖霊から出たものではないことがわかる。おそらく、神には地上に系図がなければいけないと考えた人々がいて、その結果、イエスをアブラハムの四十二代目の子孫だとしたのではないであろうか。これはまことに愚かなことだ。地上に到着した後で、どうして神に系図があり得るのか。神に系図があると言うのなら、それは神を被造物と同列に置いているのではないか。神は地上の存在ではなく、創造の主であり、肉の体をもってはいても、本質においては、人間と同じではないのだ。どうして神をその被造物と同じものにできるのか。アブラハムは神の代理人ではない。彼はヤーウェの当時の働きの対象であり、単にヤーウェの認める忠実なしもべでしかなく、イスラエルの民の一人であった。どうして彼がイエスの祖先であり得ようか。

誰がイエスの系図を書いたのか。イエス自身が書いたのだろうか。イエスは自ら「わたしの系図を書きなさい」と言ったのだろうか。これはイエスが十字架につけられた後で、マタイが記録したものである。当時、イエスは弟子たちには理解のできない働きを数多く行ったが、何も説明していない。イエスが去った後、弟子たちはいたるところで説教と働きを始め、その段階の働きのために、彼らは手紙と福音の書を書き始めた。新約の福音の書はイエスが十字架につけられてから二十年から三十年後に書かれた。それ以前には、イスラエルの人々は旧約だけを読んでいた。つまり、恵みの時代の始めに、人々は旧約を読んだのである。新約は恵みの時代になって、はじめて現れる。イエスが働いていた間、新約は存在しなかった。イエスがよみがえり、昇天した後になって、人々はイエスの働きを記録した。そうしてはじめて、四福音書が生まれ、それに加えて、パウロとペテロの書簡、そして黙示録が生まれた。イエスが昇天して三百年以上過ぎた後で、後の世代が記録を集め、新約が生まれた。この働きが完了した後ではじめて新約が存在した。それ以前にはなかったのである。神がすべての働きを行った。使徒パウロも自分のすべての働きを行った。その後に、パウロとペテロの書簡が集められ、ヨハネがパトモス島で記録した最大の幻が、終わりの日の働きを預言していたため、最後に加えられた。これらはみな、後の世代の編集したものであって、今日の言葉とは別物である。今日記録されていることは、神の働きの段階に沿ったものである。人々が今日関わっているのは、神が自ら行った働きであり、神が自ら語った言葉である。人は介入する必要がない──霊から直接出る言葉は順を追って並べられており、人間の記録を編集したものとは異なっている。彼らが記録したものは、彼らの教養と人間としての能力の程度に従っていたと言える。彼らが記録したものは人間の経験であった。人々にはそれぞれ自分なりの記録の手段と認識があり、それぞれの記録は異なっていた。だから、聖書を神と崇めるなら、あなたは極めて無知で愚かだということになる。なぜ今日の神の働きを求めないのか。神の働きだけが人間を救うことができるのである。聖書は人間を救えない。彼らは聖書を数千年の間読むことが出来たが、それでもなお彼らのうちには少しの変化も見られない。そして聖書を崇めるのなら、けっして聖霊の働きを得ることはないであろう。イスラエルで神の行った二段階の働きは、いずれも聖書に記録されている。だから、これらの記録の中に見る名前はみなイスラエルのもので、出来事もすべてイスラエルにおけるものである。「イエス」という名前さえ、イスラエル人の名である。もしも今日聖書を読み続ければ、因習に従うことになるのではないか。新約聖書に記録されていることは、ユダヤの物事である。原文はギリシャ語とヘブライ語で書かれており、イエスの言葉とイエスが当時呼ばれた名はすべて人間の言語のものである。イエスが十字架につけられた時、イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言った。これはヘブライ語ではないのか。これは、単にイエスがユダヤで受肉したためであり、神がユダヤ人であるとの証明ではない。今日、神は中国で受肉した。だから、その語ることはみな、間違いなく中国語である。しかし、原文の言葉が違うのであるから、中国語訳の聖書とは比較できない。一方は人間が記録したヘブライ語を原典とし、他方は霊による直接の言葉から来ているのである。


聖書について(1)

2020-02-20 09:40:56 | 書籍

神への信仰において、どのように聖書に接するべきであろうか。これは原則的な問題だ。なぜわたしたちはこの問について話し合っているのだろうか。それは、将来あなたは福音を広め、神の国の時代の働きを広げることになるが、単に今日の神の働きについて話せるだけでは不十分だからである。神の働きを広げるためには、人々の古い宗教観念や古い信仰の方法を取り除き、人々を完全に確信させることがますます重要だ。そして、そこに至るには、聖書が関わってくる。長い間、人々の伝統的な信仰の方法は(世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては)聖書を読むことであった。聖書から離れることは、主を信じることではない。聖書から離れるのは邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じると言うのなら、聖書を読まなければならないのだ。聖書を飲み食いし、聖書の外では、聖書と関わりのない本を崇めてはいけない。そういうことをするのは、神への裏切りだ。聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰である。人々は主を信じるという代わりに、聖書を信じると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じるようになったと言うほうがいい。そして、主の前に帰ったというよりは、聖書の前に帰ったと言うほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように崇め、まるでそれが自分たちのいのちの源で、それを失うことはいのちを失うことであるかのようだ。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見ているが、神より高いと思う人々さえいる。人々は、たとえ聖霊の働きがなくとも、たとえ神を感じられなくとも、生きていける──しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失くしたりすると、すぐに、まるでいのちを失ったかのようになる。そこで、人々は主を信じ始めるとすぐに聖書を読み始める。そして、聖書を暗記し、より多く聖書の暗記すればするほど、主を愛し、信仰が深いことの証拠になる。聖書を読み、それについて他の人々に話すことのできる人々はみな、よい兄弟姉妹だ。長年の間、人々の信仰と主への忠誠は、聖書をどれほど理解しているかによって測られてきた。たいていの人は、なぜ神を信じなければいけないのかをまったく理解していないし、どう神を信じるべきかを知らないのに、聖書の章句を解明するために闇雲に手がかりを探す以外には何もしない。人々は聖霊の働きの方向を追究したことはない。これまで、懸命に聖書を勉強し調べる以外のことをしてこなかった。聖書の外で聖霊の新たな働きを見出した者は誰もいないし、聖書から離れた者もいないし、聖書から離れる勇気をもつ者もいない。人々は長年の間聖書を研究し、まことに多くの解釈を編み出し、多くの労力を費やしている。彼らはまた、聖書について数多くの異なった意見をもち、それについて果てしなく議論しており、現在では二千以上の教派が形成されている。彼らはみな、特別な解釈を探しているか、より深遠な奥義を聖書の中に探している。彼らは探索し、ヤーウェのイスラエルでの働きの背景に、あるいはイエスのユダヤでの働きの背景にそれを見つけるか、それとも他の誰も知らないさらなる奥義を見つけることを望んでいる。人々の聖書への態度は偏執と信仰で、聖書の内部事情や本質について、完全に理解している人は誰もいない。だから、現在もなお人々は聖書に関して説明しようのない不思議さを感じる。それ以上に、聖書に執着し、聖書を信じている。今日、誰もが終わりの日の働きについての預言を聖書に見出したがっている。その人たちは終わりの日に神がどのような働きをするのか、終わりの日についてどんな前兆があるのかを見つけたがっている。このように、その人たちの聖書信仰はますます熱を帯び、終わりの日に近づくほど、ますます聖書の預言、とりわけ終わりの日についての預言に信頼をおく。そうした聖書への盲信、そうした聖書への信頼によって、その人たちは聖霊の働きを探そうという欲求をもたない。人々の観念では、聖書だけが聖霊の働きをもたらすのである。聖書の中だけに神の足跡を見いだせる。聖書の中だけに神の働きの奥義が隠されている。他の書物や人々ではなく、聖書だけが、神に関するすべてとその働きの全体を明らかにできる。聖書は天の働きを地にもたらす。そして、聖書は時代の始まりと終わりをもたらすことができる。こうした観念があるので、人々は聖霊の働きを探そうという意向をもたない。そこで、聖書が過去にどれほど人々の役に立ったかはともかく、神の現在の働きの妨げになっている。聖書がなければ、人々は別の場所に神の足跡を探せる。しかし、今日、神の足跡は聖書によって封じ込められている。だから、神の最新の働きを広げることは、二重に困難な、苦しいことになっている。これはみな、聖書の有名な章句のせいであり、聖書のさまざまな預言のせいである。聖書は人々の心の中で偶像となり、人々の頭脳の中の謎となった。人々は神が聖書とは別に働けることをどうしても信じられず、聖書の外でも神を見つけることができることが信じられなくなっている。まして、神が最後の働きのあいだに聖書を離れて新しく始められるなどとは信じられない。これは人々にとって考えられないことである。人々には信じられないし、想像することもできない。聖書は神の新たな働きを受け入れるための大きな障害になり、神がこの新たな働きを広めることを困難にしている。だから、聖書の内部事情を理解していないのなら、福音を成功裏に広めることはできないであろう。また、新たな働きについて証しすることもできないであろう。今日、あなたたちは聖書を読まないが、それでも聖書に関して極めて好意的だ。つまり、聖書はあなたたちの手にないかもしれないが、あなたたちの観念の多くが聖書に発している。あなたたちは聖書の由来、以前の二段階の神の働きの内部事情を理解していない。あなたたちは聖書を飲み食いしないが、聖書を理解しなければいけない。あなたたちは聖書について正しい認識をもたなければいけない。そして、そのようにしてはじめて、神の六千年に及ぶ経営(救いの)計画がどういうものなのかがわかるのだ。あなたたちはこうしたことを用いて人々を勝ち取り、この流れが真の道であり、今日あなたたちの歩む道が真理の道であり、それが聖霊に導かれており、人間が開いたものではないということを人々に認めさせるのである。

恵みの時代の前、人々は聖書を読んだが、当時は旧約しかなかった。新約はなかった。旧約聖書があったので、人々は聖書を読み始めた。ヤーウェの導きが終わると、モーセが創世記、出エジプト記、申命記などを著した。モーセは当時のヤーウェの働きを思い起こし、それを書き記した。聖書は歴史書だ。もちろん、ここには預言者の預言もいくつか載っている。そして、そうした預言は歴史などではまったくない。聖書はいくつかの部分からなっている。預言だけではなく、ヤーウェの働きだけでもなく、パウロの書簡だけでもない。聖書には幾つの部分があるかを知っていなければいけない。旧約には創世記と出エジプトなどが含まれ、そして、預言者たちが書いた預言書もある。最後に、旧約はマラキ書で終わる。旧約は、ヤーウェの導いた律法の時代を記録している。創世記からマラキ書まで、律法の時代の働きすべての総合的な記録だ。これはつまり、旧約は律法の時代にヤーウェに導かれた人々の経験の記録だということだ。旧約の律法の時代、大勢の預言者がヤーウェに起こされ、神の預言をした。彼らはさまざまな部族や民族に指示を与え、ヤーウェのする働きについて預言した。こうした起こされた人々はみな、ヤーウェからの預言の霊を与えられていた。彼らはヤーウェから幻を見せられ、その声を聞くことができたので、ヤーウェに啓示を受けて預言を書いた。彼らの行なった働きはヤーウェの声の代弁で、それはヤーウェに代わって行われた預言の働きであった。当時のヤーウェの働きは、単に霊を用いて人々を導くことであった。ヤーウェは受肉せず、人々は神の顔をまったく見なかった。そこで、ヤーウェは大勢の預言者を起こして、自分の働きをさせた。預言者たちに神託を与え、彼らはそれをイスラエルのすべての部族や氏族に伝えた。彼らの働きは預言をすることで、彼らの一部はヤーウェが彼らに与えた指示を記述して、他の人々に見せた。ヤーウェはこれらの人々を起こして預言を語らせ、将来の働きや、当時進行中の働きについて預言させた。そこで、人々はヤーウェの知恵と素晴らしさを見ることができた。これらの預言の書は聖書の他の書とは大きく異なっていた。それらは預言の霊を受けた人々、ヤーウェに幻を見せられたり、その声を聞いたりした人々が語り、書き記した言葉だ。預言の書以外は、旧約のすべてはヤーウェがその働きを終えた後に人々が作成した記録だ。これらの書は、創世記や出エジプト記がイザヤ書やダニエル書に比肩できないのと同様、ヤーウェの起こした預言者の語った預言とは同列に置けない。預言は働きが実行される以前に告げられた。一方、他の書は働きが完了してから書かれたもので、それが人々にできたことだった。当時の預言者はヤーウェの啓示を受けて預言を伝えた。彼らは多くの言葉を語り、恵みの時代の物事について、また、終わりの日に世界が破壊されることを預言した──ヤーウェが計画している働きだ。残りの書はみな、ヤーウェがイスラエルで行った働きについての記録である。だから、聖書を読む場合には、主にヤーウェがイスラエルでしたことについて読むことになる。聖書の旧約は主にヤーウェのイスラエル人を導く働きの記録であり、モーセを用いてイスラエル人をパロの虜囚から解放し、エジプトから脱出させ、荒野に連れていき、その後、カナンに入った。その後に起こったことはみな、彼らのカナンでの生活である。これ以外はみな、全イスラエルでヤーウェの行った働きの記録である。旧約に記録されていることはみな、ヤーウェのイスラエルでの働きの記録で、これはヤーウェがアダムとエバを創造した場所での働きである。ノアの後、神が正式に地上の人々を導き始めた時から、旧約に記録されていることはみな、イスラエルでの働きである。では、なぜイスラエルの外では何の働きも記録されていないのだろうか。なぜなら、イスラエルの地が人類の生まれた地だったからだ。始めに、イスラエルの他に国はなかった。そして、ヤーウェは他の場所では働かなかった。このように、聖書に記されていることは、純粋に当時のイスラエルでの働きなのである。預言者たち、イザヤ、ダニエル、エレミヤ、エゼキエルの話した言葉……彼らの言葉は、神の地上における他の働きを預言するもので、ヤーウェの神自身の働きを予告している。これはみな神から出たもので、聖霊の働きであり、これらの預言者の書を除くと、他のすべてはみな当時のヤーウェの働きを経験した人々の記録である。

