法 金 剛 院
双ヶ丘がある右京区花園一帯は古くは皇室の遊猟の地であった
といわれる。
その双ヶ丘の東麓に五位山を背にしてこの寺は建てられている。
平安初期に右大臣清原夏野がこの地に山荘を開き、後にそれが
寺に改められ双丘寺、天安寺などと称されていたが、その後消失
し、廃寺となった。
これを法金剛院として再興したのが鳥羽天皇皇后の待賢門院璋
子である。
池水回遊式庭園を中心にして、西には西御堂(仏殿)、南には南
御堂(九体阿弥陀堂)、東には女院御所の寝殿を配し、北には巨
石を二段に積み上げた滝(青女の滝)をもつ広大な寺院であった
といわれるが、応仁の乱の兵火と、その後の地震ですべてが失わ
れた。
現存のものは元和年間の再建にかかるもので、往時の偉観はな
いが、青女の滝の滝石組は当時の遺構が発掘され、
苑池もその規模こそかつてのものに及ばないが、池の巡りに四季
折々の花が咲き、秋は紅葉で訪れる人を楽しませてくれる。
待賢門院璋子はたぐいまれな美貌の女性であったといわれ、
かしづく女房らからも、院の近臣らからも慕われたらしいが、
多情な一面もあったようだ。
北面の武士として鳥羽院に仕えた佐藤義清(西行)も璋子を深く
思慕し、それが出家の理由だとする説すらある。
庭の枝垂桜はその咲き姿の艶やかさから待賢門院桜とも呼ばれ
ている。
夏にはアジサイが美しく、
またハスの寺としても知られている。
今は馬酔木がその花時を迎えている。
璋子は鳥羽天皇に入内後、五男二女をもうけ、崇徳天皇、後白河
天皇の母でもある。
しかし、崇徳天皇は皇統上では鳥羽天皇の子とされてはいるが、
実は白河上皇の胤であったことは隠れもない事実のようで、これ
が保元の乱の火種となった事はよく知られている。
美福門院得子が鳥羽上皇に入内後は、その寵を得子に奪われ、
かつは身も病がちで、42歳で髪を下ろし、45歳でその短い生涯
を閉じた。
西行は在りし日の待賢門院璋子をしのび、侍女の堀川に詠み
送った。
尋ぬとも風のつてにもきかじかし
花と散りにし君が行方を
(西行、山家集)
璋子の亡骸は、本人の遺志により荼毘に付されることなく、
五位山の鳥羽天皇皇后待賢門院璋子花園西稜に葬られた。