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もんく [とある港街の住人]

停電があって誰かが怪我して誰かが助ける。それだけのこと

思いもよらないことってのがあるものだ。

深夜2時頃に停電があったが、3時過ぎに救急車が来て近くに停まった。停電が原因で近所の方が家の中で転んでしまい呼んだそうだ。

高齢の方が二人で住んでいる家なのでもう一方の方が救急車で一緒に病院へ行かなければならない。その方、最近ちょっと心の病の傾向がある。救急車に乗るのに上半身裸のままで良いと言う。そうもいかないので家に戻って自分のTシャツを着てもらう。

救急隊の方には自分の電話番号をメモしてもらって病院のスタッフに伝えてもらい、もし助けが必要ならかけてもらうようにしてもらった。もし一人で帰宅となった場合、自動車で1時間の距離、あまり利用しない交通手段で帰れるのだろうか?と不安に思う。迎えに行くくらいのことならお安いご用なにだが。


その後一度あちらの携帯電話から電話が来てすぐに切れた。電波が悪いのかと思い何度かかけ直すが繋がらない。いる場所は病院だから本当に用があればどうにかするだろうと待っていたが連絡が無い。病院にかけると診療中とのことで伝言をお願いする。

さらに待てど暮らせど連絡なし。まあ、子供ではないのだし、どうにかするだろうと半ば諦めていたところ午後遅くになって玄関のベルが鳴る。救急車に同乗した方が電車バスを乗り継いで帰ってきたのだった。携帯電話の電池切れだったそうだ。怪我した方の方は明日に手術で3日程度で退院できるとのこと。

消息がわかったのでこの後は病院に行く、帰るなど必要な時に呼んでもらうことにしよう。



人にはいろいろな事情がある。高齢で足腰が悪いままに誰からの補助援助もなく住まわれている方にもそれなりの事情があるだろう。こうした場合家族親戚が面倒をみるのが当たり前のように言う人もいる。でも果たしてそれが全てだろうか?当人たちの事情も去ることながら、我々は血縁や地域のしがらみが嫌でそれに煩わされないような社会を作ってきたはずだ。それが緊急時だけ、そして他人の手を煩わす可能性のあと時だけ血縁に頼れというのは矛盾ではないだろうか?また、そうでなければ公的サービスやお金を使って頼める私的サービスを使うのが筋というのも言う。資本主義について文句を言いつつその発想から一歩も抜け出さないでいるぞという頑固な決意表明に過ぎないのではないだろうか?

いったい、我々は今後どんな社会を望むんっか? 自分に金銭的余裕があったり、血縁上の問題が無いように見えたりする時だけ都合良くああすべき、こうすべきと言うのはどんなものだろう。

自分は他人を少し助けたからと言って「良い人」なんかではないし、来世やあの世のことを心配して功徳を積んだりはしない。まして聖人になろうなんて思わない。ただ、思うのはお金(私的なものと税金と)で解決できないことの隙間、溝というのがどんどんと拡大していくだろう。そこで個々人がどう動くのが人間らしいかを考えなければならないのと、今までのように誰かの要請に従ってやっていれば済む(と思っていた)くだらない社会を変えたいだけだ。
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