創造の働きは、人間が存在する以前に行われた。しかし、創世記は人間が存在するようになってから書かれた。これは、モーセが律法の時代に著した書である。これは、今日あなたたちの間に起こっている事柄に似ている。起こった後で、あなたたちは将来人々に見せるために、将来の人々のために書き記すが、記録したものは過去に起こったことで、歴史に他ならない。旧約に記録されている事柄はヤーウェのイスラエルでの働きで、新約に記録されているのは恵みの時代のイエスの働きである。これらは神が二つの異なる時代に行った働きを記録している。旧約は律法の時代の神の働きを記録している。だから、旧約は歴史的な書物で、新約は恵みの時代の働きの産物である。新しい働きが始まると、それも時代遅れになった。そういうわけで、新約もまた歴史的な書物である。もちろん、新約は旧約ほど組織だったものではないし、それほど多くを記録していない。旧約のヤーウェの語った多くの言葉のすべては聖書に記録されているが、イエスの言葉の一部しか四福音書に記録されていない。もちろん、イエスもまた多くの働きをしたが、それは詳細に記録されなかった。新約にあまり記録がないのは、イエスが行った働きの量による。地上でイエスが三年半の間に行った働きと使徒たちの働きは、ヤーウェのそれよりはるかに少ない。だから、新約は旧約よりずっと書が少ない。

聖書とはどういう書物なのか。旧約は律法の時代の神の働きである。旧約聖書は律法の時代のヤーウェの働きと、創造の働きを記録している。そのすべてがヤーウェの行った働きを記録しており、マラキ書のヤーウェの働きの記録で終わっている。旧約は神の行った二つの働きを記録している。一つは創造の働き、もう一つは律法の布告だ。どちらの働きもヤーウェが行った。律法の時代はヤーウェ神という名で行れた働きを示している。これは、主にヤーウェという名で行われた働きの総体なのだ。だから、旧約はヤーウェの働きを記録しており、新約はイエスの働き、主にイエスという名で行われた働きを記録している。イエスの名の意義とその行った働きは、主に新約に記録されている。旧約の律法の時代、ヤーウェはイスラエルに神殿と祭壇を築いた。地上でイスラエル人の生活を導き、彼らがヤーウェの選ばれた民、つまり彼らが神が地上で最初に選んだ集団で、神の心にかなう者であり、神自ら導いた民であることを証明した。つまり、イスラエルの十二部族がヤーウェが最初に選んだ民であり、神は律法の時代のヤーウェの働き終了まで、いつでも彼らの中で働いた。第二の段階の働きは新約の恵みの時代の働きで、イスラエルの十二部族の一つ、ユダヤ族の間で行われた。働きの範囲が狭かったのは、イエスが受肉した神であったからだ。イエスはユダヤの地でだけ働き、三年半の間だけ働いた。だから、新約に記録されたものは、旧約に記録された働きの量を超えることは到底できないのだ。恵みの時代のイエスの働きは、主に四福音書に記録されている。恵みの時代に人々の歩んだ道は、いのちの性質のもっとも表面的な変化であり、そのほとんどは書簡として記録されている。それらの書簡は、当時聖霊がどのように働いたかを示している。(もちろん、パウロが懲罰を受けたか不運な目に遭ったかはともかく、働きにおいては彼は聖霊に導かれており、当時聖霊に用いられた人である。ペテロもまた、聖霊に用いられたが、彼はパウロほどの働きをしていない。パウロの働きには人間の不純さが含まれていたが、彼が書いた手紙から、聖霊が当時どのように働いたかがわかる。パウロの導いた道は、正しい道、聖霊の道だった。)

律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たいのなら、旧約を読まなければいけない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約を読まなければいけない。しかし、終わりの日の働きについては、どうすればいいのか。今日の神の導きを受け入れ今日の働きに入らなければいけない。これが新たな働きであり、誰も予め聖書に記録していないからだ。今日、神は中国で肉となり、新たな民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、恵みの時代の働きから続いて、地の働きを続ける。今日の働きの道は人間がかつて歩んだことのないもので、誰も見たことのないものである。それはかつて誰もしたことのない働きであり、それは神が地上で行う最新の働きだ。だから、かつて行われたことのない働きは歴史ではない。今は今であり、まだ過去になっていないからである。人々は神が地上で、イスラエルの外で、より偉大で新しい働きをしたこと、それがすでにイスラエルの範囲を超え、預言者たちの預言を超え、これまでに預言されていない、新しい、驚くべき働き、イスラエルの外の新たな働き、人々が見も想像もできない働きであることを知らない。どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が載っているだろう。誰が今日の働きの細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することができただろう。あのカビ臭い古い本に、この、慣習を破る、より大きな賢い働きを、誰が記録できるだろう。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければいけない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。なぜ今日、聖書を読まないように言われるのか、なぜ聖書とは別の働きがあるのか、なぜ神は新たな、より詳細な実践を聖書に求めないのか、なぜより偉大な働きが聖書の外にあるのかを理解しなければいけない。これをみな、あなたたちは理解する必要がある。新旧の働きの違いを知らなければいけない。聖書を読まないが、聖書を分析できなければいけない。そうでなければ、まだ聖書を崇めていて、新たな働き、新たな変化に入るのが困難になるであろう。より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ「聖なる書」に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。

あなたたちは聖書を理解しなければいけない──この働きは最も必要なものだ。今日、聖書を読む必要はない。そこには新しいものは何もないからだ。みな古い。聖書は歴史的な書物であり、もしも恵みの時代に旧約を飲み食いしていたなら、恵みの時代に旧約の時代の要求を実践していたなら、イエスはその人を拒んでいただろう。そして、罪に定めていたであろう。もしも旧約をイエスの働きに適用していたなら、その人はパリサイ人であったであろう。もし、今日、旧約聖書と新約聖書をともに飲み食いし、実践したなら、今日の神はあなたを罪に定めるだろう。今日の聖霊の働きから取り残されるだろう。もし旧約聖書と新約聖書を飲み食いするなら、その人たちは聖霊の流れの外にいる。イエスの時代、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う者みなを自らの内の聖霊の働きに従って導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きに従って語った。イエスは聖書の記述を気に留めなかった。また、自分に従う人々を導く道を聖書に求めなかった。教えを説き始めたその初めから、イエスは悔い改めの道を広めた──その言葉は旧約の預言書ではまったく触れられていないものだった。イエスは聖書に従って行動しなかっただけではなく、新たな道へと導き、新たな働きを行った。イエスは教えを説く際に、一度も聖書に触れていない。律法の時代には、イエスのように奇跡を起こし、病を癒し、悪霊を祓う者は一人もいなかった。イエスの働き、その教え、そして彼の言葉の権威と力も、律法の時代の誰よりも勝っていた。イエスはただ、自分の新たな働きを行った。多くの人々は聖書を用いてイエスを罪に定めたが(さらにはイエスを十字架につけるのに旧約を用いた)、イエスの働きは旧約を超えていた。もしそうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架につけたのか。それは、旧約ではイエスの教え、病を癒し悪霊を祓う能力について何の記述もなかったからではないのか。イエスの働きは新たな道を開くためのものであり、それは意図的に聖書に戦いを挑むものではなかったし、意図的に旧約を放棄するものでもなかった。イエスはただ、自分の職分を果たすため、自分を切に求める人々に新たな働きをもたらすために来たのである。旧約を説明し、その働きを継続するために来たのではない。イエスの働きは、律法の時代が発展を続けるようにするためではなかった。イエスの働きはそれが聖書に基づいたものかどうかを問題にしなかったからである。イエスは単に、しなければならない働きをするために来たのだ。だから、イエスは旧約の預言を説明せず、また旧約の律法の時代の言葉に沿った働きもしなかった。イエスは旧約の記述を無視した。それが自分の働きに合致しているかどうかを気にしなかった。また、他の人々が自分の働きを理解しているかどうか、人々がそれをどう非難しているかも気にしなかった。イエスはただ、しなければならない働きを続けたのだ。多くの人々は旧約の預言者たちの預言に基づいて彼を罪に定めたのだが。人々にとって、イエスの働きは根拠を欠き、旧約の記述に反することが数多くあった。これは愚行ではないか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのだろうか。また、それは預言者たちの預言に合致しなければいけないのだろうか。結局のところ、どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。もし安息日を守り、旧約の掟を実践するためであったのなら、なぜイエスは現れて以来、安息日は守らなかったのに、足を洗い、頭を覆い、パンを割り、ワインを飲んだのか。これはみな、旧約の掟にはないことではないか。もしイエスが旧約を遵守したなら、なぜそうした教義に違反したのか。神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。

新約の時代にイエスの行った働きは新たな働きを開いた。イエスは旧約の働きに沿った働きはしなかった。また、旧約のヤーウェが語った言葉に従わなかった。イエスは自分の働きをし、新たな働きをし、律法よりも上位の働きをした。そしてイエスは言った。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」だから、イエスの成就したことによって、多くの教義は廃棄された。安息日にイエスが弟子たちを連れて麦畑を通ったとき、彼らは麦の穂を摘んで食べた。イエスは安息日を守らず、「人の子は安息日の主である」と言った。当時、イスラエル人の規則によると、誰でも安息日を守らなかった者は石で打ち殺された。しかしながら、イエスは神殿に入りも安息日を守りもしなかったし、その働きは旧約の時代にヤーウェがしなかったことだった。だから、イエスの行った働きは旧約の律法を超えており、それよりも高いものであり、掟に沿ったものではなかった。恵みの時代に、イエスは旧約の律法に従った働きはしなかった。そうした教義に逆らった。今日、まだ聖書、特に旧約の律法に従う人々がいる。これはイエスの働きを否定するものではないのか。「聖書は聖なる書物で、読まなければいけない」という人々がいる。また「神の働きは永遠に守らなければいけない、旧約は神とイスラエルの民との契約で、破棄することはできない、また、安息日は常に守らなければいけない」という人々もいる。こういうことは愚かなことではないか。なぜイエスは安息日を守らなかったのか。イエスは罪を犯していたのか。誰がそうしたことを見通せるのか。どのように聖書を読んでも、人間の理解力で神の働きを知ることは不可能であろう。神について純粋な認識を得ることができないばかりか、人のもつ観念が、ますますとんでもないものになり、神に敵対するようになる。もし今日の神の受肉がなければ、人々は自分たちの観念のせいで滅ぼされ、神の刑罰を受けて死ぬだろう。

 

聖書について(1)

