”こうのだい”と読みます。
武州と総州の境目です。
最近は宅地開発で印象からか窪地であっても台を名乗る地名がありますが、ここはほんとに台地です。
つくばを望んでいます。
前面に峻険な崖を持つ台地で深く急な太日川(当時、現在は江戸川)が流れる。
その奥には押さえの拠点を置く場所がある。
こうなればお約束のように・・
そうです。ここは城跡になります。
国府台城付近では第一次、二次と二度の大きな合戦がありました。
第一次は小弓公方足利義明が息子ともども討たれ公方家滅亡となった合戦。
合戦勢力は後北条と小弓公方、これと合力する房総の豪族、とりわけ里見義堯。
北条は策により渡河の許しを公方に乞う。
公方はよしと言う。
里見はこれは計略、渡河を許して渡って来たところに矢を射かけるべきと進言。
ならん、そんな姑息なことはできん。そもそも公方の儂に本気で矢を射るものなどいない・・
あきれた里見は戦線離脱。
公方軍は強い。北条を圧すが、小弓公方と対立する古河公方の旗が翻ると形勢逆転、前述の結末となる。
それから数十年、今度は逃げた里見が北条に誘い出されて討滅、第二次合戦と呼ばれることとなる。
この現場を眼前に見据えています。
豊臣、徳川は絶対政権を築きましたが、足利は絶対性が乏しいです。
公方は将軍の異称ですが、本物公方の他に関東に”我こそ公方むしろ自分こそ本物”の公方が乱立し、安定しません。
戦乱の世というのは穏やかならざるものですね。
この後くらいからいよいよ名だたる武将が乱舞する戦国時代が本格化します。