全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

全能神の発表「神を知ることこそ、神を畏れ、悪を避ける道」

2017-11-18 14:30:19 | 全能神の発表

 

 誰もがを信じて生きる自らの生活を顧み、神を求めるにあたり神を真に理解しているか、真に把握しているか、そして真に神を知るに至っているか、様々な種類の人間に対し神がどのような姿勢で臨むかを知っているか、また神は自分にどのような業を施しているか、神は自分の行為を、それぞれどのように定義しているかを理解しているか確認する必要がある。あなたの隣にあり、あなたを進むべき道へと導き、あなたの運命を定め、あなたに必要なものを授ける神。よく考察してみた結果として、その神について、あなたは本当のところ、どの程度理解し、どの程度知っているであろうか。神があなたに対して毎日どのような業を施しているかを、あなたは知っているか。神のあらゆる業の根底となる原則と目的を、あなたは知っているか。神があなたをどのようにして導いているかを、あなたは知っているか。神がどのようにしてあなたに授けるかを、あなたは知っているか。神があなたを導く方法を、あなたは知っているか。神があなたから得たいと思っていること、そして神があなたの中で達成したいと思っている事柄を、あなたは知っているか。あなたが取る様々な姿勢に対して、神がどのような態度で臨むかを、あなたは知っているか。あなたが神に愛される人間であるかどうかを、あなたは知っているか。神の喜び、怒り、悲しみ、楽しみの根源と、その背後にある思いや考え、そしてその本質を、あなたは知っているか。究極的に、あなたが信じる神とはどのような存在であるかを、あなたは知っているか。このような問題は、あなたが全く理解できたことがないもの、考えたことのないものではないだろうか。神を信じることを追求する上で、神の言葉を真に体得すること、経験することで、あなたの神に関する誤解がとけたことは、かつてあるだろうか。あなたは、神の懲らしめ、鍛錬を受けた後に、真に神に従い、神を思うようになったことが、かつてあるだろうか。あなたは、あなたが神の刑罰と裁きを受けている時に、人間の反抗、人間のサタンのような本性を知り、神の聖さの片鱗を理解するようになったことは、かつてあるだろうか。神の言葉による導きと啓きによって、あなたが新たな人生観を得始めただろうか。あなたは、神から授かった試練のなかで、人間にとっての神の不可侵さや、神があなたに要求していること、いかにして神があなたを救っているかを感じてきただろうか。神に対して誤解するというのはどういうことか、そしてその誤解をとく方法を知らないのであれば、今まであなたには神との真の交わりが一切無く、神を全く理解していないか、少なくともあなたが神を理解したいと望んだことは一切ない、と言える。神の懲らしめと鍛錬が何かを知らないのであれば、神に従うこと、神を思うこととはどのようなことかを知らないこと、あるいは少なくとも神に従うこと、神を思うことがかつて無かったことは確実である。かつて神の刑罰と裁きを受けたことが無いのであれば、神の聖さとは何かを知らないこと、またそれ以上に、人間の反抗とは何かをよく知らないことは確実である。未だに正しい人生観あるいは人生の目的を持っておらず、自分の人生の将来について迷い、優柔不断で、前に進むことを躊躇さえしているのであれば、あなたが神の導きと啓きを真に受けていないことは確実であり、また神の言葉により備えられた、あるいは再び満たされたことも無いと言える。今まで神からの試練を通ったことが無いのであれば、人間にとっての神の不可侵さが何なのか、神があなたに要求していることは、究極的には何かについて理解していないし、ましてや、人間を経営し救う神の業とは究極的には何かを知らないことは、言うまでもない。ある者が何年間にわたり神を信じているかに関わらず、その者が神の言葉を経験することも認識することもかつて無かった場合、その者が救いへの道を歩んでいないこと、その者の神に対する信仰は実の無いものであること、そしてその者の神に関する認識が皆無であることは確実であり、またその者は神を畏れることとは何かについて、全く見当もついていないことは言うまでもない。

 神であるすべて、神が持っているすべて、神の本質、神の性質は、全て神の言葉の中で人間に知らしめられている。神の言葉を体験する時、人間が神の言葉を実行する過程において、神が述べている言葉の根底にある目的、神の言葉の根源と背景を理解し、意図されている効果を理解するようになる。こうした事柄は全て人類にとって、真理といのちを得て、神の心を認識し、性質が変えられ、神の支配と定めに従うようになるために、経験し、認識し、把握する必要があるものである。人間がこうしたことを経験し、認識し、把握すると、人間は同時に神を徐々に理解し、その時様々な程度で神に関する認識を獲得するようになる。この理解と認識は人間が想像したり構築したりした物事からではなく、むしろ人間が自分自身の内部で体得し、経験し、感じ、確かめた物事から生まれる。人間がこうした物事を自分自身の内部で体得し、経験し、感じ、確かめた後、初めて人間の神に関する認識が中身のあるものとなる。この時人間が得る認識が初めて現実的なものとなり、本物となり、正確なものとなる。そして神の言葉を体得し、経験し、感じ、確かめることにより神に関する真の理解と認識を得る過程が、まさしく人間と神との真の交わりとなるのである。こうした交わりのなかで、人間は神の心を真に理解し、深く知り、神であるすべてと神の持っているものすべてを理解し、知り、神の本質を真に理解し、知り、神の性質を徐々に理解し、知り、あらゆる創造物に対する神の支配という事実に対する真の確信と正しい定義に達し、神の身分と地位に対する本質的な理解と認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の神に関する考え方が徐々に変化し、何の根拠も無く神のことを想像しなくなり、すなわち神への疑念を勝手に膨らませたり、誤解したり、非難したりしなくなり、あるいは神を評価したり、疑ったりもしなくなる。結果として、人間の神との議論、神との抵触が減り、神に反抗することが減る。それとは逆に、人間が神を思い、神に従うことが大いに増え、神に対する畏敬は、より実際的で深遠なものとなる。こうした交わりのなかで、人間は真理の備えといのちのバプテスマを得るだけでなく、同時に神に関する真の認識を得る。こうした交わりのなかで、人間の性質が変えられて救いを得るだけでなく、同時に被造物の神を畏敬し礼拝する念が強くなる。こうした交わりの後、人間の神に対する信仰は、何も記されていない白紙の状態、あるいは甘い言葉だけの約束、盲目な追求や偶像化の形態では無くなる。またこうした交わりのみにより、人間のいのちが成熟に向かって日々成長し、人間の性質が次第に変えられ、神への信仰が段階的に漠然とした不確実なものから真に従い、神の心を思い、真に畏敬するものへと変化する。また人間は神を求める上で消極的立場から積極的立場へ、受け身の立場から能動的立場へと移行する。こうした交わりのみにより、人間は神に関して真の理解と把握、真の認識に達する。大部分の者が神と真に交わることが無いので、大部分の者にとって神に関する認識は理論的段階、文字の教理の段階に留まる。つまり、大部分の者は、神を信じてきた年月の長さを問わず、神を知ることに関する限り、初歩的段階から進歩せず、伝統的色合いと封建的迷信を伴う伝統的な形で敬意を表するに留まる。こうした者の神に関する認識が初歩段階に留まっているということは、神に関する認識が事実上不在であるということに等しい。人間による神の身分と地位の肯定とは別に、人間の神に対する信仰は未だに漠然とした不確実な状態にある。こうした状況において、人間は神に対する真の畏敬の念をどれほど持ち得ようか。