2020-02-14 14:19:48 | 書籍

神への信仰において、どのように聖書に接するべきであろうか。これは原則的な問題だ。なぜわたしたちはこの問について話し合っているのだろうか。それは、将来あなたは福音を広め、神の国の時代の働きを広げることになるが、単に今日の神の働きについて話せるだけでは不十分だからである。神の働きを広げるためには、人々の古い宗教観念や古い信仰の方法を取り除き、人々を完全に確信させることがますます重要だ。そして、そこに至るには、聖書が関わってくる。長い間、人々の伝統的な信仰の方法は(世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては)聖書を読むことであった。聖書から離れることは、主を信じることではない。聖書から離れるのは邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じると言うのなら、聖書を読まなければならないのだ。聖書を飲み食いし、聖書の外では、聖書と関わりのない本を崇めてはいけない。そういうことをするのは、神への裏切りだ。聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰である。人々は主を信じるという代わりに、聖書を信じると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じるようになったと言うほうがいい。そして、主の前に帰ったというよりは、聖書の前に帰ったと言うほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように崇め、まるでそれが自分たちのいのちの源で、それを失うことはいのちを失うことであるかのようだ。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見ているが、神より高いと思う人々さえいる。人々は、たとえ聖霊の働きがなくとも、たとえ神を感じられなくとも、生きていける──しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失くしたりすると、すぐに、まるでいのちを失ったかのようになる。そこで、人々は主を信じ始めるとすぐに聖書を読み始める。そして、聖書を暗記し、より多く聖書の暗記すればするほど、主を愛し、信仰が深いことの証拠になる。聖書を読み、それについて他の人々に話すことのできる人々はみな、よい兄弟姉妹だ。長年の間、人々の信仰と主への忠誠は、聖書をどれほど理解しているかによって測られてきた。たいていの人は、なぜ神を信じなければいけないのかをまったく理解していないし、どう神を信じるべきかを知らないのに、聖書の章句を解明するために闇雲に手がかりを探す以外には何もしない。人々は聖霊の働きの方向を追究したことはない。これまで、懸命に聖書を勉強し調べる以外のことをしてこなかった。聖書の外で聖霊の新たな働きを見出した者は誰もいないし、聖書から離れた者もいないし、聖書から離れる勇気をもつ者もいない。人々は長年の間聖書を研究し、まことに多くの解釈を編み出し、多くの労力を費やしている。彼らはまた、聖書について数多くの異なった意見をもち、それについて果てしなく議論しており、現在では二千以上の教派が形成されている。彼らはみな、特別な解釈を探しているか、より深遠な奥義を聖書の中に探している。彼らは探索し、ヤーウェのイスラエルでの働きの背景に、あるいはイエスのユダヤでの働きの背景にそれを見つけるか、それとも他の誰も知らないさらなる奥義を見つけることを望んでいる。人々の聖書への態度は偏執と信仰で、聖書の内部事情や本質について、完全に理解している人は誰もいない。だから、現在もなお人々は聖書に関して説明しようのない不思議さを感じる。それ以上に、聖書に執着し、聖書を信じている。今日、誰もが終わりの日の働きについての預言を聖書に見出したがっている。その人たちは終わりの日に神がどのような働きをするのか、終わりの日についてどんな前兆があるのかを見つけたがっている。このように、その人たちの聖書信仰はますます熱を帯び、終わりの日に近づくほど、ますます聖書の預言、とりわけ終わりの日についての預言に信頼をおく。そうした聖書への盲信、そうした聖書への信頼によって、その人たちは聖霊の働きを探そうという欲求をもたない。人々の観念では、聖書だけが聖霊の働きをもたらすのである。聖書の中だけに神の足跡を見いだせる。聖書の中だけに神の働きの奥義が隠されている。他の書物や人々ではなく、聖書だけが、神に関するすべてとその働きの全体を明らかにできる。聖書は天の働きを地にもたらす。そして、聖書は時代の始まりと終わりをもたらすことができる。こうした観念があるので、人々は聖霊の働きを探そうという意向をもたない。そこで、聖書が過去にどれほど人々の役に立ったかはともかく、神の現在の働きの妨げになっている。聖書がなければ、人々は別の場所に神の足跡を探せる。しかし、今日、神の足跡は聖書によって封じ込められている。だから、神の最新の働きを広げることは、二重に困難な、苦しいことになっている。これはみな、聖書の有名な章句のせいであり、聖書のさまざまな預言のせいである。聖書は人々の心の中で偶像となり、人々の頭脳の中の謎となった。人々は神が聖書とは別に働けることをどうしても信じられず、聖書の外でも神を見つけることができることが信じられなくなっている。まして、神が最後の働きのあいだに聖書を離れて新しく始められるなどとは信じられない。これは人々にとって考えられないことである。人々には信じられないし、想像することもできない。聖書は神の新たな働きを受け入れるための大きな障害になり、神がこの新たな働きを広めることを困難にしている。だから、聖書の内部事情を理解していないのなら、福音を成功裏に広めることはできないであろう。また、新たな働きについて証しすることもできないであろう。今日、あなたたちは聖書を読まないが、それでも聖書に関して極めて好意的だ。つまり、聖書はあなたたちの手にないかもしれないが、あなたたちの観念の多くが聖書に発している。あなたたちは聖書の由来、以前の二段階の神の働きの内部事情を理解していない。あなたたちは聖書を飲み食いしないが、聖書を理解しなければいけない。あなたたちは聖書について正しい認識をもたなければいけない。そして、そのようにしてはじめて、神の六千年に及ぶ経営(救いの)計画がどういうものなのかがわかるのだ。あなたたちはこうしたことを用いて人々を勝ち取り、この流れが真の道であり、今日あなたたちの歩む道が真理の道であり、それが聖霊に導かれており、人間が開いたものではないということを人々に認めさせるのである。

恵みの時代の前、人々は聖書を読んだが、当時は旧約しかなかった。新約はなかった。旧約聖書があったので、人々は聖書を読み始めた。ヤーウェの導きが終わると、モーセが創世記、出エジプト記、申命記などを著した。モーセは当時のヤーウェの働きを思い起こし、それを書き記した。聖書は歴史書だ。もちろん、ここには預言者の預言もいくつか載っている。そして、そうした預言は歴史などではまったくない。聖書はいくつかの部分からなっている。預言だけではなく、ヤーウェの働きだけでもなく、パウロの書簡だけでもない。聖書には幾つの部分があるかを知っていなければいけない。旧約には創世記と出エジプトなどが含まれ、そして、預言者たちが書いた預言書もある。最後に、旧約はマラキ書で終わる。旧約は、ヤーウェの導いた律法の時代を記録している。創世記からマラキ書まで、律法の時代の働きすべての総合的な記録だ。これはつまり、旧約は律法の時代にヤーウェに導かれた人々の経験の記録だということだ。旧約の律法の時代、大勢の預言者がヤーウェに起こされ、神の預言をした。彼らはさまざまな部族や民族に指示を与え、ヤーウェのする働きについて預言した。こうした起こされた人々はみな、ヤーウェからの預言の霊を与えられていた。彼らはヤーウェから幻を見せられ、その声を聞くことができたので、ヤーウェに啓示を受けて預言を書いた。彼らの行なった働きはヤーウェの声の代弁で、それはヤーウェに代わって行われた預言の働きであった。当時のヤーウェの働きは、単に霊を用いて人々を導くことであった。ヤーウェは受肉せず、人々は神の顔をまったく見なかった。そこで、ヤーウェは大勢の預言者を起こして、自分の働きをさせた。預言者たちに神託を与え、彼らはそれをイスラエルのすべての部族や氏族に伝えた。彼らの働きは預言をすることで、彼らの一部はヤーウェが彼らに与えた指示を記述して、他の人々に見せた。ヤーウェはこれらの人々を起こして預言を語らせ、将来の働きや、当時進行中の働きについて預言させた。そこで、人々はヤーウェの知恵と素晴らしさを見ることができた。これらの預言の書は聖書の他の書とは大きく異なっていた。それらは預言の霊を受けた人々、ヤーウェに幻を見せられたり、その声を聞いたりした人々が語り、書き記した言葉だ。預言の書以外は、旧約のすべてはヤーウェがその働きを終えた後に人々が作成した記録だ。これらの書は、創世記や出エジプト記がイザヤ書やダニエル書に比肩できないのと同様、ヤーウェの起こした預言者の語った預言とは同列に置けない。預言は働きが実行される以前に告げられた。一方、他の書は働きが完了してから書かれたもので、それが人々にできたことだった。当時の預言者はヤーウェの啓示を受けて預言を伝えた。彼らは多くの言葉を語り、恵みの時代の物事について、また、終わりの日に世界が破壊されることを預言した──ヤーウェが計画している働きだ。残りの書はみな、ヤーウェがイスラエルで行った働きについての記録である。だから、聖書を読む場合には、主にヤーウェがイスラエルでしたことについて読むことになる。聖書の旧約は主にヤーウェのイスラエル人を導く働きの記録であり、モーセを用いてイスラエル人をパロの虜囚から解放し、エジプトから脱出させ、荒野に連れていき、その後、カナンに入った。その後に起こったことはみな、彼らのカナンでの生活である。これ以外はみな、全イスラエルでヤーウェの行った働きの記録である。旧約に記録されていることはみな、ヤーウェのイスラエルでの働きの記録で、これはヤーウェがアダムとエバを創造した場所での働きである。ノアの後、神が正式に地上の人々を導き始めた時から、旧約に記録されていることはみな、イスラエルでの働きである。では、なぜイスラエルの外では何の働きも記録されていないのだろうか。なぜなら、イスラエルの地が人類の生まれた地だったからだ。始めに、イスラエルの他に国はなかった。そして、ヤーウェは他の場所では働かなかった。このように、聖書に記されていることは、純粋に当時のイスラエルでの働きなのである。預言者たち、イザヤ、ダニエル、エレミヤ、エゼキエルの話した言葉……彼らの言葉は、神の地上における他の働きを預言するもので、ヤーウェの神自身の働きを予告している。これはみな神から出たもので、聖霊の働きであり、これらの預言者の書を除くと、他のすべてはみな当時のヤーウェの働きを経験した人々の記録である。

創造の働きは、人間が存在する以前に行われた。しかし、創世記は人間が存在するようになってから書かれた。これは、モーセが律法の時代に著した書である。これは、今日あなたたちの間に起こっている事柄に似ている。起こった後で、あなたたちは将来人々に見せるために、将来の人々のために書き記すが、記録したものは過去に起こったことで、歴史に他ならない。旧約に記録されている事柄はヤーウェのイスラエルでの働きで、新約に記録されているのは恵みの時代のイエスの働きである。これらは神が二つの異なる時代に行った働きを記録している。旧約は律法の時代の神の働きを記録している。だから、旧約は歴史的な書物で、新約は恵みの時代の働きの産物である。新しい働きが始まると、それも時代遅れになった。そういうわけで、新約もまた歴史的な書物である。もちろん、新約は旧約ほど組織だったものではないし、それほど多くを記録していない。旧約のヤーウェの語った多くの言葉のすべては聖書に記録されているが、イエスの言葉の一部しか四福音書に記録されていない。もちろん、イエスもまた多くの働きをしたが、それは詳細に記録されなかった。新約にあまり記録がないのは、イエスが行った働きの量による。地上でイエスが三年半の間に行った働きと使徒たちの働きは、ヤーウェのそれよりはるかに少ない。だから、新約は旧約よりずっと書が少ない。

聖書とはどういう書物なのか。旧約は律法の時代の神の働きである。旧約聖書は律法の時代のヤーウェの働きと、創造の働きを記録している。そのすべてがヤーウェの行った働きを記録しており、マラキ書のヤーウェの働きの記録で終わっている。旧約は神の行った二つの働きを記録している。一つは創造の働き、もう一つは律法の布告だ。どちらの働きもヤーウェが行った。律法の時代はヤーウェ神という名で行れた働きを示している。これは、主にヤーウェという名で行われた働きの総体なのだ。だから、旧約はヤーウェの働きを記録しており、新約はイエスの働き、主にイエスという名で行われた働きを記録している。イエスの名の意義とその行った働きは、主に新約に記録されている。旧約の律法の時代、ヤーウェはイスラエルに神殿と祭壇を築いた。地上でイスラエル人の生活を導き、彼らがヤーウェの選ばれた民、つまり彼らが神が地上で最初に選んだ集団で、神の心にかなう者であり、神自ら導いた民であることを証明した。つまり、イスラエルの十二部族がヤーウェが最初に選んだ民であり、神は律法の時代のヤーウェの働き終了まで、いつでも彼らの中で働いた。第二の段階の働きは新約の恵みの時代の働きで、イスラエルの十二部族の一つ、ユダヤ族の間で行われた。働きの範囲が狭かったのは、イエスが受肉した神であったからだ。イエスはユダヤの地でだけ働き、三年半の間だけ働いた。だから、新約に記録されたものは、旧約に記録された働きの量を超えることは到底できないのだ。恵みの時代のイエスの働きは、主に四福音書に記録されている。恵みの時代に人々の歩んだ道は、いのちの性質のもっとも表面的な変化であり、そのほとんどは書簡として記録されている。それらの書簡は、当時聖霊がどのように働いたかを示している。(もちろん、パウロが懲罰を受けたか不運な目に遭ったかはともかく、働きにおいては彼は聖霊に導かれており、当時聖霊に用いられた人である。ペテロもまた、聖霊に用いられたが、彼はパウロほどの働きをしていない。パウロの働きには人間の不純さが含まれていたが、彼が書いた手紙から、聖霊が当時どのように働いたかがわかる。パウロの導いた道は、正しい道、聖霊の道だった。)

律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たいのなら、旧約を読まなければいけない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約を読まなければいけない。しかし、終わりの日の働きについては、どうすればいいのか。今日の神の導きを受け入れ今日の働きに入らなければいけない。これが新たな働きであり、誰も予め聖書に記録していないからだ。今日、神は中国で肉となり、新たな民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、恵みの時代の働きから続いて、地の働きを続ける。今日の働きの道は人間がかつて歩んだことのないもので、誰も見たことのないものである。それはかつて誰もしたことのない働きであり、それは神が地上で行う最新の働きだ。だから、かつて行われたことのない働きは歴史ではない。今は今であり、まだ過去になっていないからである。人々は神が地上で、イスラエルの外で、より偉大で新しい働きをしたこと、それがすでにイスラエルの範囲を超え、預言者たちの預言を超え、これまでに預言されていない、新しい、驚くべき働き、イスラエルの外の新たな働き、人々が見も想像もできない働きであることを知らない。どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が載っているだろう。誰が今日の働きの細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することができただろう。あのカビ臭い古い本に、この、慣習を破る、より大きな賢い働きを、誰が記録できるだろう。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければいけない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。なぜ今日、聖書を読まないように言われるのか、なぜ聖書とは別の働きがあるのか、なぜ神は新たな、より詳細な実践を聖書に求めないのか、なぜより偉大な働きが聖書の外にあるのかを理解しなければいけない。これをみな、あなたたちは理解する必要がある。新旧の働きの違いを知らなければいけない。聖書を読まないが、聖書を分析できなければいけない。そうでなければ、まだ聖書を崇めていて、新たな働き、新たな変化に入るのが困難になるであろう。より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ「聖なる書」に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。

