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もんく [とある南端港街の住人になった人]

愛は分断の彼方へ

明日は入院で明後日がいよいよ癌の摘出手術だが、先日(書いたっけ?)ある方からお守りをいただいていた。それは皆がよく知っている新興宗教のお守りだった。自分は誰が何を信じていようとも構わないので有り難くいただいて財布の底に仕舞って病院に持って行くつもりだ。もちろん自分はその宗教を全く信じてはいないにしても。

お守りをいただいた時に一緒に本もいただいた。本はその宗教の教祖の方が書いたものだった。今日、その本を読んだ。途中で飽きて止めてしまったけれど。

本の前半はこの世の成り立ちのようなことが書かれている。教祖はどうやら仏の教えをその宗教の出発点にしたらしい。そしてそれを拡張して拡張して世界の仕組みを考えている。見たこともないのによく考えたな、と思ったら実は教祖は次元や時空を超えたところにずっといるそうだ。なるほどそれならこうしたこともわかるだろうと納得・・・しないが理屈はわかった。それはそれで良い。

けれど、本の後半に進むに連れてどうかな?と考え始めた。

何故かと言うと、どの宗教でも似たようなところはあるが、信じて良い行動をする者と信じずに良い行動ができない者を結局のところ分けて考えている。マーケティング的には信じればメリットがあり、信じなければデメリットがあるという論法は有りかと思われる。けれど、神様的にそうした分断思考はいかがなものだろう?と思ってしまう。

例えば「愛」についてだけれども、どうやら愛というものは個人が努力して信じて実践しなければいけないものとなっている。つまりは、愛は勝手にそこらじゅうにあって、その存在を意識するかしないかに関わらず人に恩恵を与えているようなものじゃない。あっ、そういえばこうやって平穏に生きていられるのは愛のおかげ、もしかして神様のおかげかな?ってものではないらしい。

神様は「信じよ!」「実践せよ!」というものだそうで、それが十分でない者は見放すということになる。もし違う神様を信じる人が近くにいて愛の実践が違ったやり方になっていたとしたら・・・分断するよねえ。あの人は地獄へ行くよねえ、となる。

ということは、本当に救われなければならない人は絶対に救われなけれということになりそうだ。人の知見で愛と見做されない、愛のように全く考えられない形で向こうからやって来て、後からやはり人の浅知恵ではわからなかった。愛は愛に見えないものすら全て包含する大きなものなのだな、ということにはならないらしい。


でも、いただいたお守りは大切にしますよ。ありがとうございます。
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