 神の存在をどれほど確信していようと、その確信は神に関する認識や神に対する畏敬の念に代わるものとはなり得ない。どれほど多く神の祝福と恵みを享受してきたとしても、そうした事は神に関する認識に代わるものとはなり得ない。どれほど喜んで神のために全てを捧げて費やしていようと、そうした事は神に関する認識に代わるものとはなり得ない。神の言葉に精通し、暗記していて反対から読み上げることさえ出来るかもしれないが、そうであったとしても、それが神に関する認識に代わるものとはなり得ない。神に付き従う意向がいかに強かったとしても、神との真の交わりや神の言葉を真に経験することが無かったとしたら、神に関する認識は皆無であるか、終わりのない幻想に過ぎない。たとえどこかで神とすれ違ったとしても、神と直接対面したとしても、神に関する認識は皆無であり、神への畏敬は実質の無い標語や理想に過ぎない。

神の言葉を日々読み、場合によっては代表的な言葉を、最も貴重な財産として注意深く覚えようとしたり、その上随所で神の言葉を説教して言葉という手段で他者に備えを与え、援助することさえする人々が大勢居る。この種の人々は、こうした行動が神や神の言葉に対して証しすることであり、神の道に従うものであると考えている。さらにこの種の人々は、こうした行動が神の言葉に従って生きることである、神の言葉を実生活に活かすことである、こうした行動により、神の称賛を得て、救われ、全き者とされると考えているのだ。しかるに、この種の人々は神の言葉を説教する一方で、実践では神の言葉に従うことも、あるいは神の言葉により示されているものに従うように努めることも、一切ない。この種の人々は、むしろ策略により他人からの敬愛と信頼を得て、自らの経営の中に入り、神の栄光をかすめ取るために神の言葉を用いている。この種の人々は、神の言葉を広めることにより得られる機会を利用して、神の働きと称賛を得ることを、むやみに願っている。この種の人々は神の言葉を説教する過程で神の称賛を得ることもできず、神の言葉を証しする過程で従うべき道を見いだすことも出来ず、神の言葉により他の人に霊的に与えたり助けたりする過程で自分たちに霊的に成長したり助けられたりすることもなく、これらの行動の過程で神を知ることもできず、真に神を畏れる心に目覚めることも無い。それだけでなく、それとは反対にこの種の人々の神に関する誤解が深くなる一方であり、神に対する不信感がつのるばかりであり、神に関する想像が膨らむばかりである。こうした状況のまま、何年の歳月が過ぎ去っていったことであろうか。この種の人々は、神の言葉に関する理論に裏付けられ、方向付けられて、水を得た魚のようであり、何の苦もなく問題を解決しているようだ。自分の人生の目的や使命を見出し、新しい命を得て救われ、神の言葉を歯切れ良く説明することで真理に辿り着き、神の心を理解し、神を知る方法を見出し、また神の言葉を説教する中で神と対面することがしばしばあるかのようである。さらに、この種の人々は、しばしば感極まって涙を流し、しばしば神の言葉にあるその「神」に導かれ、また神の心からのご配慮と優しいお心を常に理解していると同時に、人間に対する神の救いと経営を理解し、神の本質を知るにいたり、神の義なる性質を理解しているかのように見える。こうした事柄に基づき、この種の人々は、神の存在をより強く信じ、神の誉れについて熟知し、神の偉大さ、超越性をより深く理解しているように考えられる。この種の人々は、神の言葉に関する表面的理解に耽溺し、信仰が深まり、苦難に耐える不屈の精神が強まり、神に関する認識が深まっているかのように見えるかもしれない。この種の人々は、神の言葉を実際に体験するまでは、自分たちの神に関する認識や、神に関する考えは、すべて自分たち自身の願う想像と推測から生まれたものであることに、殆ど気付かない。この種の人々の信仰は、いかなる神の試練にも耐えず、この種の人々のいう霊性と背丈は、神の試練にも検分にも耐えることは無い。この種の人々の決意は、砂上の楼閣以外の何物でもなく、この種の人々の神に関する認識もまた、自分自身の空想による虚構にすぎない。事実、この種のいわば神の言葉に対して多くの努力をした人々は、真の信仰、真の服従、真の思いやり、あるいは真の神に対する認識とは何かを理解することが全くない。この種の人々は、理論、想像、知識、賜物、伝統、迷信、人類の道徳的価値観さえ採り上げ、それらを神への信仰や神を求めるための「投資資産」や「武器」に改変し、そしてついには神への信仰や神を求めるための基盤へと改変する。同時に、この種の人々はこうした資産と武器を取り上げ、神を知ること、また神による検分、試練、刑罰、裁きなどへの対策となる、魔法の護符へと作り替える。最終的に、この種の人々が蓄えたものは、信仰や忠義の迷信が深く染みわたり、空想的で怪奇で謎めいた事柄で満ちた、神に関する結論でしかなく、この種の人々が神に関して知り、神を定義する方法は、蒼天や、天の神のみを信じる人々と同じ型に嵌まったものである。一方で、神の実際、本質、性質、神であるすべてと神の持っているものすべてなど、真の神自身に関する事柄すべては、この種の人々の認識で把握出来ないことであり、全く無関係な、正反対の事柄となっている。こうして、この種の人々は、神の言葉による施しや育みにより生活しているにもかかわらず、神を畏れ、悪を避ける道を、本当にはたどることが出来ない。こうしたことは、この種の人々が神を全く知らず、また神と真に接する、あるいは交わったことがなく、したがってこの種の人々にとって、神との相互理解を達成することが不可能であるか、あるいは神を真に信仰し、神を求め、礼拝することを、自ら目覚めることができないことが、その真因である。彼らはこのように神の言葉を見なし、神をこのように見なす―そうした見方や態度により、この種の人々は努力の末に何も手に入れることが出来ず、また神を畏れ、悪を避ける道へと進むことが永遠に出来ずに絶望させられているのである。この種の人々が目指す目標と進んでいる方向性により、この種の人々は永遠に神の敵であること、永遠に救いを得られないことが示されている。