あなたたちは聖書を理解しなければいけない──この働きは最も必要なものだ。今日、聖書を読む必要はない。そこには新しいものは何もないからだ。みな古い。聖書は歴史的な書物であり、もしも恵みの時代に旧約を飲み食いしていたなら、恵みの時代に旧約の時代の要求を実践していたなら、イエスはその人を拒んでいただろう。そして、罪に定めていたであろう。もしも旧約をイエスの働きに適用していたなら、その人はパリサイ人であったであろう。もし、今日、旧約聖書と新約聖書をともに飲み食いし、実践したなら、今日の神はあなたを罪に定めるだろう。今日の聖霊の働きから取り残されるだろう。もし旧約聖書と新約聖書を飲み食いするなら、その人たちは聖霊の流れの外にいる。イエスの時代、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う者みなを自らの内の聖霊の働きに従って導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きに従って語った。イエスは聖書の記述を気に留めなかった。また、自分に従う人々を導く道を聖書に求めなかった。教えを説き始めたその初めから、イエスは悔い改めの道を広めた──その言葉は旧約の預言書ではまったく触れられていないものだった。イエスは聖書に従って行動しなかっただけではなく、新たな道へと導き、新たな働きを行った。イエスは教えを説く際に、一度も聖書に触れていない。律法の時代には、イエスのように奇跡を起こし、病を癒し、悪霊を祓う者は一人もいなかった。イエスの働き、その教え、そして彼の言葉の権威と力も、律法の時代の誰よりも勝っていた。イエスはただ、自分の新たな働きを行った。多くの人々は聖書を用いてイエスを罪に定めたが(さらにはイエスを十字架につけるのに旧約を用いた)、イエスの働きは旧約を超えていた。もしそうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架につけたのか。それは、旧約ではイエスの教え、病を癒し悪霊を祓う能力について何の記述もなかったからではないのか。イエスの働きは新たな道を開くためのものであり、それは意図的に聖書に戦いを挑むものではなかったし、意図的に旧約を放棄するものでもなかった。イエスはただ、自分の職分を果たすため、自分を切に求める人々に新たな働きをもたらすために来たのである。旧約を説明し、その働きを継続するために来たのではない。イエスの働きは、律法の時代が発展を続けるようにするためではなかった。イエスの働きはそれが聖書に基づいたものかどうかを問題にしなかったからである。イエスは単に、しなければならない働きをするために来たのだ。だから、イエスは旧約の預言を説明せず、また旧約の律法の時代の言葉に沿った働きもしなかった。イエスは旧約の記述を無視した。それが自分の働きに合致しているかどうかを気にしなかった。また、他の人々が自分の働きを理解しているかどうか、人々がそれをどう非難しているかも気にしなかった。イエスはただ、しなければならない働きを続けたのだ。多くの人々は旧約の預言者たちの預言に基づいて彼を罪に定めたのだが。人々にとって、イエスの働きは根拠を欠き、旧約の記述に反することが数多くあった。これは愚行ではないか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのだろうか。また、それは預言者たちの預言に合致しなければいけないのだろうか。結局のところ、どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。もし安息日を守り、旧約の掟を実践するためであったのなら、なぜイエスは現れて以来、安息日は守らなかったのに、足を洗い、頭を覆い、パンを割り、ワインを飲んだのか。これはみな、旧約の掟にはないことではないか。もしイエスが旧約を遵守したなら、なぜそうした教義に違反したのか。神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。

新約の時代にイエスの行った働きは新たな働きを開いた。イエスは旧約の働きに沿った働きはしなかった。また、旧約のヤーウェが語った言葉に従わなかった。イエスは自分の働きをし、新たな働きをし、律法よりも上位の働きをした。そしてイエスは言った。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」だから、イエスの成就したことによって、多くの教義は廃棄された。安息日にイエスが弟子たちを連れて麦畑を通ったとき、彼らは麦の穂を摘んで食べた。イエスは安息日を守らず、「人の子は安息日の主である」と言った。当時、イスラエル人の規則によると、誰でも安息日を守らなかった者は石で打ち殺された。しかしながら、イエスは神殿に入りも安息日を守りもしなかったし、その働きは旧約の時代にヤーウェがしなかったことだった。だから、イエスの行った働きは旧約の律法を超えており、それよりも高いものであり、掟に沿ったものではなかった。恵みの時代に、イエスは旧約の律法に従った働きはしなかった。そうした教義に逆らった。今日、まだ聖書、特に旧約の律法に従う人々がいる。これはイエスの働きを否定するものではないのか。「聖書は聖なる書物で、読まなければいけない」という人々がいる。また「神の働きは永遠に守らなければいけない、旧約は神とイスラエルの民との契約で、破棄することはできない、また、安息日は常に守らなければいけない」という人々もいる。こういうことは愚かなことではないか。なぜイエスは安息日を守らなかったのか。イエスは罪を犯していたのか。誰がそうしたことを見通せるのか。どのように聖書を読んでも、人間の理解力で神の働きを知ることは不可能であろう。神について純粋な認識を得ることができないばかりか、人のもつ観念が、ますますとんでもないものになり、神に敵対するようになる。もし今日の神の受肉がなければ、人々は自分たちの観念のせいで滅ぼされ、神の刑罰を受けて死ぬだろう。


神の働きは人間が想像するほど簡単か

2020-02-10 09:21:34 | 書籍

あなたは神を信じる者の一人として、今日、終わりの日の神の働きやあなたに対する神の計画のすべての働きを受ける中で、あなたは神により引き上げられ、救いを受け取っていることを理解しなくてはならない。全宇宙における神のすべての働きは、この一群の人々に焦点を当てている。神はあなたがたにすべての努力を注ぎ、あなたがたのためにすべてを犠牲にした。そして全宇宙における聖霊のすべての働きを取り戻し、あなたがたに与えたのだ。それが、あなたがたは幸運なのだとわたしが言う理由である。さらに神は、自らが選んだイスラエルの民から自分の栄光をあなたがたへと移した。それはあなたがた一団を通して、神の計画の目的を全て明らかにするためである。それゆえ、あなたがたは神の嗣業を受ける者、更には神の栄光の継承者となるのだ。あなたがたは皆このような言葉を覚えているだろう。「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」あなた方は皆過去にこの言葉を耳にしたことがあるが、その言葉の真意を理解した者はひとりもいない。今日あなたがたは、この言葉の持つ真の意義をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものである。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。赤い大きな竜は神を迫害する神の敵であり、よってこの地において神を信じる者たちは屈辱や迫害に晒されている。それ故、これらの言葉はあなたがた一群の中で実現するのだ。神に逆らう地において働きが行われるため、神のすべての働きは過度の妨害を受け、神の言葉の多くはすぐには達成されない。したがって、人々は神の言葉によって精錬される。これもまた、苦しみの要素である。赤い大きな竜の地で働きを実行することは神にとって非常に困難だが、神はこのような困難を通して、自分の働きのひとつの段階を行い、自分の知恵と不思議な業を明らかにする。神はこの機会を通して、この一群の人々を完全にする。人々の苦しみ、彼らの素質、そしてこのけがれた地の人々のサタン的なすべての性質故に、神はその清めや征服の働きを行うことで栄光を手にし、神の業の証に立つ人々を得るのだ。これこそが、神がこの一群の人々のために行った全ての犠牲のすべての意義である。つまり、神は自身に逆らう者たちを通して征服の働きを行うのだ。そうすることによってのみ、神の大いなる力が現わされるのだ。言い換えれば、けがれた地にいる者たちのみが神の栄光を受け継ぐに相応しく、これが唯一、このことによってのみ神の大いなる力を際立たせることができる。それだからわたしは、神の栄光はけがれた地とそこに住む者たちから得られると言うのだ。これが神の旨である。これはちょうどイエスの働きの段階と同じだ。イエスは、彼を迫害したパリサイ人たちを通してのみ栄光を受けることができた。そのような迫害やユダの裏切りがなければ、イエスは嘲笑されたり中傷されたりすることもなく、ましてや十字架に付けられることなどなく、栄光を受けることは不可能だったに違いない。神が各時代にどこで働こうが、肉としての働きをどこで行おうが、神はそこで栄光を受け、自らが得ようとする者たちを得るのである。これが神の働きの計画であり、神の経営である。

数千年に渡る神の計画において、肉による働きは二つの部分から成っている。そのひとつは十字架に付けられることであり、これによって神は栄光を受けた。もう一つは終わりの日の征服と人を完全にする働きであり、それによっても神は栄光を受ける。これが神の経営である。したがって、神の働きや神があなたがたに託したことをあまり簡単に考えてはならない。あなたがたは皆、すべてを超越した、神の永遠で重みのある栄光の継承者であり、それは神が特別そう定めたのである。神の栄光の二つの部分のうち、一つはあなたがたの中に現れている。神の栄光の一つの部分すべてがあなたがたに授けられており、あなたがたがそれを相続する。これは神によって引き上げられることであり、はるか昔に予め定められた神の計画である。大きな赤い竜が住む地において神が偉大な働きを行ったことを考えれば、その働きをどこか別の地で行えば、とうの昔にすばらしい実を結んでおり、容易に人に受け入れられていただろう。また、神を信じる西洋の聖職者たちにとっては、そのような働きを受け入れることはいとも簡単なことだろう。それはイエスによる働きの段階が前例となっているからだ。だから、神は自らが栄光を得るこの段階の働きを別のどの場所でも達成し得ないのである。つまり、全ての人間から支持され、全ての国から認められているので、神の栄光が「留まる」ところがないのだ。そしてこれこそが、この地におけるこの段階の働きが持つ極めて重要な意義である。あなたがたの中には、法の保護を受けているものはひとりもおらず、むしろあなたがたは法によって罰せられている。さらに難しいことには、一人としてあなたがたを理解する者はいない。それが親戚であれ、両親であれ、友人や同僚であれ、誰もあなたがたを理解しないのだ。神があなたがたを「捨てる」なら、あなたがたが地上で生き続ける手段などない。しかしそれでも尚、人々は神から離れることに耐えられない。これこそ神が人々を征服することの意義であり、また神の栄光であるのだ。あなたがたが今日受け継いだものは、昔の使徒や預言者たちすべてのそれに優るものであり、モーセやペテロにさえ優るものである。祝福を一日や二日で受けることはできない。それは多くの犠牲を通して獲得されねばならない。つまり、精錬された愛や、大きな信仰、そして神があなたがたに到達することを求める多くの真理を持たなくてはならない。それに加えて、義に面と向かい、おびえたり屈服したりすることなく、神に対して変わることなく尽きない愛を抱いていなくてはならない。あなたがたの決意が求められ、あなたがたのいのちの性質を変えることが求められる。あなたがたの堕落を改め、神の采配を不平不満なくすべて受け入れ、死にいたるまで従順でなければならない。これが、あなたがたが達成しなければならない事である。これが神の働きの最終目的であり、この一群の人々に神が求めることである。神はあなたがたに施すと同時に、あなたがたが神に報いてその要求を満たすことを求める。つまり、神のすべての働きには理由があり、このことから、なぜ神が何度も高い基準の働きを為し、厳しい要求をするのかが分かるだろう。このような訳で、あなたがたは神への信仰で満たされていなくてはならないのである。要するに、あなたがたが神の嗣業を受け継ぐに相応しい者となるため、神はすべての働きをあなたがたのために行ったのだ。これは神自身の栄光のためというより、あなたがたの救いのため、そしてけがれた地でひどく苦しめられているこの一群の人々を完全にするためである。あなたがたは神の旨を理解しなければならない。だからこそわたしは見識や理知のない多くの愚かな人々にこう勧める。これ以上神を試みたり、抵抗したりしてはならない。神は人が経験したことのないようなすべての苦しみを耐え抜き、はるか昔に人間に代わってさらに多くの屈辱にも耐えた。あなたがたには他に何か手放せないものなどあるだろうか。神の旨以上に大切なものが何かあるだろうか。神の愛に優るものなどあるだろうか。このけがれた地において神がその働きを実行するにはすでに倍の困難を伴うが、もし人が承知の上で、意図的に背くのであれば、神の働きは長引かざるを得ないだろう。どのような場合にも、それは誰の得にも益にもならない。神は時間に制約されることはない。神の働きと栄光が優先される。それ故、どれだけ時間がかかろうとも、神自身の働きに関しては、いかなる犠牲をもいとわない。これが神の性質である。その働きが成し遂げられるまで神は休むことがない。神が二つ目の栄光を獲得する時初めて、その働きは終わりを迎えることができる。栄光を獲得する二つ目の働きを全宇宙において神が成就できなければ、神の日は永遠に来ることがなく、神の手を選民たちから離すこともできず、神の栄光がイスラエルにやって来ることもなく、神の計画が完結することも決してないであろう。あなたがたは神の旨を理解し、神の働きは、天地万物の創造のように簡単なものでないことを理解すべきである。なぜなら、今日の働きとは、堕落した者たちや極度に麻痺してしまった人たちを変え、創造されながらもサタンに働きかけられてしまった人たちを清めることであり、アダムとエバを創造することではなく、ましてや光を創ったり、あらゆる種類の植物や動物を創造したりすることでもない。神の働きは、今やサタンによって堕落させられたものを清めて取り戻し、神のものとし、神の栄光とするためのものである。そのような働きは、人間が想像する天地万物の創造のように簡単なものではなく、人間が想像するような、サタンを呪って底なしの穴へ送るようなものでもない。むしろそれは人間を変えるためのものであり、否定的なものを肯定的なものに変え、神に属さないものを神の所有物にすることである。これがこの段階の神の働きの秘められた意味である。あなたがたはそれに気づかなくてはならないし、物事を安易に考え過ぎてはならない。神の働きは、どんな通常の働きとも異なっている。そのすばらしさは人間の頭では測り知ることができず、その知恵は人間が獲得できるものではない。この段階の働きの最中、神は万物を創造しているのでも、それらを破壊しているのでもない。むしろ、神はすべての創造物を変え、サタンによってけがされたすべてのものを清めているのだ。それゆえ神は大規模な働きを始めるであろう。そして、これこそが神による働きの意義の全てである。これらの言葉から、あなたは、神の働きが簡単だと思うだろうか。


