もんく [とある南端港街の住人になった人]

快適君

人間て言うのは、...いつも時々ハッと我に返る夢遊病者のようなもので、その時が良くても悪くても、とりわけ悪い状態の場合に「どうして自分はここでこんな事をしているのだろう」と思うものじゃないかなあ。

ここにいるキャサリンさんなんかは「どうしてこんな男と結婚しちゃったんだろう」と日々、割と小刻みに我に返って思っているように見える。キャサリンさんばかりじゃなくて世の既婚女性の多くはきっとそう思うことがけっこうあるのじゃないだろうか。だって結婚の7割(だったっけ?)は失敗だなどと良く言われるのだから。


結婚と言うようなことばかりじゃなく、だいたい人のするほとんどの事がそうだと思う。もともと好きだったわけでも無いことを何時しかやり続けるようになっていたり、それは不愉快に見えることでも何故かそれをし続けていることは多いものだ。趣味でも仕事みたいなことでもクセでも習慣でも何でも、それに理由があるわけじゃないのにどうしてもそうしないと気が済まない。

そんなわけのわからない物事がごってりと塊を作っているのが現在の"自分"と言うものじゃないかと思う。今ある状態の全てを洗いざらい分類したり整理してみようとしたら、きっと30年住んだ家の押入れみたいにもうなぜそこにそれがあるのか思い出せないようなものがごっそり出てくるに違いない。

そう考えると、きっとどこかで知らないうちにそれを受け入れるきっかけがあったと言うことだけれども、どうもそれらを連れて来るヤツがいるような気がする。そいつには名前が無いようなので勝手に名前を付けさせてもらうが、「快適君」が良いように思う。


人が何かしたいとか、変えたいと感じるのはやっぱり"快さ"がそこに付いているからと言うのが一番じゃないかと思うからだ。イヤイヤの時はほとんど長続きしないでその場限りになるけれども、ちょっとした心地良さや快さがある時は脳ミソが拒絶せずになぜか自動的に受け入れてしまう。子供がちょっとほめられるとそれをずっとやり続けるようなもので、大人になってもそれが変わることはないのじゃないだろうか。

結果としてどうしてそんな事やり続けるのかな、と思うようなことが習慣になってしまったりする。そうしてそんな事が積もり積もってだんだん変なクセのある大人に成長していって、元の姿が何だったのか、果たしてこの人に純真な子供時代があったのかなと言うようになる。海の底に沈んだカキの殻のたくさん付いた石ころだ。



それはそれでまあ、仕方ない。

逆に、他人にきっかけを与えるとすれば快適君と言うコンパニオンをたくさん連れて歩いているような人じゃないとそれはできないのじゃないだろうか。怒ってばかりいる上司の部下はきっとその場は仕事をするように見えるけれども、ずっと怒り続けていなくては仕事にならないだろう。けれど、快適君を連れて来てくれる上司の部下はあまりいろいろ言わなくてもちゃんと仕事を自主的にするって説明だとわかり易いかと思う。

自分自身はあまり快適君を連れて歩く方じゃないので人に何か影響を与えるような人間にはなれないかと思うけれども、たまにはそう言う事を心掛けないといけないなと思うこともある。別に仕事じゃなくても。
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