 ある者が長年にわたり神に従い続け、神の言葉による備えを長年享受してきた場合であって、この者による神の定義が、要するに偶像に服従してひれ伏す人々の定義と同じである場合、この者が神の言葉の実際を得ていないことが示されている。こうした状況の原因を調べると、この者は神の言葉の現実に入ったことが無く、そのために、神の言葉に含まれる実際、真理、神の心、そして人類に対する要求は、この者にとって全く無関係なものとなっていることが分かる。つまり、こうした者が神の言葉の表層について、いかに熱心に努力したとしても、全く無益である。なぜならば、この者が追求しているのは、単なる文字であり、したがってこの者が得るのも必然的に文字のみだからである。神の言葉は、外見上平易であるか難解であるかを問わず、人がいのちに入るには全て必要な真理であり、人間が霊と肉により生きることを可能にする命の泉である。神の言葉は、人間が生きてゆくために必要なことがら、日常生活を送るための教えと信条、救いを得るために進むべき道、目標、方向、神により造られた者としてもつべき真理の全て、そして神に服従し、神を礼拝する人間のあり方に関する真理の全てを与える。神の言葉は、人間が確実に生きることを保証するものであり、人間の日々のパンであり、人間が強くあり、立ち上がることを可能にする頑強な支えでもある。神の言葉には、人間が正常な人間性を生かし出すための真理、人間が堕落から解き放たれサタンの罠を避けるための真理、創造主が創造した人間に授けた、不断の教え、訓戒、励まし、慰めが豊富に含まれている。神の言葉は、肯定的な事柄のすべてを人間が理解するよう導き啓く指針となる光であり、正義のこと、善良で美しいことを生かし出し、獲得できるようになるとの保証であり、人、出来事、物事を評価する基準であり、また人間を救いと光の道へと導く道標である。人間は、神の言葉の実体験の中でのみ、真理といのちを与えられ、正常な人間性とは何か、有意義な生涯とは何か、本物の被造物の姿とは何か、神への真の服従とは何かを理解する。そうしてはじめて、人間がいかにして神を思うべきか、被造物の人間としての本分をいかにして成し遂げるか、真の人間らしさをいかにして身につけるかを理解するに至る。そうしてはじめて、真の信仰や真の礼拝とは何か、天と地と全てのものを支配する者は誰かを理解する。そして全ての創造主である者がいかにして万物を支配し、導き、備えを与えるかを理解する。人間は、神の言葉の実体験の中でのみ、全ての創造主がいかにして存在し、現れ、業を行うかを理解する…。神の言葉を実際に経験することなくして、人間には神の言葉と真理に関する真の認識と洞察が一切存在しない。そうした者は、まさしく生きる屍であり、抜け殻であり、また創造主に関する認識は、その者とは一切無関係である。神の目から見て、こうした者は神を信じたことも神に従ったことも一切無く、したがって神は、この者を信者とも従う者ともみなさず、本物の被造物とはみなさない。

 本物の被造物は創造主が誰か、人間はなぜ創造されたか、被造物としてどう責任を果たすか、万物の創造主をどう礼拝するかを知り、創造主の心、望み、要求を理解し、把握し、知り、大切に扱わなければならない。そして創造主の道、つまり神を畏れ、悪を避ける道に従って行わなければならない。

 神を畏れるとは、どのようなことか。またいかにして悪を避けるか。

 「神を畏れる」とは、得体の知れない恐れや恐怖でも、回避することでも距離をおくことでもなく、偶像化でも迷信でもない。「神を畏れる」とは、敬慕、尊敬、信頼、理解、思いやり、服従、奉献、愛情であり、無条件かつ不平を言わない礼拝、報い、帰服である。神に関する真の認識なくしては、人類に真の敬慕、真の信頼、真の理解、真の思いやりと服従は存在せず、単に不安や恐れ、疑い、誤解、回避、逃避があるのみである。神に関する真の認識なくしては、人類に真の奉献や報いはあり得ない。神に関する真の認識なくしては、人類に真の礼拝や帰服はあり得ず、盲目的な偶像化と迷信があるのみである。神に関する真の認識なくしては、人類は神の道に従って行動することも、神を畏れることも、悪を避けることもとうてい出来ない。反対に、人間のあらゆる活動や行為は神に対する不従順や反抗、中傷的なそしりや批判、そして真理や神の言葉の真の意味に反する悪行に満ちる。

 人類は真に神を信じてはじめて、どのように神に従うか、どう委ねるかが真に理解できる。真に神に信頼し、委ねてはじめて、人類は真の理解と把握を得る。神に関する真の理解は、神に対する真の思いやりが伴う。神に対する真の思いやりがあってはじめて、人類は真に服従の念を持つことができる。神に対する真の服従があってはじめて、人類は真に奉献することができる。神に対する真の奉献があってはじめて、人類は真に無条件で不満の無い報いを行うことができる。真の信頼と依存、真の理解と思いやり、真の服従、真の奉献と報いがあってはじめて、人類は神の性質と本質を真に知り、創造主の身分を知ることができる。創造主を真に知ってはじめて、人類は真の礼拝と帰服に自ら目覚めることができる。創造主に対する真の礼拝と帰服があってはじめて、人類はその悪行を避けること、つまり悪を避けることが本当にできるようになる。

 これらのことが「神を畏れ、悪を避ける」ことの全過程であり、またこれらが神を畏れ、悪を避けるということの内容の全体であり、神を畏れ、悪を避けるために避けて通れぬ道である。

