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もんく [とある南端港街の住人になった人]

凡ゆるものは自分のものにしようと思っていないと得られない

今日も本とインクは来なかった。本はトラッキングできないから普通郵便だろう。土日は配達が無い。インクはなんと経由国から出たとなっていた。中国から直日本の空港じゃないとか、香港あたりか?すぐ隣の国なのに何の都合なのだろう?


粘土細工を時々しているが、焼くのはまだまだ先になりそうだ。早く焼いてみたい、と思うのは作った形が本当に焼ける形なのか知りたいというのと、釉薬じゃない方法で彩色したいというのがある。

いっそのこと、窯を買ってしまおうかと考えて検索すると安いので5万円、10万円とか最も高い中古でも20万円で買える。ただこれからずっと続けてやるかと考えるとどうだろう?と思う。5万円程度で手放すことができるのなら燃料費(電気代)だけで済むとは思うが・・・この件はひとまずこれで中断。





「バビロンの大富豪」の中で、主人公が言ったことの中にこういうのがある。

「自分にお金が貯まり始めたのはそれ(自分がもらえるべきお金)を自分のものにしようと考えた時からだ」(正確なセリフではないが、そんな意味の言葉)

あれはお金の話だったけれども、自分が得られるものは特にお金ばかりではないわけで、時間とかその他にもいろいろある。でも、得られる「べき」何かを自分のものにしようと真面目に考える人はけっこう少ないと感じる。通り過ぎるのを平気で見送ってしまう。いただけるものを拒否してしまう、というのが多い。

価値のあるものに価値を感じないとか、無尽蔵にあって当たり前のように思うとか、自分にはそれを受けるだけの価値がないとか、そんなことだと思う。それともっと感じるのはいつでも受け身だからじゃないだろうか?いつでも価値あるものは誰かが作るなりして与えてくれる。自分はそれを選びさえすれば良いという生き方が身についてしまっていて手を伸ばして取るのを知らない。自分が作るというのを考えないのだろう。

何か作り出す人はそれと反対だ。脳みそに細い毛が生えていてそれが何でもちょっとしたものにくるりと巻きついて取っていく。自分の今の状態とか仕事とかそんなものとはかけ離れていたとしても何かを常に得ようとしている。少なくともヒントを得ようとする。そこに良い、悪い、好き、嫌いの判断は要らない。どんな物事や人からでも何かしら得られる。そしてそれは時間を経てその人のアウトプットに変換されて出て来るはずだ。

好きとか嫌いとか正しいとか間違っているとか、そういうことに脳のエネルギーを使うのは愚者のすることに違いない。(自省)


でも、先日もこんなこと書いたが、人間て本当に空っぽだと思う。自分から出てくる何らかの意欲のようなものはとても少なくて、他人とか環境への不満とか単なる反応に能力や時間を注ぎ込んでしまう。そんなつまらないことをして自分は思考しているとか思うわけだし、正しいというようにも考える。まあ、アホに違いない。
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