全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

神の裁きと刑罰に神の出現を見る

2020-11-20 23:15:10 | 全能神の発表

    わたしたちは主イエス・キリストに従う他の何億人もの人々と同じように、聖書の律法と戒めに従い、主イエス・キリストの豊かな恵みを受け、主イエス・キリストの名の下に集まり、祈り、賛美し、仕えている。そしてそのすべてを、主の配慮と加護のもとに行っている。わたしたちは時として弱くなったり強くなったりするが、自分たちの行動はすべて主の教えに従うものだと信じている。そのため言うまでもなく、自分たちが天の父の旨を行う道にいることも信じている。わたしたちは主イエスの再来を、その輝かしい降臨を待ち望んでおり、また地上における生活の終わりと、神の国の出現、そしてヨハネの黙示録に預言されたことすべての実現を待ち望んでいる。主が到来して災害をもたらし、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ、そして主に従いその再臨を歓迎するすべての人々を天に引き上げ主にまみえさせる。このことを考えるたび、わたしたちは感動し、感謝の念に包まれずにはいられない。わたしたちはこの世の終わりに生まれ、幸運にも主の到来を目の当たりにすることができるのだ、と。わたしたちは迫害の苦難を受けているが、その見返りに「永遠の重い栄光をあふれるばかりに」受けたのだ。何と素晴らしい祝福だろうか。こうしたすべての切なる願いと主から授けられた恵みによって、わたしたちは油断なく祈るようになり、より熱心に集っている。おそらく来年、明日、さらには誰も予想できないほど早く、主は突然やって来て、主をひたすら待ち望んできた人々のもとに現れることだろう。主の出現を目の当たりにする最初の集団となるために、天に引き上げられる人々の一員となるために、みな遅れを取らないよう、我先にと争っている。わたしたちはその日のために、どんな犠牲もいとわず、すべてを捧げてきた。仕事をあきらめた者や家族を捨てた者もいるし、結婚を放棄した者、蓄えをすべて寄付した者もいる。何という無私無欲の献身であろう。このような誠意と忠誠心は、過去の聖徒たちさえも超えるに違いない。主は自らが好む者に恵みを与え、自らが好む者に憐れみをかけるので、わたしたちの献身や支出はもうずっと前から神の目に留まっているものとわたしたちは信じている。そしてわたしたちの心を込めた祈りも神の耳に届いているし、主がわたしたちの献身に報いてくださるものと信じている。しかも神はこの世を造る前からすでにわたしたちを慈しんでおり、誰もわたしたちに与えられた神の祝福や約束を取り上げることはできない。わたしたちはみな未来のための計画を立てており、当然のこととして献身や支出を、天に引き上げられ主に会うための逆手、または見返りの元手としている。さらには何のためらいもなく、わたしたちが将来玉座に就き、すべての国とすべての民族を支配する、あるいは王として治めるものと考えている。わたしたちはこれらのことをすべて、当然の、当たり前に期待されるものと捉えているのである。

    わたしたちは主イエスに逆らうすべての人々を軽蔑しており、彼らは皆最終的に滅ぼされることになる。一体誰が彼らに、主イエスが救い主であることを信じるなと言ったのか。もちろんわたしたちは主イエスに習って、世の人々に対し思いやりを持つときもある。彼らは理解していないのであり、わたしたちは寛容になって彼らを許すべきなのだ。わたしたちの行いはすべて聖書の言葉に従っている。聖書と一致しないものはすべて邪教であり、異端だからである。このような信念はわたしたち一人一人の心の中に深く根付いている。わたしたちの主は聖書の中にあり、聖書から離れなければ、主からも離れることはない。この原則に忠実であれば、わたしたちは救われるのだ。わたしたちは互いに励まし合い支え合っており、集まる時はいつでも、わたしたちの言動のすべてが主の旨に適い主に受け入れてもらえることを願っている。過酷な環境の中でも、わたしたちの心は喜びに満ちている。これほど簡単に手に届く祝福のことを思えば、棚上げにできないものなどあるだろうか。手放しがたいものなどあるだろうか。これらはすべて言うまでもないことであり、すべては神の目に注意深く見守られている。掃きだめから引き上げられたこの一握りの貧しい者であるわたしたちは、主イエスのすべての信奉者たちと同様に、天に引き上げられること、祝福を受けること、そしてすべての国を治めることを夢見ている。わたしたちの堕落は神の目の前にさらけ出されており、わたしたちの欲望と貪欲さは神の目から見れば罪に定められている。それでもこうしたことはみなごく普通に、ごく論理的に起こることなので、わたしたちの誰も自分の切望が正しいかどうかなどと疑問を持たないし、ましてや誰一人自分の固守しているすべてのことの的確さを疑いもしない。誰が神の旨を知ることができるというのだろう。人が歩いているのは一体どんな道なのか、わたしたちは探すことも調べることも知らず、ましてや尋ねようとする関心などない。なぜならわたしたちが気にしているのは、自分たちが天に引き上げられるかどうか、祝福が受けられるかどうか、天の国には自分の居場所があるかどうか、いのちの川の水といのちの木の果実の分け前にあずかれるかどうかということだけだからである。わたしたちはこれらを得るために主を信じ、主に従っているのではないのか。わたしたちの罪は赦され、わたしたちは悔い改めて、苦き杯から飲み、十字架を背負った。わたしたちの払った代価を主が受け入れないなどと誰が言えるだろう。わたしたちが油を十分準備していなかったなどと誰が言えるだろう。わたしたちはあの愚かな乙女にも、捨てられた者の一人にもなりたくない。しかもわたしたちはしばしば神に祈り、偽キリストに騙されないようにと主に求めている。それは、聖書に次のようにあるからだ。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」(マタイによる福音書 24:23-24)。わたしたちは皆こうした聖書の言葉を記憶に刻み、すべて諳んじていて、それらを貴重な宝であり、いのちであり、救われ天上に引き上げられるかどうかを決める信用状だと考えているのだ。

    何千年もの間、生者はその願望や夢を携えて亡くなっていったが、その人たちが天の国へ行ったのかどうかについて、誰一人本当に知る者はない。死者は戻って来るが、過去に起こったことはすべて忘れてしまい、依然として先人の教えや歩んだ道に従っている。このためどれほど月日が経とうとも、主イエスが、神が、わたしたちのすることをすべて本当に受け入れてくれるかどうかは誰にもわからない。わたしたちはただ一つの結果を待ち望み、これから起こるすべてのことを想像するだけだ。しかし神は沈黙を守り通しており、人間の前には一切姿を現さず、言葉を発することもない。だからわたしたちは聖書に従いしるしに基づいて、自らの意思で神の旨と性質を判断している。わたしたちは今では神の沈黙に慣れてしまい、自分たちの行動が正しいか間違っているかの判断を自らの見方で測ることに慣れてしまった。そして神のわたしたちに対する要求ではなく、自分の知識、観念、道徳的倫理に依存することに慣れてしまった。神の恵みを享受することに慣れてしまい、神の助けが必要な時にいつでも神が与えてくれることに慣れてしまった。さらに神に向かって両手を伸ばしてあらゆるものを求め、神にあれこれ指図することに慣れてしまい、ただ規則を守るだけで、聖霊の導きに注意を払わないことにも慣れてしまった。そしてそれ以上に、自分自身が自分の主人である日々に慣れてしまった。わたしたちはこのようにして、一度も直接会ったことがない神を信じている。神の性質とはどんなものか、神が所有するものと神そのものとはどんなものか、神はどのような姿をしているのか、神が現れたときわたしたちはそれが神だとわかるだろうか、などという疑問はどれも重要ではない。重要なのは、神がわたしたちの心の中にいるということと、わたしたちが皆神を待ち望んでいるということであり、わたしたちは神の姿をこうだああだと想像できるだけで十分なのだ。わたしたちは自分の信仰を評価し、自分の霊性を大切にしている。わたしたちはすべてを不潔なものと見なし、すべてのものを踏みつけていく。わたしたちは栄光なる主を信じる者なので、その旅路がいかに長く困難であろうとも、いかなる苦難と危険に晒されようとも、わたしたちが主に従って行くとき、わたしたちの歩みを止めることができるものは何もない。「いのちの水の川は、水晶のように輝き、神と小羊の御座から出ていた。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する」(ヨハネの黙示録 22:1-5)。この言葉を唱えるたびに、わたしたちの胸は無限の喜びと満足感に満たされ、目からは涙が溢れ出る。主がわたしたちを選ばれたことに感謝し、主の恵みに感謝する。わたしたちは神からこの世で百倍もの報いを受け、来世では永遠の命を与えられている。もし神に今死になさいと言われれば、わたしたちは一言の文句も言わずそうするだろう。ああ主よ、どうぞ早く来てください。わたしたちがどれほどあなたを待ち焦がれており、あなたのためにすべてを捨てたかをご覧になって、もう一分も、一秒も遅らせないでください。

    神は沈黙しており、わたしたちの前に姿を現したことはないが、神の働きは止むことがない。神は全世界を見渡し、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神はその経営を計画に従ってゆっくりと慎重に行っており、それは静かに、特に劇的な効果も見せず進行しているが、神の歩みは一歩一歩進んでますます人類に近付き、神の裁きの座は電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座がわたしたちのもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげるライオンのように、聖霊がわたしたちのもとにやって来る。神は知恵であり、義であり、威厳である。神は権威を持ち、愛と憐れみに満ちて、そっとわたしたちの間にやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰もその到来を歓迎せず、その上誰も神がこれからしようとしていることを知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神はわたしたちの間に、普通の人のように、信仰者の中で最も取るに足らない者として、平凡な一信者として生きている。彼には独自の探求や目標があり、そのうえ神は普通の人にない神性を備えている。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も彼と人の本質の違いを見抜いていない。彼はわたしたちの目には取るに足らない一人の信者にしか見えないので、わたしたちはのびのびと恐れることもなく彼と共に暮らしている。彼はわたしたちの一挙一動を観察しており、わたしたちの考えや思いつきはすべて彼の前に晒されている。誰一人として彼の存在に関心を持たないし、その役割を想像もせず、さらに誰一人その正体をかけらも疑っていない。わたしたちはただ自分たちの活動を継続している。あたかも彼はわたしたちと何の関係もないとでも言うように。

    聖霊がたまたまこの人を「通して」一編の言葉を発することもあり、それは非常に意外なことのように感じられるが、わたしたちはそれを神の発した声だと認め、すぐに神から出たものとして受け入れる。なぜならその言葉を誰が発しようと、それが聖霊から出たものである限り、わたしたちはそれを受け入れるべきであり、否定することはできないからだ。次の発言はわたしを通して出されるかもしれないし、あなたや他の誰かを通して出されるかもしれない。それが誰かにかかわらず、すべては神の恵みなのだ。しかしそれが誰であろうと、その人を崇拝してはならない。何があろうとその人が神であることはありえないし、そのようなごく普通の人を選んでわたしたちの神とすることは決してできないからだ。わたしたちの神は非常に偉大でかつ尊い。どうしてそのような取るに足らない人が、神に代わることなどできようか。さらにわたしたちは神が天の国へと連れ戻しに来てくれるのを待っているのに、そのような重大で困難な仕事を、そんな取るに足らない人がどうして行えようか。主が再臨するとすれば、白い雲の上に乗って現れるはずなのだから、すべての人がそうとわかるだろう。それは何と荘厳なことだろうか。どうして神が平凡な人々の中にそっと隠れていることなどできるだろうか。

    しかしそれでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが、わたしたちを救うための新しい働きを行っているのだ。この人は何も説明することはないし、来た理由を話すこともなく、ただ意図した働きを整然と、自分の計画に沿って行うだけだ。彼はますます頻繁に声を発し、発言するようになる。それには慰め、励まし、忠告、警告から非難や懲らしめまで、そして穏やかで優しい口調から荒々しく荘厳な言葉までがあり、そのすべてが人に憐れみを与えるとともに戦慄を植え付ける。彼が言うことはすべて、わたしたちの奥深くに隠された秘密に命中し、彼の言葉はわたしたちの心を突き刺し、霊を突き刺し、わたしたちを耐え難いほど恥じ入らせ、どこに隠れてよいかもわからない気持ちにさせる。そしてわたしたちは、この人物の心の中にいる神は本当にわたしたちを愛しているのか、一体何をしようとしているのか、と疑い始める。もしかすると、このような痛みに耐えなければ天国に引き上げてもらえないのだろうか。これからの行く先や未来の運命について、わたしたちは頭の中で思案する。しかしそれでもまだ、誰一人として神がすでに肉体を得てわたしたちの間で働きを行っているとは考えない。神はこれほど長い間わたしたちと共にあり、これほど多くの言葉をわたしたちに直接語ってきたが、わたしたちはいまだにそのような平凡な人を、自分たちの未来の神だとは認めたがらないし、ましてその取るに足らない人に自分たちの未来と運命の支配を任せたりはしたがらないのだ。わたしたちは彼から絶えることのないいのちの水を享受し、彼を通して神と向き合いながら生活している。しかしわたしたちは天におられる主イエスの恵みには感謝するが、神性を備えたこの普通の人の気持ちには一切注意を払ってこなかった。それでも彼は従来どおり、肉体の中に隠れて謙虚に仕事を続け、その心の奥に秘めた思いを表し、人類が彼を拒んでも気にもならないかのように、また人の稚拙さも無知も永久に赦すかのように、自らに対する人々の非礼をひたすら黙認しているのだ。

    わたしたちが知らないうちに、この取るに足らない人はわたしたちを神の働きの一つ一つの段階へと導き入れてきた。わたしたちは数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。そして神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と憐れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じられるようになり、神の愛らしさを目のあたりにし、そして人類を救いたいという神の強い願いを目にする。この平凡な人の言葉を通して、わたしたちは神の性質と本質を知り、神の旨を理解し、人の本性と本質をも理解し、そして救いへの道と完全にされるための方法を知るようになる。その言葉はわたしたちを「死なせ」、そして「生き返らせる」。その言葉は安らぎを与えるが、同時に罪悪感と恩義の念でわたしたちを苦しめもする。その言葉はわたしたちに喜びと平安をもたらすが、同時に無限の痛みも与える。わたしたちは時にその手によって屠られる子羊のようであり、時に最愛のもののようにその慈愛を享受する。また時にはその人の敵のようでもあり、そのまなざしのもとでその怒りによって焼かれ灰にされる。わたしたちは彼に救われる人類であり、その目から見れば蛆であり、彼が日夜見つけ出そうと躍起になっている迷える子羊である。彼はわたしたちに対して慈悲深くもあれば、わたしたちを軽蔑もし、立ち上がらせ、慰め励まし、導き啓き、懲らしめ鍛え、そして呪いさえする。彼は昼も夜もわたしたちのことを心配し続け、昼も夜も守り気遣い、決してわたしたちの傍を離れず、わたしたちのためにその心血を注ぎ、いかなる代償も払う。この小さく平凡な肉体から出る言葉の中に、わたしたちは神のすべてを享受し、神がわたしたちに授けた終着点を見た。それにもかかわらず、わたしたちの心の中ではいまだ虚栄心のために問題が起こっており、このような人を積極的に神として受け入れることができずにいる。この人はわたしたちに非常に多くのマナや、多くの喜びを与えたが、それでもわたしたちの心の内にある主の地位を奪うことはできない。わたしたちはこの人の特別な身分と地位を嫌々ながらに尊重しているのだ。彼が口を開いて、わたしたちに自分が神であることを認めるよう求めない限り、わたしたちは決してこの人を、まもなく現れる、そして同時にすでにわたしたちのもとで長く働いてきた神として、あえて認めようとはしないだろう。

    神は発話を続けており、さまざまな方法や観点を用いてわたしたちにすべきことを諭しつつ、同時にその心を言葉に表している。その言葉は生命力を備えており、わたしたちが歩むべき道を示し、真理とは何かを理解させてくれる。わたしたちはその言葉に引き付けられるようになり、その口調や話し方に注目し始め、そして無意識のうちに、この目立たない人の心の内に関心を持ち始める。彼はわたしたちのために労力を惜しまず、わたしたちのために睡眠も食欲もなくし、涙を流し溜息をつき、病気に苦しみ、わたしたちの終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、わたしたちが鈍感で反抗的なために心から涙と血を流している。このような存在とその持てるものは、普通の人を超えているし、堕落した人間が誰一人として所有も到達もできないものだ。彼には普通の人にない寛容と忍耐力が備わっており、その愛はどんな被造物にも授けられていないものなのだ。わたしたちの考えをすべて知り、わたしたちの本性や本質をこれほど明確かつ完全に把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神の代理としてわたしたちに語りかけ、このように人の間で働くことができる人は、この人をおいて他にいない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を授けられている者はいない。この人からは神の性質、そして神が所有するものと神そのものが、あますところなく発せられている。この人以外に、わたしたちに道を示し、光をもたらせる者はいない。彼以外に、神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に、わたしたちをサタンの束縛やわたしたち自身の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を体現しており、神の心の奥底にあるものと訓戒、そして全人類に対する神の裁きの言葉を表現している。彼は新しい時代、新しい紀元を開き、新たな天地と新しい働きを到来させた。そして彼はわたしたちに希望をもたらし、漠然としていたわたしたちの生活を終わらせ、わたしたちの全存在をもって救済の道を完全にはっきりと目撃できるようにしてくれたのである。彼はわたしたちの存在そのものを征服し、わたしたちの心を得た。その瞬間からわたしたちの心は覚醒しており、霊が生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、わたしたちの間で生きながらも長年わたしたちに拒否され続けてきたこの人こそ、わたしたちが寝ても覚めても絶えず思い続け、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。そう、彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそがわたしたちの神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼はわたしたちがもう一度生きて光を見ることができるようにし、わたしたちの心のさまよいを止めてくれたのだ。わたしたちは神の家に戻り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔を目撃し、行く手にある道をこの目で見た。今、わたしたちの心は完全に彼に征服され、わたしたちはもはや彼が誰であるか疑わず、もうその働きや言葉に反抗することもなく、ただ彼の前にひれ伏す。わたしたちの望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、そして神の恵みとわたしたちへの愛に報い、神の指揮と采配に従い、神の働きに協力し、できる限りのことをして神に委ねられた物事を全うすることだけである。

    神に征服されることは、まるで武術の試合のようだ。

    神の言葉は一つ一つがわたしたちの急所を突き、わたしたちは傷ついて恐れに満たされる。彼はわたしたちの観念、想像、そして堕落した性質を明らかにする。すべての言動から思いや考えの一つ一つに至るまで、わたしたちの本性や本質は神の言葉によって暴かれ、わたしたちは恥じ入って隠れる場所もなく恐怖に震える。彼はわたしたちの行動、目的や意図、そして自分でも知らなかった堕落した性質まで、すべてを一つ一つわたしたちに示すので、わたしたちは自分の惨めな不完全さをすべて見せつけられ、さらには完全に打ち負かされた気持ちになる。彼はわたしたちが反抗したことを裁き、神を冒涜し糾弾したことでわたしたちを罰し、自分たちが神の目には何の贖うべき特徴もなく、生きたサタンなのだと思わせる。希望は粉々にされ、もはや神に理不尽な要求をしたり希望を持ったりすることもなくなり、夢さえも一夜にして消え去る。これは誰一人として想像できず、受け入れることもできない事実である。一瞬のうちにわたしたちは内面の平静を失い、この先どうやって進んでいけばいいのか、どうやって信仰を保っていけばいいのかわらなくなる。まるで自分たちの信仰が振り出しに戻ったような、そして主イエスに会ったことも、主を知ったこともないような気持ちになる。目の前のすべてがわたしたちを困惑させ、ためらいに揺れ動かせる。わたしたちは狼狽し、落胆し、そして心の奥深くには抑えきれない憤りと屈辱感がくすぶる。そしてうっぷんを晴らそう、出口を探そうと試み、さらには救い主イエスを待ち続けて、イエスに胸中を打ち明けようとさえ考える。表面上は平静で、高慢でも謙虚でもないように見えるときもあるが、心の中ではこれまでにない喪失感に苛まれている。ときには表面上いつになく冷静に見えることもあるかもしれないが、内面は荒れた海原のような苦悶に揺れている。彼の裁きと刑罰はわたしたちの希望と夢のすべてを奪い去ったため、贅沢な望みはみな葬られ、わたしたちはあの人が救い主で自分たちを救えるのだと信じようとはしなくなる。彼の裁きと刑罰はわたしたちと神との間に亀裂を作り、それがあまりに深いため、誰も渡ろうとさえしない。彼の裁きと刑罰によって、わたしたちは人生で初めてこれほどの挫折と屈辱を感じたのである。わたしたちは彼の裁きと刑罰によって、神の名誉と人の侮辱に対する神の不寛容とを本当に認識した。それと比べると、わたしたちはなんと卑しく汚れていることか。彼の裁きと刑罰によってわたしたちは初めて、いかに自分たちが傲慢で尊大か、いかに人間が決して神と同等でなく、神と肩を並べることは一切ないかを悟らされた。神の裁きと刑罰によって、わたしたちはもうこのような堕落した性質の中で生きることをやめたい、この本性と本質からできるだけ早く抜け出したい、神にとって卑劣で不快なものでなくなりたいと願うようになった。神の裁きと刑罰によって、わたしたちは神の言葉に喜んで従うようになり、もはや神の指揮と采配に反抗することはなくなった。彼の裁きと刑罰によって、わたしたちは生き残ることを再び切望するようになり、喜んで彼を救い主として受け入れるようになった……。わたしたちは征服の働きから抜け出し、地獄から、死の影の谷から抜け出した……。全能神はわたしたちを、この一群の人々を得たのだ。神はサタンに打ち勝ち、数多くの敵を打ち倒したのだ。

    わたしたちはごく普通の、堕落したサタンのような性質を持つ人々の集団であり、有史以前から神によって運命の定められた、神が掃きだめからすくい上げた貧しい者たちである。わたしたちはかつて神を拒絶し糾弾したが、今は神に征服されている。わたしたちは神からいのちを受け、永遠のいのちの道を授かった。地球上のどこにいても、どのような迫害や試練を受けても、全能神の救いから離れることはできない。なぜなら神こそわたしたちの創造主であり、唯一の贖い主であるからだ。

