もんく [マレーシアで働いて13年→2022猫を連れて日本]

探しものは何ですか

久しぶりに帰りが遅くなってしまった。
昨日途中まで見ていた映画「アバター」を今夜見ようと思っていたけれども延期だ。

会社でマレーシアのIDカードを作るためにどこかの政府機関へ連れて行ってくれると言うので写真が必要だとの連絡があった。そうなると思って写真を用意していた。サイズがわからないのでKLの写真屋さんにお願いしてバックが白で作ってもらったら、25x33サイズだった。

けれども今回はパスポートサイズを用意しろと言う。(ちなみにこれ以外の写真のバックは青と決まっている。)マレーシアの人に聞いたらマレーシアの人はその申請窓口で写真を撮るから持って行かないのだそうだ。外国人は違うのか、それでは全然参考にならない。

それより行ってくれる日は、2日間のどちらかを選ぶようになっているのにどちらの日もちょうど仕事が忙しい日にあたるからもしかしたら別に1人だけ行ってもらうことになるかも知れない。悪いと思うけれど。


帰宅してその写真をどうするかと考えながらカバンの中を見たら、あれっ写真が無い。机の中に置いてきたのかなあ。探している時にはだいたい無いものだ。困ったことに。


そう言えば最近の話題で、「探している時には無い」と言うのは人生のなかでもだいたいあてはまる。これは物を探している時より確立は本当に高い。

どうしてかと言うと、探すのは自分の中に欠乏があるのが前提だからだ。心に欠乏がある場合にはどうしても外部に何かを見出そうとして人は動く。動いても動いてもそこにある世界には何も変化はない。そのままの世界のなかからもともとその目で探せなかったものが見つかるはずもない。欠乏している時には何を見てもどこを探しても欠乏は欠乏のままだ。

反対に満足がある場合には日常の見慣れたものからも何かを見出すことができる。それは環境の奥深さとも言えるけれども実際には自分からあふれ出すものでもある。人がこうだと決めてかかるものであっても、自分にとってはいくつもの別の見方のできるまったく別のものになり得ると言うことだ。

そう言うと、それは自分を見つめなおすと言うようなことに解釈されがちだけれども、自分をこう言う人間だと決めてかかっていたりするような(その自分に対する決め方にはだいたい根拠が無い)これまでと同じ見方をしていても収穫は何もないし、自己弁護することになるだけかもしれない。


探してる暇があったら、ただスイッチをONにすることに集中する方がマシと言うこと。


長い余談でした。
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