広島県福山市の沼隈半島の南端に位置する鞆地区は今は静かな漁港であるが、かつては「鞆の津」と呼ばれ、瀬戸内を行き来する船の潮待ちの港として栄えた歴史がある。
この鞆の浦の沖は満潮時に紀伊水道や豊後水道から瀬戸内海に流がれ込んだ潮流がぶつかり合い、複雑な潮目をなす地点で、引き潮と共に潮流が逆転する。
そのため、瀬戸を行き来する船は、すべてここで停泊して潮待ちをするのが常であった。
このため瀬戸内航路が盛んになり始めた平安時代からここには港町が形成された。
沖には仙酔島を始め躑躅島、大可島、皇后島、弁天島、玉津島、津軽島など多くの島々があってそれらが美しい景観を織りなしている。
景観の美しさは萬葉の和歌にも詠まれ、今も残る古い街並みと合わせ観光の名所として今も訪れる人が絶えない。
江戸時代に整備された常夜燈、雁木、波止場、焚場、船番所などの港湾施設の全てが今もそのまま残るのは全国でもここだけといわれ、江戸時代の絵地図がそのまま使えるといわれるほど街並みは昔と変わっていない。
鞆の浦周辺の自然は1925年に「鞆公園」に、そして1934年3月に日本最初の国立公園「瀬戸内海国立公園」に指定された。
しかし、古い街並みだけに道路は狭く、行き交う車のすれ違いにも難渋するほどで、車の渋滞は日常化している。
この交通渋滞解消のため鞆港の沖を約2ヘクタール埋め立て、港内を横断する約180メートルの橋の建設計画が持ち上がり、広島県知事から国へ埋め立て工事に必要な港湾埋め立ての認可申請がなされたのは2008年6月のことであった。
しかし、歴史的な景観を破戒するとして地元から強い反対が湧き起こり、問題は訴訟に持ち込まれた。
2009年10月一審の広島地裁は「鞆の浦の景観は住民の利益だけではなく瀬戸内海の美観を構成する文化的、歴史的価値をもつ国民の財産」だとして住民勝訴、知事側敗訴の判決を下した。
訴訟は二審に持ち込まれて争いが継続したが、広島高裁は2015年に双方へ訴訟終結の最終案を示し、2016年、それに従い知事が工事を断念するとともに住民が訴訟を取り下げて訴訟は終結した。
しかし、交通渋滞緩和の課題は今後に残されたままである。
鞆の浦の磯のむろ木を見むごとに
相見し妹は忘らえめやも
(大伴旅人 万葉集巻3 0447)
天平2年(730年)に大伴旅人が船で太宰府から都に帰還する途中に立ち寄った鞆の浦で、亡くなった妻のことを思って詠んだ和歌である。