「願興寺」悠久の1200年

最澄縁の願興寺ブログ。2015年には開基1200年祭を予定。本堂、24体の仏像が国指定の重要文化財。

水なし足湯ぽかぽか

2012-07-21 07:56:15 | 御嵩町

「水なし足湯ぽかぽか」は今日の中日新聞の可児版の見出しである。岐阜県美濃地方の特産の一つに美濃焼がある。この足湯(足癒と言うべき?)はお隣の土岐市の山路製陶という会社が、このほど、経済産業省の「地域産業資源活用計画」に認定を受けたという。

記事にも記載されているが、願興寺にほど近い御嵩駅前の御嶽宿さんさん広場にいち早く設置された。このさんさん広場の足癒は、さんさん広場に設置された10kwのソーラー発電からの電力が供給されて、人々の足元を暖めてきた。

この足癒は布団乾燥機の熱源を利用して、直径15mmほどのセラミックボールを暖めて、靴下のままでも足を暖めることができるもので、すでに多くの人々がらも絶賛をいただいている。願興寺参詣や御嶽宿散策での合間に経験されるのも一興である。この足癒は近隣の人々のふれあいの場にもなっており、人々との語らいも魅力の一つであろう。

御嵩町観光協会「御嶽宿付近」
願興寺公式サイト

頼朝の再興(纐纈源吾盛康の功績)

2012-07-15 20:46:39 | Weblog

今日(7月15日)の大河ドラマは平治の乱後の頼朝に対する処遇に焦点が当てられていた。そのとき、願興寺の寺伝「大寺記」の一説をが頭に浮かんだ。前にも記したように願興寺は2度の兵火により焼失している。どちらの時代も大変な混乱期の真っ只中であり、その再興は難航を極めたのは当然であった。2度の焼失であるが、2度目の武田勢による焼失は話題に上ることも多いが、最初の焼失に話題が集中することは少なかった。最初の焼失は1107年であるから、今回の大河ドラマ「平清盛」の数十年前であろう。伽藍の焼失時に自ら愛知県の津島神社に退かれた本尊薬師如来だけでも安置できる薬師堂だけはと、願興寺の塔頭の尽力で再興を果たしたが、それ以外の惨状は、一条天皇からの詔勅を賜って建立され、威容を誇っていた願興寺の面影を知る人々の嘆きは言葉に尽くせぬものであったことは間違いなかろう。

その後、鎌倉時代に入りこの願興寺の再興に貢献したのは、源家累系の家臣であった纐纈(こうけつ)源吾盛康という地頭であった。大河ドラマで描かれていたように池の禅尼の計らいにより頼朝が死罪を免れ伊豆に流刑になり、共の者が少ないことに禅尼が痛ましく思われ、その共の中に源吾があり、大津まで同行した旨が描かれている。大寺記から抜粋すると「源吾盛康もこの時に出て来た。被官の者達は同じように頼朝に今は出家して僧になると申されよ御下向なされば道行きも安心して通行できるし平家も然るべくと存ずることでしょう。」奏上したが、源吾だけは「君を助けられたことは偏に八幡大菩薩のお計らいと覚えます。他人は如何に申そうとも御髪は惜しみ給え」と言い、頼朝はそれを聞きて打点頭(うなず)かれたという。

この時、源吾には80歳になる母親がおり、その母親が心配で源吾は大津で引き返している。このことはほぼ同じ内容で幸田露伴の小説「頼朝」にも著してあるから、読まれた方もあろう。その後、頼朝が幕府を開いたおりには源吾自身も相当の老人になっており、論功行賞には参加しておらず、後に鎌倉に出向いた折にこの地の地頭を賜ったようである。もしも、源吾の進言がなく頼朝が剃髪していたら、源氏による幕府成立は実現していなかったかもしれないのだから、源吾には大きな論功行賞があってもよかったとであろう。

この地の地頭となった源吾の願興寺への功績は大きく、田畑の寄進は言うの及ばず、毎月十日に市を開いて貴賎のそしりを寄進していた(十日市場の地名は今に残る)。こうして、すでに再興していた薬師堂に加え、三層の宝塔、常行三昧同、八間の講堂、五間の護摩堂、仁王門等が落成した。その威容は今はうかがい知ることはできないが、願興寺の最初の焼失は当に平安の終焉とともに起こり、鎌倉の幕開けとともに再興をなしたと言えるのでないか。

願興寺公式サイト

※ 大寺記からの抜粋文は原文で難解なので、郷土史研究家の安藤弘文さんが出版された「大寺記原文と連記解読書」の現代文訳から引用した。また、大寺記は御嵩町出版の御嵩町史読み下し文(送り仮名はカタカナ表記)があるが、中山道みたけ館の図書館に安藤弘文さんの連記解説書がある。

※ 纐纈神社という小さな社が中公民館裏にある。あの神社はこの纐纈氏の氏神であった。

願興寺と鬼伝説

2012-06-29 07:22:37 | Weblog

源頼朝の腹心の家臣に纐纈源吾盛康という人物があった。盛康は頼朝が鎌倉に幕府を開いたときには、母親が高齢であったために京都に残り、そのために領地を与えられなかった。後に頼朝に謁見した折にこの地域に所領を与えられたようである。この盛康は願興寺が最初の兵火により焼失した折に、田畑の寄進や市場を開き、そこでの収益により再興に貢献した人物として寺伝「大寺記」にも記されている。

