okinatchiの四次元徘徊記

 毎日の出来事を書き綴ります。

8月17日

2014-08-17 16:46:45 | 日記
 8月17 日(日)
 曇り。 朝6時の屋外の気温は25℃であった。早朝の時事放談は御厨貴氏の司会の下で元外務官僚の田中氏と武村氏とが、北朝鮮による拉致問題に関連した様々な話が行なわれていた。

 今日は涼しい朝だったので実に久し振りにエアコンを止めて室内に外気を還流させたら、室温が外気温と同じ25℃になったのをみて、本当に今日は涼しい日であることを実感した。

 夕方まで寝転んでTV画面を見ながら寝たり起きたりの有様であったが、夕方になって室温が上がり湿度も上がったので、エアコンを動作させた。

  久し振り 涼しい夏日 ゆったりと  徘(徊)人 okinatchi

8月16日

2014-08-16 18:00:21 | 日記
 8月16 日(土)
 曇り、雨。 朝6時の屋外の気温は28℃であった。Sa新聞を読んだら、三十数年間も世界に向かって従軍慰安婦について大嘘の情報を発信し続けてきたA新聞を激しく非難している各方面からの意見が載っていた。私は旧制中学校の入試に備えるために大東亜戦争が始まる前年からA新聞を読み初めていたのだが、その頃のA新聞はABCD包囲網のこと、風雲急を告げる日米交渉のこと、大東亜共栄圏を構築するためと称して日本国民を無謀な戦争へと駆り立てるような主張を報じていたことなどを記憶している。

 大東亜戦争の敗戦によって我が国は無一文になり、オキュパイド ジャパンとして連合国軍総司令部(GHQ)の指令の下に新憲法が制定されたり、その後、日本中の工場から使用できる機械が総て賠償品として諸外国に持っていかれてしまったり、絶対的に不足していた食糧を奪い合いながら暮らしていた大勢の飢えた国民が、お先真っ暗の将来を案じながら過ごしていた頃のことを覚えている人も少なくなっている現在、日本を立ち直らせたきっかけが朝鮮動乱であり、あの頃、日本橋近くの川の中にも大勢の人が鉄屑拾いをしていた情景を思い出す人も少なくなっているのだろう、と思った。 
 
 お昼近くのTV番組で、著作権期間の戦時加算の問題が論じられていたが、その問題の話を聞きながら、昭和20年代に実施された工業所有権についての戦時特例による優先権主張期間の延長のことを思い出した。

 日本が起した大東亜戦争の結果、それまで欧米各国の植民地だった多くの地域が独立国になったという事実が、後世における大東亜戦争についての記述中にどのように残されるのだろうか。

 午後、To子さんが風呂屋に出かけていった。私は寝転んでTV画像を眺めて過ごしていた。夕方、ボクシング試合のTV番組を視聴した。世界ミニアム級統一戦で高山選手が外人選手のロドリゲスからタイトルを奪われたのは残念だった。観戦していて もの凄い殴りあいの連続だったので吃驚の連続だった。

  ボクシング 連打の嵐 渦巻いて  徘(徊)人 okinatchi

8月15日

2014-08-15 23:29:40 | 日記
 8月15 日(金)
 晴れ。 朝6時の屋外の気温は27℃であった。8月15日に日付けが変わって直ぐに、今から69年前の終戦の日の思い出や大東亜戦争、支那事変の頃における大日本帝国の国内の状況などを日記に書いて午前2時頃に就寝した。

 午前8時前に友人宅につく。午前10時過ぎに買い物に行くために外にでたらカンカン照りだったが、今日は湿度が低く、かつ風があったので、そんなに暑いとは思わなかッた。

 買い物は大荷物となったので持ち運ぶのが大変だった。昼食時にビールを飲んだらうまかった。午後3時前に帰途についた。帰宅して夕食を摂って暫くしたら睡魔に襲われたので横になったら眠ってしまった。

 午後10時過ぎに目覚めてTV番組を視聴したら、大東亜戦争の終戦時に満州でソ連軍に追われて酷い目に遇った人達の証言を聞くことになった。その人達の話は涙なしには聞くことが出来なかった。戦争は絶対にしてはいけないということを改めて思った。

   戦争の 悲惨さを知る ハチイチゴ  徘(徊)人 okinatchi

8月15日

2014-08-15 00:56:54 | 日記
  8月15日(1)
 曇り。 毎年の8月15日になると、いつも昭和20年8月14日から8月15日にかけて大日本帝国陸軍東部軍管区の若手将校達が大東亜戦争の終結に反対するためのクーデタを計画して実行に移したが失敗したこと、この事件の陰で近衛師団長がクーデター側の将校によって射殺されたこと、昭和天皇の終戦の詔勅を録音した録音盤がクーデター側に奪取されなかったことの真相、終戦時に複数の陸軍の高官が自決したことなどや、68年前の8月14日~8月15日に東部軍管区の一部将校によるクーデタ騒ぎが鎮圧されなかったならば、今の日本は無かったかも知れない、などのことを回想する。

