忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

蓮に浮かぶ観音堂-三室戸寺

2016年08月04日 | 花の寺
夜もすがら 月を三室戸 わけゆけば
        宇治の川瀬に 立つは白波

と御詠歌に唄われた三室戸寺は宇治に近い精か真夏のこの時期でも境内には人の姿が絶えることがない。





本堂には秘仏の千手観音菩薩が鎮座する。





西国十番の観音霊場の山寺で、花の寺としても知られている。





この時季、アジサイが終わり、境内は浄土の花、蓮の季節で、重層入母屋造りの本堂(観音堂)はまるで蓮の花に浮かぶようである。





境内には外国人の姿もちらほら。





寺伝によると宝亀元年(770年)に光仁天皇の勅願により創建されたというから、寺歴はかなり古い。
本山修験宗の別格本山である。





現在の本堂は江戸時代の文化11年(1814年)に再建されたものである。





暮れはつる 秋のかたみにしばし見ん
           紅葉散らすな 御室戸の山

                     (西行)

西行の出家した寺-勝持寺

2016年07月29日 | 花の寺
京都西山の大原野にある勝持寺は西行が出家した寺として知られている。
大原野神社から道をさらに西へしばらく歩くとやがて右手の階段の奥に古びた朱塗りの仁王門が見えてくる。
勝持寺の仁王門である。





鳥羽院の北面の武士をしていた左兵衛藤原義清(佐藤義清)は世の無常を感じ、鳥羽院に出家の許しを請うたが許されなかった。
しかし、思い止みがたく、保延6年(1140年)の10月15日、袖にすがる妻を振り解き、まつわりつく4歳の愛娘を縁から蹴落としてこの寺へ入り、髪をおろして法師西行となった。





遠藤盛遠と名乗っていた高雄の神護寺を再建した文覚上人、伊勢の平太と呼ばれていた後の平清盛も、ほぼ同じ時期に勧学院で学んでいた時代まわりで、世の中は摂関政治の退廃の中で武家が台頭し、武家と武家が争い、その血によって歴史が動く中世の世へと大きな時代の曲がり角に差しかかっていた。





西山にある古刹はそのほとんどが小塩山の峰を借りて建っているが、この寺も例外ではなく、そこは山裾のかなりの高所で、仁王門をぬけてかなりの急勾配参道を上へ上へと上り詰める。
南門までたどり着くまでかなりの道のりである。





寺伝では白鳳8年(678年)に天武天皇の勅願により役小角創建したとされ、その後、延暦10年(791年)桓武天皇の勅により最澄が再建し、後に小塩山大原院勝持寺と称されるようになった。





最盛時は四十九の塔頭寺院を有する大寺院となったが応仁の乱でほとんどの伽藍が焼失、江戸時代に将軍綱吉の生母桂昌院の帰依を受けて多くの伽藍が再建され現在の姿となった。





西行は出家後しばらくこの寺の草庵に住み、その頃に手植した西行桜が今も残る(現在は3代目)。境内にはほかにも多くの桜が植えられており、季節には寺が花の中に埋もれる花の寺として知られている。

 はな見にと 群れつつ人の来るのみぞ
        あたら桜の咎にはありけり
                 (西行法師)

十一面観音菩薩の寺-長谷寺

2016年04月10日 | 花の寺
奈良県桜井市初瀬の初瀬山の山麓から中腹にかけての広い境内を有する真言宗豊山派の総本山長谷寺。
全国に同名の寺が多く、区別するため大和国長谷寺とも呼ばれる。





仁王門(現在修復中)から本堂へと長い登廊を登って懸け造りの本堂(国宝指定)へ至る。
登廊は上、中、下の三廊あり、合わせて合計399段もある。
その登廊の左右に多くの伽藍、子坊が建ち並ぶ。





寺の歴史は朱鳥元年(686年)に道明上人が天武天皇のため「銅板法華説相図」(国宝指定)を初瀬山西ノ岡に安置したことに始まるというから、その寺歴は実に古い。





平安時代の承和14年(847)には上額寺に列せられ官寺となった歴史もある。





平安時代には観音霊場として、また花の御寺として貴族やその姫君など、深窓の花々から篤い信仰を受け、清水寺とならぶ観音詣での名所となった。





本尊は十一面観音で、身の丈3丈3尺、右手に錫杖を持ち、大磐石の上に立つ巨大な像で、この右手に錫杖をもつ観音像は長谷形観音と呼ばれ、全国の長谷観音の根本像とされている。
その大きさは外陣の礼堂からも拝することが出来るが、内陣に入りその足下にたたずんで見上げれば、今さらながらにその巨大さに驚かされる。