 「神を畏れ、悪を避け」と神を知ることには、不可分の綿密な関連性があり、またその関連性は自明である。ある者が悪を避けたいならば、その者はまず神を真に畏れなければならない。神を真に畏れることを望む者は、まず神に関する真の認識を得なければならない。神に関する真の認識を得たいのであれば、まず神の言葉を体験し、神の言葉の現実に入り、神の懲らしめと鍛錬、刑罰と裁きを経験しなければならない。神の言葉を経験したいと望むのであれば、まず神の言葉と向き合い、神と向き合い、そして人、出来事、物事が係わるあらゆる環境で神の言葉を体験する機会を神に請い求めなければならない。神や神の言葉と向き合うことを望むのであれば、まず単純かつ誠実な心と、真理を受け入れる心の準備をし、苦しみを耐える意志、悪を避ける決意と勇気、本物の被造物になりたいという志を持つ必要がある…。このようにして、一歩ずつ前進すれば、神にますます近づき、心はますます純粋さを増し、自分の人生や生きる価値が、神に関わる知識とともに一層有意義で晴れやかなものとなってゆく。やがて、創造主はあなたにとって不可解なものでなく、隠された存在でもないと感じることができ、かつて創造主があなたの前から隠れていたことは一切無く、決してあなたから遠く離れた存在でもないと感じることができ、また、あなたが長い間待ちわびて思いを馳せるだけで決してあなたの感情が届くことはないというような存在ではなく、実際にあなたの左右にあって、あなたを守り、いのちに備えを与え、あなたの運命を決める者であると感じることができるであろう。彼は遠く離れた地平線の彼方に存在するのではなく、また雲の上に隠れている存在でもない。彼は、あなたのすぐ側にあり、あなたのすべてを支配し、あなたにあるすべてであり、あなたにある唯一の存在である。こうした神は、あなたが彼を心から愛すること、すがりつくこと、寄り添うこと、敬うことを許し、彼を失うことを恐れることを許し、あなたが彼を放棄することを望まず、彼に従わないことを望まず、彼を避けること、彼から遠ざかることを望まないようになることを許す。もはやあなたの望みは、彼を思い、彼に従い、彼が与えるすべてに報い、彼の支配に帰服することのみである。そしてあなたは彼に道を示され、授かり、見守られ、顧みられることを拒まなくなり、彼が命じること、定めることを拒まなくなる。あなたは、彼の右か左にすぐそばで歩み、自分にとって唯一のいのち、唯一の主、唯一の神として彼を受け入れることを望むのみである。

2014年8月18日


東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


聖霊の御言葉「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである 」

2017-11-16 14:19:16 | 全能神教会御言葉朗読

 

東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


全能神の発表「あなたは生かされたか」

2017-11-15 13:05:29 | 全能神の発表

 

 あなたが正常な人間性を持つ生き方を達成し、全き者にされたら、預言や玄義について話すことができなくても、人間の姿を生き、表しているのである。は人を造ったが、その後人はサタンによって堕落させられ、この堕落が人々を死人にしてしまった―したがってあなたが変われば、あなたは「死人」とは違うものになるだろう。人々の霊にいのちを与え、人々を再生させるのは神の言葉であり、霊が再生した時、人々は生かされる。死人について言及する時は、霊を持たない死体のこと、霊が死んでいる人々のことを指している。霊にいのちが与えられると、人々は生かされる。以前語られた聖者は生かされた人々、サタンの支配下にあったがサタンを打ち負かした人々のことだ。中国の選ばれた人々は、赤い大きな竜による非人道的な迫害や策略に耐えてきた。その結果、精神はひどく荒廃させられ、生きる勇気を少しも持たなくなった。したがって彼らの霊を目覚めさせるには彼らの本質から始めなければならない。本質の中で少しずつ彼らの霊を目覚めさせなければならない。いつか彼らが生かされたら、障害物は何もなくなり、すべては順調に進むことだろう。今のところ、これは相変わらず達成不可能である。ほとんどの人は死の環境をかなり含んだ状況下で暮らし、死の雰囲気に包まれており、欠けているものがあまりにも多い。一部の人の語る言葉には死が含まれており、行動には死が含まれており、彼らの生き方のほとんどすべてが死である。今日、人々が公に神について証しをしようとしても、この働きは失敗するであろう。なぜなら彼らはまだ完全には生かされていないし、あなたがたの中にはあまりにも多くの死人がいるからだ。今日、一部の人は、「なぜ神はしるしや奇跡を示さないのだろう、異邦人たちの間に神の働きをすばやく広めることができるのに」と言う。死人は神について証しをすることはできない。生きている者はできるが、今日ほとんどの人は死んでいる、あまりにも多くの人が死に覆われて生きており、サタンの支配下にあり、勝利を得ることができない―それなら彼らは神について証しをすることなどできるだろうか。彼らは福音の働きを広げることなどできるだろうか。

 暗黒の影響を受けて生きている人々は死の中に生きているのであり、サタンにとりつかれている。神に救われなければ、そして神の裁きを受け、刑罰を受けなければ、人々は死の権勢から逃れることはできず、生きている人にはなれない。こうした死人たちは神について証しをすることはできないし、神に用いられることもない。いわんや神の国に入ることはできない。神は死人ではなく、生きている人々の証しを望んでおり、死人ではなく生きている人々が神のために働くことを要求する。死人とは神に反対し、神に逆らう人々であり、霊が麻痺し、神の言葉を理解しない人々、真理を実践することはなく、神への忠誠心など微塵もない人々、サタンの支配下に住み、サタンに利用されている人々のことだ。死人は真理に反対し、神に逆らい、卑しく、卑劣で、悪意があり、野卑で、悪賢く、陰険であることで自らを表す。そのような人々はたとえ神の言葉を飲食しても、神の言葉の通りに生きることはできない。彼らは生きているが、歩いている死体、呼吸している死人である。死人は神を満足させることは全くできないし、いわんや神に完全に従うことなどできない。神をだまし、冒涜し、裏切ることしかできない。死人の生き方すべてはサタンの性質を明らかにする。もし、人々が生きている存在になり、神への証しとなり、神に認められることを望むならば、神の救いを受け入れ、神の裁きと刑罰に喜んで服従し、神による手入れや取り扱いを喜んで受け入れなければならない。そうして初めて神が要求した真理のすべてを実行することができ、そうして初めて神の救いを得て、本当に生きた存在になることができる。生きている人々は神によって救われ、神から裁きと刑罰を受けており、進んで神に身を捧げ、喜んで命を投げ出し、全人生を神に捧げるだろう。生きている人々が神について証しをする時にだけサタンを辱めることができ、生きている人々だけが神の福音の働きを広めることができ、生きている人々だけが神の心にかなう人であり、生きている人々だけが本当の人である。元々神によって造られた人は生きていたが、サタンに堕落させられたために死の中で暮らし、サタンの支配下で暮らすようになり、そこで人は霊のない死人となり、神に反対する敵となり、サタンの道具になり、サタンの囚われ人になってしまった。神が造った、生きている人々はすべて死人となり、そこで神は証しを失い、神が造って息を吹き込んだ唯一の人類を失ってしまった。もし神が証しを奪い返し、その手で造られたがサタンに奪われた人々を奪い返そうとするならば、神は彼らが生きている人々になるようによみがえらせなければならないし、神の光の中で生きるように彼らを奪い返さなければならない。死人とは霊を持たず、極端に無感覚で、神に反対する人々のことである。そのうえ、彼らは神を知らない。こうした人々は神に従う意思など微塵も持たず、神に反抗し、反対するだけであり、忠誠心はまったくない。生きている人々は霊が再生しており、神に従うことを知っており、神に忠実な人々である。彼らは真理と証しを所有しており、これらの人々だけが神の家で神に喜ばれる。神は生かされる人々、神の救いを見ることができる人々、神に忠実になることができ、進んで神を探し求める人々、神の受肉を信じる人々、神の出現を信じる人々を救う。生かされる人もいれば、生かされない人もいるが、それはその人の本性が救われるか否かによる。神の言葉を数多く聞いているにもかかわらず神の心を理解しない人が大勢いる。彼らは神の言葉を数多く聞いているが、実行することができず、真理の通りに生きることができず、さらに神の働きを故意に邪魔したりもする。彼らは神のために働くことは全くできず、神に何も捧げることができず、そのうえこっそり教会のお金を使ったり、ただで神の家で食べたりする。これらの人々はみな救われない死人である。神は自身の働きの中にいるすべての人々を救うが、一部の人は神の救いが得られない。神の救いが得られるのはほんの少数だけである。なぜならばほとんどの人はあまりにも死んでおり、救うことができないほど死んでいて、完全にサタンに利用されており、本質的に、あまりにも悪意がある。それら少数の人々も完全に神に従うことができたわけではなかった。彼らは最初から完全に神に忠実な人々、あるいは最初から神に最大限の愛をもっている人々ではなかった。それどころか、彼らは神の征服の働きのために神に従うようになったのであり、神の究極の愛のために神を見ているのであり、神の義である性質のために彼らの性質に変化が見られるのであり、実際的で、正常である神の働きのために彼らは神を知るようになる。神のこの働きがなければ、これらの人々がどんなに善良でも、まだサタンに属しており、まだ死に属しており、まだ死んでいるだろう。今日これらの人々が神の救いを得られるのは、彼らが進んで神と協力するからだということに尽きる。

