野叟解嘲(やそうかいとう)ー町医者の言い訳ー

老医師が、自ら患者となった体験から様々な症状を記録。その他、日頃、感じていることや考えていることを語ります。

寿命、その続き ー定年について

2023年12月02日 | 日記

手元に、「平静の心」(医学書院)という本があります。医学関係の方なら、ご存知のウィリアム・オスラー博士の講演集です。この中で1905年に博士がジョンズ・ホプキンズ大学を退職する時の講演があります。55歳の時のものですが、この中で持論として、六十歳以上の人間の無用論ということを言っておられます。かなり過激な話で、アメリカ医学会に大変な反響を引き起こし、後日、別の論文を書いたそうですが、少し紹介させていただきます。

講演の中で、17世紀、John Donne による自殺についての小冊子から、「ある国の法律では、60歳の人たちは橋から突き落とされ、また古代ローマでは、六十歳代の人達には選挙権が与えられず、議会へは門を通っていくことから、彼らは入門を拒否されし者と呼ばれた」ということを紹介しています。橋から突き落とすところは、日本なら、「姥捨て山」、「楢山節考」を思い起こします。さらに「定年の時期」という小説では、六十歳で退職した教授は一年の思索の後、薬で静かにこの世を去るということも紹介しています。博士によれば、まもなくその年齢に近づかんとし、さらに七十、八十の高齢者が見舞われる悲惨さを研究してきた者には、このような構想が計り知れない程の利益をもたらすことは明らかであるといいます。さらに手厳しく、七十代、八十代の人達が無意識に、かつ何の罰を受けることなく流し続ける実害の数々を考えるといっそう明らかであるとまで言います。更にさらに、世界の歴史を見ると、大部分の弊害は六十歳代の人達に着せられると言ってよいと。オスラー博士の時代、すでに「老害」の考えがあったことに驚きます。

さて、実際に六十歳代半ばに入った小生ですが、オスラー博士の「ほとんどの(中略)下手な説教や講演など、大部分はこの人達の手によるものだ。」と言い切る言葉に、思わずキーボードを叩く手を止めたくなるのですが、あえて書きます。

現代でも定年の年齢を過ぎた自分は、日々、「確かに、定年退職には意味がある」と、しみじみ感じさせられています。何かというと、体力の衰え、体のアチコチに現れる病の兆候、仕事こなす能力の低下等々、実感しているからです。60歳を過ぎたら、もう仕事はしなくてもよい筈なのです。ただ、困るのは、多くの男性は、仕事を離れた途端に、やることが無くなり、粗大ゴミのようになってしまうことが多いことです。このようなことを言うと男女差別云々と批判されますが、実状を述べるだけで、何かを主張する者ではないことを言い訳しておきます。一方、女性は高齢になっても家庭内でいろいろな役割が果たせており、オスラー博士も女性は例外として「別の提案」をしたいと述べています。60歳を超えた女性の同性に及ぼす影響はきわめて大きいと言います。それでも、患者さん達の声を聞いていると、高齢の女性達も家庭内でいろいろな仕事を行うことが難しくなり、日々、悩みを抱えて生活していることが分かります。そんな人達には「昔のように出来なくなってもいいのです。本来、貴方は、そういう仕事から解放されるべき年齢なのだから」と言います。

長生きを熱望する人達は、長生きするとは、衰えながら生きることであることを理解していない、「死なない人間」を知る前のガリバーでしょう。そうは言っても、死にたくはないのですが、やはり誰でも死ななければいけないのだと思います。

最後に、誰の言葉か知りませんが   「子供叱るな来た道じゃ、年寄り笑うな行く道じゃ」



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