    神の愛は泉の水のように溢れ出て、あなたやわたしや他の人々に、そして真理を求め神の出現を待ち望むすべての人々に与えられる。

    終わりのない昼夜の入れ替わりの中で月がいつも太陽を追っているように、神の働きは決して止むことがなく、あなたやわたしや他の人々に、そして神の足跡に従い神の裁きと刑罰を受け入れるすべての人々に行われる。

2010年3月23日

 


 

    これは『全能神教会の起源と発展』の序文として神が記した文章である。


キリストは真理をもって裁きの働きを行う

2020-11-19 20:21:28 | 全能神の発表

    終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。

    過去に語られた神の家から始まる裁きにおいて、その言葉における「裁き」は、終わりの日に神の玉座の前に来る人々に神が今日下す裁きのことを指す。終わりの日が来ると、神は天に大きな卓を据え、その上には白い布が広げられ、すべての人が地にひざまずいているところに神が大きな玉座につき、一人ひとりの人間の罪を明らかにし、それにより人々が天国に昇るか火と硫黄の湖に落とされるかを決める、というような超自然的な想像の表象を信じている人もおそらくいるであろう。人が何を想像しようと、それが神の働きの本質を変えることはできない。人の想像は人の思考の産物以外の何物でもない。それは人の脳に由来し、人が見たり聞いたりしてきたものからまとめられ組み合わされたものである。したがって、その生み出された表象がいかに輝かしくとも、それは線描でしかなく、神の働きの計画にとって代わることはできない、とわたしは言うのである。結局のところ、人間はサタンにより堕落させられてきている。それならば、どうして人間に神の考えを推し量ることができるというのか。神による裁きの働きを何かとてつもないものであると人間は考える。神自身が裁きの働きを行うのだから、その働きは最大規模のもので、人間には到底理解できず、それは天のいたるところに鳴り響き、地を揺らすはずである、と人間は考える。そうでなければどうしてそれが神による裁きの働きでありえようか。それは裁きの働きであるので、神が働くときは特に堂々と威厳があるはずで、裁かれている人々は涙を流して叫び、ひざまずいて憐れみを請うているはずであると人間は考える。そのよう情景は確かに荘厳で、深く感情を揺さぶるであろう……誰もが、神の裁きの働きを奇跡的なものであると想像する。しかし、あなたは知っているのか。神はずいぶん前より人間のあいだでの裁きの働きを開始したというのに、あなたは惰眠を貪っていることを。神の裁きの働きが正式に始まったとあなたが思うときには、神はすでに天と地を新しくしていることを。その時、おそらくあなたは人生の意味をちょうど理解しだしたばかりかもしれないが、神の容赦ない懲罰の働きが、まだ深く眠りについているあなたを地獄に落とす。その時になって初めて、神の裁きの働きがすでに終わったことにあなたは突然気づくのである。

   わたしたちの貴重な時間を無駄使いして、このような忌まわしく嫌な話題についてこれ以上話すのをやめよう。代わりに、裁きを構成するものについて話そう。「裁き」という言葉を出せば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉をあなたはたぶん思い浮かべるであろう。それらの言葉の厳しさにもかかわらず、それらは神の人への裁きの言葉ではなく、様々な環境において、つまり異なる脈絡において、神が語った言葉にすぎなかった。それらの言葉は、終わりの日にキリストが人間を裁きつつ語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。もしこれらの真理を重要視せず、いかにこれらを避けるかや、いかにこれらとは関わりのない新しい逃げ道を見つけるかしか考えないのならば、あなたは恐ろしい罪人である、とわたしは言う。もしあなたに神への信仰があるのに、神の真理や心を追い求めず、またあなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている人であり、偉大な白い玉座から逃げる操り人形であり裏切り者である、とわたしは言う。神の目から逃げる反抗的な者を神は誰一人として容赦しない。そのような人はさらに重い懲罰を受ける。裁かれるために神の前に来る人で、その上、清められた人は、永遠に神の国に住むであろう。もちろん、これは未来に属することである。

    裁きの働きは神自身の働きであり、そのため当然ながら神が自ら行わなければならない。それは神の代わりに人が行うことはできない。裁きとは真理を用いて人類を征服することなので、この働きを人のあいだで行うために神が受肉した姿で再び現れることは疑いもないことである。つまり、終わりの日においてキリストは真理を用いて世界各地の人々を教え、彼らにあらゆる真理を知らしめる。これが神の裁きの働きである。多くの人が神の二度目の受肉について悪い感情をもっている。神が肉になって裁きの働きを行うということが、人には信じがたいからである。それでも、しばしば神の働きは人間の期待を大幅に超え、それは人間の知性には受け入れがたいことである、とわたしは言わなければならない。人は地上の蛆虫にすぎないが、一方、神は宇宙を満たす至高の存在であるからである。人の知性は蛆虫だけを生み出す汚水のたまった穴に似ており、一方、神の考えが指揮する働きの各段階は神の知恵の結晶である。人は常に神に敵対しようとしているが、これに関しては、最後に誰が負けるかは自明であると、わたしは言う。自分のことを黄金より価値があるとみなさないように、わたしはあなたがたに強く勧める。もし他人が神の裁きを受け入れられるなら、なぜあなたにはできないのか。他人に比べてあなたはどれくらい高位に立っているのか。もし他人が真理の前に頭を垂れるなら、なぜあなたもそうできないのか。神の働きには止めることのできない勢いがある。あなたのした「貢献」のためだけに神は裁きの働きを繰り返すことはなく、このような好機を逃すと、あなたは無限の後悔に苛まれることになる。もしわたしの言葉を信じないなら、天空にある偉大な白い玉座があなたに裁きを下すのを待っていなさい。すべてのイスラエル人がイエスを拒絶し否定したが、それでもイエスによる人類の贖罪の事実は全宇宙に、そして地の果てまで広がったことを知らなければならない。これは神がはるか昔に成し遂げた一つの現実ではないのか。もしイエスがあなたを天に引き上げるのをいまだに待っているのなら、あなたは頑固な一片の枯れ木[a]であるとわたしは言う。あなたのような真理に不忠実で、祝福だけを求める偽信者をイエスは認めることはない。それどころか、何万年も焼かれるように火の湖にあなたを投げ入れるのに憐れみを一切見せないであろう。

   裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを邪悪な霊がはびこる場所に引き渡し、邪悪な霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽働き人の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らは悪人の言いなりとなり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残るが、大半は奉仕をする規準にさえ達しない人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの結晶となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、未信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない。

脚注

a.「一片の枯れ木」とは、中国語の慣用句で、「救いがたい」という意味である。


日々の神の御言葉「堕落した人類には受肉した神による救いの方が必要である」抜粋82

2020-11-18 09:04:50 | 日々の神の御言葉

 

 受肉した神の働きは最も意義深い。それは働きについての語りであり、最終的に働きを終えるのは受肉した神であって、霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く──例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が証しする受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行っている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。今日の受肉した神は、終わりの日にすべての人間を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そしてすべての性質が神の総体である。神の肉の働きの規模は限られているし、直接全宇宙に関わるものではないが、裁きの働きの本質は、全人類への直接の裁きである。これは、中国に対してのみ行われるものではなく、少数の人々にだけ下るものでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表し、受肉した体の作業範囲の働きを終えた後、神は直ちにこの働きを全宇宙に広める。イエスの福音がそのよみがえりと昇天の後で全宇宙に広まったように。それが霊の働きであろうと、肉の働きであろうと、限られた範囲だけにおいて実行される働きであるが、全宇宙への働きを代表するものなのである。終わりの日、神は受肉した体で働くために出現する。そして、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神なのである。霊でも肉体でも、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人間を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたものであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうしたことばについての観念をもっているが、受肉した神がすべての人間を裁き、征服することは誰も否定できない。それがどう評価されるかに関わらず、事実は、結局のところ、事実である。誰ひとり、「働きは神によるが、その肉体は神ではない」とは言えない。これは戯言だ。この働きは、受肉した神以外にはできないものだからだ。この業はすでに完了しているのだから、この働きの後で神が再び人間を裁く働きをすることはあり得ない。二度目の受肉した神はその経営(救いの)計画全体のすべての働きをすでに完成したのだから、神の働きの第四段階というものはない。裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。 『言葉は肉において現れる』より引用

 


神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを与えられる

2020-11-17 22:34:27 | キリストの言葉

    ニネベの人々に対する神の心の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていなかった。むしろ、その変化は純粋な怒りから、純粋な寛容さへの変化であった。これが神の本質の真の明示である。神は、業に関して優柔不断であることや躊躇することが決して無い。神の業の根底にある原理と目的はすべて明白かつ明瞭であり、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいない。つまり、神の本質には、闇や邪悪が一切含まれていない。神はニネベの人々の悪の行いが神の目に留まったため、ニネベの人々に対して怒ったが、この時、神の怒りは神の本質に由来するものであった。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容さが与えられた時に神が明示したのも、神自身の本質であった。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因するものであった。この変化の間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わることが無かった。人々が邪悪な行動を取ったり、神を侵害したりした場合、神はその人々に神の怒りを伝える。人々が真に悔い改めた場合、神の心は変化し、神の怒りは静まる。人々が神に対して頑なに反抗を続けた場合、神の怒りは静まることが無い。神の怒りは徐々にこうした人々を侵し、最終的に人々は滅びを迎える。これが神の性質の本質である。神が示しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の心底にある神に対する行動と姿勢が、神の性質の明示により何が現されるかを左右する。神がある者に対して継続して怒っている場合、その者の心は間違い無く神に反抗している。その者は決して悔い改めず、神の前でひれ伏すこともなく、神に対して真の信仰を持つこともなかったため、その者は決して神の憐れみと寛容さを得ることはできない。ある者が神の労りや憐れみ、寛容さを頻繁に与えられている場合、その者には間違い無く神に対する真の信仰があり、その者の心は神に反抗していない。その者はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、しばしば神の鍛錬がその者にくだったとしても、その者に神の怒りがくだることは無い。

    こうした簡潔な説明により、人々は神の心、神の本質の現実性を理解し、神の怒りと神の心の変化には理由があるという事実を理解することができるようになる。神が怒っていた時と、神が心を変えた時の際だった対比により、神の怒りと寛容さという神の本質の2つの側面には大きな隔たりや対比があると人々は考えるが、ニネベの人々の悔い改めに対する神の姿勢により、人々は、神の真の性質について、それらとは別の側面を理解することができるようになる。神の御心の変化により、人間は神の憐れみと慈愛の真実を理解し、神の本質の真の明示を理解することができる。人類は、神の憐れみと慈愛が単なる神話でも虚構でも無いということを、認める他は無い。それは、その時点での神の感情、神の心の変化は真実であり、神はまさしく憐れみと寛容さを再び人類に対して与えたからである。

ニネベの人々は、心からの真の悔い改めにより神の憐れみを獲得し、滅びの運命が変えられた

    神の心の変化と怒りには、何かしら矛盾点があったであろうか。無論、矛盾は存在しない。それは、特にその時の神の寛容さには、理由があったからである。それは、どのような理由であろうか。その理由は、聖書に記されている。聖書には、「おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」とある。

