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もんく [とある南端港街の住人になった人]

違う人たち、違ってしまった人たちと生きること

マレーシアにいた時、直接会ったことはないがある日本人の料理人がいた。その方、不幸にも舌癌になってしまった。そして手術後に(たぶん舌を切ったと思う)上手く話せなくなってしまった。

上手く話せなくなると他人との会話が難しくなる。けれども彼は話すのが困難なだけで他人の話を聞くのも考えるのもそれまでと変わらない。しかし、話せないようになっただけで周囲のその人に対する態度が大きく変わったのだそうだ。優しくなったのではなくてその反対。まるでこいつには何言ってもダメ、人としてマトモに扱えないと言わぬばかり・・・とか。

今でも時々報道で出てくるが、認知機能の障害がある人の施設でどうせ家族にはわからないだろうと思っているのか入所者を虐待したり、虐待にはならないまでも人としての尊厳を無視したような扱いをする場合があるとか。そうした待遇を受ける方はそれがどんな意味持つのか、もしかするとわからないかもしれない。わかるかもしれないが、確かめることはできない。

この家の周囲にも高齢になって認知機能が衰えたり、高齢でなくても理由はわからないが判断力に問題がありそうな人も出てきている。亡き母もそうだったが、週に一度見ていた弟は母に対していつも怒ってイライラしているように、そして雑な態度をとっているように見えた。

一般に人間は、周囲の人が少なくとも自分と同程度に判断や認知ができることを前提に考えて生きていると思う。それで、そのバランスが崩れているのを発見するとその相手に対してとても大きな違和感を感じるらしい。その違和感が自分の環境(既にある調和)を脅かすと思って態度を変えるらしい。


動物の場合、群の中の弱った者を追い出したり犠牲となるように仕向けたりするのもあるが、なんとなくそれに近いように思える。でも、人間には異なることを認める能力とか合理的に考える思考や教育みたいなものがある。それはつまり自分の中の野生や自然を思考の中で処理することができるという意味なわけで、多くの人から見て違うとか劣るような人と強調して生きて行くために自分が変化できるとか、そうした変化を良い方向に変えられるとか、もしかしたら楽しめる。それが人間らしさじゃないだろうか?
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