終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる

2020-02-07 14:40:17 | 書籍

いのちの道は、誰でも持てるものではなく、誰にでも簡単に得られるものでもない。なぜなら、いのちは神のみに由来しているからだ。それはすなわち、神自身のみがいのちの本質を持っており、神自身なくしていのちの道は存在せず、神のみが、いのちと永遠に流れつづけるいのちの生ける泉の源であることを意味する。神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。

もしかしたら今、あなたはいのちを受け取りたいと望んでいたり、真理を得たいと望んでいたりするかもしれない。いずれの場合にも、あなたは神を見つけだし、あなたが頼れてあなたに永遠のいのちを与える神を見つけたいということだ。永遠のいのちを得たいと望むなら、あなたはまず永遠のいのちの源を理解せねばならず、神がどこにいるのかを知らねばならない。わたしは、神のみが永久不変のいのちで、神のみがいのちの道を持っていると既に言った。神のいのちは永久不変なので、それは永遠のいのちである。神のみがいのちの道なので、神自身が永遠のいのちの道である。それだから、あなたはまず神がどこにいるのか、そして永遠のいのちの道を得るにはどうしたらよいかを理解しなければならない。では、この二つの点について、それぞれ話そう。

あなたが本当に永遠のいのちの道を得たいと望み、飽くことなく探し続けているなら、まずこの質問に答えてほしい。今日、神はどこにいるのか?おそらくあなたは、神は天にいると答えるだろう。もちろん、あなたの家に住みはしないだろう。あなたは、神は明らかに万物の中にいると言うかもしれない。もしくは、神は各々の心の中に住んでいると言うかもしれないし、神は霊的世界にいると言うかもしれない。これらのどれも否定はしないが、問題を明確にしなければならない。神が人の心の中に住んでいるというのは全く正しいわけではないが、かと言って全く間違っているわけでもない。すなわち、神を信ずる者の中には、その信仰が本物である者と偽物である者、また神が認める者と認めない者、神を喜ばせる者と神が嫌う者、そして神が完全にする者と神が排除する者がいるからだ。だから神は一握りの人の心にのみ住んでいるとわたしは言う。この人たちは疑いなく真に神を信じ、神に認められ、神を喜ばせ、神はこの人たちを完全にする。神はこのような人たちを導く。彼らは神に導かれていて、既に神の永遠のいのちの道を見聞きしている。神への信仰が偽物であり、神に認められず、神に嫌われ、排除される者たち――彼らは神に拒絶され、いのちの道を得られず、神がどこにいるのかに関しては無知なままでいるしかない。対照的に、心に神が住んでいる者は、神がどこにいるかを知っている。彼らは、神が永遠のいのちの道を与える者たちで、神に従う者たちだ。あなたは今、神がどこにいるかを知っているか。神は、人の心の中と、人の傍の両方にいる。神は霊的世界にいて、全てのものの上にいるだけでなく、人が存在する地上に、それ以上にいる。だから、終わりの日の到来により、神の働きの段階は新たな領域へとすすんだ。神は万物に対して支配権を持っており、人の心に根幹として存在し、さらに神は人の間に存在している。このようにしてのみ、神はいのちの道を人類にもたらすことができ、人をいのちの道へと導く。人がいのちの道を得ることができ、生存できるように、神は地上に来て、人の間に住む。同時に、人の間での自分の計画に沿うように、神は万物を支配する。だから、あなたが神は天と人の心にいるという教義のみを認め、人の間での神の存在の真理を認めないのなら、あなたは決していのちを得ることはないし、真理の道を得ることもない。

神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そしてさらには死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけることができないなら、いのちの栄養は得られないだろう。いのちの施しを得られないなら、もちろん真理は全く得られないので、想像と観念以外には、あなたの肉全体はただの肉、臭い肉でしかない。活字による言葉はいのちとはみなされず、歴史の記録は真理として敬われることはなく、過去の教義は神が現在話している言葉の記録とはみなされない。神が地上に来て人の間に生きているときに告げたものだけが真理であり、いのちであり、神の心であり、神が現在働くやり方である。昔神が語った言葉の記録を現代に適用しようとするのなら、あなたは考古学者であり、あなたにぴったりの表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過ぎ去った時にした働きの痕跡を信じており、神が以前人の間で働いた時に残した神の影しか信じておらず、神が昔自分を信じる者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神の今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表している真理の道を信じていない。それゆえに、あなたは間違いなく完全に現実から遊離した空想家である。もし今、あなたがなお人にいのちをもたらすことのできない言葉に固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木[a]だ。あなたは保守的すぎで、あまりに強情で、理性がなさすぎるからだ。

神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストと自称しながら、キリストの本質は全く持っていないからだ。だから、キリストの真偽は人が定めることのできるものではなく、神自身が答え定めるものだとわたしは言うのだ。このようにして、あなたが真にいのちの道を求めるなら、あなたはまず、神は地上に来ることで人にいのちの道を与えるということを認め、そして神が人にいのちの道を与えるために地上に来るのは終わりの日なのだと認めなくてはならない。これは過去のことではない。今起こっていることなのだ。

終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない。なぜなら、彼らが持っているのは、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水でしかないからだ。いのちの水を与えられない者は永遠に死体であり、サタンのおもちゃであり、地獄の子である。そのような者がどうして神に会うことができようか。あなたが過去にしがみつき、足踏みをしながら現状維持しようとし、現状を変え歴史を棄てようとしないなら、あなたは神に常に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚に固執して何もしないまま、座して自滅を待っている。このままで、あなたが小羊の足跡に従う者だと見なされることはあろうか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと言えようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたの手につかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む言葉は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人の人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするように導いてくれる道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないだろうか。そこに含まれる奥義を理解させてはくれないだろうか。あなたは、自分で自分を天国に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天国に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたは未だに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよと。そして誰が今働いているのかを見よと。誰が今、終わりの日に人を救う働きをしているのかを見よと。そうしなければ、あなたは決して真理を得ることはなく、決していのちを得ることもない。

キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの供給を受け入れることもなく、祝福だけを得ようと考えてはならない。キリストは、彼を真に信じる者にいのちを与えるために終わりの日にくる。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上での業を託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない報いは、誰の目にも明らかだ。そして、あなたが終わりの日のキリストに敵対し、拒むなら、誰もその結末をあなたに代わって引き受けることはできないともわたしは言おう。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえあなたが自らの罪を償おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが拒んだのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。だから、全ての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりすることのないように。あなたにいのちを与えるのは真理以外にはなく、あなたを生まれ変わらせ、神の顔を仰ぐことができるようにしてくれるものは、真理以外にはないからだ。

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脚注

a.「一片の枯れ木」は「救いようがない」という意味の中国の諺。


神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である

2020-01-29 11:16:28 | 書籍
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神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である                                                                                                                                                                                    人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代の三つの段階の働きのことである。天地創造の働きは、人類全体を作り出す働きであった。それは人類を救う働きではなく、人類を救う仕事には関係がなかった。なぜなら、天地創造の時、人類はサタンによって堕落させられておらず、人類を救う働きを実行する必要がなかったからである。人類を救う働きは、人類がサタンに堕落させられた後にようやく始まり、そこで人類を経営する働きも人類が堕落させられた後にようやく始まったのである。言い換えれば、人を経営する神の働きは、人類を救う働きの結果として始まったもので、天地創造の働きから生じたものではない。人類が堕落した性質を持つようになったあと初めて、経営の働きが存在するようになった。だから人類を経営する働きは、四つの段階もしくは四つの時代というよりも三つの部分を含むのである。これこそが人類を経営する神の働きへの正しい言及の仕方である。最後の時代が終わるとき、人類を経営する働きは完全に終わっている。経営の働きの終結は、人類すべてを救う働きが完全に終了し、人類がその旅路の終わりに到達したことを意味する。人類全てを救う働きがなければ、人類を経営する働きも存在しないし、三つの段階の働きもないだろう。それは正に人類の堕落ゆえに、また人類がそれほど性急に救いを必要としていたがために、ヤーウェは天地創造を終わらせ、律法の時代の働きを始めたのである。そうして初めて、人類を経営する働きが始まったのだが、それはつまり人類を救う働きもそこで初めて始まったことを意味する。「人類を経営する」とは、新たに造られた地上の人類(つまり、まだ堕落させられていない人類)の生活を導くという意味ではない。むしろそれは、サタンによって堕落させられた人類の救いであり、つまりは、この堕落した人類を変化させることである。これが人類を経営することの真意である。人類を救う働きが天地創造の働きを含まないのだから、人類を経営する働きも天地創造の働きを含まず、ただ天地創造とは別の三つの段階の働きだけが含まれる。人類を経営する働きを理解するには、三つの段階の働きの歴史を知ることが必要であるが、これは、救われるために、すべての人が知っていなければならないことである。被造物としてあなた方は、人は神によって造られたということを認識しなければならないし、人類の堕落の源、さらには人の救いの過程を認識しなければならない。あなた方がもし、神に喜ばれるために教理に従って行動することだけは知っているが、神がいかにして人類を救うかに関して、あるいは人類の堕落の源を少しも知らないのであれば、あなた方には被造物としてこの部分が欠けているのである。あなたは、神の経営する働きのより幅広い範囲を知らないままでいるのに、それらの実践できる真理を理解するだけで満足してはならないし、もしそうなら、あなたは教条的すぎるということになる。三つの段階の働きは、神による人の経営の内部事情であり、全宇宙の福音の到来であり、全人類における最大の奥義であり、また福音を述べ伝えることの基盤でもあるのだ。もしあなたが自分のいのちに関係する単純な真理を理解することだけに集中し、この最大の奥義とビジョンに関しては一切知らないとすれば、あなたのいのちは、ただ眺めること以外に役に立たない不良品と言えるのではないか。

もし人が実践することだけに集中し、神の働きと人の認識を二次的なものと見るならば、「一文惜しみの百失い」であることと同じではないのか。あなたは、認識すべきことは認識すべきであり、実践すべきことは実践しなければならない。そうして初めてあなたは真理をどのように追及すべきか知る人になるのだ。あなたが福音を述べ伝える日が来た時、「神は偉大な正義の神であり、神は最も優れた神であって、いかなる偉大な人も比較できる者がおらず、それ以上に高い者もいない…」ということしか言えず、これらの見当違いで上辺だけの言葉しか言えず、非常に重要で中身のある言葉を全く話すことができず、神を認識すること、あるいは神の働きについて何も言うことができず、そしてさらには真理を説明すること、あるいは人間に欠けているものを提供することができないのであれば、あなたのような人は、立派にその本分を尽くすことはできない。神を証しし神の国の福音を述べ伝えることは、決して簡単な仕事ではない。あなたは、まず真理を身に付け、理解するべきビジョンを身に付けなければならない。神の働きの様々な側面のビジョンと真理について明確に知っているとき、あなたは心の中で神の働きを認識することになり、神が何をするかに関わらず、例えばそれが正義の裁きでも人を精練することでも、あなたは自らの基盤として最大のビジョンを備え、実践すべき正しい真理を備えることになり、結果として、最後まで神に付き従うことができるようになるのである。あなたは、神の働きが何であれ、その働きの目的は変化せず、神の働きの核心は変化せず、そして神の人に対する心も変わらないことを知らなければならない。神の言葉がどれほど厳しいものであっても、環境がどれほど不利であっても、神の働きの原則は変わらないし、人を救うという神の意図も変わらないのである。それが人の終わり、あるいは人の終着点の啓示ではなく、最終段階の働き、あるいは神の経営(救いの)計画全体を終わりにする働きでもないならば、また神が人に対して働いている最中のことであるならば、神の働きの核心は変わらない。つまりそれは常に人類の救いなのである。これこそがあなた方の神への信仰の基盤であるべきだ。三つの段階の働きの目的は全人類の救いであり、すなわちそれは人をサタンの領域から完全に救い出すことを意味する。三つの段階の働きには、それぞれ異なる目標と意味があるが、そのいずれもが人類を救う働きの一部であり、人類が必要とするものに応じて実行される異なる救いの働きなのだ。いったんこの三つの段階の働きの目的を知れば、各段階の働きの意味をどのように正しく認識すれば良いかが分かるし、神の心を満たすためにはどのように行動すれば良いかが理解できる。この点に到達することができれば、最終的にこの最大のビジョンが神へのあなたの信仰の基盤になるだろう。あなたは実践のためのたやすい方法、あるいは奥深い真理を追い求めるだけでなく、実践とビジョンを組み合わせるべきだ。そうすれば、実践できる真理とビジョンに基づく知識の両方が在ることになる。そうして初めて、あなたは完全に真理を追求する者になれるのである。