 昭和20年8月15日のことは69年後の今でも鮮明に思いだされる。昭和20年8月15日、東北地方のY県立T中学校の4年生(最上級生)であった15歳の私は、その日も前日までと同じく朝の8時前に学徒動員先の飛行機製作工場の守衛所のタイムカードを押してから作業場のある建物に向かった。

 その日の正午に天皇陛下が重大放送を行うから全国民が聞くように、という予告が繰り返して行われていたから、職場の朝礼前に作業場に集まっていた大人の工員達や学徒動員の同級生達は、前代未聞の天皇陛下の放送内容がどのようなものか、という点について、各人が憶測した内容を盛んに喋りあっていた。 多数の人達の憶測発言の内容の略々100%は、本土決戦に向かって国民が決意を新たにして云々…、というものであった。

 ところで、その日の数ヶ月前頃から私達が学徒動員で働いていた工場に対する原材料や部品などの供給が途絶する事態が多くなっていて、原材料や部品がないために手待ちの状態が多くなっていたので、このような状態では戦争を続けることは到底無理なのでは? と、誰もが心の中で呟いていたことと思う。

 しかしながら、あの当時に、そのようなことを口の端にのせるだけで、即、特別高等警察(特高)や憲兵に連れていかれる、というような雰囲気だったので誰も本音を話せなかったのだ。 正午近くになって工場中のすべての人間が工場の建物の間の空き地に集まり、きちんと整列して天皇陛下の放送を待っていた。

 その日の空はからりと晴れていて、澄みきっていた青空の中に真夏の明るい太陽が輝いていた。正午になって天皇陛下の重大放送が始まった。 スピーカーから流れでたアナウンサーのアナウンスに続いて天皇による終戦の詔勅の声が流れ始めたが、その声は大きな雑音でマスキングされていて良くは聞えなかった。

 途切れ途切れに聞える単語をつなぎ合わせても、何を言っているのかが良く判らなかったが、「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍んで云々、」という言葉を聞いて、アッ!これは戦争を止める、ということらしい、と思い当たった。

 重大放送なるものが終わっても、誰も、その内容をはっきりと聞いたわけではないので、どうも、戦争を止めるらしい、と小声で話し合っていた。 重大放送時の雑音は重大放送を国民に聞かせまいとして日本軍が放射した雑音電波であったとの事実が後で判明した。

 その後のラジオニュースによって、大日本帝国がポツダム宣言を受諾して連合国に無条件降伏をしたことが明らかになり、私達は、とりあえず直ぐに隊列を組み学校に向かい町中を行進して中学校に帰校した。

 私達の中学校は東京の大手の電線会社の疎開先に指定されていたので、久しぶりにみた学校は運動場に多数の捲線機や材料などが所狭しと置かれていたり、工場にするために雨天体操場の床も取り除かれて地面が露出した状態になっていた。

 学校では学徒動員が解除されたので、とにかく明日から学業に復帰させることにする、との話を聞き、解散して帰宅した。 学校から家までの帰り道で、あ~、これで当分は死ななくても良くなった、と、心にわだかまっていたシコリが消えて行くのを感じていた。

 学校から家に戻ったら、とにかく戦争が終わった、ということで、祖母が近来になく和やかで明るい顔つきをしていた。戦争が終わったという実感は、その日の夕方から灯火管制が行われなくなったことにより、どの家からも明かりが外に漏れている情景を見たときに強く感じた。

 その頃の日本国民は「我が国は、古来、他国に負けたことがなく今度の戦争にも最後には必ず勝つ」というように教え込まれていたので、誰一人として戦争に負けるとどうなるか? などとということは判らなかったので誰も為すすべも知らず、したがって町は平穏を保っていた。

  終戦の 日の出来事を 思い出し  徘(徊)人 okinatchi

8月15日

2014-08-15 00:48:23 | 日記
  8月15日 (2)

 私の故郷のY県T市は満州事変の計画立案者とされている石原莞爾氏が生まれ育った地であり、この石原莞爾氏は陸軍幼年学校に進学するまで、私が通学していたY県立T中学校に在学していたのである。前記の石原莞爾氏は東条英機氏から斥けられて退役軍人にされ、この時期には生まれ故郷のY県T市に住んでいて東亜連盟という団体を主宰しており、石原莞爾氏は戦争終結時には私の住居と同じT町内に住んでいた。

 私が住んでいたT市T町の町内会長Sさんは、日本国の敗戦という重大事の勃発に際し、同じT町内に住んでいた石原莞爾氏に「日本の敗戦に伴って日本国民はどのように対処すべきか?」などについての講演を依頼したところ、しぶしぶ承諾してくれたというので、8月16日の夜にT町内のR寺の本堂で講演会を開くことになったという回覧板をT町内に廻した。

