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もんく [とある南端港街の住人になった人]

人は物語を作らないと誰かが作った物語の消費者になるだけ

今日はスピーカー作りはおやすみ。
脚の角度を少しだけ変更できるようにしようかと考えているところ。



ワットマンでジャンク・レコードを買った。長谷川きよしの72年のライブ盤だ。見てわかるようにどこぞの遺跡から発掘してきたようなジャケットだ。本当に土に埋まっていたふうだったが、何と、音はちゃんと出た。しかも録音も曲も良い。


今日はジャンク品全部が3割引の日なので70円だった。お得。(とはこのジャケットを見て誰も思わないだろうけど)




Facebookでお友達になっているHさんが、多くのかいくらかの人々がカルト的思考をしてしまうのは物語に慣れていないためだろうと書いていた。だからもっと読んだ方が良いとも。確かにそうだと思う。多くの物語に接した方が良いだろう。


我々人間て、いろいろなことを信じてしまうけれどとりわけ物語にそれが嵌め込まれているとその中に事実と異なるものが含まれていても気にしない性質があるのかもしれない。

つまりああだからこう、ああなればこうなる式の型にはまっていると信じるということ。よく考えてみると学校の勉強も詰め込んで覚えさせた後にはそれをベースにしてああだからこうと次々に信じ込ませる物語がある。それを逆用すれば地球は平面というのも信じてしまう。そもそも人間は○千年にも渡って誰も見たことも触れたこともない言い伝えを作って、そして平気で信じているという事実があるわけだ。(それはつまり、天国や地獄、そして神様など)


となれば物語を信じるのと物語を作る性質は表裏になって備わっている人間特有の性質(遺伝的?)なのかもしれない。


でも、多くの場合それは均等じゃない可能性が高い。物語を受け取るより物語を作る性質の方がちょっと劣っていると言えそう。だいたいの場合、我々は物語を受け取る消費側にいて、作るのは少ないかと思う。


もし作る能力がもうちょっと高ければもっとマシかなと考える。

だって自分でさらに面白い物語をいくつでも作れるとすればオリジナル物語を簡単に相対化できるから。例えば健康のためにバナナとココアを毎日摂取しなければならないみたいに言われたら、「そうか、江戸時代の人の平均寿命が短かったのはバナナもココアも無かったからか!」とか、食品添加物が身体に悪いと言われたら「それなら食品添加物で固めている豆腐を敵対国で流行らせれば戦争しなくても勝てるんじゃね!」とか・・・


そうやって物語が唯一絶対じゃなくなればNHK受信料払いたくなければ何もぶっ潰すなんてしないでテレビをリサイクルに出せば済むとかどこかの議員さんに手紙書いて見た分だけ支払うように変えて欲しいと言うとか別の方法を考えられる。

でも自分で物語を作って自分で動かないからいつでも誰かが作った物語の消費者になるだけ。


まあ、そんな感じなので当分は、いや、永久にやられ続けるのかもしれないなと思ったりする。

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