 神に忠実であるために、生きている人々は神に得られ、神の約束の中で暮らし、神に反対するために死人は神から嫌われ、拒絶され、神の懲罰と呪いの中で暮らすことになる。これが神の義の性質であり、いかなる人もそれを変えることはできない。自ら探し求めることにより、人々は神の承認を得て、光の中に暮らす。ずるい企みのために、人々は神に呪われ、懲罰の中に身を落とす。悪行のために、人々は神に懲罰される。神に対する切望と忠誠心により、人々は神の祝福を受ける。神は義である。生きている人々を祝福し、死人を呪うので、死人は永遠に死の中にとどまり、決して神の光の中では暮らさない。神はその国に生きている人々を連れていき、生きている人々を祝福へと連れて行き、永久に神の傍らに置く。死人は永遠の死に陥れられる。死人は神による破壊の対象であり、永遠にサタンに属する。神は誰も不当に扱わない。心から神を探し求める人はすべて必ず神の家に留まり、神に逆らい、神に味方しない人は必ず神の懲罰を受けながら過ごすことになるだろう。おそらくあなたは受肉した神の働きについて確信がないだろう―しかしいつか神の肉は直接人の終末を定めなく、その代わりに神の霊が人の終着点を定め、その時人々は神の肉と霊は一つのものであること、神の肉は間違いを犯すことはなく、神の霊はより一層間違いを犯すことがないことを知るだろう。最終的に神は必ず一人も余分はなく、一人も欠かすことはなく、生かされる者はだれでも神の国に連れていき、生かされなかった死人はサタンの洞窟に追いやられるであろう。

 

 

私たちについて:全能神教会の紹介

もっと知る:  [東方閃電全能神教会はどうやって創られたでしょうか  

 


全能神御言葉カード

2017-11-13 15:48:13 | 全能神御言葉カード

 

 

 

東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


いのちの経験の讃美歌MV「宇宙と空間が神をたたえている」

2017-11-11 13:22:04 | 全能神教会いのちの経験の讃美歌

宇宙と空間がをたたえている

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ああ…たくさんの歌が聞こえ、優美な踊りが見える
宇宙も地球の果ても、波の逆巻く海となる
ああ…天は新しく、地も新しい
果てしのない宇宙の広がりは賛美に満ちている
私たちは叫び、喜んで跳び上がる
山々は互いに連なり、海も互いに連なる
全ての兄弟姉妹が心を結び合わせる
私たちは絶えず神をたたえる
被造物たちは神を愛する
喜びながら神の御座の前に進み出て、共に神を礼拝する
神は、シオンでご自分の義と聖さを全宇宙に示された
神のすべての民は喜びに輝き
神をほめたたえ続ける
神をほめたたえよ!
ほめたたえよ!神をほめたたえよ!
ハレルヤ!ほめたたえよ!神をほめたたえよ!

||
神を愛するためには、私たちは眞の心を示さなければならない
全能神をたたえるために歌え、踊れ
ほめたたえる声は天にとどろく
男も女も、老人も若者もお互いに遅れないように調子を合わせて
あなたは歌い、私が踊る
あなたが歌えば、私が合わせる
恥ずべきは悪魔、赤い大きな竜だ
ほめたたえられるべきは全能なる真の神の御名
私たちは皆、神の御業を通して神の義なるご性質を見た
全能神は義なるお方だ
すべての神の民は、神の栄光の御顔を見た
私たちは皆神を愛し満足させることを追い求める
永久に神に忠誠を尽くすことをいとわず
ほめたたえよ!神をほめたたえよ!
ハレルヤ!ほめたたえよ!神をほめたたえよ!
来たれ! 神をほめたたえよう!
来たれ! 神をほめたたえよう!
ここに来たれ!
山々は喜び、海の波も笑っている
全ての国々の全ての民族が幸せそうに笑っている
なんという新しい光景なのか!
新しい天、新しい地、新しい国!
私たちは踊り、神のための新しい歌を歌う
なんという嬉しさ!
神のために、もっとも美しい歌を歌い
もっとも優雅な踊りが神に捧げられる
誠実な心が神の前に差し出され、真の心が神に捧げられる
神の全ての民とすべてのものが、とこしえに神をほめたたえる
ああ、シオンは栄光に満ちている!
神の御住まいは光の筋で輝いている
その栄光は、全宇宙に輝きわたる
全能神は微笑みを浮かべ
御座に座り、全宇宙の新しい姿をご覧になる へい!
『 小羊に従って新しい歌を歌おう』より


 

私たちについて:全能神教会の紹介

 

世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しまょう



全能神の発表「千年神の国は訪れた」

2017-11-09 12:22:35 | 全能神の発表

 