私と兄とは石原莞爾氏の講演を聞きにR寺の本堂に行った。その夜の石原莞爾氏の講演は主として東条英機氏を攻撃する内容のものであったが、また石原莞爾氏は持論が世界最終戦論なので、当然のことながらアメリカとの最終戦争のことも話にでていたし、さらには戦争に負けた国の国民は戦勝国からどんなに酷い仕打ちを受けても耐え忍ばなければならない、という話もあり、聞いている内に段々と不安になり暗い気持ちになって重い気持ちで家路についたのであった。

 その後の日本国は、アメリカ軍の占領下でアメリカ製の新憲法を押しつけられたのを始めとして、アメリカの気の長い半世紀にわたる日本の弱体化政策の成果として古き良き日本は姿を消し、現在の日本国へと変わってしまったのである。

 今から84年前、私が生まれた頃は昭和大不況の真っ只中で、後年「大学は出たけれど」と表現されている時期であった。 満州事変が終わり満州帝国が建国されて、日本各地から満州への移住が盛んに行われはじめた頃から、景気が上昇に転じて失業者も減りはじめたらしく、私が4歳になった頃には大人達の会話の内容が不景気の話から、満州への移住者が匪賊に襲われた話とか、物価が高くなって困ったなどの話に変わっていたように記憶している。

 ところで、昭和12年(1937年)7月7日の夜に蘆橋溝の銃声で始まった戦争が長引いて行くのにつれて、町の中からは次第に若者の姿が消えて行くとともに、商店に並んでいる商品の種類や数量が減っていき、物価上昇が激しくなり、大人達の会話も物価高についての事柄が多くなっていた。

 戦争が長引くにつれて物資不足が深刻になり経済体制が統制経済に変わり、お金があっても配給通帳や配給切符などがなければ物を買うことができないことになり、配給通帳や配給切符無しで売買される物資、所謂、闇物資は、売買行為が犯罪とされて刑事罰が科せられるようになった。

 また隣組制度の実施により数軒の家毎を単位にして隣組が結成されて、隣組単位で消防訓練が行なわれたり、毎月、隣組毎に割当てられる国債の消化を隣組の共同責任とされたり、隣組組織がお互いの家の監視のために用いられたり、配給物資の分配態様が隣組組織内の相談によって決定して実施されるようにするためなどに用いられた。

 国策に反する言動をする人は非国民として密告されて特別高等警察や憲兵隊に連行される、というので、多くの国民は貝のように口を閉じていなければならなかった。この時期を生きてきた人は戦後の自由な時代が到来した後でも、直ぐには自分の意見を言う事をためらっていたと思われる。大東亜戦争が始まった日の昭和16年12月8日の朝に、私の母親は「アメリカやイギリスと戦争をしたら、負けてしまう」と呟きながら、暗い顔をしていた。小学6年生の私は、母親に「そんなことをしゃべると警察に連れていかれるから、他の人に聞かれなように」と、きつく言ったことを覚えている。

 その頃の大日本帝国の状態は、どこに特別高等警察のスパイが聞いているのか判らない、ということを幼い小学生でも常識として知っていて、壁に耳あり、と、話の内容に気をつけて話さなければならなかったのである。そのような雰囲気の中で、ハワイの米国太平洋艦隊を撃滅させるという大戦果を挙げた大日本帝国の開戦日に、母親が、日本は英米には勝てない、などと、言うものだから、孝行息子は吃驚仰天したのである。このような経験のある私は現在の北朝鮮の人達も、戦時中の日本のような状態で暮らしているのであろう、と気の毒に思っているのである。

  特高の 影におびえて 口つぐみ  徘(徊)人 okinatchi

8月15日

2014-08-15 00:28:25 | 日記
  8月15日 (3)
 日本国はもともと資源が乏しい国であったから、昔から物を大切にする習慣が根付いており、江戸時代からリサイクルシステムも構築されていたが、特に、戦時中のように釘一本にいたるまで、手にいれることが困難な時期には、ゴミとして捨てられるものは皆無であったために、戦時中の街中はゴミのない綺麗な状態であったし、街の中を流れる川の水も目を疑うように透明な状態になったことを知り驚愕したことを記憶している。

 また、燃やすものも乏しかったから日本国の空は、どこまでも澄みきったきれいな青空であった。つまり、戦時中の日本国は山紫水明の地であった。 その頃の日本国の平均寿命は50歳にも達してはいなかったが16歳から40歳くらいまでの男子は、死にそうな病人以外は徴兵令や徴用令によって連れ去られていて、戦前には相手にされていなかった知能の遅れている人も動員されていて失業率がゼロの状態であり、街には女子供と老人だけが残されていたのである。

 街中にあった銅像、塀の金属板、寺の梵鐘などは勿論のこと、家庭内にある不使用の金属製品等々、などがすべて戦争遂行のための重要物資として供出させられたのである。 このような状態で戦った末に負けてしまった国の悲惨な状態は、その当時に判断力を持って生きていた人以外には判らないであろう。 そして、昭和20年(1945年)8月15日に戦争が終わったときには、日本国内には飢えた1億の人間だけが居たような状態になっていた。
  