     この「悪い道」は、数件の悪業では無く、人々の背後にある邪悪の原因を指す。「悪い道を離れる」とは、ニネベの人々が二度とそうした行為をしない、ということである。つまり、ニネベの人々は、その後二度と悪の道で行動せず、ニネベの人々の行動の方法、原因、目的、意図、原理が、すべて変わり、ニネベの人々は、自分達の心の楽しみと幸福をもたらすためにそのような方法や原理を二度と使用しない、ということである。「その手にある強暴を離れよ」の「離れ」とは、過去を破棄し、捨て去り、完全に断ち切って、二度と戻らないことを意味する。ニネベの人々が不法を手の中から捨て去ったというのは、ニネベの人々の真の悔い改めを現しているに等しい。神はニネベの人々の外観とともに、心も観察していた。神がニネベの人々の心に、異論の余地のない真の悔い改めを確認し、またニネベの人々が悪の道を離れ、手から不法を捨て去ったことを確認した時、神は心を変えた。つまり、ニネベの人々の行動、振る舞いと行動方法、そして真の罪の告白と悔い改めが神の心、意図に変化をもたらし、神は自身の決断を撤回してニネベの人々に罰を与えず、ニネベの人々を滅ぼさないことにした。したがって、ニネベの人々は、滅びではない結末を迎えることが出来た。ニネベの人々は自分達の命を取り戻すと同時に、神の憐れみと寛容さを獲得し、この時点で、神は自身の怒りも撤回した。『言葉は肉において現れる』より

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神は、ニネベの人々の心の底からの真摯な悔い改めを確認した

2020-11-16 18:01:10 | キリストの言葉

ヤーウェの警告に対するニネベとソドムの反応の明らかな相違点

    滅びる、とは何を意味するであろうか。言葉通りに解釈すれば、消滅するということである。しかし、どのようにして消滅するであろうか。一体誰が町全体を滅びさせることができようか。当然、そのようなことは人間には不可能である。ニネベの人々は愚かではなかったので、この宣告を聞いてすぐに、その旨を理解した。ニネベの人々は、その宣告が神から伝えられたものであること、神が業を行うつもりであること、自分達の邪悪さがヤーウェ神の怒りに触れ、その怒りが自分達に対するもので、程なくしてニネベの町も自分達も滅ぼされるであろうことを理解した。ヤーウェ神の警告に対し、ニネベの人々はどのように行動したであろうか。聖書では、王から一般人まで、ニネベの人々の反応が詳細に記載されている。聖句には、「そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、『人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。…』とある。

   ヤーウェ神の宣告を聞いた後、ニネベの人々はソドムの人々が見せた態度とは正反対の態度を取った。ソドムの人々は、何の躊躇もなく、神に反抗し、邪悪を重ねたが、ニネベの人々は、この宣告を聞いた後、それを無視することも、それに反抗することも無く、神を信じ、断食を命じた。ここで「信じ」、とは何を意味するであろうか。言葉自体は、信仰と服従を意味する。ニネベの人々が実際に取った行動で説明すれば、ニネベの人々は、神は言葉通りの業を行うことが可能であり、またその通り実行することを信じ、悔い改めることを望んだ、という意味である。ニネベの人々は喫緊の災いに瀕して恐れを感じていたであろうか。ニネベの人々が恐れたのは、信仰のためである。ニネベの人々の信仰と恐れは、何によって証明することが出来るであろうか。それは聖句にある通りである。すなわち、「断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。」つまり、ニネベの人々には真の信仰があり、その信仰から恐れが生まれ、その結果として、断食と粗布の着用が行われた。ニネベの人々は、こうして悔い改めの開始を示した。ソドムの人々とは全く対照的に、ニネベの人々は神に反抗しなかっただけでなく、自分達の行動により悔い改めを明示した。無論、これはニネベの一般人だけでなく、王も例外ではなかった。

ニネベの王の悔い改めがヤーウェ神のニネベに対する称賛を獲得した

    このうわさを聞いたニネベの王は、王座から立ち上がって王衣から荒布に着替え、灰の中に座った。そして王は、町の人々全員に対し、全員何一つ口にしてはならない、そして家畜、羊、牛も飲食してはならない、と宣言した。人間も家畜も同様に粗布を身にまとっていた。人々は熱心に神に懇願した。また王は、各人が悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ、と宣言した。こうした行動から判断すれば、ニネベの王は心から悔い改めを示していた。王座から立ち上がり、礼服から粗布に着替え、灰の中に座るという、王が取った一連の行動は、人々に対してニネベの王が王という身分を投げだし、一般人と同様に粗布をまとっていたことを伝えた。これは、ヤーウェ神の宣告を聞いたニネベの王が王位を継続し、その手で邪悪や不法を続けることは無く、むしろ王の権威を捨て、ヤーウェ神の前で悔い改めた、ということを示すものである。この時、ニネベの王は、王として悔い改めていたのではなく、普通の一信者として神の前で罪を告白し、悔い改めた。その上、王は、王に倣って、ヤーウェ神の前で自分の罪を告白して悔い改めることを町全体に命じた。その上、聖句にあるとおり、どのように悔い改めるかについて、王には具体的な計画があった。すなわち「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。…ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。」と命じた。町を支配する存在として、王には最高の地位と権力があり、全てが王の意のままであった。ヤーウェ神の宣言を聞いた王は、それを無視したり、自分だけが悔い改めて罪の告白をしたりすることもできたはずである。王は、町の人々が悔い改めるか如何について、完全に気に留めずにいることも出来たはずである。しかし、ニネベの王は、そのような行動を一切とらなかった。王は、王座から立ち上がり、粗布を身にまとって灰の中に座ってヤーウェ神の前で罪を告白し、悔い改めた上、町の人々全員、家畜のすべてに対し、王と同様に行動するよう命じた。王は人々に対し「ひたすら神に呼ばわり」とさえ命じている。これら一連の行動により、ニネベの王は、支配者が真に達成すべき目標を達成した。王が取った一連の行動は、人類史上のなかで、どの王にとっても為し難いことであり、それまでのいずれの王も為し得なかった行動であった。これらの行動は、人類史上で前例の無いことであったと言えるであろう。こうした行動は、称賛し、人類が倣う価値のある行動であった。人類の黎明以来、王は皆、臣民に対して、神を反抗し、反対するように統治を行っていた。それまで、それぞれの悪に対して神に贖いを求めるよう臣民を祈らせ、ヤーウェ神の赦しを得て、喫緊の罰を免れた者は、誰も居なかった。しかしニネベの王は、臣民に対して、神に立ち返り、各人が悪の道を離れ、その手から不法を捨てるよう指導した。加えて、ニネベの王は自らの王位を捨て、それに対してヤーウェ神は思い直して宣告した災いをくだすのを取りやめ、ニネベの町の人々は滅びを免れ、生き残ることができた。ニネベの王の行動は、人類史上希にみる奇跡であると言うほか無い。これらの行動は、腐敗した人類が神の前で罪の告白と悔い改めを行う際の模範とも呼べるであろう。

神は、ニネベの人々の心の底からの真摯な悔い改めを確認した

   神の宣告を聞いた後、ニネベの王と臣民たちは、一連の行動を取った。ニネベの人々の態度と行動の本質は何であろうか。すなわち、ニネベの人々の行動全体における真髄は何であろうか。ニネベの人々がそのような行動を取った理由は何であろうか。神の目には、ニネベの人々は、真摯に悔い改めたように映った。それはニネベの人々が神に心から誓願し罪を告白したからのみならず、ニネベの人々が悪の行いも捨てたからである。ニネベの人々がこのような行動を取ったのは、神の言葉を聞いたのち、ニネベの人々は大いに恐れ、神が言葉通りの業を行うものと信じていたからである。ニネベの人々は、自分達のあり方を改めて悪から離れ、ヤーウェ神に対して怒りを静めるよう祈りを捧げて裁きと差し迫った災いの取消を求める自分達の希望を、断食して粗布をまとい、灰の中に座ることで示すのを望んだ。ニネベの人々のすべての行動を検討すると、ニネベの人々は、従前の邪悪な行動がヤーウェ神により嫌悪されるものであること、またヤーウェが自分達を間もなく滅ぼす理由を既に知っていたことが分かる。そのため、ニネベの人々全員が完全に悔い改め、悪の道を離れ、その手から不法を捨てることを望んだ。換言すると、ニネベの人々がヤーウェ神の宣言を確認した後、ニネベの人々それぞれが心に恐怖を覚え、悪の道を離れて、ヤーウェ神が嫌悪する行動を続けることを止めた。さらに、ニネベの人々は従前の罪に対する赦しと、従前の行動に基づいて処分しないことを、ヤーウェ神に誓願した。ニネベの人々は悪に二度と戻らず、二度とヤーウェ神の怒りを買わないよう、ヤーウェ神の指示に従って行動する意志があった。ニネベの人々の悔い改めは真摯であり、徹底していた。その悔い改めは、ニネベの人々の心底から出たものであり、偽りでも一時的なものでもなかった。

    ヤーウェが自分達に対して怒られていることを、王から臣民までニネベの人々全員が知った後、ニネベの人々のあらゆる行動と態度、そしてあらゆる判断、あらゆる選択は、神の目に明らかなものであった。ニネベの人々の行動に従い、神の心が変わった。神は、この時点でどのように感じていたであろうか。その答えは、聖書に記されている。聖句には、「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった」とある。神は思い直したものの、神の御心に複雑な部分は一切なかった。単に神は、怒りを伝えていた状態から怒りを静める状態へと変化し、ニネベに災いをくだすのを止めることに決めた。神がニネベに災いをくだすのを止めることに決断したのが迅速であったのは、神がニネベの人々すべての心を確認したからであった。神は、ニネベの人々の心底にあったもの、すなわち自分達の罪の真摯な告白と悔い改め、ニネベの人々の神に対する真摯な信仰、ニネベの人々が、自分達の悪の行いが神の性質の怒りを買った理由に関する深い理解、その怒りの結果となるヤーウェの罰に対する恐れを理解した。それと同時に、ヤーウェは、ニネベの人々が災いを免れることができるよう、ヤーウェに自分達に対する怒りを静めるよう誓願するニネベの人々の心底からの祈りを聞いた。神がこうしたことを認識した時、神の怒りは徐々に静まっていった。神の従前の怒りがどれほど激しいかを問わず、人々の心底からの真摯な悔い改めを神が認めた場合、神の心はその悔い改めを喜び、神は災いをニネベの人々にもたらすことに耐え兼ね、ニネベの人々に対する怒りを静めた。その代わりに、神はニネベの人々に憐れみと寛容さを引き続き与え、引き続き導きと施しを与えた。『言葉は肉において現れる』より


