これまで「自然」ということや「寿命」といったことについて述べてきましたが、実はずいぶん昔から「死」については考えていました。若い頃は、「軽々しく死を口にするな」という批判も受け、他人に対して、「死」について話すことは憚っておりました。しかし、年を経て、「死」が身近になりつつある現在ならば「死」を口にしてもお叱りを受けることはないだろうと思い、此処で少し語らせていただきます。
30年くらい前からでしょうか。「自然な死」ということを考えるようになりました。一番のキッカケは大野病院事件です。御存じない方もいるかもしれませんが、福島県の大野病院婦人科で、患者さんが亡くなられた際に「異状死」(”異常”ではありません)として、警察に届け出なかったとして、医師が”逮捕”された事件です。事件をキッカケに全国の婦人科をはじめとする多くの医師から猛反発が出たのです。事件の詳細はこの場の話の中心ではありませんので、ご興味がありましたら、ネットで検索してみてください。
この事件から「異状ではない死」とはどんなものかと興味を持った小生は、法医学会のホームページを調べました。すると、法医学の立場からは、他人は本来病気で死ぬものであり、それ以外の死は、何かしらの事件や事故、あるいは災害によるものであり、病死以外はすべて「異状死」として届け出るべきであるというのです。現在でも、法医学会の見解に変化はないようです。臨床医からは反論が尽きないのですが、小生は「なるほど」と思いました。「異状死」かどうかは別にして、「人は必ず病気で死ぬのだ」ということは、非常に納得のいく話です。最近は、超高齢者を対象に診療しているため、やたらと病気を心配するお年寄り(自分も年寄り仲間なのですが)には、「心配するな。人は必ず病気で死ぬ」と伝えています。びっくりされますし、何と薄情な医者かと謗られるでしょうが、構わず話しています。「でも、現代はいろいろな緩和療法が進歩しているから、苦しむことはないから安心しなさい」と付け加えています。酷い医者だと思いますか?
話はそれますが、「異状死」の届け出について、医師国家試験問題出題されたことがあり、「異状死を見た場合には、警察に届け出なければならない」というのが正解とされていたらしいです。しかし、臨床家からは、医師法に記載されているのは「異状死体を見た場合には届け出なければならない」とされているのであり、「異状死」ではないので、不適切問題だし、治療中の患者が亡くなったとして、原因が治療中の疾患でなかったとしても、警察に届ける必要はない(云々)という記事が「m3」にのっていました。こちらも興味のある方はご覧ください。
結局、役に立たない(?)老人のするべき最後の仕事は、若い人たちに「死んでみせる」ということだろうと考えているこの頃です。別に「良い死に方を」というのではありません。様々な死に方があり、どれが良いとか悪いとかということはないと考えています。死んで見せることで、若い人たちにも「死」を感じて、考えてもらえればと思うのです。そこから逆に「生きること」についての考えも深まるのではないでしょうか?