 私は戦時中の旧制中学校三年生の時に、現在の山形空港として使用されている海軍航空基地を建設する作業に、所謂、土方として学徒動員されたこともあったが、15歳の私達が作業に従事した海軍航空基地は軍の施設であるのに、その頃の日本国には軍用飛行場の滑走路の舗装材も調達できないという哀れな状態になっていて、滑走路の舗装材としては、徴用令で集められた大勢の桶屋さん達が、桶のタガに使用するような割り竹を網状に編んだ状態のものを滑走路上に敷き詰めて滑走路の舗装にしようとしていたのである。

 戦時下の日本で なによりも優先されていた軍の施設においても、上記のような哀れな状態であったのだから、一般家庭における困窮の程度は推して知るべしである。 国力を使い果たして戦争に負けた後の我が国の状態の哀れさは、昭和ニ桁生まれ以降の人には実感としては判らないのではないかと思われる。

 私は中学3年生と4年生のときに同級生とともに学徒動員令によって派遣されたT市の飛行機工場(防牒のために「東北神第1xxxx工場」などと呼称されていた)で、旧日本海軍の夜間爆撃機「銀河」のトラップの左肋材組立作業を行なっていた。

 その時期に覚えた電気ドリル、エアーハンマーなどを使用しての色々な工法、金属加工技術のノウハウなどは、その後に大いに役だっている。 最近、何かの本で読んだのだが、旧日本海軍の夜間爆撃機 銀河 は終戦時までに百数十機生産された、とあったが、終戦直前の時期に双発の爆撃機が実戦に役立ったのかナ?と思った。 この旧日本海軍の夜間爆撃機 銀河は、記号の付けかたからみて横須賀海軍工廠が設計したものと考えられるが中々に良い飛行機だったそうである。

 夜の大空に横たわる銀河、満天の星。 子供の頃にみた夜空の様子である。東北地方の日本海側で古くから稲作地帯として有名な庄内平野にある旧城下町(小説家 藤沢周平の小説中にでてくる海坂藩の城下町)であるT市が私の生まれ育ったところであるが、子供の頃のT市には街灯も殆ど無かったので夜は満天の星明かりで夜道を歩いていた。

 私が生まれた昭和の初め頃のT市は、○○郡T町からT市に変って間もなくであったが、昭和の大不況下の当時のT市には電灯の無い家(電気会社…後年の電力会社…と契約していない家)も少なくは無かった程に電気代が高かったこともあってか、複数の間数の家に住んでいても電気会社との間で1灯契約をしていた家庭が多く、当時は必然的に街灯の数も極めて少なかったのだ。

 戦争が激しくなって敵機が来襲するようになると、敵機からの攻撃目標にならないようにするための灯火管制が行なわれて夜の町は暗かった。 このように私が故郷で暮らしていた頃は、夜ともなれば外は月明かり、星明かりの世界となっていたのである。

 小学校のころ星空の勉強のために小学校の校庭で空を眺めて、北の空に北極星や北斗七星を先生から教えられたときのこと、戦時中に夜中の空襲警報の発令とともに飛び起き、素早く身支度をしてゲートル(巻脚胖)を巻き、星明りの下の暗い道を学校まで走っていって、学校に着いたときに見上げてみた綺麗な星空の状態などは今でも鮮明に目蓋に浮かぶ。

 現在の私は東京のど真ん中に住んでいるので星影を探すのにも苦労している状態なのだ。 夜、地上60米の窓越しに、地上の銀河のように広がる東京の街の灯の海を眺めていると、貧乏性のせいか凄い電力消費量だろうなあ、などと思ってしまうのである。 今でもT市では夜空に銀河が横たわって見えているのだろうか? などと、大日本帝国海軍の夜間爆撃機 銀河 と関連して天空の銀河のことを思い出していた。

  子供でも 学徒動員 飛機作り  徘(徊)人 okinatchi

8月15日

2014-08-15 00:11:49 | 日記
  8月15日 (4)

 大東亜戦争が始まってから3年目になると日本国の昼中には老人、婦女子、子供の姿だけしか見られなくなっていた。戦争のために大人達が戦場に駆り出され若者は軍隊や軍需工場に、壮年者は徴用令で土木工事や軍需工場に、また学徒動員令により14~15歳の私達中学生も労働力として駆りだされて、土方、工員などとして年中無休で働かされ、当時、国からは学徒1名に1ヶ月¥50.の給料が支払われた。

 この給料の金額のことを一般の女子工員に話したら、女子工員から自分の給料は一ヶ月に¥35.だから羨ましい、と言われたことを覚えている。学徒動員で国から支払われた給料は、学校が各人の郵便通帳に貯金しておいてくれていて、卒業証書と一緒にわたされたが、数年間の汗の結晶の貯金額の¥1500.も、インフレのために1冊の「無線工学ポケットブック」しか買えなかった。