日々の神の御言葉「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」抜粋84

2020-11-15 14:06:39 | 日々の神の御言葉

   今日、神はあなたがたを裁き、あなたがたを罰し、あなたがたを罪に定めるが、罪に定めることの要点はあなたが自分を知るためであることを知らなければならない。神は罪に定め、のろい、裁き、刑罰を与えるが、これはあなたが自分を知るため、あなたの性質が変わるためである。そしてさらに、あなたが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、それは神の性質と神の働きが要求することに適っていること、神は人を救う計画に従って働くこと、神は人を愛し、救い、裁き、罰する義なる神であることを理解するためである。もしあなたが、自分は地位が低く、堕落して、不従順であることだけを知り、神が今日あなたに行う裁きや刑罰を通して救いを明らかにしようと望んでいることを知らないならば、あなたは経験を得るすべがなく、ましてや前に進み続けることはできない。神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、のろい、罰し、救うために来た。神の六千年の経営(救いの)計画が終了するまで、つまり神が範疇ごとの人間の結末を明らかにするまでは、地上における神の働きは人の救いのためであり、その目的は神を愛する人を純粋にすっかり完全にし、神の統治の下に服従させることである。神がどのように人を救おうとも、そのすべては人を古いサタン的な性質から脱却させることによってなされる。すなわち、神は人にいのちを求めさせることで救うのである。人がそうしなければ、神の救いを受け入れることはできない。救いは神自身の働きであり、いのちを求めることは救いを受け入れるために人が負わなければならないものである。人の目から見れば、救いは神の愛であり、神の愛は刑罰、裁き、呪いであるはずがない。救いは愛、憐れみ、さらには、慰めの言葉を含んでいなければならず、神から授けられる無限の祝福も含んでいなければならない。神が人を救う時は、神は人を祝福と恵みで動かし、人が心を神に捧げることによって救うのだと人は信じている。すなわち、神が人を動かすのは神が人を救うことなのである。このような救いは取引によって行われる救いである。神が人に百倍のものを授けて初めて、人は神の名の前に服従し、神のために尽くして栄光をもたらそうと努力する。これは人類のための神が意図することではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。従って、あなたがたが受けるのは刑罰、裁き、容赦のない鞭だけである。知りなさい。この無情な鞭打ちの中に罰はほんの少しもない。わたしの言葉がどんなに辛辣であったとしても、あなたがたに降りかかるのは、あなたがたにはまったく無情だと思われるかもしれないほんの数語だけであり、わたしがどれほど怒っていようとも、あなたがたに注がれるのは教えの言葉であり、わたしはあなたがたに危害を加えるつもりはないし、あなたがたを殺すつもりもない。これはすべて事実ではないのか。今日、義の裁きであろうと、無情な精錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日各人が種類に応じて分類されようと、人の範疇が露わにされようと、神の発する言葉と働きのすべての目的は本当に神を愛する人を救うことである。義の裁きは人を清めるためにもたらされ、無情な鍛錬は人を浄化するために行われる。厳しい言葉、あるいは懲らしめはどちらも純化のためであり、救いのためである。従って、今日の救いの方法は過去のものとは違う。今日、義の裁きを通してあなたがたに救いはもたらされ、これは種類に応じてあなたがたを分類するためのよい道具である。さらに、無情な刑罰はあなたがたに最高の救いとして機能する。このような刑罰と裁きに直面して、あなたがたは何と言うのか。あなたがたはいつも、初めから終わりまで救いを享受してきたのではなかったのか。あなたがたは受肉の神を見たし、神の全能と知恵も悟った。そのうえ、あなたがたは繰り返し鞭打たれ、訓練も経験した。しかし、あなたがたは最高の恵みも受けたのではないのか。あなたがたの祝福は他の誰のものより大きくないのか。あなたがたの恵みはソロモンが享受した栄光や富よりも遥かに豊富である。考えてもみなさい。もしわたしが来た意図があなたがたを救うことではなく、罪に定め、罰することであったなら、あなたがたはこのように長く生き続けていただろうか。肉と血から成る罪深い存在であるあなたがたは今日まで生き残れていただろうか。もしわたしの目的がただあなたがたを罰するためであったなら、なぜわたしは肉となり、そのような大きな事業に着手していたのか。ただの人間にすぎないあなたがたを罰するには、わずか一言発するだけで済んだのではないのか。わたしはあなたがたをわざわざ罪に定めた後でもなお滅ぼす必要があるのだろうか。あなたがたはわたしのこの言葉をまだ信じないのか。わたしには愛と憐れみだけで人を救うことができるだろうか。それともわたしは人を救うために十字架しか使えないのだろうか。わたしの義なる性質は人を完全に従順にさせるのをさらに促進しないだろうか。それは人を完全に救うことがさらにできるのではないのか。 『言葉は肉において現れる』より引用

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サタンの噂を信じ、神に背を向ける者たちを、神はどのように取り扱われますか。

2020-11-14 17:35:10 | キリストの言葉

参照聖書箇所

 「へびは女に言った、『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。……そこでヤーウェ神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。」(創世記3:4-6、23)

関連する神の言葉

 「わたしに属さない者はわたしに敵対するものである。わたしに属するものはわたしと相容れるに適った者である。これは疑いの余地のないことであり、サタンに対するわたしの裁きの原則である。この原則を知るべきである──サタンから来る全てもの者は裁かれ、焼き尽くされ、灰となる。これはわたしの怒りでもあり、人はわたしの性質をさらに知ることができる。」『言葉は肉において現れる』の「第百八章」より

 「またわたしという肉全体は、何よりも神の完全なる表象である。わたしを畏れない者、反抗的な目をする者、わたしに反抗的な言葉を話す者は誰でも、必ずわたしの呪いと怒りによって死ぬだろう(わたしの怒りの故に呪いがあるであろう)。また誰でもわたしに忠誠と子としての愛を示さず、わたしを騙そうとする者は、わたしの憎しみの中で必ず死ぬだろう。」『言葉は肉において現れる』の「第七十九章」より

 「サタンに属す者はサタンへと戻されるが、神に従う者は間違い無く真理を探し求めるであろう。これは、そうした者の本性により決められる。サタンに従う者を全て滅ぼすことである。こうした者は決して憐れまれることが無いであろう。真理を探し求める者に糧を得させ、心ゆくまで神の言葉を堪能させることである。神は義であり、人間を不公平に扱うことは無い。

…………

    見識の無い者は、賢明さに劣っているがために、邪悪な者の手により滅ぼされ、惑わされて、戻ることが出来ない。こうした者を、そのように扱う必要があるのは、こうした者が真理を愛さず、真理の味方になることが出来ず、邪悪な者に付き従い、邪悪な者の味方となり、結託して神に反抗するからである。こうした人々は、邪悪な人々が邪悪さを放っていることを完全に知っているが、決心を固めてそうした邪悪な者に付き従い、真理と反対方向へと進む。こうした、真理を実行せず、しかし破壊的で忌まわしい行動を行う人々は、すべて邪悪ではなかろうか。そうした者の中には、自らを『王』のように装う者と、それに追随する者が居るが、両者の神に反逆する性質は全く同じではなかろうか。こうした者は、神は自分達を救わないと言うが、どうして弁解できようか。また、こうした者は、神は義ではないと言うが、どうして弁解できようか。こうした者を滅ぼすのは、自らの邪悪ではなかろうか。こうした者を地獄へ落とすのは、自らの反逆心ではなかろうか。真理を実践する者は、最終的に救われ、真理により完全にされるであろう。真理を実践しない者は、最終的に真理により滅びを得る。これらが、真理を実践するものと、実践しない者を待ち受ける最後である。」『言葉は肉において現れる』の「真理を実践しない者に対する警告」より

 「わたしの関心は引き続きあなたがたひとりひとりがどう行動しどう自分を表現するかであり、それに基づいてわたしはあなたがたの終着点を決定する。しかし、わたしは次のことを明白にしなければならない。患難の時に、わたしに全く忠誠を示さなかった者たちにはもはや憐れみは与えない。わたしの憐れみが与えられるのはここまでだからだ。さらに、わたしは、かつてわたしを裏切った者は誰も好まず、ましてや友の利害を裏切る者たちと係ることを望まない。その人が誰であっても、これがわたしの性質である。あなたがたに伝えなければならない。わたしを悲しませる者は誰であっても、再びわたしから慈悲を受けることはなく、これまでわたしに忠実であった者はとこしえにわたしの心に留まるだろうことを。」『言葉は肉において現れる』の「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より

神の業の最中に逃げ出す者に対する神の姿勢

    こうした者はいたる所で見受けられる。こうした者は、神の道について確信した後、諸事情により黙って挨拶もせずに立ち去り、自分の心が望むように行動する。この者が立ち去る理由については、今は話をしない。まず、こうした者に対する神の姿勢について話をする。それは極めて明瞭である。神の観点から見ると、この者が立ち去った時点で、その者の信仰は終わる。それを終わらせたのは、その者ではなく神である。この者が立ち去ったということは、その者が既に神を拒否し、神を求めていないことを意味する。それは、既にその者が神の救いを受け入れないということを意味する。その者が神を求めていないのであれば、神は依然としてその者を求めることができるであろうか。さらに、この者にそうした姿勢と観点があり、神から去ることを決心している場合、この者は既に神の性質を侵害している。たとえ、そうした者が神に対して怒りを爆発させることも神を罵ることも無く、下劣な行動や過度の行動を取ることも無く、またその者が、『外で十分楽しんで満足するか、神が何らかの理由で再び必要になったら、戻って来よう』、あるいは、『神に呼ばれたら、戻って来よう』などと考えていても、この者は既に神の性質を侵害している。あるいは、こうした者は、『外で傷付いて、外界の闇が暗過ぎて邪悪過ぎて、世の中に流されたくないと思ったら、神のもとへ戻ろう』などと言う。この者は、いつになったら戻るかを自分の心で計算し、戻る可能性を残しているものの、自分でどのように考え、計画したとしても、それが希望的憶測に過ぎないことに気付かない。こうした者の最大の過ちは、自分が立ち去りたいと考えた時、神がどう感じるかが不明瞭なことである。その者が神のもとから立ち去ろうと決めた時から、神は完全にその者を見捨て、心の中でその者の結末を既に決めている。それはどのような結末であろうか。それは、その者がハムスターのような存在のひとつに過ぎず、ハムスターと共に滅びるということである。そして、こうした状況は頻繁に見受けられる。ある者が神を見捨てても、その者は罰を受けない。神は、神自身の原則に従って対処する。人間に見える物事もあるが、神の心の中だけで結論付けられるので、人間にはその結果が見えない。人間に見える物事が必ずしもその物事の真の側面であるとは限らず、人間には見えない側面こそが、神の心の本当の考えと結論である。

神の業の最中に立ち去る者は、真の道を捨てる者である

   それでは、神がそうした者に深刻な罰を与えるのは何故だろうか。神がそうした者に対して激怒しているのは、何故だろうか。まず、神の性質が威厳であり怒りであることは、わたし達全員が知っている。神は誰かに殺される羊ではなく、ましてや人間の思い通りになる操り人形などではない。神は人間の言いなりになる空気のような存在でもない。あなたが神の存在を本当に信じているならば、神を畏れる心を持ち、神の本質を怒らせてはならないことを知る必要がある。この怒りを引き起こすものは、言葉かもしれないし、考えやあるいは下劣な行動かもしれない。あるいは穏やかな行動、人間の目と倫理から見て容認できる行動、教義、理論などに起因する場合がある。しかし、あなたがひとたび神の怒りに触れると、あなたの機会は失われ、あなたは終わりの時を迎える。それは極めて悲惨なことである。神に反することが許されないということを理解していなければ、あなた方は神を畏れず、常に神に反している可能性がある。どのようにして神を畏れるかを知らなければ、神を畏れることは出来ず、どのように神の道を歩み、神を畏れ、悪を避ければよいか分からない。それを知った後は、神に反してはならないことを意識し、神を畏れ、悪を避けるとは何かを知ることが出来るであろう。

