もんく [とある南端港街の住人になった人]

Globishと脱・XX建築

久しぶりに紀伊国屋でNewsweekを買った。

マレーシアで売っているのだから最新号でもないのには違い無い。
表紙には「英語じゃなくて、Glob・ish」と書かれていた。表紙の上の部分には「脱・個性派建築へ」とあって、この2つの見出しを見たら2倍の値段であっても買わないわけには行かないのだ。


Globish、そう、それそれ。自分が使っているのはまさにそれだ。マレーシア人は自分達の英語を不十分と思い込んでいる。日本人の英語より100倍マシにも関わらず。だからこちらがかなりブロークンでもOKしてもらえる。こちらはここは外国なのだから通じなくて当たり前と思っているので、どうにか通じるようにしようといろいろ言葉を駆使してみる。もちろんそのレベルとしてはかなりの低レベル。用は言いたい事をわかってもらおうかと思うかどうかと言う初歩的な事なのだ。その道具がイングリッシュでなくてGlobishなのだ。

未だに日本ではネイティブの発音がどうとか言う古典的な議論の中にあるけれども、相手がアメリカ人やイギリス人でもなければ申し訳ないが日本式のそれで我慢していただくしかない。何しろまずは議論に参加せねばお話にならないのだから。

同じ特集の中に、「英語圏では翻訳本を好まない」と書いてあった。アメリカで出版される本のうちの外国語からの翻訳本はたったの2%なのだそうだ。自分はどちらかと言うと翻訳本(外国語から日本語)の方を多く読んできたのでこの数字の少なさはとても信じられないものだ。

その結果「英語圏の人は世界の文学の対話の中に参加していないことになる」と言う意味の事が書かれている。まさに、文章と文章、本と本は対話をしているのであってそれが外国語だからと言って参加しない、させないと言う態度ではどちらにとっても損失であるだろう。

先日読んだあの村上春樹の作品など英語圏の作品と蜜に会話するために書かれたようなものだから、あちらでも多少はウケるのだろう。逆に村上春樹だけ読んでいても面白みは半分だ。


まあ、どうあれ言語情報は受けるだけでなく参加するツールとして重要なのだ。何と当たり前な......。



脱・個性派建築であるが、時計がちょっと進んで状況が変わると物に対する見方は反転、と言って良いほどに変わる。あのスター建築家の作品の意図が未だ咀嚼できていないうちにそれは古いものとなる。それは華やかで凄いと思ったけれども、結局何だったの? そんなものなのだ。そしてあのやり方は時代遅れだと言って済まされる。しかしながら、さらにもう少しだけ時計が進むときっと彼らが求めた普遍的な部分が抽出されて再評価の対象にもなるだろう。今までもずっとそうだったのだから。

ところで、この文章を読んでみるとわかる事が1つある。今ウケている日本人建築家のデザインがその意図とは違う部分で評価されているらしいと言う事だ。ちょっと待ってよと言いたくならないでもない。建築も会話ではあるのである部分、その言葉に誤解も生じるのだろう。みなさん、どう思う?
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