 この一団にが行おうとしている働きが何かを見ただろうか。千年神の国にあってもなお、人々は神の言葉に従い続けなければならず、将来も神の言葉はカナンの良き地で人々の生活を直接導くであろうと神は言った。モーセが荒野にいたとき、神は直接彼に指示を与え、語った。神は天から人々に食べ物と水とマナを送り与えた。今日も神は人々を楽しませるため自ら食べ物と飲み物を送り与え、人々を罰するため自ら呪いをかけてきた。このように、神の仕事のすべての段階は神によって自ら行われる。今日、人々は事が発生するのを待ち望み、しるしや奇跡を見ようとするが、そのような人々はすべて打ち捨てられる可能性がある。神の働きは益々現実となっているからである。神が天から降りてきたことを知る人は誰もおらず、神が天から食べ物や栄養となるものを与えてきたことに人々はまだ気づいていないが、神は実際に存在するのであり、人々が思い描く千年神の国の熱い場面にも、神が自ら言葉を発する。これは事実であり、これだけが神とともに地上において支配することである。地上における神との支配は肉を意味する。肉でないものは地上にはないので、第三の天に至ろうとする人々の努力は無駄になる。いつか全宇宙が神に戻るとき、全宇宙における神の仕事の中心は神の声に従うだろう。他の場所では、ある人は電話で、ある人は飛行機に乗って、ある人は船で海を渡って、またある人はレーザーを使って、神の言葉を受け取るだろう。誰もがあこがれ、渇望し、神に近づき、神の前に集い、そして神を礼拝する。これらすべてが神の業なのである。覚えておきなさい。神がどこかよそで新しく始めることは決してない。神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真理の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が飢えており、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。その時神の業は明らかにされ、神は栄光を受けるだろう。宇宙の至るところにいるすべての人々が、この目立つ訳でもない「人」を礼拝するだろう。これは神の栄光の日ではないだろうか。いつか、老牧師たちは生ける水の泉から、水を求めて電報を送ることだろう。彼らは年老いているが、彼らが軽蔑しているこの人に礼拝をしにやってくるだろう。彼らは口々に認め、心の中で信頼するだろう。これはしるしと不思議ではないだろうか。神の国全体が喜ぶ時は、神の栄光の日であり、あなたがたのもとに来て神のよい知らせを受ける者は皆神によって祝福され、これらの国々とこれらの民は神によって祝福され、顧みられるだろう。将来の方向性は次のようになる。神の口から言葉を得る者は、地上で歩むべき道を知っており、ビジネスマンや科学者であれ、あるいは教育者や実業家であれ、神の言葉のない人には、一歩進むことさえ難しく、彼らは真理の道を求めることを余儀なくされるだろう。「真理とともに世界中を歩む。真理なくしては、どこへも至ることができない。」とはこのことを言うのである。事実はこうである。神は道(つまり神の言葉全て)で全宇宙を支配し、人を治め征服する。人は常に、神が仕事を行う方法に大きな変化が起きることを望んでいる。率直に表現すれば、神が人を支配するのは言葉を通してであり、あなたは望むと望まざるとを問わず、神の言うこと[a]をしなければならない。これは客観的な事実であり、すべてのものはこれに従わなければならず、避けることのできない、全ての者に知られた事実である。

 聖霊は人々に感覚を与える。神の言葉を読んだ後、人々の心は揺るがず、安らかであり、一方で神の言葉を得ない人は虚しさを感じる。これは神の言葉の力である。人々はそれらを読まねばならない。読後には豊かになり、それなしにはいられなくなる。それはアヘンを摂取するようなものである。それは人々に力を与え、それなしではどうしようもなくなり、力を失う。これは今日の人々の傾向である。神の言葉を読むことは人々に力を与える。それらを読まなければ、物憂げになるが、読後は直ちに病床から立ち上がる。これが地上の神(言葉)の支配の意味である。一部の人は立ち去りたがるか、神の仕事にうんざりしている。それでも彼らが神の言葉から離れることはできない。人々がどれほど弱いものであっても、神の言葉に頼って生きなくてはならず、どんなに反抗的であっても、あえて神の言葉から離れようとはしない。神の言葉が真にその力を示すときは、神が支配し、権力を行使するときであり、このように神は働く。結局のところこれが、神が仕事を行う手段であり、誰もそれを離れることはできない。神の言葉は無数の家に広がり、すべてのものに知られるようになり、このようにしてのみ、神の仕事は全宇宙に広まる。つまり、神の仕事を全宇宙に広げるには、神の言葉が広められなければならない。神の栄光の日に、神の言葉はその力と権威を示すだろう。大昔から今日まで神が語ってきたすべての言葉が成就し、現実となるだろう。このようにして、栄光は地上で神のものとなる。つまり、神の言葉が地上で全てを支配するようになる。悪者はすべて神の口から語られる言葉によって罰せられ、義人はすべて神の口から語られる言葉によって祝福され、すべては神の口から語られる言葉によって確立され成就される。また、いかなるしるしや不思議も神は示さない。すべてが言葉によって成就され、言葉は事実を生み出すだろう。老若男女問わず、地上にいるすべての人は神の言葉を称え、神の言葉の下にすべての人々は服従する。神の言葉は肉に現れ、地上の人々の目に、鮮明にかつ真実味を持って映るだろう。これが、言葉が肉になるということである。神は主に、「言葉が肉になる」という事実を成し遂げるために地上に来た。つまり神は、言葉が肉から発されるよう来たのである(神が直接天から語った旧約のモーセの時代とは異なる)。その後、千年神の国時代にはそれぞれの言葉が成就し、人々の目に見える事実になり、少しの誤りもなく、おのおのの目で見ることになるだろう。これが、神の受肉の最高の意味である。つまり霊の働きは、肉体を通し、言葉を通して達成される。これは「言葉が肉になる」および「言葉の肉における出現」の真の意味である。神だけが霊の意志を語ることができ、肉における神のみが霊に代わって語ることができる。神の言葉は受肉した神の中に明らかにされ、他のすべての人はそれらによって導かれる。誰もそこから外れることはなく、みなこの範囲内にいる。これらの言葉からのみ、人々は知ることができる。このようにして得ない者たちは、天から発せられた言葉を得られると夢みている。これが、受肉した神に示された権威であり、全ての人を信服させるのである。最も優れた専門家や牧師でさえ、これらの言葉を話すことはできない。彼らはこれらに従わねばならず、誰も新しく始めることはできない。神は言葉によって全宇宙を征服する。肉体によってではなく、受肉した神の口から発せられた言葉によって、全宇宙にいるすべての人を征服する。これこそ、言葉は肉となるということであり、これこそ、肉における言葉の出現である。人々には、神がさほど多くの仕事をなしていないように見えるかもしれないが、神が言葉を発するだけで、人々は完全に納得し、圧倒される。事実がなければ、人々は喚き散らし、神の言葉があれば、彼らは沈黙する。神はこの事を必ず成し遂げるだろう。地上への言葉の到来を達成することは、神の長年に亘る計画だからである。実際、わたしが説明する必要はない。地上に千年神の国が到来したということは、地上に神の言葉が到来したということである。天国から新しいエルサレムが降るのは神の言葉の到来であり、神の言葉が人の中で生き、人間の全ての行動や内なる考えの全てに伴うことである。これはまた、神が成し遂げる事実であり、千年神の国の素晴らしい光景である。これは神によって定められた計画である。言葉は千年の間地上に現れ、それらは神のすべての業を明らかにし、地上での神のすべての仕事を完了させ、それにより人類のこの段階は終わりを迎える。