境内は四季折々に約100種類もの花が咲く花の寺であるが、とりわけ牡丹の名所として良く知られ、





境内には150種、7000株の牡丹が植えられ、





4月中旬から5月上旬が見頃で、色も姿もさまざまな牡丹が咲き姿を競い、牡丹祭りが催される。





西国三十三所観音霊場第八番霊場となっている。





      いくたびも まいる心は はつせでら
               山も誓いも ふかき谷川


花の寺-法金剛院

2013年04月02日 | 花の寺

            法  金  剛  院


双ヶ丘がある右京区花園一帯は古くは皇室の遊猟の地であった
といわれる。
その双ヶ丘の東麓に五位山を背にしてこの寺は建てられている。
平安初期に右大臣清原夏野がこの地に山荘を開き、後にそれが
寺に改められ双丘寺、天安寺などと称されていたが、その後消失
し、廃寺となった。
これを法金剛院として再興したのが鳥羽天皇皇后の待賢門院璋
子である。

  
 

池水回遊式庭園を中心にして、西には西御堂(仏殿)、南には南
御堂(九体阿弥陀堂)、東には女院御所の寝殿を配し、北には巨
石を二段に積み上げた滝(青女の滝)をもつ広大な寺院であった
といわれるが、応仁の乱の兵火と、その後の地震ですべてが失わ
れた。


  


現存のものは元和年間の再建にかかるもので、往時の偉観はな
いが、青女の滝の滝石組は当時の遺構が発掘され、


  


苑池もその規模こそかつてのものに及ばないが、池の巡りに四季
折々の花が咲き、秋は紅葉で訪れる人を楽しませてくれる。


  


待賢門院璋子はたぐいまれな美貌の女性であったといわれ、
かしづく女房らからも、院の近臣らからも慕われたらしいが、
多情な一面もあったようだ。
北面の武士として鳥羽院に仕えた佐藤義清(西行)も璋子を深く
思慕し、それが出家の理由だとする説すらある。

庭の枝垂桜はその咲き姿の艶やかさから待賢門院桜とも呼ばれ
ている。

  


夏にはアジサイが美しく、
またハスの寺としても知られている。

 
   


今は馬酔木がその花時を迎えている。


  


璋子は鳥羽天皇に入内後、五男二女をもうけ、崇徳天皇、後白河
天皇の母でもある。
しかし、崇徳天皇は皇統上では鳥羽天皇の子とされてはいるが、
実は白河上皇の胤であったことは隠れもない事実のようで、これ
が保元の乱の火種となった事はよく知られている。
美福門院得子が鳥羽上皇に入内後は、その寵を得子に奪われ、
かつは身も病がちで、42歳で髪を下ろし、45歳でその短い生涯
を閉じた。

西行は在りし日の待賢門院璋子をしのび、侍女の堀川に詠み
送った。

   尋ぬとも風のつてにもきかじかし
           花と散りにし君が行方を

                                    (西行、山家集)

璋子の亡骸は、本人の遺志により荼毘に付されることなく、
五位山の鳥羽天皇皇后待賢門院璋子花園西稜に葬られた。


   


花の寺~不退寺

2012年09月30日 | 花の寺

     不退寺

東大寺の転害門から真っ直ぐ西へ延びる平城京の一条通。
佐保路と呼ばれる、この道が通る佐保の山の辺は、その昔、
王朝人がきそって別荘をもつ風雅の地で、そこを流れる佐保川
は、岸辺に四季の野の花が咲く清流であった。
不退寺は、その佐保の地に建つ寺の一つで、
花の寺として親しまれている。
狭岡神社の西、一条通の北、約300メートルほどの所にある。
寺号は正しくは不退転法輪寺、山号は金龍山。
業平寺の名で知られる。

 
        

元は「奈良の帝」と呼ばれた平城天皇が退位後に営んだ
「萱の御所」で、平城亡きあと、子の阿保親王がここに住まい
し、孫の有原業平の代にこれを寺としたといわれる。
重要文化財に指定された本堂は、室町前期のもので、桁行5間、
梁間4間、寄棟造本瓦葺の、小ぶりな建物だが、落ちつきがあ
る。本尊は業平自らの手になると伝えられる聖観音である。

    

広縁は歩くと、キョッ、キョッと鳴く。

        

重要文化財に指定された多宝塔は、鎌倉期のもので、現在は
上層が取り払われ、単層の小堂になっている。

          

業平の寺らしく、庭には、レンギョウ、椿、カキツバタ、萩、睡
蓮など、四季の花が咲き、秋は紅葉が楽しめるが、今はその
端境期である。
それでも、コスモス、芙蓉が庭に趣を添えていた。

  
             

  なりひらの朝臣
 
       おほかたは月をもめでじ
           これぞこの
            つもれば人の老いとなるもの

                               (伊勢物語、古今集)

         ついにゆく道とはかねて
           聞きしかど
            昨日けふとは思はざりしを
                     (古今集)