三つの段階の働きは、神の経営(救い)全体の核心にあるもので、 その三つの段階の中に、神の性質、そして神であるものが表されているのである。神の三段階の働きを知らない者は、神がどのようにしてその性質を表現するかを理解できないだけでなく、神の働きの英知も知らず、そして神が人類を救う様々なやり方や、人類全体に対する神の心を知らないままでいる。三つの段階の働きは、人類を救う働きの完全な表明といえる。三つの段階の働きを知らない人々は、聖霊の働きの様々な手段や原則を知らないままでいる。つまり、一つの段階の働きからそのまま残っている教義に厳格にこだわる人々は、神を教義に限定する人たちであり、神に対する彼らの信仰は曖昧で不確かである。そのような人たちは、決して神の救いを得ることがないだろう。神の三段階の働きだけが神の性質の全てを余すところなく表せるのであり、人類全体を救う神の意図、そして人類の救いの全過程を完全に示すことができるのである。これは、神がサタンを打ち負かし人類を取り戻したということの証拠であり、神の勝利の証拠であり、そして神の性質全体の表明でもある。神の働きの三段階の内一つの段階だけを理解する者は、神の性質の一部しか知らない。人の観念においては、このたった一つの段階の働きは教義になりやすく、人は神に関する規則を定めるようになり、神の性質のこの一部分だけを神の性質全体の代表として使うようになる。その上、人の想像が少なからずこの中に混入するので、神の働きの原則に加えて、神の性質、存在、英知を限られた範囲内に厳格に制限し、神がかつてこのようであれば永遠にこのようであり、絶対に変わることはないと思うようになる。三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが様々な、多岐にわたる神の働きを認識しないからであり、さらに、彼らがごく僅かな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちは、経験は上辺だけのものなのに、本性が放漫かつ甘やかされており、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」する。また彼らはもったいぶって、自分たちの知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑されて拒絶されるのではないのか、そして新しい時代には排除されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人々は、狭量で偏狭な人々で、単に自分たちがいかに賢いかを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についての僅かな知識だけで天下の「学界」にまたがり、人に教える上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に転回させようと試み、目先のことしか見えないのに、一目で6000年に及ぶ神の働きを見極めようとするのである。この人たちは理性と呼べるようなものをもちあわせていない。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを評価するのに時間をかける。さらに、彼らは今日の神の働きについて知っていることを僅かしか語らないが、判断することは急がない。神に対して認識がない人ほど、傲慢で自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人は少しも価値のない人である。聖霊の働きを冗談事と捉える人たちはあさはかである。聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。このような人はいつか聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。そういう人たちは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜しているのである。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがないし、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。今日あなた方は、なぜ神の三つの段階の働きの重要性を知らなければならないのか理解すべきである。わたしが言う言葉はあなた方の有益になるものであり、無意味な言葉ではない。あなた方が、あたかも馬に乗って疾走しながら花を見物するかのようにただそれらを読むなら、わたしの大変な努力は全て水の泡になるのではないか。あなた方一人ひとりが自らの本性を知るべきである。あなた方のほとんどが議論は得意であり、理論的な質問に対する答えはすらすらと出てくるが、実質的な問題になると何も言うことがないのである。今日でさえ、あなた方は未だに浅はかな会話に身をゆだね、自分の古い本性を変えることができずにいるし、あなた方のほとんどは、より高い真理を達成するために追求する方法を変えるつもりがなく、いいかげんに自分の人生を生きているだけである。このような人たちがどうして最後まで神に従うことができるだろうか。たとえ道の最後まで辿り着けたとしても、あなた方にとってそれが何の得になるだろう。手遅れになる前に、真剣に追及するか、あるいは早く負けを認めて放棄して、考え方を改めた方が良い。時間がたつにつれ、あなた方は人にたかる寄生虫になる。そんな低くて卑しい役をあなた方は演じるつもりなのか。

三つの段階の働きは、神の働きすべての記録であり、神の人類の救いの記録であり、そしてそれは架空のものではない。もしあなた方が、神の性質全体を認識することを真剣に追い求めるのであれば、神によって為された働きの三段階を知らなければならず、しかもどの段階も欠けてはならない。これは神を知ろうと努力する人たちが達成しなければならない最低限のことである。人は思いつきのように独自で本当に神を知ることはできない。それは人が自分で想像できるものでもなければ、聖霊が特定の人に特別に恩恵を授けた結果でもない。むしろそれは、人が神の働きを経験した後に得る認識であり、神の働きの事実を経験した後にだけ訪れる神に対する認識なのである。そのような認識は、ふと思いついて得ることはできないし、教えられるものでもない。それは完全に個人的な体験に関係することなのだ。これらの三つの段階の働きの核心には、神の人に対する救いが在るが、この救いの働きの中には幾つかの働き方と、神の性質を表す手段が含まれている。これは、人がもっとも識別し難いことであり、また理解するのがむずかしいことである。時代の区分、神の働きの変化、働きの場所の変化、この働きの受益者の変化等、これら全てが三つの段階の働きに含まれている。特に、聖霊の働き方の違い、神の性質、姿、名前、身分、その他の変化など、これら全てが三つの段階の働きの一部である。一つの働きの段階は、一部しか表すことはできず、特定の範囲に限られている。それは時代の区分や神の働きの変化には関連がなく、他の側面にはさらに関連性がない。これは完全に明らかな事実である。三つの段階の働きが人類を救う神の働きの全てなのだ。人は、人類を救う働きの中で、神の働き、そして神の性質を認識しなければならず、この事実なしには、あなた方の神に対する認識は、ただ無意味な言葉でしかなく、机上の空論にすぎない。そのような認識では、人を納得させることも征服することもできず、そのような認識は実情にそぐわないし、また真理でもない。その認識がたとえ十分で、聞こえの良いものであっても、神の元来の性質と合致しないのであれば、神はあなたを容認しない。神はあなたの認識を称賛しないだけでなく、神を冒涜した罪びととしてあなたに天罰を下す。神を認識する言葉は軽々しく語られるものではない。たとえあなたが流暢で弁が立ち、あなたの言葉が死人を生き返らせ、生きている人を死なせることができるとしても、神に対する認識を語ることに関しては素人同然である。神は、あなたが急いで判断を下したり、気軽に褒めたり、また無頓着に中傷したりできる対象ではない。あなたは誰でもどんな人でも褒めるが、それでもなお神の大徳と恩恵を描写する適切な言葉に悪戦苦闘し、これは全ての失敗者が体験することなのである。神を描写することのできる言語の専門家は大勢いるが、その描写の正確さは、神に属し、限られた語彙しか持たずとも豊かな経験を身に着けている人々によって語られる真理の百分の一にすぎない。よって神への認識は、巧みに言葉を使うことや豊富な語彙によるものではなく、正確さと現実性にかかっていること、また人の知識と神への認識は、全く関係がないことが見て取れる。神を認識するという学びは、人類のどの自然科学よりも高尚である。それは、神を認識することを探し求める非常に少数の人間によってのみ達成できる学びであって、才能があれば誰でも達成できるわけではない。よってあなた方は、神を認識することと真理を追求することを、ほんの子供でも達成できる、という見方をしてはならない。あなたは、家庭生活、仕事の経歴あるいは結婚生活においては完全に成功を収めているかもしれないが、真理および神を認識する学びに関しては、自分では見せられるものは何も持たないし、また何の成果も上げていない。真理を実践するとはあなた方にとって非常に難しいことであり、神を認識することは更に困難な問題であると言ってよい。これはあなた方にとって困難なことであり、同時に人類全体が直面している難事である。神を認識するために何らかの達成した人たちの中で、標準レベルに達する人はほとんどいない。人間は、神を認識することが何を意味するのか、あるいはどうして神を認識する必要があるのか、またはどの程度で神を認識していると見なせるのかを知らないのである。これは人類を非常に困惑させるものであり、ごく簡単に言うと人類が直面する最大の謎であり、誰もこの質問に答えることができないし、誰も進んで答えようとはしないのだが、その理由は、今日まで人類のうち誰一人としてこの働きの研究に成功したことがないからだ。おそらく、三つの段階の働きの謎が人類に明らかにされるときは、神を認識する才能集団を成す人たちが次々と現れるだろう。もちろん、そうなることをわたしは望むし、さらにわたしはこの仕事を実践中であり、近い将来そのような人材がもっとたくさん現われることを願う。彼らは、三つの段階の働きの事実を証しする者となり、そしてもちろん、三つの段階の働きを証しする最初の者となるだろう。神の働きが終わる日になって、もしそのような才能ある者がいなかったならば、あるいは一人か二人しかいなかったならば、そしてこの一人か二人は受肉した神によって完全にされることを自ら受け入れていたとしたら、これ以上悲しく、また悔やまれることはない。もちろんこれは最悪のシナリオにすぎないが。いずれの場合も、真剣に追及する者がこの祝福を得られることを願う。世の始まりの時から、このような働きはかつて一度も存在しなかったし、人類の発展の歴史の中で、かつてなかった仕事である。もしあなた方が本当に最初に神を認識する者達の一人になることができるならば、被造物全ての中で、最も名誉なことではないだろうか。人類のなかで神によってこれ以上に称賛される人がいるだろうか。このような仕事は簡単に達成できるものではないが、それでも最終的には成果を収める。性別や国籍に関わらず、神を認識することのできる人々は皆、最後に神から最高の名誉を受けるだろうし、また神の権威を備える唯一の者たちとなる。これが今日の仕事であり、未来の仕事でもあるが、要はこれが最終の、また過去6000年の働きの中で達成される最高の仕事ということであり、それによって人間の各区分を明らかにする仕事の一手段である。人に神を認識させるための働きを通して、人の異なるランクが明らかにされる。つまり、神を知る者は神の祝福を受け、神の約束を受け取る資格があるが、一方で、神に対する認識を持たない者は神の祝福を受ける資格、神の約束を受け取る資格がないことになる。神を知る者は、神の知己であり、神に対して認識を持たない者は神の知己とは呼ばれない。すなわち、神の知己は、神のあらゆる祝福を受けることができるが、神の知己でない者は、神の働きのどれにも値しない。苦難であれ、精錬あるいは裁きであれ、全ては人が最終的に神に対する認識を得られるようにするためであり、人が神に服従するようになるためである。これが最終的に達成される唯一の成果である。三つの段階の働きはどれも秘密ではなく、これは人が神を認識するのに役に立つことで、人が神についてもっと完全で徹底的な認識を得る手助けとなる。この働きは全て人のためである。

