もんく [とある南端港街の住人になった人]

雲の切れ目はまだはるかに遠く、雨は降り止まない

夕立のためにショッピングモールで雨宿りをしていた。

日曜日の給料日後、それにスクール・ホリデー中とあってかなり混み合っている。ホテルも遊園地もあるので外国の観光客も多く混じっている。最近は中東方面からのお客も多い。外の大雨など全く知らぬがごとき華やかさだ。

それを見ていて思う。東京もいろいろ何でもあって華やかな都市だけれど、こんなに、何と言うか、底の抜けたような華やかさと言うのはあっただろうか? 思いつく中にはどうもありそうにない。そう言えば、先日のニュースでも世界の幸福度調査と言うのがあって、日本はかなり下位だったと書かれていた。世界有数の所得水準で何でも買おうと思えば手に届くところにあるような国なのに幸せ感は薄い。

そんな調査結果を待たなくとも自分だって日本人なのでその幸せ感の無さは実感できる。将来に対する不安があってできるだけ収入の中から多くを預金に回さなければならないと思っている。ショッピングモールの人たちは日本人の自分よりずっと収入が少ない人が多いと思うけれども平気で高いレストランで食事をしたりアトラクションで楽しんでいてとても将来を案じているようでもない。流行のスマートフォンでFacebookをしながら歩いている人もびっくりするほど多い。いったい携帯電話の値段もさることながら毎月の通信費だってバカにならないはずなのに。


そうしてみると日本人である自分は、昔からの言い方だけれども、お金に従属的な考え方が染み付いてしまっているのだな、と感じる。

逆に言えば、だからこそ日本は経済発展ができたのかも知れない。これまた古い言い回しで表現すればお金に遣われてる存在になってしまったのだろうか。


よく見てみればお金だけじゃない。ネットでYahoo!ニュースのコメント欄を見ていると政治、政治家や行政に文句を言っている人が山ほどいる。それは正当な意見を言っているようでいて実にその文句の対象に対して従属的な人たちだと感じられもする。

死んだ犬を蹴る物はいない、とまた古いことわざで表現してしまうがそんな事だろう。あれはこうでなければならない、とかこれが正しいとか言うのはそれが死ぬほど大切だと言うことであるから。それにしてもその正論の結果がほとんどの場合保守的なものであるべきとなっているのがミソだ。


地震の後に日本人はすばらしい民族だとほめられたものだけれどもそれが民度の高さを示すものなのかは疑問だ。単に従属的な生き物なのではないか。自分で何か考え出すよりも全員が何かに従属している方が日本では上手く行く。白線の無いところで自分の歩く場所を決めなくてはならないより白線の通りに進む方が楽なのだ。これは批判でなくて実感なのである。

我々はどこにいても白線が引かれてあるべきだと考えている。だから世界有数のお金持ちになっても自由に白線から出ない、そんな従属的な生き方を選んでいる。年老いた母はよく世間に対して見っともなくない生活をするようにと言う意味のことを言っていた。仕事をせずにぶらぶらしていた時にはみんなは我慢してやっているのだから、などとも言った。


結局、日本人としての自分はそんな従属的なやり方から抜け出られないし、それ以外の方法を思いつくような人間にはなっていないのだと思う。こんなに世間が華やいでいても自分にはそれはいつかは終わりが来るものだとしか感じられない。雲の切れ目はまだはるかに遠く、雨は降り止まない。
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