注:

a. 原文は「神の言うこと」を省略している。

 

 

東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


全能神教会御言葉讃美歌「彼こそが私達の神」

2017-11-06 16:44:12 | 全能神教会御言葉讃美歌

 

彼こそが私達の


彼だけが知っている

私達の考えを
他の誰にも 私達 人の
本質を理解することはできない
反抗し 堕落していく
私達を裁けない
天の神に代わって語ってくれたり
私達へと 働きかけできない
彼をのぞいては
神の知恵や
尊厳 権威も彼だけが持つ
神の性質 神の持つものや
神そのものさえ彼から溢れ出す
彼だけが 私達に
光を与えてくれる
他の誰も正しい道を
指し示してくれない
創造以来 明かされていない奥義も
明らかにできる
サタンの束縛 堕落から
私達を救う者はいない
そこから救いだしてくれる者
彼だけがそれをできるのだ

私達の意思が目を覚まし 霊が蘇る
彼は何と か弱い凡人だろう
私達共に暮らしながら
長くのけ者にされてきた
彼は何者なのか?そう、彼こそが、
私達待ち望んだイエス·キリスト
彼だ!彼こそが私達の神
真理であり、道であり、命である!
彼だ!彼こそが私達の神
真理であり、道であり、命である!
確かに真理であり、
道であり、命である!
彼こそが、私達の待ち望んだ
イエス·キリスト
彼だ!彼こそが私達の神
真理であり、道であり、命である!
彼だ!彼こそが私達の神
真理であり、道であり、命である!
確かに真理であり、
道であり、命である!

『言葉は肉において現れる』より



東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


全能神の発表「今日の神の働きを知る人々のみ神に仕えることができる」

2017-11-05 13:37:47 | 全能神の発表

 

 

 神の証しとなり、大きな赤い竜を辱めるためには、原則に立つ必要があり、また条件を満たすことが必要だ。それは、心から神を愛し、そして神の言葉に入ること。もしあなたが神の言葉に入らない限り、サタンを辱めることはできない。あなたのいのちの成長を通して、あなたが大きな赤い竜を断ち切り、それに完全な侮辱を与えてこそ、大きな赤い竜を真に辱めることができる。神の言葉を実践しようとすればするほど、あなたの神への愛の証明と大きな赤い竜の嫌悪は大きくなる。神の言葉に従えば従うほど、あなたの真理を求める証明は大きくなる。神の言葉を求めない人々は、いのちのない人々である。そのような人々は神の言葉の外にあり、宗教に属している。真に神を信じている人々は神の言葉を飲食することを通して、さらに深い神の言葉に関わる認識を持つ。あなたが神の言葉を求めないのであれば、あなたは神の言葉を真に飲食することはできず、もしあなたが神の言葉に関わる認識を全く持っていなければ、神を証しすることも神を満足させることも全くできない。

 あなたが神を信じることにおいて、どのように神を知ればよいだろうか。あなたは、逸脱したり誤った考えを持つことなく、今日の神の言葉と働きに基づいて神を知るようにするべきであり、何よりまず最初に神の働きを知るべきである。これが神を知る基礎である。神の言葉の純粋な理解に欠けるこれらの誤った考えはみな宗教的な観念であり、逸脱や誤りの理解である。宗教家は、過去に受け入れた神の言葉を取って、今日の神の言葉と照合する技術に長けている。過去に聖霊により照らされたことにしがみついたまま今日の神に仕えようとするなら、あなたの奉仕は妨害をもたらし、あなたの行いは古いただの宗教儀式となってしまう。もしあなたが、神に仕える者は外から見てへりくだっていて辛抱強くなければならないと信じているとしたら、そしてもしあなたがそのような認識を今日実践しているとしたら、そのような認識は宗教的な観念であり、そのような行いは偽善的である。「宗教的な観念」とは、(以前に神が語った言葉の理解や直接聖霊により示されたことも含む)古くすたれたものを指しており、それらを今日実行しているとすれば、それらは神の働きの妨害であり、人への益をもたらさない。もし人がそのような内に持つ宗教的な観念に属するものを一掃することができなければ、それらは人の神への奉仕における大きな妨げとなってしまう。宗教的な観念を持った人々は、聖霊の働きの歩みについていくことができず、一歩そしてまた一歩と遅れをとる。これらの宗教的な観念が人を非常にひとりよがりで傲慢にしてしまうからだ。神は自らが語ったことや過去に行ったことについて郷愁を感じず、それがすたれたものであれば、それを取り除く。まことにあなたは、あなたの観念を手放すことができていないだろうか。あなたがもし過去に神が語った言葉にすがりついているならば、神の働きを知っているということの証明になるだろうか。もしあなたが今日の聖霊の光を受け入れることができず、過去の光にしがみついているとしたら、神の足跡に従っている証明になるだろうか。あなたはまだ宗教的な観念を手放すことができていないだろうか。もしそうであれば、あなたは神に反対する人になってしまうだろう。

 もし人が宗教的な観念を手放すことができれば、その人は自分の考えを使って今日の神の言葉や働きを測ったりせず、直接従うだろう。今日の神の働きが過去のものと明らかに違っていても、あなたは過去の目から離れて今日の神の働きに直接従うことができる。神が過去にどのように働いたかということに関係なく、今日の神の働きに最も重きをおくべきだということを知っていれば、あなたは自分の観念を捨て、神に従い、そして神の働きと言葉に従い神の足跡についていくことのできる人である。これにより、あなたは真に神に従う人になれるのである。あなたは神の働きを分析したり、調査したりしない。それはあたかも、神が過去に行った働きを忘れ、同様にあなたも忘れたかのようである。今日は今日であり、過去は過去であり、神自身が過去に行ったことを忘れるのであるから、あなたがそれに浸っていてはならない。そうしてはじめて、あなたは神に完全に従う人になり、完全に宗教的な観念を手放したと言える。