    神を畏れ、悪を避ける道を歩むことは、必ずしもどの程度真理を知り、どれほどの試練を経験し、どの程度鍛錬してきたか、ということではない。むしろ、それは、神に関して、あなたの心の真髄は何か、あなたの神に対する姿勢がどのようなものかによる。人間の本質と主体的姿勢が極めて重要な鍵である。神を捨て去った者に関し、そうした者の神に対する卑劣な姿勢と真理を軽視する心により、神の性質が侵害される。こうした者が神に赦されることは決して無いであろう。既にこうした者は神の存在を知り、神は既に来たという知らせを受け、神の新たな業を経験してさえいる。こうした者が立ち去ることは、迷いに起因する事例でも、その事に関する理解が不明瞭であった事例でもない。まして、そうした者は、強制的に立ち去らされたものでは決して無い。むしろ、それはそうした者が意識的に、明瞭な精神状態で、神から去ることを選んだものである。そうした者が立ち去ったのは、道を見失ったものでも、捨て去られたものでもない。したがって、神の目から見ると、そうした者は群れから迷い出た羊と同様の事例では無く、ましてや道を見失った放蕩息子と同様の事例でも無い。こうした者は罰を受けずに立ち去った者であり、そうした条件や状況により、神の性質が侵害され、その侵害に鑑みて、神はその者に絶望的な結末を与える。こうした結末は恐ろしいものではないだろうか。したがって、ある者が神を知らない場合、その者は神を侵害する恐れがある。それは決して些細なことでは無い。ある者が、神の姿勢を真剣に受け止めず、またその者は迷える子羊であり、神はその者が改心するのを待ち、その者が戻るのを心待ちにしていると考えているとしたら、その者は罰の日からそれほど離れていない。神はその者が戻るのを拒むだけではない。それは、その者が神の性質を侵害した2度目の事例であり、さらに酷い問題である。その者の不適切な姿勢により、神の行政命令が既に犯されている。神はその者が戻るのを許すであろうか。こうした問題に関する神の原則は、その者が既に真の道を確信しつつ、意識的かつ明瞭な精神状態で神を拒否し、神から離れた場合、神はその者の救いの道を遮断し、神の国の門は、それ以降その者に対して閉ざされる。その者が再び現れて門戸を叩いても、神はその者のために扉を二度と開かないであろう。その者は、永遠に閉め出される。あなた方のうちには、聖書のモーセに関する聖句を読んだことがある者がいるであろう。神がモーセに油を注いた後、250人の指導者たちは、モーセの行動などを理由として、それに不服であった。こうした指導者たちが従うことを拒んだのは、誰であろうか。それはモーセではない。この指導者たちは、神の計画に従うのを拒み、それに関する神の業に従うのを拒んだ。その指導者たちは「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、ヤーウェがそのうちにおられるのに、…」と言った。人間から見て、この言葉は極めて深刻であろうか。この言葉は全く深刻でない。少なくとも、この言葉の文字通りの意味は、深刻ではない。法的な意味では、これらの者は何ら違法ではない。なぜなら、これらの者の言葉は、表面的には敵対的な表現や語句は無く、ましてや冒涜的意義も無いからである。発言内容には、一般的な文しか含まれていない。それでは、こうした語句が神の怒りに触れる理由は何であろうか。なぜなら、これらの者は、人間でなく神に対して語っているからである。これらの者が示した姿勢と性質は、まさしく神の性質、特に侵害してはならない神の性質を侵害するものである。これらの者の結末は、皆知っている。神を捨てた人々に関し、その人々の観点はどのようなものであろうか。その人々の姿勢はどのようなものであろうか。さらに、その人々の観点と姿勢の結果として、神がその人々をそのように扱う結果になったのは何故であろうか。それは、その人々が、それが神であることを明確に認識しつつ、神を裏切ることを選んだからである。その人々が救いの機会を完全に剥奪されたのは、そのためである。それは聖句にある通りである。すなわち、「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。」この問題について、明確に理解したであろうか。『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」より


神が中国共産党政府と宗教界の奉仕を用いることにおいて、神のどんな知恵と全能性が明らかにされていますか。(1)

2020-11-13 16:01:31 | キリストの言葉

 「六千年にわたるわたしの経営(救いの)計画全体は、三つの段階、あるいは時代から成る。まず律法の時代、次に恵みの時代(贖いの時代でもある)、そして最後に神の国の時代である。これら三つの時代におけるわたしの働きは、各時代の性質によって異なるが、それぞれの段階で人の必要性に対応している、というよりむしろ、わたしに対する戦いでサタンが用いるその策略に応じて異なっている。わたしの働きの目的は、サタンを打ち負かし、わたしの知恵と全能を明らかにし、サタンの策略をすべてあばくことで、その支配下に生きるすべての人間を救うことである。それはわたしの知恵と全能を示すと同時に、サタンのおぞましさを明らかにするものである。それに加えてわたしの創造物が善悪を区別し、わたしこそがすべての物を治める者であることを認識し、サタンが人類の敵、下の下、悪い者であることがはっきり分かるよう教え、善悪、真理と偽り、聖さと汚れ、偉大さと卑劣の違いを明白にすることである。それにより無知な人間が、人間を堕落させるのはわたしではないこと、創造主であるわたしだけが人間を救うことができ、楽しみとなる物事を授けることができることを、わたしに対して証しし、わたしこそがすべての物を治める者であり、サタンは後にわたしに背いたわたしの被造物の一つにすぎないと彼らは知ることができる。」『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きについての真実」より

 「神がサタンをすぐには滅ぼさないことによって、サタンがどのように人々を堕落させ、どのように神が人間を救われたかを理解できることに注目する必要がある。サタンが人間をどこまで堕落させ、サタンの罪のリストがどう天に達するかを人間が理解した後で初めて、神は最終的にサタンを滅ぼされる。それにより人々は神の義と神の性質を理解できるからである。」『キリストの言葉の記録』の「神の義なる性質を理解するには」より

 「わたしが正式に働きを始めると、すべての人はわたしの動きにつれて動く。そのようにして、全宇宙の人々はわたしと共に働く。全宇宙に『歓呼の声』が響き、人間はわたしと共に勢いよく前進する。その結果、赤い大きな竜はうろたえ、狂乱し、わたしの働きに仕え、望まずとも、自分のしたいことができず、『わたしの支配に従う』しかなくなる。わたしの計画すべてにおいて、赤い大きな竜はわたしの引き立て役、わたしの敵、そしてまた、わたしの『しもべ』である。したがって、わたしはけっして竜の『要求』を緩めたことがない。だから、受肉におけるわたしの働きの最終段階は、その『家』の中で完了するのである。このようにすれば、赤い大きな竜はよりよくわたしに仕えることができ、それによって、わたしはこれに打ち勝ち、計画を完了するのである。」『言葉は肉において現れる』の「全宇宙に向かって語った神の言葉・第二十九章」より

 「大きな赤い竜の国家にあって、わたしは、人々には測り難い段階の働きを実行し、彼らを風の中で揺れさせる。その後、多くの者が吹く風によって静かに漂い去る。まさにこれが、わたしが一掃しようとしている『脱穀場』だ。それがわたしの願いであり、それはわたしの計画でもある。というのは、わたしが働いている間に多くの『悪い者』が静かに忍び込んだからだ。しかしわたしは急いで彼らを追い払いはしない。むしろ、適切な時が来たら、彼らを追い散らす。そうしてはじめて、わたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がいちじくの実やゆりの香りをわたしから受け取れるようにする。サタンがとどまる地、塵の地には、砂があるのみで純金は残っていない。だから、このような状況を見て、わたしはこのような段階の働きを実行する。わたしが獲得するものは砂ではなく、精錬された純金であることを、あなたがたは知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残っていられるだろう。狐がわたしの楽園の寄生動物になるなど、わたしが許すだろうか。わたしは考えつくすべての方法でこれらのものを追い払う。わたしの心が表されるまで、わたしが何をしようとしているかを知る者は一人もいない。この機会をとらえて、わたしはこの悪い者たちを追い払うので、彼らはわたしから去るしかない。わたしは悪い者たちに対してこのようにするが、彼らがわたしのために仕える日はまだあるだろう。」『言葉は肉において現れる』の「七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より

 「人間の想像によると、七つの鉢の災害は世界のすべての国々や民族に向けられているが、実際はそうではない。これらの七つの災害は、悪魔であるサタンの影響と、赤い大きな竜(わたしに奉仕させるためにわたしが使用する対象)の陰謀を指している。その時わたしは、子らと民を懲らしめるために、サタンと赤い大きな竜を解き放つ。そして、それによって誰が子であり、民であるかが明らかにされるだろう。騙される者たちは、わたしによって予め定められていない人たちである。しかし、わたしの長子たちは、この時わたしと共に支配するだろう。そして、これによってわたしは子らと民を完全にする。」『言葉は肉において現れる』の「第九十四章」より

 「神は悪霊の働きの一部を利用し、一部の人を完全にし、これらの人々が悪魔の行いをすっかり見通すことができるようにし、すべての人が自分たちの祖先を真に理解できるようにすることを意図している。そうなる時、ようやく人類は完全に解放され、悪魔の子孫を見捨てるだけでなく、悪魔の祖先をいっそうはっきりと見捨てる。これが赤い大きな竜を完全に打ち負かすという神のそもそもの意図である。そうすることによって、すべての人が赤い大きな竜の本当の姿を知り、完全にその仮面を引きはがし、本当の姿を見るようにと、神は求めているのだ。神が達成しようとするのはこのことであり、これが神の地上における最終目標であり、そのために神は多くの働きをなしてきたのだ。神はすべての人においてこれを達成しようと目指している。これは、神の目的を達成するためのあらゆるものの操縦として知られている。」『言葉は肉において現れる』の「第四十一章」より

 「あなたがたは皆このような言葉を覚えているだろう。『このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。』あなた方は皆過去にこの言葉を耳にしたことがあるが、その言葉の真意を理解した者はひとりもいない。今日あなたがたは、この言葉の持つ真の意義をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものである。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。赤い大きな竜は神を迫害する神の敵であり、よってこの地において神を信じる者たちは屈辱や迫害に晒されている。それ故、これらの言葉はあなたがた一群の中で実現するのだ。神に逆らう地において働きが行われるため、神のすべての働きは過度の妨害を受け、神の言葉の多くはすぐには達成されない。したがって、人々は神の言葉によって精錬される。これもまた、苦しみの要素である。赤い大きな竜の地で働きを実行することは神にとって非常に困難だが、神はこのような困難を通して、自分の働きのひとつの段階を行い、自分の知恵と不思議な業を明らかにする。神はこの機会を通して、この一群の人々を完全にする。人々の苦しみ、彼らの素質、そしてこのけがれた地の人々のサタン的なすべての性質故に、神はその清めや征服の働きを行うことで栄光を手にし、神の業の証に立つ人々を得るのだ。これこそが、神がこの一群の人々のために行った全ての犠牲のすべての意義である。つまり、神は自身に逆らう者たちを通して征服の働きを行うのだ。そうすることによってのみ、神の大いなる力が現わされるのだ。言い換えれば、けがれた地にいる者たちのみが神の栄光を受け継ぐに相応しく、これが唯一、このことによってのみ神の大いなる力を際立たせることができる。」『言葉は肉において現れる』の「人が想像するほど神の働きは簡単なものか」より