 結局、中学校での4年間の内の後半の2年間は、力仕事や手先を働かす技の仕事、等々、で費やされてしまったのだが、その間、親元を遠く離れた土地での同級生との合宿生活(軍隊組織の形態)などを通じて、この世にいる内に地獄の状態を経験することができた、など平和な時代では得ることができない様々なことを経験できたことは良かったんだなアと回顧している。

 戦争末期になってラジオからは「海ゆかば」の音楽に続いて特攻隊の兵士の戦死のニュースが流れることも珍しくなくなり、また、学校での軍事教練では蛸壷の中に爆弾を抱いて身を潜めて、敵の戦車が蛸壺の真上を通過したときに爆弾を爆発させて死ぬ、という訓練が行われるようになった。 東北の秋の空はどこまでも青く、町中は静かであった。 その青空を眺めながら、15歳の私は何時訪れるかも知れない死を思い、死にたくない、と考えていたのだった。今、83歳になって、毎朝の新聞の死亡者の記事を読んで思う感慨とは全然違っていた思いを抱いていたことを思い出した。

 戦争が終わって学徒動員から開放されて中学校に戻って授業が始まっても、食べ物もない状態なので、体育の授業のときには、教師が授業の始めに、空腹では体操もできないだろうし、水腹も一時というから腹一杯に水を飲んで来い、というような有様であった。

 とにかく、国敗れて山河在り、の状態で、街には米兵相手の売春婦が集い、国中に飢えている多くの人間の他にはなにもなく、たとえば電力不足のために、毎日、計画停電が実施されていたなど、どう考えても明るい未来があるなどとは思えないオキュパイド ジャパンだったのであり、あの当時には今の飽食の状態などは想像もできなかったことである。

 そして、戦後のインフレーションの物凄さは、あの当時に物心がついていなかった人には実感としてわからないであろう。 昭和20年(1945年)の8月半ばまで続いた戦争が終わりをつげ、国敗れて山河あり、という語句の意味が身に沁みるように納得できた当時は、食糧もなく、電力もなく、毎夜、きまって停電が生じていた。

 停電になっても物資不足の当時には照明用の懐中電灯はおろか、蝋燭もなく、私の生家では鮫の肝臓を煮て得られる油を入れた容器中の油に灯心を立てて構成した灯具を用いて停電時の明かりとしていた。
 
食糧不足のために、米に大根、ジャガイモ、甘藷、野菜などを混ぜて量を増やした状態としたご飯の少量を、未来への希望もない暗い不安な気持ちで、停電のために暗い状態の室内で食べた経験を有する人も、少なくなってきている。

 敗戦後の占領下の日本国は、戦争が終わるまでは日本人であったが戦争の終了により外国人になってしまった人達の内の一部の人達が日本国の法律を無視して暴れまわるのをどうすることもできず、使い物になりそうな工業設備は賠償のために国外に持ち出されてしまい、残されたのは腹をすかし、インフレーションに苦しめられている1億の人間だけ、という、将来への夢も希望もない情けない情況であったのだ。

 朝鮮半島で戦争が起こり、北から攻めてきた軍隊が米軍を朝鮮半島から駆逐する直前の状態にまで追い詰めた頃には、九州にも空襲が行われるのでは?などと、いう話が流れたり、北海道にソ連軍が攻めてくるのでは?などと、本気に心配したものだった。 そのころ、私は某官庁の寮に兄と一緒に住んでいたが、夜になると若い官僚が集まって日本の将来について熱っぽく語り合っていたものだった。 

  国破れ 飢えた国民 世に溢れ  徘(徊)人 okinatchi

8月15日

2014-08-14 23:39:41 | 日記
  8月15日 (5)
  有名なTV番組の「おしん」では、貧乏のために大根めしを食べている話がでていたが、戦中戦後の食糧不足の時期には足りない米を補うために、ご飯の中に野菜や野草、その他のものを混ぜて食事の分量を増やしていた。

 お米の配給量としては一人1日3合(1合は0.18リットル)のように決められていたのであるが、日本国で収穫される米の量は日本国民の全員に1日1合の配給を行うのには不足していたから、配給される食糧は米だけではなく、米の代わりにサツマイモであったり、高粱であったりしたこともあった。 そして、その頃は米の配給通帳(米穀通帳)が身分証明書としても使用されていたのである。

 街の食堂などで食事をするときには、区役所に提示した米穀通帳に記帳された上で発行してもらった外食券を店に提出しない限り外食ができなかった。 それで、その頃の勤め人は少数の例外の人を除いて、家から弁当をもって勤務先に出勤していたのであるが、その当時に独り者で自炊生活をしていた私は、米の配給の代わりにサツマイモがどさっと配給されたときには、毎日、弁当箱に茹でたサツマイモを詰めて勤め先に行ったものでした。

 外食券なしでも外食ができるようになったのは、昭和20年代の終わりか昭和30年代の始めころであった、と記憶している。 現在は残飯が街中に溢れていて、それで烏が大繁殖をして困っている、などという、とんでもない事態になっている。 地球上には飢えに苦しんでいる大勢の人達がいる、というのに。 今の日本には飢えに苦しんだ経験のある人は少なくなってしまっている。