この地の鬼伝説「関の太郎」はこの纐纈源吾盛康も大きく拘わっている。源吾が開いた市場は十日市場と呼ばれ、十の付く日に開かれていた。この頃、鬼岩に関の太郎という鬼が棲みついて、娘をさらったり盗みや市を荒らしたりで住民を混乱に陥れていた。鬼岩に行ったことのある人なら、なるほど鬼の棲家になりそうだと思われたであろう。

この関の太郎は、願興寺祭礼のときに源吾の贈り込んだ4人の家臣が願興寺の薬師如来の助けを借りて捕らえ首をはねた。そして、太郎の首を京にいた源吾のもとに運ぼうとしたが途中で急に重くなり、運ぶことができなくなり、道運んでいた桶を地面に置くと首が飛び出してきて「我は悪逆無道を働いてきたが、薬師如来様のご加護で成仏することができた。これよりはこの地の守り神になって五穀豊穣と民衆の幸福に貢献する」と言ったといわれている。

写真は地元の人々が手入れをしている鬼の首塚である。

詳細は・・・こちらから

首塚は・・・こちらから

願興寺・・・願興寺公式サイト

可児才蔵

2012-06-27 16:08:12 | 願興寺

数ある戦国武将だが可児才蔵をご存知の方は、相当な武将好きであろう。願興寺に残る自伝「大寺記」には、「宝渕宗珠と云う人、世財を投じて吼鐘を鋳造して、以て法器に供する事あり」という一文がある。この宝渕宗珠という人は、朝倉義景の側室であり朝倉家の没落で妊娠中にひそかに一乗の谷を逃れ、漂白の後にこの願興寺に逃れてこられたという。

こうして月日が流れるうちに一子が誕生したのであるが、朝倉の姓を名乗るのは憚られて、如来を親と頼み奉り可児太郎と名付けられた。可児才蔵については、広島県に才蔵寺というお寺があり、最終的に福島正則の家臣となって、ともに広島に家禄を得て広島で没している。この才蔵寺の石碑には才蔵の生まれは尾州と記されているが、才蔵寺の住職も才蔵の生まれは願興寺であると認められている。

おそらくは願興寺は江戸時代に寺領100石を賜っていたが、それは徳川尾張藩から賜っていたためにそのような記述になったのではないか、という説もある。13歳ごろから武芸に道を進んだとされているが、その仕官先は斎藤龍興、柴田勝家、明智光秀、前田利家、織田信孝、豊臣秀次、佐々成政、福島正則と渡り歩くことになる。

この可児才蔵が頭角を顕すのが、関が原の戦いである。このとき、才蔵は福島正則軍の先方隊であったが、背旗の代わりに笹を背負っていたという。戦では、普通討ち取った武将の首は腰にぶら下げるが、才蔵は背負っていた笹に首を刺して持ち歩いていたそうである。こうして時間を稼いで次々に戦いを挑んで、17とも22ともいわれる敵将の首をとったとされている。このことから才蔵は笹の才蔵という別名もある。

さて、宝渕宗珠の寄進した梵鐘はどうなったかであるが、その梵鐘は第二次大戦中に危なく供出されるところであった。当時、寺院の鐘で供出されるのは鋳造後300年以内の鐘であったという。この梵鐘が最初に鋳造されたのは1500年代であるが、江戸時代の中期に寺が荒れたときに近隣の悪童が石で鐘を突いたりしたため、相当傷ついたようである。

そのために江戸時代に鋳造されなおしていた。このために物議を醸し出したが、先代の住職岩田教源の強い主張で最初の鋳造が認められたという。したがって、現在県重要文化財に指定されている鐘楼門にある梵鐘は残ったのである。形状は多少変化したかもしれないが、原材料は間違いなく可児才蔵の親である宝渕宗珠の寄進した梵鐘である。

願興寺公式サイト

上之郷中学校の舳五山茶

2012-06-25 11:43:00 | 御嵩町

御嵩町内には、3つの中学校がある。その一つに上之郷中学校があり、山間部のその中学校には40人強の生徒が通っている。この中学校は地域との結びつきが強く、毎年5月になると茶園活動を地域の人々の力を借りて行っている。

このお茶は茶園のある山が、船の舳先(へさき)が5つ並んだような山容から舳五山と名づけられているので、舳五山茶と名づけられている。もちろん有機栽培で無農薬である。

このお茶は、願興寺の向かいにある「御嶽宿わいわい館」(水曜休)でも販売しており、素朴な味ながら飲んでいると胃腸の調子が整えられたとか、便通が良くなったという感想も寄せられているという。

