早速中華真空管プリアンプのACアダプタをNintendoに換えてみた。が、あまり違いを感じられなかった。元のACアダプタもアンプの付属品ではなくてテキトーな物だった。
でもまあ、これでOKということにしておく。不都合は無さそうなので。
これをちょっと読んでみて欲しい。どう感じるだろう?
なるほど、と思われた方、たくさんいるはず。日常、あまり無い視点かと思われるし、コントロールできるのは悪意ある相手ではなくて自分の方だ。うーん、素晴らしい。
まあ、そう、それで良いと思う。
けど、2ページ目に入った時に気持ちのどこか片隅にシコリのようなものを感じはしないだろうか?普通はしないかもしれない。でも、自分はした。
理由?理由は、こういうこと。
最初のページで「釈迦」という登場人物が出てきた。皆がよく知るあのお釈迦様、ブッダともいうあの人だ。もしこれが釈迦じゃなくてキリストだったらどうだろうか?もしくは聖徳太子では?西郷隆盛でも孫正義でも誰でも良いけれど他の誰かだったとしたら・・・、それでもこの話は完結できる。別に誰でも良いのだ。架空の話でも構わない。
なぜ?
それは、この記事が提供しているのはインスタントな解決策だから。悪意ある人に遭って何か言われた。普通は言い返したり悩んだりいろいろあるが、つまりはそれが自分の中で大きな問題になって頭の中の広い場所を占めるまでになってしまう。記事はそれを避ける簡単な方法を示している。
もちろん言っている内容は間違いではない。とても有用かもしれない。
ふーっとここでため息をつく。
世の中、こんな記事ばかりじゃないか。他人が悩みそうな事を探して一つひとつに簡単な解決策が提供されている。人間の悩みなんて皆似たようなもので、個人個人に話を聞く必要なんてない。こうして皆に共通する悩みに皆に共通する解決策をポンっと出せば読まれる。
原理は簡単だ。昔から「傾向と対策」主義は変わっていないというだけなのだ。何かある度にインスタントな答えを提供する安易なビジネスが出てくるエコシステム。受験と同じ、学校で出される課題と同じ。参考書を売ってお金にするのと同じで記事をクリックさせて広告を表示する。自分が読んで納得したとしても記事を書いている人は別に自分の幸せを真面目に考えてくれているわけじゃない。
まあ、永久に幸せになれないシステムなのだ。残念だけどね。