ずっと昔の三浦さんの事件、あの時は多分無罪になるだろうなあと思っていたらやっぱりそうなったけれど、その事件がまたここで出てくるなんて不思議な気がする。
この事件そのものについては、いつもながら、ここではどうでも良い。問題は今回の審理の流れの方なんだ。
さっきテレビ朝日の朝のワイドで現地レポーターが日本時間早朝に行われた逮捕状取り消し請求の初審理が終わったと言っていた。この審理では弁護士による意見が検討されて、結局再審理が行われる事が決まったそうだ。
そしてそこに注目の一言が入っていたのを聞き逃すわけにはいかないね。判事は弁護士の意見を聞いて「意見を変えた」と言ったんだ。もうちょっと詳しく言うと、最初判事はこの、三浦氏の逮捕を取り消すかどうかを決める審理は三浦氏をロスに移送してからにすべきだと考えていたらしい。しかし、弁護士の申し立てに従って開かれた今回の審理で弁護士の意見を聞くうちに「意見を変えた」そうだ。
「意見を変えた」これを英語のニュアンスでどういったのかはわからないけれども、それが普通に日本語的な意味でのそれであったなら、これは驚くべき事だね。
日本では有り得ない。絶対に、天地がひっくり返っても有り得ないことだよ。
日本でもこうしたお話し合いで何かについての意見を交し合う事はあるし、その結果としてきっと何か決まることもあるよ。でも、当事者たちが自分の「意見を変える」なんて、絶対に有り得ないだろう。
日本では「意見を変える」事はせずに「折り合いをつける」んだ。折り合いってのはどっちの意見も曲げないままに「仕方ないなあ、あんたがそう言うんなら、それじゃまあ、こっちもここまで譲るから、なあどうだい?」「そうだなあ、そんじゃこっちもそこんとこは譲るからさ、この件はこのあたりで丸くおさめとこうよ。」って言うような事だ。この中にもう一人、仲介役のような人が入ると「まあ、ここではあんたの顔を立てて...」となるようなこと。
日本では自分の主張を曲げたり、まして間違っていたことを認めたりするのは美徳としてはよろしく無いわけだから、誰かと折衝して結論を出すとなるともうそこには「折り合い」しか無いことになる。自分の面目がつぶれないようにしてくれよって言い続けるしかないわけだね。そうならないとカッコ悪いから。
本当の事言えば、それじゃ話し合いにはならないと思うんだ。相手の言うことを聞く機会ができたのにそれを聞かないで自分の事を主張し続けるなんてやり方じゃ、本当には結論には達しないし、自分のためにもならないでしょう。他人の意見を聞けるのは自分にとっての一つのチャンスじゃないのかな。
だから「意見を変えた」って公言できるってすごい事だと思うんだ。日本人に限って言えばそれを言える機会が一生に一回でもあったら幸せかも知れないなあ。アメリカ人には当たり前でもね。
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