神自身の働きは、人が知らなければならないビジョンである。神の働きは人には達成できないし、人には備わっていないものだからである。三つの段階の働きが神の経営の全てであり、人が認識すべき最大のビジョンである。もし人がこの偉大なビジョンを知らないとすれば、神を認識することも神の心を理解するのも容易ではないし、さらに人が歩む道もますます困難になる。ビジョンがなければ、人はここまで来ることはできなかっただろう。人を今日まで守ってきたのはビジョンであり、人に最大の保護を提供してきたのはビジョンである。将来、あなた方の認識はより深くなるべきであり、あなた方は神の心の全て、そして三つの段階の働きにおける神の賢明な働きの本質を認識するようにならなければならない。これこそがあなた方の真の背丈なのだ。働きの最終段階は、独立した段階ではなく、それ以前の二つの段階と一緒に形成された全体の一部であるから、三つの段階の働きのうち一つだけを行うことで救いの働き全体を完成させることは不可能である。たとえ働きの最終段階が人を完全に救うことができたとしても、必要なのはこの単独の段階を実践することだけという意味にはならないし、人をサタンの影響力から救うために、その前の二つの段階の働きは必要ないということにはならない。救いの働き全体が三つの段階の働きであって、その中の一つの段階ではないため、三つの段階の働きのうちどの段階も単独に取り上げて全人類の唯一の認識すべきビジョンとすることはできない。救いの働きが完成されていない限り、神の経営(救い)も完全に終わることはできない。神の存在、性質、そして英知が救いの働き全体の中に表現されており、初めは人に対して明らかにされていなかったが、救いの働きの中で徐々に表されるようになった。救いの働きの各段階それぞれが神の性質と神の存在を部分的に表しているが、働きの各段階が直接かつ完全に神の存在全体を表すことはできない。つまり、救いの働きは三つの段階の働きが完成した後全部終わるのだから、神のすべてに関する人の認識は三つの段階の働きから切り離すことはできない。人が一つの段階から得るものは、単に神の働きの一部で表される神の性質にすぎず、それは前後の段階で表される性質と存在を代表することはできない。なぜなら、人類を救う働きは一時期または一箇所ですぐ終わるものではなく、異なった時期、異なった場所で人類の発展の状況によって次第に深くなっていくものだからである。それはいくつかの段階で行われる働きであって、一つの段階で終わるものではない。だから神の英知の全ては、一つの個別の段階よりはむしろ、三つの段階において具体化されるのである。神の存在の全て、神の全ての英知が、これらの三つの段階の中に配置されていて、どの段階の働きの中にも神の存在があり、神の働きの英知が記されている。人は、これらの三つの段階の中に表現されている神の性質の全体を認識しなければならない。この神の存在の全てが人類全てにとって非常に重要であり、神を礼拝するときに、人がもしこの認識を持たないのであれば、彼らはブッダを崇拝する人々と何ら変わらないことになる。人の間で行う神の働きは人に隠されておらず、神を崇拝するすべての人に認識されるべきである。神は、人の間で人を救う三つの段階の働きを行ったのだから、人は、これらの三つの段階の働きの中で表現されている神が持つもの、また神であるものを認識すべきである。これは人がすべきことである。神が人から隠すことは、人が達成できないこと、また人が知るべきでないことであり、一方、神が人に見せることは、人が知るべきこと、そして人が身に付けるべきことなのである。三つの段階の働きの各段階は、それぞれの前の段階を基礎として実行されるもので、単独には働きは行われず、また救いの働きから切り離しては行われない。実行された働きの時代と種類には大きな違いがあるが、その核心はやはり人類の救いであり、救いの働きの各段階は、その前の段階のものより深くなる。各段階の働きは、そのひとつ前の段階を基礎として続くものであり、それは無効にならない。このようにして、神の働きは古くならず、常に新しく、その中で神は、今まで見せたことのない自らの性質の側面を人に対して絶えず表現し、そして常に神の新しい働きと存在を明らかにし、たとえ古くからの宗教家たちが最大限反抗し公然と反対するとしても、神は常に意図している新しい働きを実行する。神の働きは常に変化しているため、常に人の反対にあう。そこで、神の働きの時代とその対象と同様に、神の性質も常に変化している。その上、神は常にこれまでしたことのない働きを行い、人から見れば以前と矛盾あるいは相反する働きさえする。人は、一種類の働き、あるいは一つの実践方法だけしか受け入れることができない。人にとって、自分たちと相反する、あるいは自分たちよりも高尚な働きや実践方法は受け入れがたい。しかし聖霊は常に新しい働きを行っていて、そのために神の新しい働きに反対する宗教専門家の団体が次から次へと出現する。こういう人たちが専門家になったのは、どうして神が常に新しくて古くならないのかを人が認識しておらず、また神の働きの原則についての認識も持たず、そしてさらに神が人を救う様々な方法についての認識も持っていないがためである。というわけで、人はその働きが聖霊から出たものであるかどうか、あるいは神自身の働きかどうかの区別がつかない。多くの人は、前に発せられた言葉と合致すれば受け入れるが、以前の働きと違う点があれば反対して拒絶するという態度にしがみついている。今でも、あなた方はみなそのような原則に縛られているのではないだろうか。救いの三つの段階の働きは、あなた方にはあまり効果を上げておらず、また前の二つの段階の働きは負担になるものだからまったく認識する必要がないとさえ信じる者もいる。彼らは、これらの段階は、大衆には発表すべきでなく、早々に撤回されるべきだと考えている。三つの段階の働きのうちの前の二段階によって人々が混乱しないようにである。多くの人は、前の二段階の働きを示すのは余計なことであり、神を認識するのに全然役に立たないと思っている―これがあなた方の考えである。今日、あなた方は皆、そのように行動することは正しいと考えているが、いつかわたしの働きの重大さに気づく時が必ず来る。わたしは意義のない働きは行わないことを知らなければならない。わたしがあなた方に三つの段階の働きを示している以上、それらはきっとあなた方のためになる。これら三つの段階の働きは神の経営全体の核心であるのだから、きっと全宇宙で全ての人の注目の的となる。いつかあなた方は皆この働きの重要性に気づくだろう。あなた方が神の働きに逆らう、あるいは自分の観念により今日の働きを判断するのは、あなた方が神の働く原則を知らないからであり、またあなた方が聖霊の働きを真剣に受け止めないからだということを認識しなさい。あなた方が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなた方自身の観念と生まれつきの尊大さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなた方が元々あまりにも反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後に、人がどこから来たのかということさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きが正しいかそうでないかについて演説を行ったりする。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。彼らは人間性が非常に低俗で、思慮分別のかけらも持っていないのである。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識しない代わりに、神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図までする。このように理不尽な人たちがどうして神を知ることができるだろう。人は、神を求め、経験する過程で、神に対する認識を得るようになる。つまり、気まぐれに神を批判する中で聖霊の啓発を受けて神を認識するのではない。神に対する認識が正しいほど、人は神に反発しなくなる。逆に、神への認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格や道徳観は、あなたが神に逆らう「資本」であり、あなたが堕落して下劣で低俗であるほど、あなたはますます神の敵対者になる。欲深い観念の持ち主や独りよがりな性質の者は、さらに受肉した神の憎しみを買い、そのような人たちは反キリストである。もしあなたの観念が正されなければ、常に神に敵対することになり、永久に神と融和することができず、そしていつも神から離れていることになる。

自分の古い観念を捨ててこそ、新しい認識を得ることが可能であるが、古い認識は古い観念であるとは限らない。「観念」とは、人が想像したことで、現実と反するもののことを言う。もし古い認識が古い時代にもう時代遅れとなり、それが新しい働きの中に入るのを阻んでいたなら、そのような認識も観念である。もし人がそのような認識に対して正しく対処することができ、神をいくつか違った側面から認識し、古いものと新しいものを合わせることができれば、古い認識でも人の助けとなり、人が新しい時代に入る基盤となることができる。神を認識するという学びにおいては、例えば、どのようにして神を認識するための道へ入るのか、神を認識するためにはどの真理を理解すべきなのか、またいかにして自分の観念と古い性質を取り除き、神の新しい働きの計画すべてに従うようになるのか等、多くの原則を習得する必要がある。神を知るという学びに入るための基盤としてこれらの原則を用いれば、あなたの認識はますます深くなる。もしあなたが三つの段階の働き、つまり神の経営(救い)の全計画に対してはっきりした認識を持ち、前の二つの段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きであると捉えることができれば、あなたはこれ以上ないほど強固な基盤を持つことになる。三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。神の三つの段階の働きは、異なる時期に異なる場所で行われており、またその内容もそれぞれ異なるが、それらは全て唯一の神によってなされたものである。すべてのビジョンの中でも、これが人の認識すべき最も偉大なビジョンであり、もし人がこれを完全に理解するなら、自分の立場を貫くことができる。現在、様々な宗教や宗派が直面している最大の問題は、彼らが聖霊の働きを認識していないということであり、聖霊の働きと聖霊のものでない働きを区別できず、そのために彼らは、先の二つの段階の働きと同様に、この段階の働きが神ヤーウェによるものかどうかが解らないのである。神に従ってはいても、ほとんどの人がそれが正しい道なのかどうかを区別できない。人は、この道が神が自ら導いているものかどうか、神の受肉が事実であるのかどうかを気に病んでいるが、ほとんどの人は、このことに関し、どのように見分ければ良いのか一切手掛かりがないのである。神に従っている人たちは、取る道を決断できず、よって、発せられる言葉はこのような人たちの間では部分的な効果しか持っておらず、また完全な効果を発揮できないために、そのような人々がいのちに入ることに影響を及ぼしている。三つの段階の働きにおいて、それらが違う時期に、違う場所で、そして違う人々に対して神が為したことであると人が見きわめることができ、たとえ働きが違っていても、それらは全て唯一の神によって為され、それは唯一の神によって為される働きである以上、正しく、間違いがあるはずはなく、またそれが人の観念とは合致せずとも、唯一の神の業であることは否定できないということ――もし人がそれは唯一の神の働きであると確信をもって言えるならば、人の観念はほんの些細な事となり、言及する価値もなくなるであろう。人のビジョンが明確でない上に、人はヤーウェが神でありイエスが主であることしか知らず、現在の受肉した神について決めかねているために、多くの人はヤーウェとイエスの働きに専念することに留まり、今日の働きについての観念に悩まされ、ほとんどの人は常に疑いを抱き、今日の働きを真剣に受け止めていないのである。人は、見ることができなかった先の二つの段階の働きに関しては、何の観念も持っていない。それは、人が先の二つの段階の働きの実情を理解せず、またそれらを自ら目撃しなかったからである。見えないからこそ、人は好きなように想像するが、どんなに想像しても証拠となる事実はないし、またその誤りを正す者もいない。人は、本能のままに警戒心を捨てて想像力を逞しくさせているのだが、立証する事実がないので、証拠があるかどうかに関わらず、人の想像したことが「事実」となっている。従って、人は自分で想像した神を心の中で信じているわけで、実際の神を求めないのである。一人の人間が一種類の信仰を持つとすると、100人の人が居れば100通りの信仰があることになる。人は、神の働きを実際に見たことがないため、また耳で聞いたことがあるだけで、自分で目にしたことがないために、そのような信仰に取りつかれている。人は伝説や物語を聞いたことがあっても、神の働きという事実の認識についてはほとんど聞いたことがない。したがって、信者になってたった一年の人も、自らの観念をとおして神を信じているし、生涯信者である人も同様である。事実を見ることができない者は、神に対する観念がある信仰から抜け出すことはできない。人は自らの古い観念の束縛から解放され、新しい境地に入ったと信じている。神の真の顔を見ることができない者の認識は、観念や言い伝え以外の何物でもないことを人は知らないのだろうか。人はみな自分の観念が正確で間違いないのだと思い、自分の観念は神から来るものだと思っている。今日、人は神の働きを目の当たりにすると、長年にわたって蓄積した観念を放つのである。だが、過去の想像と考え方がこの段階の働きの障害になったため、人がそのような観念を手放し、またそのような考え方に反論するのが困難になっている。今日まで神に従ってきた多くの人たちの持つ、この段階的な働きに対する観念は以前にも増して危機的なものになっており、これらの人たちは、徐々に受肉した神に対する頑固な敵意を形成しているが、この憎しみは人の観念と想像から出ているのである。事実は人に想像する自由を与えず、さらに人によって簡単に反論されることはない一方、人の観念と想像は事実の存在を許さず、その上に人は事実の正確さと信憑性には考慮せず、ただひたすら自分の観念を自由に働かせ、自分自身の想像力をたくましくするために、人の観念と想像は、人の観念とは相いれない今日の働きの敵となったのである。これは、もっぱら人の観念の誤りと言えるもので、神の働きの誤りではない。人が何を想像しようが自由だが、神の働きの事実は人が侵すことができないものだから、神の働きのどの段階でも、あるいは働きのごく一部でも、それについて軽々しく異議を唱えるべきではない。あなたは自由に想像しても構わないし、ヤーウェとイエスの働きについて、すばらしい話をまとめても構わないが、ヤーウェとイエスの働きの各段階の事実について反論してはならない。これは原則であって、行政命令でもあるが、あなた方はこれらの問題の重大さを理解しなければならない。人はこの段階の働きは人の観念と合致しないが、先の二つの段階の働きはその限りではないと信じている。人はその想像の中で、先の二つの段階の働きは今日の働きと同じでないことを確信しているが、神の働きの原則は全て同じであり、神の働きは常に実践的であること、時代に関係なく、いつも神の働きの事実に逆らい反対する人が大量に現れることを考えたことがあるだろうか。今、この働きの段階に逆らい、反対する人たちは、過去の時代においても間違いなく反対していただろう。そのような人々は常に神の敵だからだ。神の働きの事実を理解している人たちは、三つの段階の働きを、唯一の神の働きとして捉え、自分の観念は捨てるのである。このような人々が神を知る人々であり、真に神に従う人々である。神の経営(救い)の一切が終わりに近づくとき、神は万物を種類に応じて分類する。人は創造主の手で造られたのだから、最後には神が人を神の支配のもとに戻さなければならないのである。これが三つの段階の働きの終結である。終わりの日の働きの段階と、イスラエルとユダヤにおける前の二つの段階は、全宇宙における神の経営(救いの)計画である。これは誰にも否定できないし、そしてこれが神の働きの事実である。人々はまだこの働きのほとんどを経験もしていなければ見てもいないが、事実は事実であり、人はだれもこれを否定できない。神を信じる全宇宙各地の人々はみなこの三つの段階の働きを受け入れるであろう。もしあなたが一つの特定の段階の働きだけを認識して、他の二段階の働きを理解せず過去の神の働きも理解しないならば、あなたは神の全経営(救いの)計画の真相を語ることはできないし、あなたの神の認識は偏ったものである。神への信仰においては、あなたは神を知らず、理解していないために、あなたには神を証しする資格がないのである。あなたの現時点でのこれらの事柄に関する認識が深かろうと浅かろうと、最後には、あなた方は認識を持ち完全に納得するようになるはずであり、あらゆる人が神のすべての働きを目にして、神の支配の下に服従するようになるのである。この働きの終わりには、全ての宗教が一つにまとまり、全ての神の被造物が創造主の支配の下に戻り、唯一の真の神を礼拝して、全ての邪悪な宗教は無に帰して、二度と現れることはない。