 現在の日本国の食糧の生産能力は日本国民を飢えさせない量には満たないから、海外から食糧の輸入が止まるような事態が生じたら、日本国には戦争中と戦後の餓鬼の世が再現されるであろう。 海外からの食糧の輸入がとまるような事態としては、日本国に食糧を輸入するための外貨があっても、天災、地変、戦争などによって外国から食糧の輸入が出来なくなるとき、あるいは、日本国に外国から食糧を輸入するための外貨がなくなってしまったとき、などが考えられる。

日本国は私が某官庁に勤めていた数十年前には国際収支が赤字であったり黒字であったりの状態で、勤め先の官庁での毎月の省議報告における国際収支の状態が知らされる度に一喜一憂していた貧乏国だったのであり、今の日本国の状態では元の木阿弥で貧乏国に逆戻りすることがないともいえない。 私はそんな日本国の姿を見たくはないのだ。 

  配給の 思い出苦き 終戦後  徘(徊)人 okinatchi

8月14日

2014-08-14 18:34:07 | 日記
 8月14 日(木)
 曇り、雨。 朝6時の屋外の気温は27℃であった。朝、久し振りに住居前を30分間ほど歩いた。湿度が高いために少し歩いただけで汗びっしょりになった。風呂場で汗を洗い流し汗で濡れたシャツを洗ってから朝食を摂った。

 Toさんから電気掃除機を買ったから組み立てて欲しい、といわれたので、宅配便で配達されてきたボール箱を開けてみたらダイソンの電気掃除機が出てきた。取り扱い説明書らしいものは漫画の絵のようなものが入っていたが、日本語での詳細な説明文がなかったので記載内容を理解するのに手間取った。英文の説明文らしい文書はもの凄く小さな文字で書いてある印刷物だったから老眼では到底読み取ることが出来なかった。

 今日は湿度が高く過ごしづらい日だと思っていたら午後になって雨が降ってきた。玄関の前に油蝉がひっくり返っていたので靴先きでどけようとしたら突然飛んで逃げて行ったので吃驚し、蝉はどういうときにひっくり返った状態になっているのだろう、と考えたのは、最近、屡、路上などにひっくり返った状態で生きている蝉を見かけることがあったからである。

 天気予報で ここ暫くは雨模様の日が続くと報じていたが、こんな天気が続いたら今年の稲作はどうなるのだろうと心配になる。 

      稲作が 心配になる 今日の空  徘(徊)人 okinatchi

8月13日

2014-08-13 19:49:40 | 日記
 8月13 日(水)
 晴れ、曇り。 朝6時の屋外の気温は28℃であった。午前7時半ころに友人宅についた。午前10時頃にコンビニエンスストアLとスーパーマーケットSGに買い物にでかけた。買い物から戻ってから友人に頼まれて茹で卵の味付けを行なった。午前11時過ぎにA・Kaさんが訪ねてきた。

 A・Kaさんも一緒に昼食を摂った。A・Kaさんは最近、俳句作りにのめりこんでいるらしく、作品を見せてくれたが、中々、立派な俳句を作っていたので吃驚仰天した。
 
 午後2時過ぎに帰途についた。バスの中は涼しく快適だった。携帯ラジオで聞いたニシカワ アキラという人のベートーベンの音楽についての話はとても参考になった。家に戻る途中で買い物をしたが、店を出て歩き始めた途端に雨粒が頬に当たったので大急ぎで家に帰ってきた。

   帰り道 雨粒に触れ 逃げ帰り  徘(徊)人 okinatchi

8月12日

2014-08-12 21:25:27 | 日記
 8月 12 日(火)
  曇り。 朝6時の屋外の気温は28℃であった。所謂、慰安婦問題について大嘘記事を書いて以来の三十数年間を知らん顔をしていた朝日新聞が、慰安婦報道の大誤報を認めた記事を出したが、木村伊量社長の記者会見も開かず、謝罪もしない朝日新聞に対する疑問や批判が国内で渦巻いている。

 朝日新聞による嘘情報に乗っかって福島瑞穂氏や岡崎トミコ氏も日本を貶めるような行動をとっていたが、この人々も謝罪をするつもりがあるのだろうか?

 私は旧制中学校の3年生と4年生の期間に学徒動員されて,女子挺身隊の人達と一緒に日曜日も休まずにお国のために働いていたことがあったので、朝日新聞社の記者が女子挺身隊と従軍慰安婦とを混同した記事を書いたなんて! と私は絶句した。

 兎に角、従軍慰安婦の問題で日本がとんでもない国として世界中に喧伝される基を作った朝日新聞は、その罪を償うために全力を尽くすべきであろうと思う。

 夕方に買い物にでかけたが、空は厚い雲に覆われており道路が雨で濡れていた。買い物を済ませて家に戻る頃に小雨が降ってきた。夜,健康に関するTV番組を視聴した。100歳以上の爺さんや婆さんが逞しく生活している多くの実例が示されたのをみて、これからの日本がボケもせずに元気に働いている100歳以上の爺さん婆さんで満ち溢れている状態になればいいな~、と思った。

