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もんく [とある南端港街の住人になった人]

ジジババの溜まり場

今日の終わりの日暮れ前、良いことがあった。


近所の通り面したところにあるお宅の前でその家の方と話をしていたところ、通りの反対側でやはり近所の方(高齢女性)が路地から出て右方向ずっと見ていた。話が終わってその人に話しかけると夫が帰宅しないのだと言う。自分を車で家の前に下ろした後、数百メートル離れた駐車場に車を置きに行って徒歩で帰るのだが、今日は1時間も経つのに帰らないとのこと。携帯電話にかけてみても繋がらない。


駐車場から家へは港沿いの道路を通って帰るだけなのでそこから見える信号機付き交差点を曲がって次の角を曲がれば全道程が見える。急いで見に行ったがいない。そこで車を出して探し回ったがいない。この場所でこうした場合、最悪は海を覗き込んで探さなければならないなという考えがちらりと頭を過ぎる。


もう一度電話をかけてみる。と、繋がった。ほっとする。


帰る途中のある事務所で最近仲良くなった方との会話に花を咲かせていただけだった。


実はその方、最近少し認知機能に問題が出てきていたそう。こういうこと、これからもっと出てくるだろう。というか、実際に見ているし。毎回警察や役所や社協などが動くわけにもいかないだろうしそもそも不可能なほどになるかもしれないので動ける者がやらないといけなくなる。そういう社会に変わっていかないといけないと考える。


ともかく今日は無事で良かった、良かった。





こんな記事があった。


タイトルからも記事本文からも「田舎」「ジジババ」がキーワードのように受け取れる。悪いが、これはとても意地悪な書き方だと思う。なぜなら、田舎と都会、若年層と高齢者の分断を煽る書き方だからだ。結果、この書き方にまんまとはまった人たちがsnsにわんさと出現してしまっている。

でもよく考えて欲しい。カフェを開いた場所の近くに工場があれば油の付いた作業着の人たちがお昼時にたくさんくるのだろうし、幼稚園なら送り迎えの親たちだろうし、高校があれば部活帰りの高校生だろう。こうしたことは田舎だろうと都市部だろうとどこででも発生する。仮に想定していた観光客が来たにしても経営者の思っていた振る舞いをするとは限らない。

つまり田舎とかジジババとか、そういったことはまるで関係がなくて、単なる事業経営とマーケティングの問題に過ぎない。田舎とジジババをキーワードにする方が小規模カフェの経営というより記事が読まれやすいだけなのだ。


ところで、我が活断層ハウスだが、そのジジババの溜まり場になって欲しいと思っている。儲けようなんてことは考えていない。溜まり場になりやすい場所は、店もない、ベンチも公園もない、大して花も咲かない片田舎にはどうしても必要なものだと考えている。そしてジジババならずとも子供にだってジジババ予備軍にだって必要かもしれない。

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