 「神がすることが何であれ、その手段がどのようなものであれ、代償がどれほどであれ、方針がどのようなものであれ、神がすることの目的は変わらないということである。神の目的は、神の言葉、神が要求するもの、そして神の心を人間に対して働くことである。つまりそれは、神が自身の段階に沿って善と思うもの全てを行ない、人間が神の心を理解できるようにし、神の本質を理解できるようにし、神の支配に従えるようにし、そうすることによって神を畏れ悪を避けるようにするためである。これが神のすること全てにおける神の目的のひとつの側面である。もうひとつの側面は、サタンが引き立て役で神の働きにおいては仕えるものであるため、しばしば人間はサタンの手に渡されるのである。これは人間がサタンの誘惑と攻撃のただ中にあって、サタンの邪悪さ、醜さ、そして卑劣さを理解するために神が用いる手段であり、そうすることで人々がサタンを憎み、悪であるものを知り、理解できるようにするためである。このような過程を通ることにより、人々はサタンの支配から徐々に解放され、サタンの非難、妨害、攻撃から解放される。そして神の言葉により、彼らの知識と神への従順、神に対する信仰と畏れにより、サタンの攻撃に勝利し、サタンの非難に勝利する。そうして初めて、人々はサタンの支配から完全に解放される。サタンから解放されるということは、サタンが打ち負かされたということであり、彼らはサタンの獲物でなくなるということである。彼らを飲み込む代わりに、サタンは彼らを手放したのである。なぜなら、そのような人々は正しく、信仰を持っており、従順であり、神を畏れていたからであり、サタンと完全に決別したからである。彼らはサタンを辱め、怖じ気づかせ、完全に打ち負かした。神に付き従うという彼らの確信、神への従順と畏れがサタンを打ち負かし、そしてサタンに自分たちへの攻撃を諦めさせるのである。このような人々だけが真に神のものとされ、そうなることが正に人間に対する神の救いの最終目標なのである。彼らが救われることを願うのであれば、そして完全に神のものとされることを願うのであれば、神に従う全ての人は誘惑とサタンからの大小の攻撃に直面しなければならない。このような誘惑や攻撃から抜け出た者が、サタンに完全勝利することができる。このような者が、神に救われた者である。つまり、神により救われている者は神からの試練を経験したものであり、サタンの誘惑と攻撃を何度も受けたことのある者である。神により救われている者は神の心と要求を理解でき、ひたすら神の支配と采配に従い、サタンの誘惑のただ中にあっても、神を畏れ悪を避ける道から逸れることがない。神により救われている者は正直であり、心優しく、愛と憎しみを区別し、義と理性を知っており、神を配慮し神の全てを大切にする。そのような人々はサタンに束縛されておらず、監視されておらず、非難されたり虐待されたりしていない。完全に解放されており、全く自由である。ヨブは正にそのような自由な人であり、神が彼をサタンの手に渡したのは、彼がこのように自由な人になるためだったのである。

…………

    人間に対する神の不変の施しと支えの働きの間、神は自身の心全体と要求を人間に示し、自身の業、性質、そして神であることの全てを示す。神に付き従う中で、人間に必要な身丈にまでさせ、神の幾つもの真理を得ることができるようにすることがその目的である。その真理とは、神により人間に与えられた武器であり、それによりサタンと戦うことができる。これらのものが備わったならば、人は神の試みに直面しなければならない。神は人間を試すための多くの手段や道を持っているが、どれも神の敵であるサタンの『協力』が必要となる。つまり、サタンと戦うための武器を人に与えた後、神は人をサタンの手に渡し、サタンが人の身丈を『試す』ことを許可する。人間がサタンの編隊から脱出できるならば、サタンの包囲網から抜け出して生きていられるならば、試験に合格したということである。だがもしサタンの編隊を離れることに失敗し、サタンに服従してしまうのであれば、試験に合格しなかったということである。神が人間を試す時、それがどのような側面をみるのであれ、神の基準はサタンの攻撃に対して人間がしっかりと証しに立っていられるかどうか、そして、サタンに誘惑されている間に神に背き、サタンに降伏して服従してしまうかどうかである。人間が救われるかどうかは、サタンに勝利してサタンを打ち倒せるかにかかっており、自由を獲得できるかどうかはその人間が神に与えられた武器を自ら取り上げてサタンの束縛から自らを解き放ち、サタンが完全に希望を失ってそれ以上攻撃しなくなるかどうかにかかっている。サタンが希望を失い、ある人を手放すのは、サタンは二度とその人を神から奪おうとはしない、二度と非難したり、妨害したり、気まぐれに苦しめたり攻撃したりしないという意味である。サタンをそのような状況に追い込むことができる人だけが、真に神のものとされるのである。神が人を自身のものとする過程はこのようなものである。」『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身2」より


日々の神の御言葉「聖霊の働きとサタンの働き」抜粋445

2020-11-12 11:07:27 | 日々の神の御言葉

日々の神の御言葉「聖霊の働きとサタンの働き」抜粋445

 日常生活で自分に何かが起きる際、それが聖霊の働きに由来するものなのか、サタンの働きに由来するものなのか、どのように識別すべきだろうか。状態が正常であれば、その人の霊的生活と肉における生活は正常であり、理知も正常で秩序がある。このような状態にあるとき、彼らが経験し、自分の中で知るようになる物事は、一般的には、聖霊に触れられたことに由来するものだと言える(神の言葉を飲み食いする際に洞察力があったり、多少の単純な認識を有していたりすること、あるいは何らかの物事において忠実であること、そして神を愛する力があることは、いずれも聖霊に由来するものである)。聖霊が人の中で行なう働きは特に正常である。人はそれを感じられないし、実際には聖霊の働きであるにもかかわらず、人自身から生じたもののように思われる。日常生活において、聖霊はすべての人の中で大小いずれの働きも行なうが、異なっているのはその働きの程度だけである。中には優れた素質をもつ人がおり、そのような人は物事を素早く理解し、聖霊による啓きは彼らの中で特に大きい。その一方で素質に乏しい人もおり、物事を理解するのにより時間がかかるものの、聖霊は彼らの内側にも触れ、彼らもまた神への忠実を遂げることができる。聖霊は神を追い求めるすべての人の中で働きを行なうのである。日常生活において人々が神に反対したり、反抗したりすることがなく、神の経営に反することを行なわず、神の働きに干渉しなければ、神の霊が一人ひとりの中で大なり小なり働きを行なう。神の霊は彼らに触れ、彼らを啓き、信仰と力を与え、彼らを感動させて積極的に入るようにし、怠惰になったり肉の楽しみをむさぼったりしないようにする。そして彼らが進んで真理を実践し、神の言葉を切望するようにさせる。そのすべてが聖霊に由来する働きである。

 状態が正常でないとき、その人は聖霊に見捨てられ、心の中に不満を抱きがちで、動機は間違っており、怠惰で、肉の欲にふけり、心は真理に敵対する。そのすべてがサタンに由来している。状態が正常でなく、内面が闇で覆われ、正常な理知を失い、聖霊に見捨てられ、自分の中に神を感じられないとき、それはその人の中でサタンが働きを行なっているときである。一般的に言えば、内面に絶えず力があり、常に神を愛するなら、何かが起きたとき、その出来事は聖霊に由来しており、またその人が誰に会おうと、その出会いは神の采配の結果である。つまり、あなたが正常な状態にあるとき、また聖霊の偉大な働きの中にいるとき、サタンがあなたを揺るがすことは不可能なのである。それを基に、すべてのものは聖霊に由来しており、たとえ誤った考えをもっていても、あなたはそれを捨てることができ、それに従うことはないと言える。これはすべて聖霊の働きに由来している。どのような状況においてサタンは干渉するのか。あなたの状態が正常でなく、神に触れられておらず、自分に神の働きがなく、内面が乾いて荒れ果て、神に祈っても何も掴めず、神の言葉を飲み食いしても啓きや照らしを得られないとき、サタンがあなたの中で働きを行なうのは簡単である。言い換えれば、あなたが聖霊に見捨てられて神を感じられないとき、サタンの試みに由来する物事が数多く起きるのである。聖霊が働きを行なう間、サタンもずっと働いている。聖霊が人の内側に触れると同時に、サタンは人に干渉する。しかし、聖霊の働きが主導権を握り、正常な状態の人々は勝利することができる。これはサタンの働きに対する聖霊の働きの勝利である。聖霊が働きを行なう間、人々の中には依然として堕落した性質が存在する。しかし聖霊による働きのさなか、人々が自分の反抗心、動機、不純を見つけて認識するのは簡単である。そのとき初めて、人々は後悔を感じてますます悔い改めようと思う。このようにして、彼らの反抗的で堕落した性質は、神の働きの中で徐々に一掃される。聖霊の働きは特に普通のものであり、聖霊が人々の中で働きを行なっているときも、彼らは依然として問題を抱え、涙を流し、苦しみ、弱り、はっきり理解できないことが数多くあるのだが、それでもこの状態にあるとき、彼らは自分が後退するのを押しとどめ、神を愛することができる。そして涙を流したり、苦悩に苛まれたりしてもなお、神を賛美することができる。聖霊の働きは特に普通であり、超自然的なことは一切ない。大半の人は、聖霊が働きを始めるやいなや、人の状態に変化が生じ、その人の本質的なものが取り除かれると信じている。そうした考え方は誤りである。聖霊が人の中で働きを行なうとき、人に関する受動的な物事が依然として存在し、その人の霊的背丈は変わっていないのだが、聖霊の照らしと啓きを得るので、その人はより前向きになり、内なる状態は正常で、その人は急速に変化する。人は現実の経験の中で、おもに聖霊かサタンいずれかの働きを経験する。そしてこの二つの状態を把握できず、その違いを識別できないなら、現実の経験へと入ることなど問題外であり、性質の変化が不可能なのは言うまでもない。よって、神の働きを経験する上で鍵となるのは、そうした物事を見抜けるようになることであり、そのようにして、それを実際に経験することが容易になる。『言葉は肉において現れる』より引用


中国共産党政府と宗教界の邪悪な本質とは何でしょうか。

2020-11-11 08:46:38 | キリストの言葉

参照聖書箇所

「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」(マタイによる福音書23:33)

「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは……」(ヨハネの黙示録12:9)

