石田三成は元禄3年(1560)近江国坂田郡石田村(長浜市石田町)の土豪の次男として生まれる。
秀吉が近江長浜城主となった天正2年(1574)頃、父と兄と共に秀吉に仕官。
長浜駅前の出逢いの像
天正13年(1585)、秀吉の関白就任に伴い25歳で従五位下治部少輔に、30歳で
佐和山10万石(後に19万4千石)の領主となる。
井伊家の城 彦根城 石田三成の城 佐和山城!
http://www.youtube.com/watch?v=SrRtH_w2_as
「太閤記」には「三成は諫に付ては、我が気色取らず。諸事有る姿を好みし者なり。」
と記され、おべっか使いでなく、規律を守る真面目な人だったと考えられます。
佐和山城跡近くの佐和山遊園(滋賀県彦根市古沢町 JR彦根駅から徒歩15分)
佐和山城らしい
金閣寺のような
どっかの鐘楼
工事中の建物もあります
建物の維持管理が不十分で、見学には度胸を要す。ヘルメット・安全帯の着装をお勧めします。
慶長5年(1600)9月、関ヶ原の合戦で善戦するも、小早川秀秋の裏切りで惨敗、
同年10月 京都六条河原で刑死。享年41、京都大徳寺三玄院に葬られる。
明治40年、三成の墓が発掘調査された。
後にその資料から復顔や骨格が分析され、「女性のような骨格、面長、鼻は高く、
かなりの反っ歯、身長156cm前後」と報告されている。
石田三成は大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)と記された紋を用いたとされ、
「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味だそうです。
続く