花の寺~般若寺

2012年09月28日 | 花の寺

     般若寺

法性山般若寺。
平城京の丑寅に位置する奈良坂、
そこは平城京の鬼門にあたる。
この辺りは、かつて律令制の時代、良民から外された
が集まり住んだ地だとされている。
鎌倉時代、西大寺の僧忍性が日本最初の避病院である北山十
八間戸を建て、道端には夕日地蔵がたたずむ。
その奈良坂の夕日地蔵を過ぎたあたりに、その寺は建つ。
木造、入母屋造、本瓦葺の端正な楼門(国宝)が訪れる人を
出迎えてくれる。

        

この寺、春は山吹、ボタン、夏はアジサイ、秋はコスモス、冬は
スイセンと、季節季節に色とりどりの花が咲く、花の寺である。
楼門の横にある参道には、今の季節、彼岸花が…、

 

境内にひときわ目立つ、十三重の石塔(重文)。
この種の石塔は鎌倉期に多くの寺に起てられたが、これほど
巨大な塔は類いがない。

 
      

苦難の歴史を生きた寺である。
寺伝によると、飛鳥時代に高句麗の僧慧潅によって創建された
という。

    

かつては広大な境内と数多の堂塔伽藍を有したと伝えられるが、
治承4年(1180)、平重衡の南都焼打ちで全山が灰じんに帰した。
鎌倉時代に再興されるも、室町末の戦乱期に寺は2度の兵火に
遭い、ほとんどの伽藍を失った。
江戸期に再建されたが、明治の廃仏毀釈で寺運は再び衰え、
花の寺、癒やしの寺として今に甦った。

       

寺の名の由来である「般若」は、梵語のパンニャ(悟りの知慧)の音訳。
本堂の広縁に座して見わたす境内の花の湖は、正に般若の清浄の
世界そのもの。
癒しを求める老若にとって、
幾度でも足を運びたくなる寺である。

    

寺の歩んだ苦難の歴史を背負い、鐘楼の鐘は、

    

撞けば
      諸行無常
の音を奏でる。


矢田寺

2012年06月29日 | 花の寺

 矢田寺

矢田寺、正しくは矢田山金剛山寺。

矢田丘陵の中心部の矢田山の中腹に建つ。
世間ではあじさい寺の名で知られている。
地蔵菩薩を本尊とする珍しい寺で、一年を通じて善男善女のお参
りが絶えず、花期には花見客で全山が賑わう。
大和郡山の駅から約3キロの道を歩き、富雄川を越えた辺りから
延々と坂道が続く。
その坂を美しい矢田丘陵の自然を愛でながらあえぎあえぎ上って
いくと、やがて丹塗の山門が見えてくる。
山門の先には長い長い石段が待ち受けている。
名のとおり山寺なのだ。

 

折れ折れの石段を登り切った高台に沢山の伽藍が建ち並ぶ。

 

両側に白壁が続く石畳の参道を進むと、ます右手に大門坊の門
がある。

 

お堂の前の庭には沙羅の花や紫陽花が咲いていた。
大門坊は容眞御流華道の家元である。

 

大門坊の西隣りに聖天堂(矢田聖天)が、参道を挟んだお向か
いに念仏院がある。

 

参道の奥の階段を上ると正面に講堂、そして鐘楼がある。

 

講堂は丹塗りの立派な建物である。

 

講堂の北に北僧坊が、南に南僧坊がある。

 

大門坊、念仏院、北僧坊、南僧坊の四つを併せて矢田寺なのだ。
境内には天武天皇の発願により建立されたと云われるから、歴
史の古い寺である。
境内の至る所に石仏があり、

 
 

また至る所で紫陽花が咲いている。あじさい寺と呼ばれる所以で
ある。

 

「あじさい園」には60種、8000株の色とりどりの
紫陽花が見頃を迎えている。

 
 

この寺、紫陽花だけでなく、春は桜、夏は桔梗、秋は萩、紅葉が
楽しめる。


三室戸寺

2012年06月16日 | 花の寺


        花の寺
        三室戸寺

三室戸寺、山号は明星山、本山修験宗の別格本山で、
西国三十三ヶ所の第十番札所である。

  夜もすがら月をみむろとわけゆけば
        宇治の川瀬にたつはしらなみ 

と御詠歌にあるように、ここは宇治、南に朝日山をのぞむ。

ゆるやかな登りの参道を行くと、前方に丹塗りの山門が…、
山寺なのだ。

 

参道の奥は急な石段、それを登り切った所に本堂がある。

 

庭には一面に蓮が植えられている。
その蓮の台に本堂、阿弥陀堂、

 

そして鐘楼、三重の塔が浮かぶ。

 

参道脇の庭園(与楽園)には躑躅(2万株)、石楠花(1千
株)、紫陽花(1万株)等、様々な季節の花が植えられて
いる。今は紫陽花がその花期を迎えている。


とはいえ、この寺の見所はやはり蓮である。
蓮は仏教と縁の深い花、境内に蓮を植える寺院は多い。
でも、この寺の蓮ほど見事な例を私はまだ見たことがない。
その蓮の開花は梅雨明けになる。

 

石庭、回遊式庭園もある。