関連する神の言葉

「わたしが言う赤い大きな竜は、単なる一匹の赤い大きな竜ではない。むしろ、それは「赤い大きな竜」という同義語を持つ……」

『言葉は肉において現れる』の「第九十六章」より

 「この地は数千年にわたり不浄の地となっており、耐えがたいほど汚れ、悲劇に溢れる。至る所に幽霊が彷徨い、欺し偽り、根拠の無い告発を行い、冷酷かつ残忍であり、この幽霊の街を踏みつけて屍の山を残した。腐った屍の悪臭が地を覆って充満しており、その地は堅く警護されている。誰が空の彼方の世界を見ることが出来ようか。その悪魔は人の身体全体をがんじがらめにして両眼を見えなくし、両唇を堅く封じる。魔王は数千年にわたって現在まで猛威を振るい、幽霊の街を堅固に警備しており、それはあたかも難攻不落の悪魔の城のようである。その一方、警護に当たる番犬の群れが睨んでおり、番犬は神による不意討ちで完全に滅ぼされるのを強く怖れ、平和と幸福の余地は無い。……肉にある神が完全に隠れたままであっても、不思議では無い。悪魔が残忍非道をはたらくような、こうした暗黒社会において、瞬く間に人々を殺す魔王が、愛しく懇切で聖い神の存在を、どうして容認出来ようか。どうして魔王は神の到来に喝采を送ることができようか。まったく卑屈な者どもである。そうした者は恩を仇で返し、神を侮って久しく、神を虐待し、残忍を極め、神を少しも敬うことなく、強奪や略奪を行い、良心を完全に失い、……宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である。……なぜ、神の業に対してそのような難攻不落の障害を建てるのか。なぜ神の民を欺く様々な謀りを用いるのか。真の自由や正当な権利と権益はどこにあるのか。公平さは、どこにあるのか。安らぎは、どこにあるのか。温もりは、どこにあるのか。偽りに満ちた謀りを用いて神の民を欺すのは何故か。神が来るのを武力で抑制するのは何故か。神が造った地の上を、神に自由に移動させないのは、何故か。神が枕するところが無くなるほどに神を追うのは、何故か。人間の温もりは、どこにあるのか。人間同士の歓迎は、どこにあるのか。それほどまで絶望的な思慕を神に引き起こすのは、何故か。神に何度も叫ばせるのは、何故か。神の愛する子を神に強制的に憂わせるは、何故か。この暗黒社会とその哀れな番犬が、神の造った世界を神が自由に出入り出来るようにしないのは、何故か。」『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より

 「真理を求め、義に付き従う者は、何人いるだろうか。そうした悪魔は皆、肥やしの中のはえがたかり、ぶたや犬のような、頭を振って混乱を招く獣である。そうした悪魔は、自分達が腐敗物に群がるはえに過ぎないことには気づかず、地獄にいる自分達の王が、全ての王の中で至高の存在であると考えている。それだけではなく、自分達のぶたや犬の両親に頼り、神の存在に対して中傷的なことを述べる。そうした小ばえのような者は、自分達の両親がハクジラのように大きいものであると考えている。そうした者は、自分達は極めて小さい存在であるが、自分達の両親は自分達よりも10億倍大きく不浄なぶたや犬であることに気付かないのであろうか。そうした者は、自分の卑しさに気付かず、ぶたや犬の腐った臭いを根拠として暴れ回り、将来の世代を生み出す妄想にとらわれる。これは完全なる厚顔無恥である。そうした者は、自分の背中に緑色の羽根がある(自分が神を信仰していると主張することを指す)ことで、自惚れて自分の美しさと魅力を至るところで自慢するようになり、密かに自らの不浄を人間になすりつける。さらに、そうした者の自惚れは、あたかも虹色の羽根が自分の不浄を隠すことが出来るかのようであり、それゆえに真の神の存在を迫害する(これは、宗教界の内情を指す)。人間は殆ど知らないが、はえの羽根は美しく魅力的だが、所詮は不浄に満ち、細菌に覆われた、小さなハエである。そうした者は、両親であるぶたや犬の力を借り、圧倒的な凶暴さで地の上で暴れ回る(これは、真の神と真理を裏切る国家の強力な支援を受けて神を迫害する宗教関係者を指す)。それは、あたかもユダヤのパリサイ人の幽霊が、古巣である赤い大きな竜の国家へと、神と共に戻ったかのようである。そうした者は、自らの迫害の業を再開し、その数千年にわたる業を継続する。こうした堕落した者の集団が最後に地の上で滅びることは確実である。数千年が経過した後、不浄な霊は、さらに狡猾で悪賢くなっているようである。そうした者は、密かに神の業を台無しにする術を常に考えている。そうした者は狡猾で悪賢く、自国で数千年前の悲劇を再現することを望んでいる。そうした行いにより、神は突き動かされて大声で叫ぶ寸前の状態にされ、神は第三の天に戻ってそうした者を滅ぼさずにいられない。」『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より

 サタンは人道的で正しく、道徳があるように思われるが、その本質は残忍かつ邪悪である。

 「サタンは、一般大衆を騙すことにより、名声を得る。通常、サタンは義の先導者的かつ模範的存在として、自分自身の立場を確立する。義を守るという旗印のもと、サタンは人間を傷つけ、その魂を食い物とし、また人間を麻痺させ、騙し、扇動するためにあらゆる手段を講じる。サタンの目標は、自分の邪悪な行いを人間に認めさせ、それに人間を従わせること、サタンと共に神の権威と支配に反対させることである。しかし、その陰謀や策略、下劣な特徴についてわきまえるようになり、サタンの踏み台にされ、騙され、奴隷として仕えること、あるいはサタンと共に罰を受けて滅ぼされることを望まなくなると、サタンは従前の高徳な特徴を一変させ、仮面を破り捨て、真の邪悪で残忍で醜い獣のような素顔を現す。サタンは、自分に従うことを拒んだ者と、サタンの邪悪な力に反対した者全てを皆殺しにすることを、何よりも好む。この段階で、サタンは信頼のおける紳士的姿を装うことは出来なくなり、被っている羊の皮の下の醜い悪魔のような特徴を持つ正体を現す。サタンの陰謀が明るみに出た時、その真の特徴が現れた時、サタンは激怒してその野蛮さを現し、人間を傷つけ、食い物にするサタンの欲望が強くなって行く。これは、サタンが人間が目覚めることに対して激怒するからである。サタンは、捕らわれの身から解き放たれて自由と光を得ようとする人間に、強い復讐の念を抱いている。サタンの怒りは、サタンの邪悪さを保護するためのものであり、またその獣のような性質を真に披瀝するものである。

  サタンの『力』や、大胆さ、野望がどれほどのものであったとしても、サタンの損傷を与える能力がどれほど優れていたとしても、サタンが人間を腐敗させ、誘惑する能力の幅広さがどれほどのものであったとしても、サタンが人間を威嚇する謀略や計略がどれほど狡猾であったとしても、またサタンが存在する形態をどれほど変化させることができたとしても、サタンには生き物を造る能力や、万物に対する律法や規律を定める能力があったことは無く、命のあるものかないものかを問わず、どのようなものも支配する能力があったことは無い。広大な宇宙の中で、サタンから生まれた人間や物、サタンのおかげで存在する人間や物、サタンに統治され、支配されている人間や物は、全く存在しない。それとは反対に、サタンは神の支配権の下で生活する必要があり、さらに神の指示と命令にすべて従う必要がある。神の許可なくしては、サタンにとってひとしずくの水やひと握りの砂に触れることさえ困難である。また神の許可なくしては、サタンは蟻を地に這わせることさえままならないのであるから、神の造った人間を動かすことなど到底できるはずがない。神から見ると、サタンは山のユリの花よりも劣り、空を舞う鳥や海の魚にも劣り、地のウジ虫にも劣る。万物の中におけるサタンの役割は、万物に仕え、人間のために仕え、神の業と神の経営(救いの)計画に資することである。サタンの本性がいかに悪意に満ちているか、その本質がいかに邪悪であるかによらず、サタンにできることは、神に仕え、神に対照を提供するという、その機能に従順に従うことのみである。これがサタンの本質であり位置づけである。サタンの本質は命や力、権威から切り離されており、サタンは神の手の中にある玩具のようなもの、神のための役立つ道具に過ぎない。」『言葉は肉において現れる』の「 唯一無二の神自身 1」より

 「サタンの行動や、サタンが起こした奇跡を何と呼ぶであろうか。それらは、力であろうか。それらを権威と呼べるであろうか。無論、それは力ではなく、権威とも呼べない。サタンは邪悪を率い、神の業のあらゆる側面を覆し、損なわせ、妨害する。現在まで数千年にわたり、人間を腐敗させ、虐待し、人間を誘惑し、欺して悪行を行わせ、神から拒否される存在にして、死の淵に向かわせたサタンは、かつて人間による祝賀や称賛、敬愛に値することを行ったことがあろうか。仮にサタンが権威と力を持っていたとすれば、人間はその権威や力により腐敗させられていたであろうか。仮にサタンが権威と力を持っていたとすれば、人間はその権威や力により危害を被ったであろうか。仮にサタンが権威と力を持つとすれば、人間はその権威や力により神を捨てて死へと向かうのであろうか。サタンには権威も力も無いのであれば、サタンの行為の本質は何であると判断すべきであろうか。サタンの行為全てを単なる謀略であると定義する人々もいるが、わたしはそうした定義はそれほど適切ではないと考える。人間の腐敗による邪悪な行いは、単なる謀略であろうか。サタンがヨブを虐げた邪悪な力と、ヨブを虐げ悩ませようとする激しい願望は、単なる謀略では得られないものである。思い出してみると、丘や山に広く群れていたヨブの動物たちは、一瞬にして消え去った。ヨブが所有していた大量の富が一瞬で消えた。これは謀略だけで成し得たことであろうか。サタンの業の性質は、損害、妨害、破壊、危害、邪悪、悪意、闇など、否定的な言葉に該当するので、そうした不正で邪悪な出来事の全てはサタンの行為と密接に繋がっており、サタンの邪悪な本質と不可分のものである。」『言葉は肉において現れる』の「 唯一無二の神自身 1」より

 「サタンの『力』や、大胆さ、野望がどれほどのものであったとしても、サタンの損傷を与える能力がどれほど優れていたとしても、サタンが人間を腐敗させ、誘惑する能力の幅広さがどれほどのものであったとしても、サタンが人間を威嚇する謀略や計略がどれほど狡猾であったとしても、またサタンが存在する形態をどれほど変化させることができたとしても、サタンには生き物を造る能力や、万物に対する律法や規律を定める能力があったことは無く、命のあるものかないものかを問わず、どのようなものも支配する能力があったことは無い。広大な宇宙の中で、サタンから生まれた人間や物、サタンのおかげで存在する人間や物、サタンに統治され、支配されている人間や物は、全く存在しない。それとは反対に、サタンは神の支配権の下で生活する必要があり、さらに神の指示と命令にすべて従う必要がある。神の許可なくしては、サタンにとってひとしずくの水やひと握りの砂に触れることさえ困難である。また神の許可なくしては、サタンは蟻を地に這わせることさえままならないのであるから、神の造った人間を動かすことなど到底できるはずがない。神から見ると、サタンは山のユリの花よりも劣り、空を舞う鳥や海の魚にも劣り、地のウジ虫にも劣る。万物の中におけるサタンの役割は、万物に仕え、人間のために仕え、神の業と神の経営(救いの)計画に資することである。サタンの本性がいかに悪意に満ちているか、その本質がいかに邪悪であるかによらず、サタンにできることは、神に仕え、神に対照を提供するという、その機能に従順に従うことのみである。これがサタンの本質であり位置づけである。サタンの本質は命や力、権威から切り離されており、サタンは神の手の中にある玩具のようなもの、神のための役立つ道具に過ぎない。」『言葉は肉において現れる』の「 唯一無二の神自身 1」より