中学生が一生懸命に摘み、蒸して、揉んで作った舳五山茶である。ぜひ多くの方々に楽しんでいただきたい一品である。

上之郷中学校の茶園活動

御嶽宿

願興寺公式サイト

みたけの森の初夏

2012-06-18 17:01:00 | 御嵩町

昨日でみたけの森ささゆり祭りは、ささゆりの開花を残してはいながらの終了となりました。今年ご覧になった方々にも、ご覧になれなかった方々に来年の開花をご覧になっていただきたいですね。

みたけの森は、湖あり、湿原ありと水面を撫ぜてきた風はとっても爽やかです。これも味わっていただきたいみたけの森の趣です。そう意味ではみたけの森の季節は今がまっさりと言えるでしょう。

御嵩町の見どころ

今年も沙羅双樹の時期になりました

2012-06-17 21:15:22 | 仏教

御嵩町内の中山道には、謡坂の石畳を過ぎ、一呑みの清水付近では沙羅双樹が並木のように宿綬されています。この花は「祇園精舎の鐘の声、所業無常に響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらわす」と唄われた沙羅双樹とは少々違うようだが、咲いては花ごと1日か2日で落ちてしまスところは、沙羅双樹の血縁であることを者がっている。

別名「夏椿」と呼ばれるように白い清楚な花には、多くの人々から人気を集めている。あの清楚な趣からは「盛者必衰の理をあらわす」とも思えないが、ともかく、短い期間で花が落ちてしますのは、まさに諸行無常を実感させてくれる。夜の街頭の中での浮き上がる沙羅双樹の鼻は今年も優雅に咲いてくれた。

願興寺公式サイト

みたけの森ささゆり情報

2012-06-06 15:25:46 | 御嵩町

今週の日曜日(6月3日)にささゆり祭りを行いましたが、ささゆりは2,3は咲いていましたが、ちょっと早かったようですね。おとなりの可児市の花フェスタでは、バラで賑わっています。みたけの森のささゆりもこれからが見どころです。願興寺の仏像拝観と合わせて可憐なささゆりを楽しむのも良いですね。今日はだいぶ暑くなりましたが、少々蒸し暑いぐらいの時にささゆりを見つけると、何とも言えない爽やかさを感じさせてくれます。

みたけの森はよく整備されているので、ファミリーにもカップルにも人気で、ささゆりを見つけた時の歓声は私たちを元気づけてくれます。

御嵩町観光協会

願興寺公式サイト



如来の印相

2012-05-31 09:22:26 | 仏教

願興寺の本尊は、伝教大師(最澄)自刻の薬師如来である。平安時代作の特徴を色濃く表現された至宝である。この仏さまの印相は、左手は施無畏印と呼ばれる印相で、掌を前に向けて説法を聞きに来た人に安心感を与える印相といわれる。左手は与願印といい、人々の願いをかなえる印相であるが、平安時代よりの薬師如来の左手は薬壺(やっこ)を持つものが多いといい、願興寺の薬師如来も例に漏れない。

願興寺の所蔵する4体の如来の内でも、特徴的な印相として全国的にも注目を集めているのが、釈迦如来の説法印である。この説法印は釈迦が始めて法華経を説法した時の印であるといわれ、全国的にも非常に珍しいとされている。

さて、残るは立像、座像の阿弥陀如来だが、阿弥陀如来の印相は九品(きゅうぼん)来迎印といい、指の形と掌の位置によってそれぞれ9種に分けられる。指はどれも親指と人差し指、中指、薬指で輪を作る。これによって上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)に分けられる。座像で組んだ脚の上で両手を組んでいるのが上生(定印)、両手を胸の位置に上げているのが中生(説法印)、右手を上、左手を下に向けているのが下生(来迎印)という。品が3種、生も3種で合わせて9種の印を結ぶが、どの段階で現世を終えても阿弥陀如来がお迎えに来られ、極楽浄土へ往生できるという。

願興寺の阿弥陀如来も立像は上品下生(来迎印)を結んでおられ、座像は上品上生の定印を結んでおられる。現世での信仰や徳は座像の阿弥陀さまに向けれた方が段階的には良いとされる。

大仏といえば、奈良大仏と鎌倉大仏を思い出される方も多かろう。非常によく似たこの2体の仏さまであるが、奈良大仏は毘廬遮那如来(びるしゃなにょらい:廬舎那仏ともいう)といい、鎌倉大仏は阿弥陀如来である。そのため、奈良大仏の印相は右手は施無畏印、左手は与願印と釈迦如来などによく見られる印相である。それに対し、鎌倉大仏は願興寺の阿弥陀如来座像と同じ上品上生の定印を結んでおられる。

このように仏さま、特に如来の尊名や役割を知るには印相をで見分けるのも一つの方向である。参考までに写真の釈迦三尊像で釈迦如来は先ほど申し上げた説法印をむすんでおり、普賢菩薩は合掌印(両手の指がしっかりと密着しているので、蓮華合掌である。両手の指同士を重ねるようにするのを金剛合掌という)

願興寺公式サイト

みたけの森のささゆりも見ごろを迎えてきています

みたけの森のささゆり

2012-05-30 09:54:52 | 仏教
みたけの森のささゆり

今年も時期を迎えました。6月3日(日)には、ささゆり祭りが盛大に実施されます。お誘い合わせてお越しください。

御嵩町観光協会