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もんく [マレーシアで働いて13年→2022猫を連れて日本]

我々はいつまで分断と憎悪のために言葉を使うのか

東京都知事選挙が終わった。
自分は神奈川県民だからそれほど注視していたわけではないけれど、流れてくる記事や動画を見るとけっこう悲しくなるものがある。都知事選に限ったことでもないが。


選挙、政治、社会に関心がある人がよく民主主義の限界とか政治の機能不全とか、そんな言葉を使って現状への不満を示す。わからないではない、というかわかる気がする。


だから変えたい、変えなければと考える。それは選挙で投票する方も立候補者にもそういう人がいる。気持ちはよくわかる。


それでどういうやり方をするかというと、それに関してはほとんど何も変わらない。皆、主張が大事だと考えて大きな声で正しいことを叫ぶ。そして闘う。ある候補者がインタビューされている時になぜ同じ質問を繰り返すかという言い方で答えを渋っていた。料理人が残された料理を見て「量が多かったかな?」と思うが「美味くなかったか」と考えないのと同じようなもので、「自分の言い方が悪かったかな?」とは考えずわからない方が悪いとか元から批判するために来ているのように考える。


相変わらず分断の促進、憎悪の増幅をしてしまっている。そして永久に議論することはないだろう。


さて、この結果は民主主義という制度の限界、政治システムの限界によって起きているのだろうか、それとも制度を運用している我々の方に限界があってのことなのか?


一般に我々は自分に十分な自信を持って生きていける根拠のようなものはない。何か正しいことを考えて主張してもそれは十分な説明なしにわかってもらえるこちら側のみにしか言えず、あちら側に対してわかってもらえるまで丁寧に説明しようとはしない。自信がないことの表れはグルーピング、囲い込み、扇情的なイメージ戦略で終わる。そんなものに動員されるのは真っ平ごめんです。


そう考えると、我々はまだ民主主義ってものを何も知らないし経験もしていないのじゃないかと思う。

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