 韓国のパク クネ大統領はシャカリキになって慰安婦の問題で日本を貶めようとしてきたのだが、先ごろから韓国内でパク大統領の父親が米軍のために慰安婦を用意していたことが問題になってきたことで、パク大統領はこの問題を一体どのように処理するのだろうか、と大いに気になった。結局、パク クネ大統領は日本を貶めようと世界中に触れ回った慰安婦の問題が、自国内でも同様に行なわれていたことで天に唾した結果となるのでは? と思われ気の毒になった。

   日本を 貶めるはず 自国をも 貶めること になるかパク氏  徘(徊)人 okinatchi

8月11日

2014-08-11 22:35:33 | 日記
 8月 11 日(月)
 晴れ。 朝6時の屋外の気温は18℃であった。起床して直ぐに戸外に出た。まだ日の出前の薄暗い空を見上げたら南から北の方向に凄い速さで流れていく雲の塊が見えた。時々、横殴りの風が身体に当たる瞬間に涼しさを感じた。

 午前8時前に友人宅につく。友人から頼まれた品物を買いに午前10時過ぎに友人宅を出て近所のコンビニエンスストアLに行き、買い物を終えて一旦友人宅に戻り、買い求めてきた品物を友人宅に置いてから、直ぐに再び外出してスーパーマーケットIに行く。スーパーマーケットIでの買い物を終えてからバスに乗り友人が服用している医薬品の処方箋を貰いにMo医院に向かう。

 Mo医院に行ったところ、Mo医院は今日から夏休みだったので友人宅に戻る。友人宅には訪問看護師のO・MiさんとケアマネージャのNa・Suさんがきていた。O・MiさんとNa・Suさん達が帰っていってから摂った昼食には、先日、To駅近くの米屋で魚沼産のコシヒカリと称して売っていた高い値段の米を食べたが、5kgrで5000円もした米だというのに、炊き上がっても いい匂いもしない米だったので落胆した。

 午後3時頃に帰途につく。午前中にTo子さんからの電話で、今日の午後5時ころにD證券の人が訪ねてくる、みたいな話を聞いていたので、今日はバスと電車とを乗り継いで急ぎ家に戻ってきたのだが、To子さんから、今日,D證券の人がくるとは言わなかった、と言われたのでガックリした。

 全身が汗びっしょり状態だったので、直ぐに風呂場で汗を洗い流したり、汗まみれの衣服を洗濯し終えてから夕食を摂る。夕食後、パソコンに向かったが、睡魔が襲ってきたのでTo子さんに、午後9時に起してくれ、と頼んで横になった。

 午後9時にTo子さんから揺り起されたときには、ボケた頭では何事が起きたのだろう?と思ったが、アッそうか! とTo子さんに午後9時に起してくれ、と頼んだことを思い出した。

 目に飛び込んできたTV画面には昨日の台風でやられた水害の模様が映っていた。日本の大部分が水害に見舞われ、水稲が水没している風景をTV映像で見せられると、今年の稲作の状況はどうなるのだろうか? と心配になる。

  水害の 有様を見て 水稲の 今年の出来に 心配しきり  徘(徊)人 okinatchi

8月10日

2014-08-10 09:40:36 | 日記
 8月10 日(日)
 雨。 朝6時の屋外の気温は27℃であった。起床して直ぐに外の様子を見たら雨が降っていたが風は強くなかった。TVニュースでは台風11号が四国に上陸しそうなことを報じていた。

 朝のTVニュースショウ番組で、朝日新聞が32年前から吉田証言に基づいて従軍慰安婦の問題を報じてきたことについて、先日の新聞紙上で誤報であることを認めたことに関連して出演者達が大論争をしていたが、出演者の一人の大阪市長の橋下氏の話は極めて明快で同感できた。

 朝日新聞社は32年前からの従軍慰安婦の問題についての誤報の繰り返しにより、結果的に日本国を貶めることになってしまっていることに対し、出演者の一人が主張していたように、日本国の名誉を回復するために数百億円もの金をかけてでも、全世界に従軍慰安婦の問題についての誤りのない情報を発信すべきであり、それができないならば、誰も朝日新聞を購読しないようになることを覚悟すべきだ、という説示内容は極めて尤もだと感じた。

 台風11号が各地に大量の雨を降らせている様子がTVニュースや天気予報で報じられているが、TV画面で稲が水没している様子などが映出されるのをみると稲作農家のこと、今年の米の収穫量のことなどが心配になる。

  台風で 稲作のこと 気にかかり  徘(徊)人 okinatchi

8月9日

2014-08-09 20:04:18 | 日記
 8月 9 日(土)
 曇り。 朝6時の屋外の気温は29℃であった。起床して直ぐに玄関のドアと台所の窓を開放した状態として、玄関の外の気温、玄関から台所に繋がる廊下の気温、台所内の気温の測定を行なったところ、玄関の外の気温が29℃、玄関内と廊下の気温は30℃、台所内の気温は32℃だった。なお、台所の窓際に置かれている冷凍機の放熱板から台所の窓に流れている空気流の気温は39℃であり、ドアや窓を閉じて外気と遮断状態にしてエアコンを動作させてある部屋内の気温は27℃だった。

