もんく [とある南端港街の住人になった人]

Producing Happiness

英語を勉強していると、それは言語の変換だけの問題ではないのだと感じる。言語の違いの裏には概念の違いがあって、そちらの方が本質的には問題が大きいのだと認識させられる。

教室で隣に座る人が中国人、イラン人、韓国人、フランス人または台湾人だったりするが、会話の練習で話をすると時々別の方に話が進んでしまうことがある。そこには驚きが多い。


ある国の人は自分のこれからの人生の計画がきちんとできている。それはどこから来るかと言うと、日本人から見ればtraditionのようなものだ。昔から(と言ってもどの程度の歴史観を持って言っているのかわからないので、一般的な意味で"昔から"なのだと思う。)自分たちはこうして生きてきたからこれからもこうだ、と信じているらしい。

その言葉の中に疑いのひとカケラも感じられない無い事には全く本当にびっくりさせられる。

それに比べて我々と来たら、いつも変化に怯えいつも最悪の事態を予測しいつも何かを疑って生きている。同じ地球に生きていてこの違いは何なんだろうと思う。


しかし、そうした自信たっぷりの言葉を羨ましいと思う反面、やはり疑いの気持ちが沸いてくる。別にそれを否定しようと思うのではないのだけれども。

昔からこうだからこうする、そしてそこに自分の人生を置いておく、それが人生設計であるならば、それは人生について言っているのではなくて"経済"の話をしているように聞こえて仕方ないのだ。その話の内容が恋愛や結婚についてであってもである。


日本においては経済と幸せが、感覚の上で乖離してきている事によるのだろうか。
今の日本では結婚や恋愛を経済と関連付けて考えるなんて事はしないが、それが家系の存続の問題や現実の生活の問題であれば確かに経済であるわけで、彼らが間違っているのではないのも事実。




逆に、人生や生活のいろいろな事をビジネスでするような効率的な方法論を使って整理したり解決したりする合理的なやり方、と言うようなものが持てはやされる。同じ意味で、そちらの方にもショックを受ける。

どちらも聞いていて気後れするほどのエネルギーがある言葉なのだけれども、人生とか生活の話ではなくて、経済の話に聞こえるだけなのだ。

そうは言っても、我々だって今の日本の状態をどうするかについてお金の配分を検討しているに過ぎないわけだから、同じと言えば同じなのだ。だからもうそろそろ別のスケールの上で話ができる方法を考えた方が良いようにも思う。


どうなのだろう?
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