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もんく [とある南端港街の住人になった人]

日本には正しさはあるが理想はないが、これからもそれで良いのか?

ラッキーバナナクラブの屋根と電気工事完成報告を役所に郵送した。
あとは、明日、工事の写真と支払い領収書の画像、空き家バンク登録用の画像をメールで送信する。

読書クラブに関してはまだ迷っている。将来的に100冊書店を開ければと思ってはいるのでそのベースとしては良いはずだ。ただ、いくつかハードルはありそうだ。この件はまたそのうちに。



先日、「君たちはどう生きるか」について書いた。

冒頭のところで主人公が自分がこの世の中の一つの細胞だと考えて、そして各細胞が網目のように繋がっていることも思いついた。このところ、大人が読むと当たり前だろうと流してしまうポイントじゃないだろうか?それは知識として知っているから。知識として知っているからそれで終わり、それ以上のことではないと考えてしまう。社会ってそんなものだよ、と。

それじゃ、そこで自分はどうしたら良いのか?まあ、これはこの本のテーマに繋がるわけだけど、実はほとんど考えはしないのじゃないだろうか?

ちょっと話変わるけれど、自分の家を建てる時に、その家が自分にとってどうなのかは誰でも考える。でも、その同じ家がその横を通る人たちにとってどうなのか、何かの役に立つとか、どんな印象を与えるか、街にとってどうかを考える人はほとんどいない。結果、日本の街並みは今のようになっている。つまらない場所、退屈な風景。ヨーロッパなど観光地に行って街並みの写真を撮ってくるが自分の住む場所は・・・

つまり、責任を何も感じない。

時々言うが、アメリカ映画。スパイダーマンなど子供向けヒーロー映画ではその責任が強調される。日本ではそんなもの全くない。日本のそれはあっても何が正しいかだけ。小学校の校舎の壁に昔貼ってあった「廊下を走るな」と同じ。それは規定やら道徳やら正しいことが書かれてはいるが見る者に何も考えさせはしない。

自分たちはどんな理想の世の中にしたいのか、だからどんな態度をとるのか、つまり責任を負うことを求めない。ただ正しさに追従することだけを求める。

正しさがあれば、それを知っていれば良いようになるかというとそんなことは全くない。なぜなら正しさはたくさんあるから。狭い場所に入れば狭い正しさがあり、西に行けば西の正しさがある。企業に所属すれば、そしてある部署に所属すればそこだけの正しさがある。それさえ守っていれば生きていかれる。特に理想も何も必要はない。その場の正しさに従えば世の中の正しさと矛盾しているのも構わない。

そういう生き方、どんなものだろう?
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