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糞カキベラ
世の中には、不思議なことが多い。
竜安寺の石庭を鑑賞し尚かつ感嘆する人がいる。いくら説明を受けてもサッパリ分からない。神経質な坊主が病的な拘りで掃除をしたとしか考えられない。従って、感嘆できる人びとはエライのだなあと感心する。
そんな私を励ますような文章を発見した。少々長いが引用する。
《竜安寺の石庭が何を表現しようとしているか。如何なる観念を結びつけようとしているか。
タウトは修学院離宮の書院の黒白の壁紙を絶賛し、滝の音の表現だと言っているが、こういう苦しい説明までして鑑賞のツジツマを会わせなければならないというのは、なさけない。
蓋し、林泉や茶室というのものは、禅坊主の悟りと同じことで、禅的な仮説の上に建築された空中楼閣なのである。仏とは何ぞや、という。答えて、糞カキベラだという。庭に一つの石を置いて、これは糞カキベラでもあるが、又、仏でもある、という。
これは仏かも知れないという風に見てくれればいいけれども、糞カキベラは糞カキベラだと見られたら、おしまいである。実際に於いて、糞カキベラは糞カキベラでしかないという当たり前さには、禅的な約束以上の説得力がある。》 (坂口安吾『日本文化私観』)
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竜安寺の石庭も、安吾にかかってはスッカリ形無しだ。
06.08.05