見出し画像

もんく [とある南端港街の住人になった人]

「自分はもう言った」はホントによく聞く言葉

結果を得ない仕事のやり方と言うのはあるが、それについて何とも思わないでやり続けると言うのもよくある。

もちろん、仕事なので結果は得ないといけない。アウトプット無しにインプットだけは仕事として成り立たないのだから。が、なぜかそれで良しとしてしまう人がいる。それもけっこういる、マレーシアの場合には。本人たちはマジメにそれで良いと思ってやり続ける、何年も。見ていておかしい。


時々給料の事で作業員から相談される。同じ頃に入っているのにアイツは引かれてる額が少なくて自分は多い。そりゃ確かに変だ。人頭税は一定額だし、家賃や電気代、水道代なんか人数割りだから違うわけがない。が、こっちはその詳細を知らないので計算してやるわけにもいかず、仕方なく人事に言って聞いてくるように言う。

人事が不親切で他の者は理解したのになぜオマエだけそんな事を今聞いてくるんだ、とか、これまでの全部の給与明細持ってこい(捨ててるだろう)とか言って話にならないとか。

それで代わりにメールでも入れておいてやると、必ず言う事は、それはもうちゃんと説明したと言う。その説明とやらを聞いてなぜこんなにボロボロと疑問が出てくるのかと言うわけだ。

こう言うのは人事だけでなくて一般にある。自分はもう言った、と言うところで終わっている例が。それは、言うのは仕事としては一番簡単。だけれど、「言う」と言うのと相手に理解させるのとは違う。だいたい理解はしていない。それで何年も何回も同じ事を言い続ける事になる。嫌になったり飽きたりしないのがすごいとは思うが。


それをやる続ける人は、基本的に結果に興味が無い。「言う」と言うところにポイントがある。言う、命令する、指示するこれが好きだ。それで仕事したと誤解してしまう。他人に命令するのは気持ちが良いのだ。

それにもう1つ、言っている自分は正しいと思っている。受け取る方がそれに従わない、理解しないのだ。つまり相手が悪いと考える。相手が悪いと言う考えは1つの結論であり決定になる。だとすると永久に自分は正しい立場、相手はその反対。決定が下されるとそれはもうほとんど覆らない。だから正しい行いをずっと続ける事になる、飽きもせずに。

ある意味、一種の思考停止なのである。相手が上手く受け取れないと言う事はもう相手に委ねられていて、送り手としてはもうすべき事が無い。脳味噌はもうガンとして動かない。特にあいてが外国人労働者で自分より明らかに地位が下に見える場合顕著だ。

そのあたりが言うだけの人の限界なんだろう。おかしい。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「マレーシアでニャー2017」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事