もんく [とある南端港街の住人になった人]

映画「デスノート」

今頃、と言われそうな本当に今頃、やっと「デスノート」を見た。
デスノートの前編、後編、それにL 最後の23日、ついでにアニメ版の「リライト」まで続けて見た。

原作は全然知らないので題名からもっとオカルトかと思ったら意外に探偵物っぽくてちょっとビックリ。で、この作品自体には、原作を全く知らない者として言いたい事はたくさん出てきた。多分、こう言うのを見る人は原作から入るから全然気にならないのだけれど、それを知らずに映画としてだけ見ると映画そのものとしては成立していないだろ、と突っ込みたくなる。でも、原作が売れて出来た作品なのでこれは仕方ない事にしよう。

それとはちょっと別の話になるけれど、アニメと映画、実写で実際の人間が演じているのと絵が動くだけのアニメ、これはこんなに違うものかな、と再発見。

実写版で気になってしまう第一の事は、登場人物の行動の動機。原作から入る人にはもうLって人が、この人はそんな人だってわかってるからどうでも良いんだと思うのだけれど、普通に映画として見ているこちらにはとてもそうは行かない、けっこう気になる点だ。まずそこで不親切だと感じてしまうし、描けていないとも思う。

しかしながら、同じような話をアニメで見ると、そう言う部分を問う気持ちが自分自身から全く湧いて来ない。動く絵に、こいつはこんなものだ、みたいなところで思考を止めて見てしまうのを感じる。気にならない。自分自身、これには驚く。

もう一つ、実写の方が微妙な登場人物の心の動きが気になるのだけれど、アニメだとそれが無い。例えば、実写の月が正義感から始まって、次第に心を変質させて行くんだろうなと言うような部分、描き方が不十分に感じる。もっと変質の色がわかるようにしても良いように思うのだけれど、同じ事がアニメでは感じられない。アニメの方がストーリー主義で成立してしまうような、かなりザックリとした描き方に感じられるけれども、それはそれで良いと、見ている自分が許してしまっている。

こんな比較ができる事はあまり無いから、今回は貴重な体験になった。

ところで、アニメ版のリライトはまだ後編があるのだと、最後のところでわかった。後編が今後入手できるかわからないのだけれど、ちょっと驚いたのはLが前編の最後で死んでしまった事。ネットで調べると死んだのは捜査のためのウソってわけじゃなく、本当に死んでしまって後編では月が二代目Lとなるらしい。

それを聞くとやっぱりアニメはストーリー主義的に行っちゃうんだな、と改めて思う。アニメは人間の視点を大切にしなくても意外性のあるストーリーだけでも成立してしまうものらしい。実写の映画だと続編と言うのができる場合があるけれど、だいたいそれは、実はね、この人の過去はこうでとか、この人のその後の人生はみたいな一人の人間への興味みたいなものが原動力になっている場合が多い。お話の続きだけじゃなかなか面白い映画にはならないのだから。

アニメにはそう言うのは必要無いらしくて、単に次の活躍とかお話の続きと言うだけで済んでしまう。人間が演じるか、絵が演じるかだけの違いなのに、受け取るこちらもそれに応じてそれなりに受け取っているのが不思議だ。もちろん作る方もわかっているんだろうな、リライトでLを殺してしまうのはその証拠だろう。原作がそうなっているのなら、(知らないけれど)アニメと漫画は映画よりも近い存在なのだろう。
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