 神の働きにはいつも新しい進展があるので、新しい働きもあり、当然すたれた古い働きも出てくる。この古い働きと新しい働きは矛盾するものではなく、補い合うもので、そのひとつひとつが過去から続いている。新しい働きがあるから、もちろん、古い働きは取り除かれなければならない。たとえば、長年培われてきた慣習や習慣的に用いられてきた言い習わしは、人の長年の経験や教えと相まって、人に様々な観念を形成した。人によるそのような観念の形成にとってさらに好都合なことに、古代から長年伝えられた理論の広まりに結びついて、神が自分の顔や本来の性質をまだ完全には現していないということである。人が神を信じる過程において、様々な観念の影響を受けながら、神に対する様々な観念的な認識は形成され、改革され続けてきたと言える。結果として多くの宗教家が神の敵となった。人々の宗教的な観念が強ければ強いほど、彼らは神に反対し、神の敵となってしまう。神の働きはいつも新しく古いものは何ひとつなく、規定を形成することも一切なく、むしろ、継続的により大きい範囲で変化したり小さい範囲で変化したりして、新しくなっている。この働きは神自身の本来の性質の表れである。それはまた神の働きの本来の原則でもあり、神が自身の経営を成し遂げる手段の一つである。もし神がこの方法で働かないとしたら、人は変わらず、神を知ることもできず、サタンに打ち勝つこともないだろう。よって、神の働きのうちに一貫性のないように見える変化は継続して起きるが、それは実は周期的なものである。しかしながら、人が神を信じる方法は全く異なり、古い、親しみのある教えや制度にしがみつき、より古いものを心地よく感じる。石のように頑固で愚かな人の考えが、どのようにして神の計り知れない新しい働きと言葉を受け入れることができようか。人はいつも新しく古いことが一切ない神を嫌悪する。人が好むのは、白髪で不動のアンティーク化した古い神のみだ。つまり、神と人はそれぞれ「好み」が異なるため、人は神の敵となった。このような不一致は、神が新しい働きをして六千年近く経った今日も多く存在する。もう救済策もないのだ。それは人の頑なさが原因かもしれないし、人間にとっての神の行政の不可侵さ故かもしれない。だが神自身はまた完成されていない経営の働きを隣に誰もいないかのように進める中、これらの宗教家たちは未だに、古くさい本や書物にすがっている。これらの不一致により、神と人とが敵対し、和解不可能にさえなっているが、神はそのような不一致は存在しないかのように、目を留めることはない。しかし、人は自分の信仰や観念にしがみつき、それらを手放すことはない。それでもひとつはっきりとしていることは、人が自分自身の姿勢を変えることがなくても、神の足はいつも動いており、神はいつも状況によって自分の姿勢を変え、最終的に戦わずして打ち負かされるのは人間である。一方、神は敗北した全ての敵にとっての最大の敵であり、打ち負かされた人々およびまだ打ち負かされていない人々の勝者でもある。誰が神と競って勝利できるのか。人の観念の多くは神の働きが発端となるため、神から来るように思える。しかし、だからと言って神は人を赦すことはしないし、神の働きから外れた「神のため」の多くの製品を次々製造する人を褒めそやすことももちろんしない。かえって、神は人の観念や古くて敬虔な信仰にとても嫌気がさしていて、これらの観念が生まれた日さえも無視する。人の観念は人により広まり、それらの源は人の考えや心であり、神からのものではなく、サタンによるものであるため、神はこれらの観念を自分の働きによるものだとは全く認めない。神は自身の働きを、古いものや死んだものではなく、常に新しく生き生きとしたものとしたいと考えている。人が拠りどころとすべきものとして神が与えたものは、時代や期間に合わせて分かれているもので、永遠に続くものや不変のものではない。彼は人を生かし新たにさせる神であり、人を死に至らせ古くする悪魔ではないからである。あなたがたはまだこれが分からないか。あなたは心を閉ざしているので、神について持っている観念を手放すことができない。神の働きが理不尽だからでも、非人道的だからでもなく、無論神がいつも「自分の義務に怠慢」だからなどでもない。あなたが自分自身の観念を手放すことができないのは、あなたが不従順すぎるからであり、そしてあなたが神の被造物らしさが少しもないからで、神があなたに対してことを難しくしているのではない。全てはあなたに起因していて、神とは関係ない。全ての苦しみと不幸は人が引き起こしている。神の意思はいつも良いもので、神はあなたに自らの観念を作り出してほしいと願ってはいない。あなたに時代とともに変わり、新しくなってほしいと願っている。それでもあなたは大切なことを見極めることができず、いつも調査か分析をしている。神があなたに対してことを難しくしているのではなく、あなたが神への畏れを持っておらず、あなたがあまりに不従順なだけだ。ごく小さな被造物が、神に与えられたもののほんの一部を取り、それを使って神を攻撃しようとする。これは人の不従順ではないのか。人は神の前で自分の考えを表明する資格などはなく、価値のない、悪臭を伴う腐った格言を思いつくままに持ち出して来る資格などないと言える。カビの生えたような観念など尚更持ち出せない。それらはもっと価値のないことではないか。

 真に神に仕える人は、神の心にかない、神に用いられるのにふさわしく、宗教的な観念を手放すことのできる人である。もしあなたが神の言葉を飲食することで豊かな実りを得たいと望むなら、あなたの宗教的観念を手放さなければならない。神に仕えたいと望むなら、まず宗教的な観念を手放すことが尚更必要で、そしてあなたのすること全てにおいて神の言葉に従うことが必要である。これは神に仕える人に必要とされることである。あなたがこのことを認識として持っていないなら、仕え始めてすぐに妨害や障害を引き起こしてしまう。そしてもしあなたが自分自身の観念にすがり続けるなら、神に打ち倒されることは避けられず、二度と起き上がれないだろう。現在を例えに説明しよう。今日の多くの言葉や働きは聖書に沿っておらず、神が以前に行った働きにも沿っていない。だからもしあなたが従うことを望まなければ、いつでも倒れてしまう。もしあなたが神の心に従って仕えたいと願うなら、まず宗教的な観念を手放し、自らの見解を正さなければならない。これから語られることの多くは過去に語られたことと相いれず、もし今、あなたに従う意志が欠けていれば、あなたはこの先歩み続けることはできない。神が働く方法のひとつがあなたのうちに根付いていてそれを一切手放すことができなければ、その方法はあなたの宗教的な観念となってしまう。もし神であることがどのようなことか、その全てがあなたの中に根付いていれば、あなたは真理を得ており、神の言葉と真理があなたのいのちになれるのなら、あなたはもはや神への観念を持っていない。神に関わる真の認識を持つ人々は観念を持たず、規定に固執することはない。

以下の質問を通して自らを問いただし、目覚めさせなさい。

1. あなたの内にある認識が神への奉仕の妨げになっているか。

2. あなたの日常生活にはどれだけの宗教的な行為があるか。外面的な謙虚さとしか言えないのであれば、あなたはいのちにおいて成長し、成熟したといえるか。

3. あなたは神の言葉を飲食する時、宗教的な観念を手放すことができるか。

4. あなたが祈るとき、宗教的な儀式に関係なく祈ることができるか。

5. あなたは神に用いられるにふさわしい人か。

6. あなたの神に関する認識は、どれくらい宗教的な観念を含んでいるか。


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