なぜこのように連続して三つの段階の働きに言及するのか。時代の移り変わり、社会の発展、自然の変貌はみなこの三段階の働きが変化するにつれて変わるのである。人類は神の働きに合わせて変化するのであって、人類が単独で発展しているのではない。神の三つの段階の働きに触れるのは、全ての被造物と、あらゆる宗教、あらゆる宗派の人々全てを、唯一の神の支配の下に集めるためである。あなたがどの宗教に属していようと、最終的にあなたは皆神の支配の下に従うのである。神自身だけがこの働きを実行できるのであって、それはどの宗教の代表にも不可能である。世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表あるいは指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表や指導者ではなく、人類全体が、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているということであり、またこれは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるが、その大きさに関係なく、それらの全てが創造主の支配の下に存在しているのであって、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の進化、そして自然科学の発達、これらはそれぞれ創造主の計画から切り離すことはできないし、この働きは特定の宗教の代表にできるものではない。宗教を代表する人というのは、特定の宗教組織の指導者というだけで、神、つまり天地と万物の創造主の代理を務めることはできない。宗教の代表は、その宗教全体の内において人々を率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表は単なる指導者であり、神(創造主)と対等の立場にはなれない。万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。神だけが万物の中で最も高い地位にいるのであり、すべての被造物の中の最高の支配者でも神の支配の下に帰らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、誰も万物をその種類に応じて分類することはできない。ヤーウェ自身が人類を造り、人々をそれぞれその種類に分類したのだから、終わりの時にもやはり神は自身でその働きを行い、万物をその種類に従い分類するが、これは全て神以外にはできないことである。初めのときから今まで、三つの段階の働きは全て神自身が行ったのであり、それは唯一の神がしたことである。三つの段階の働きの事実は、人類全体に対する神の統率力の事実であり、誰も否定できない事実である。三つの段階の働きの終わりには、万物が種類に応じて分別されて神の支配の下に帰り、そしてそこには全宇宙を通してただ唯一の神だけが存在し、その他の宗教は存在しなくなる。世界を造ることができない者は、世界を終わらせることもできないが、世界を創造した神は、必ず終わらせることもできる。だから、もし誰かが一つの時代を終わらせることができず、単に人がその心を養うのを手助けできるだけなら、その人は断じて神ではないし、断じて人類の主でもない。そのような者にこのような偉大な働きは可能でなく、このような偉大な働きは唯一の存在によってのみ可能である。そしてこのような働きができない者はみなきっと神以外の敵である。全ての邪悪な宗教は神とは相いれない。そして、神と相いれないなら、それらは神の敵である。すべての働きはこの唯一の真の神が為すものであり、全宇宙がこの真の神の支配下にあるのだ。神の働く場所がイスラエルでも中国でも、またその働きが聖霊によるものでも肉体によるものでも、全ては神自らによって行われるもので、他の誰にもできないことである。神が全人類の神だからこそ、神はどんな条件にも制限されず自由に働き、これはすべてのビジョンの中で最大のものである。もしあなた方が、神の被造物の一人として被造物の本分を尽くし、神の心を理解したいのであれば、神の働きを理解し、神の被造物に対する心を理解しなければならず、また神の経営(救いの)計画、そして神の為す仕事の意義の全てを理解しなければならない。これらの事が理解できない者は、神の被造物としての資格がない。もしあなた方が、神の被造物として、自分がどこから来たのかが分かっておらず、人類の歴史や神が行った働きの全てを知らず、さらには人類がいかにしてここまで発展してきたか、また全人類を支配するのは誰なのかを理解していないのであれば、あなた方には、その本分を尽くすことはできない。神は今日まで人類を導いてきた。そして神が人類をこの地上に造ってからこれまで、神は一度も人の傍を離れたことがない。聖霊は休むことなく働き続け、人類を導き続けて、一度も人から離れたことがない。それなのに、人は神の存在に気づかず、ましてや神を知らないが、神の全ての被造物にとって、これほど屈辱的なことがあろうか。神は自ら人を導いているのに、人は神の働きを理解していない。あなたは神の被造物であるのにも関わらず、自分たちの歴史も知らず、これまで自分の旅路の中で誰が自分を導いてくれたのかも分からずにいて、神による働きに気付かないから、神を認識できないのだ。あなたがもし今だに知らないとすれば、神を証しする資格はずっとないであろう。今日、創造主は、もう一度あらゆる人々を自ら導き、そしてあらゆる人々に神の英知、全能性、救い、そしてすばらしさを見せている。それでもあなたはまだ気付かず、あるいは理解できずにいるから、それであなたは救いを得られない者になっているのではないか。サタンに属する者たちは神の言葉を理解できず、神に属する者たちには神の声を聴くことができる。わたしの話す言葉に気付いて理解する全ての人々は、救われる者たちであり、また神を証しする者たちなのだ。わたしが言った言葉を理解しない全ての人々は神を証しすることができず、排除される者たちなのだ。神の心を理解できず、また神の働きに気付かない人々は、神の認識を達成することができず、そのような人々は神を証しすることはない。もしあなた方が神を証ししたいと願うなら、あなた方は神を知らなければならないし、その神の認識は、神の働きを通して達成される。結局のところ、神を知りたいと望むならば、神の働きを知らなければならない。つまり、神の働きを知ることが最重要なのである。三つの段階の働きが終わるとき、神を証しする者たちの一集団、つまり神を知る者たちの一団が作られる。この人たちはみな神に対する認識があり、真理を実行することができる人たちである。彼らには人間性と理知があり、皆三つの段階の救いの仕事を認識している。これが最後になし遂げられる働きであり、この人たちは6000年にわたる経営(救い)の働きの結晶であり、最終的にサタンを打ち負かした最も有力な証しである。神を証しすることができる者は、神の約束と祝福を受けることができる上に、最後の時に残り、神の権威を持ち、神を証しする一団になるだろう。もしかすると、あなた方の全ての人がこの一団の一員になれるかもしれず、あるいは半分か数人だけがそうなれるかもしれないが、それはあなた方の意思と追求にかかっている。


Ⅳ.恵みの時代の救いと救われることの真理について

2020-01-24 01:03:10 | 書籍

                                                                                                                                                                  1.当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。

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『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より

 2.人類は主イエスを救い主として受け入れるだけで罪が赦されるようになった。名目上は、人間の罪はもはや救いを得て神の前に出る妨げとはならず、サタンが人間を責める手立てではなくなったということである。それは、神自身が実際的な働きをし、罪深い肉の形を取り経験し、罪のための捧げ物となったからである。こうして、神の肉、罪深い肉の形をとった神のおかげで人間は贖われ、救われて、十字架から降りた。

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より

 3.人の肉はサタンに属しており、不従順な性質に満ちており、嘆かわしいほど汚れており、不純なものである。人々は肉の喜びを過度に切望し、肉の現れは多過ぎ、そのため神は肉をある程度嫌っている。人々が、汚れて、堕落したサタンのものを置き去りにする時、神の救いを得る。しかし、彼らが汚れや堕落を投げ捨てることができないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下にとどまるだろう。人々の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はサタンのものである。あなたを救うことによって、神はあなたをこれらのものから切り離す。神の働きは間違っていることはなく、すべては人々を闇から救うためである。あなたがある程度信じていて、肉体の堕落を脱ぎ捨てることができ、もはやこの堕落の束縛を受けない時、あなたは救われているのではないだろうか。サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「実践(2)」より

 4.神により救われている者は神からの試練を経験したものであり、サタンの誘惑と攻撃を何度も受けたことのある者である。神により救われている者は神の心と要求を理解でき、ひたすら神の支配と采配に従い、サタンの誘惑のただ中にあっても、神を畏れ悪を避ける道から逸れることがない。神により救われている者は正直であり、心優しく、愛と憎しみを区別し、義と理性を知っており、神を配慮し神の全てを大切にする。そのような人々はサタンに束縛されておらず、監視されておらず、非難されたり虐待されたりしていない。完全に解放されており、全く自由である。……

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

 5.イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

 6.イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 7.人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。……

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 8.あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む──あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている──あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。

『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より

 9.病気を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を顕すことによっても、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。人から悪霊を追い出したり、人を贖ったときは、それはただサタンの手から人を捕まえ、神のもとに戻したことでしかなかった。神によって清められていないし、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には、依然として汚れ、敵対心、そして不従順が存在する。人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 10.終わりの日の働きは言葉を語ることである。大きな変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 11.神が人々を獲得する時、神はおもに実践的神の言葉と発言を通して、人々の欠点を取り扱い、反抗的な性質を裁き、明らかにし、人々に必要なものを得させ、神が人々の間に到来したことを示すためである。最も重要なことだが、実践的神の行う働きは、すべての人をサタンの影響から救い、彼らを汚れた地から切り離し、彼らの堕落した性質を一掃することである。実践的な神に獲得されることの最も深遠な意義は、実践的神を模範として、モデルとすることができ、正常な人間として生き、実践の神の言葉と要求を実践できるようになり、少しのズレや逸脱もなく神の言われる通りを実践し、神が求められることを達成できるようになることである。このようにして、あなたは神のものとされる。

『言葉は肉において現れる』の「実践的な神は神自身であることを知るべきである」より

 12.神のものとされた人々は、完全に神に従う人々であり、サタンに堕落させられたものの、今は神の働きにより救われ征服され、苦難に耐え、そして最後に完全に神のものとされ、もはやサタンの領域で生きることはなく、不義から解き放たれ、聖く生きることを望む人々である。それらが最も高潔な人々であり、聖なる者たちである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」より

 13.神が人々を完全にする時、神は彼らを清め、人々は清くなればなるほど、神によってより完全にされる。汚れ、反抗、敵対心、あなたの中にある肉に属するものが取り除かれ、あなたが清められた時、あなたは神に愛されるであろう(言い換えれば、あなたは聖者になる)。あなたが神によって完全にされ、聖者になった時、あなたは千年神の国の中にいるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」についての短い話」より

 14.人は精錬された後、罪の性質がなくなる。なぜなら、神はサタンを打ち負かしたので、敵対勢力による侵略はなく、人の肉を攻撃する敵対勢力がなくなるからである。そのようにして、人は自由になり、聖くなり、永遠の中に入るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

 15.終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。神の働きが終わる時、生き残ることのできる人は、清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。彼らはかつて贖われたことがあり、また裁かれもし、懲らしめも受け罰せられたことがある。彼らはまた神への奉仕をしたこともあるが、終わりの日がきたら、彼らはやはり、自身の悪さ、自身の不従順さ、贖う術もないような有様が原因で、排除され、滅ぼされる。彼らは未来の世界では存在しないし、未来の人類の間で生きることもない。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

 16.神の経営(救い)の六千年の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代というように三段階に分かれている。これら三段階の働きはすべて人類の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落させられてきた人類の救いのためである。けれども、それは同時に、神がサタンと戦うためでもある。したがって、ちょうど救いの働が三段階に分かれているように、サタンとの戦いも三段階に分かれおり、この二つの側面の神の働きが同時に行われる。サタンとの戦いは実際、人類の救いのためであり、また、人類の救いの働きは一つの段階ではうまく完成できるものではないから、サタンとの戦いもまた段階と期間に分けられている。そして戦いは、人間の必要とサタンによる人間の堕落の程度に応じて、サタンに対して遂行される。……人の救いの働きは三段階で実行された。すなわち、サタンとの戦いは、サタンが完全に打ち負かされる前に三段階に分割されたということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きに秘められた真理は、人に恵みを施し、人の罪祭となり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器を持って立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神を証しすることである。サタンはこのようにして打ち負かされるのである。人の堕落した性質を変えることを通してサタンは打ち負かされる。サタンが敗北すると、つまり、人が完全に救われると、そのとき辱めを受けたサタンは完全に縛られ、こうして人は完全に救われることになる。ゆえに、人の救いの実質はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いに反映される。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、また、人をサタンの領域から完全に救う働きでもある。人の征服の秘められた意味は、サタンの化身、つまりサタンに堕落させられた人間が征服に引き続いて造り主に戻ることであり、これにより人はサタンを見捨て、完全に神に戻る。このようにして、人は完全に救われるだろう。したがって、征服の働きはサタンとの戦いにおける最後の働きであり、サタンを打ち負かすための、神の経営(救い)における最終段階である。この働きがなくては、人の完全な救いは最終的には不可能で、サタンの完全敗北もまた不可能になるであろう。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることができず、サタンの影響から自由になることもできないだろう。従って、人の救いの働きを、サタンとの戦いが終結する前に完了することはできない。というのは神の経営(救い)の働きの核心は人類の救いであるからである。最初の人類は神の手の中にあったが、サタンによる誘惑と堕落によって、人はサタンに縛られ、悪しき者の手中に落ちてしまった。こうしてサタンは、神の経営(救い)の働きにおいて、打ち負かす対象となった。サタンは人間を自分の所有物としたが、人は神の全経営の資本であるので、人が救われるには、サタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、人間はサタンの虜となった後に連れ戻されなければならないのである。サタンは、人間の古い性質が変えられることによって打ち負かされ、それは人間の本来の理性を回復することになり、こうして、虜となっていた人間をサタンの手から取り戻すことができる。もし人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンは辱められ、人は最終的に取り戻され、サタンは打ち負かされるであろう。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、人はこのすべての戦いの戦利品となり、この戦いが終わるとサタンは懲罰の対象となるそのとき、人類を救う働きのすべてが完了するのである。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

 17.最初の受肉は人を罪から贖う、つまりイエスの肉体を通して人を罪から贖うためであった。つまり、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に留まった。二番目の受肉はもはや罪のためのいけにえとしての役割ではなく、罪から贖われた人たちを完全に救うことであった。それにより、赦されたものが罪から解放され、完全に清められ、性質が変えられ、それによりサタンの暗闇の影響を打ち破り、神の玉座の前に戻ってくるためである。このようにしてのみ、人は完全に清められる。神は律法の時代が終ってから、恵みの時代に救いの働きを開始した。これは神が人間の不従順に対する裁きと刑罰の働きを終えて人類を全く清める終わりの日まで続く。その時が来てはじめて、神は救いの働きを終え、安息に入る。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より