 昨年までは台所の窓も閉じた状態とし、家中の空気が連通しているような状態でエアコンを動作させていて、台所の大型電気冷蔵庫や冷凍庫から放出された熱もエアコンの動作を介して外気に放出させるようにしていたから、随分と高い電気料金を払い続けていたことを確認できた。

 台風11号の進路が少し西側にずれてきたようなので、東京直撃はなさそうだと一安心した。朝から横になってTV画面を眺めながらグータラに過ごしていたが、高い気温の屋外を出歩くよりも安全かも知れないと思った。

 
 「朝鮮人女性を強制連行した」という吉田清治氏の証言が、三十数年前の朝日新聞に事実として報道されたことによって日韓関係に大きな影響を与えたり、全ての教科書にも「強制連行」の記述が出たのも事実だ、などのことを、朝日新聞が三十数年前の記事を取り消したことに関連して安倍総理が語ったことが伝えられていたが、本当に朝日新聞は日本を貶めた売国奴的な悪い奴だ! と思った。

 朝日新聞は罪滅ぼしとして、全世界に向けて繰り返し繰り返し、自社の過去の過ちについて説明して、日本国の名誉を回復させるための努力をすべきではあるまいか。そうでもしなければ朝日新聞の購読者が居なくなるかもしれないな、と思った。

 韓国の李明博前大統領が竹島に上陸してから、新大久保駅付近の韓国人経営の店の客が減少していき、これまで韓国の複数の元大統領も訪れた事もある、という有名料理店大使館も8月15日で廃業することになった、というような惨状を呈していることがインターネットで報じられていた。パク・クネ大統領の反日的な言動が繰り返されている状況下では、多くの日本人が韓国嫌いになるのは当然だろうな~、と思う。

   韓国の 有名店が 店じまい  徘(徊)人 okinatchi

8月8日

2014-08-08 23:35:45 | 日記
 8月8 日(金)
 晴れ。 朝6時の屋外の気温は29℃であった。今日は午前10時40分に友人がO駅近くのNo歯科診療所に行くことになっており、出かける前に洗濯作業を終えるようにしようという予定になっていたので、いつもよりも1時間ほど早く家を出て午前7時ころに友人宅についた。

 直ぐに、洗濯作業を開始したが、空模様が次第に怪しくなってきたので困ったな~、と思った。洗濯を終えた衣類を物干し竿に干し終え、改めて空模様を見たら今にも雨が降ってきそうに状態になっていた。

 午前9時過ぎに友人から頼まれて近所のAクリニックに目薬を受け取りに出かけ、目薬を受け取って友人宅に戻る途中で頬に雨滴が当たったように感じたので急いで友人宅に戻ったが、パラパラと次第に増えてきた雨滴を気にしながら、物干し場に乾しておいた衣類を急いで屋内に取り込んだ。

 午前10時少し前に、車椅子に乗った友人を連れてJi駅に行き、Ji駅から電車に乗ってO駅で降り、友人をNo歯科診療所に連れて行く。友人がNo歯科医師の診察を受けている間に、私はO駅近くの和菓子屋に行き、友人から頼まれた和菓子を買ってNo歯科診療所に戻る。

 午前11時25分ころに車椅子に乗った友人を連れてNo歯科診療所を後にし、O駅から電車でJi駅まで行き、Ji駅近くの商店で買い物をしてからJi駅近くの蕎麦屋Saに行き昼食を摂る。昼食を済ませてから友人宅に戻る。

 午後2時過ぎに友人宅にJi・Aさんが訪ねてきた。自転車に乗ったJi・Aさんが友人宅近くで自動車と接触事故を起したとのことで、暫くしてJi・Aさんの知人がJi・Aさんから頼まれたという漂白剤の包みを持って訪ねてきた。

 Ji・Aさん達が帰っていってから後片付けをし、午後4時頃に帰途につく。今日は帰りが遅くなったので途中から電車に乗り変えて家に戻ってきたのだが、途中スーパーに立ち寄り買い物をしたので、重い荷物を持って歩いたために家に戻った時点で全身が汗びっしょりになっていた。直ぐに風呂場に行き汗を洗い流したり衣類の洗濯を行なったりした。

 TVニュースで米国のオバマ大統領がイラクでの空爆を開始するという演説をしたことで株価が400円も下がったことを報じていたが、ウクライナ情勢の問題と関連してロシアがEUからの食料の輸入を止める、とか、イスラエルとパレスチナとが戦闘をしているとか、危なっかしいことが重なって起きている状態をみると、70数年前に起きた一連の悪夢が頭を過ぎる。

  アメリカが イラク空爆 開始して 世界騒然  株価も下がり  徘(徊)人 okinatchi