忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

琵琶湖疎水を歩く(14)

2013年01月22日 | 琵琶湖疏水を歩く

                       疎水分線(5)

下鴨をへて鴨川東岸に至った疎水分線の水は、鴨川をサイホンで
ぬけ、その水は現在の紫明通をへて堀川へと流されていた。
その疎水路の両側の建物が、戦争末期に防火線確保のため強制
撤去されて現在の紫明通となった。
一方、堀川も河川改修によって水が消えて空堀となり、鴨川から
先の疎水分線はその役割を終えた。

その後、平成に入って、鴨川から紫明通をへて押小路橋までの
約4.4キロ区間で、疎水分線の流れを復活させるため、紫明通と
堀川通にせせらぎと遊歩道とを整備する「堀川水辺環境整備事
業」が計画され、平成9年から平成20年にかけて、その工事が行
われた。
その結果、現在では、一時途絶えていた鴨川以西の疏水分線の
流れが、姿を変えて復活している。


紫明通の現在の疎水分線

下鴨を流れ下ってきた疎水分線の水は、サイホンによって鴨川、
加茂街道を越え、紫明通の「紫明せせらぎ第1公園」の中の瀧に
汲み上げられて流れ落ち、

   

水は「せせらぎ水路」となって

   

紫明通を西へ向かう。
現在、紫明通には、第1から第6まで6区画の「紫明せせらぎ公
園」が作られ、遊歩道が整備されている。

紫明通の名は、東に聳える比叡山の四明岳に山紫水明をかけ
て新村出によって命名されたという。

東に四明岳を望む堀川紫明の交差点

   


堀川を流れる現在の疎水分線

堀川は、平安京を開くために造られた東西二本の資材運搬用の
運河の一つ、東堀川がその由来だといわれ(もう一つの西堀川
は現在の紙屋川)、堀川通の東ぞいに南に延び、木材や物資の
運搬に使われた。

「堀川水辺環境整備事業」が完了した現在では、堀川紫明から
堀川今出川までの間は、堀川通の中央分離帯に、「堀川せせら
ぎ公園」が設けられ、

      

紫明通の「せせらぎ水路」を流れてきた疏水分線の水は、堀川通の
中央分離帯の「せせらぎ水路」を、西から南へと向きを変えて流れ
下る。

   

堀川通の「せせらぎ水路」は、堀川今出川の交差点手前約20メー
トルで、一旦、その姿を消す。

姿を消した「せせらぎ水路」は誓願寺橋の下から再びその姿を現し、

   

その位地を道路中央の分離帯から堀川通東端に移し、かつての
堀川の中に新しく作られた「せせらぎ水路」を流れ下る。

   

堀川通をはさんで東は、西陣会館、そして清明神社である。

   

戻橋(一条通)からから押小路橋(押小路通)までの約2キロの区
間、かつての堀川は堀川親水公園となって整備され、市民の憩い
の場を提供している。

堀川第一橋(中立売通)付近の堀川


   

椹木町橋(椹木町通)から丸太橋(丸太町通)あたりの堀川


   

堀川通をはさんで西は二条城である。

   

二条橋(二条通)から南へ見下ろす堀川

    

疎水分線の水は押小路橋(押小路通)の下で、その一部が二条
城の外堀へと取り入れられ、残りは地下の排水管に姿を消す。

ちなみに、現在、堀川通の地下には直径約6メートルの排水管が
埋設されている。


琵琶湖疎水を歩く(13)-疎水分線(4)

2012年12月23日 | 琵琶湖疏水を歩く

              疎水分線(4)

疎水分線は、開設当初、高野川の河床の下に木樋を通し、サイホ
ンの原理で水を松ヶ崎側に導いていたが、その後、松ヶ崎浄水場
への水が、若王子取水場から地下挿管にによって送られるような
り、また高野川の河川改修もあって、現在では蹴上げから流れ下
ってきた疎水分線の水は、高野川へと放水さる。

    

疎水分線は松ヶ崎浄水場への水の供給に加え、水の一部を鴨川
を越え、現在の紫明通を経て、堀河へと注がれていた。


そこで、その水路の今を歩いてみる。
高野川西岸から約100メートル西で、水路は再び開渠となっ
て姿を現す。
松ヶ崎疏水とも下鴨疏水とも呼ばれる疎水分線の水路である。

   

すぐ北は松ヶ崎浄水場である。

    

ここから水路は西へと向かう。
現在、水路を流れる水は少なく、松ヶ崎浄水場から放水される
水が細々と流れる。

   

やがて泉川と平面交差し、水路は泉川の水が加わりやや水量
が増す。

   

水路はゆるやかな弧を描きながら下鴨の地を西へ流れ下る。

   

下鴨本通を西へと越え、

   

さらに弧を描きながら鴨川へと向かう。

   

下鴨中通の手前で水路は暗渠化し、

   

下鴨中通、

   

そして北大路を暗渠でくぐりぬける。
緑地帯の下が暗渠化した水路である。

   

その先は、

   

鴨川である。

    


琵琶湖疏水を歩く(12)-疏水分線(3)

2012年12月17日 | 琵琶湖疏水を歩く

          疏水分線(3)

銀閣寺橋を後にした疏水は、今出川通にそって西に向かう。

    

やがて白川と交差する。

   


白川の河床の下をサイホンの原理でくぐり抜け、

   


その西で白川道と交差し、

   

やがて疏水は今出川通と別れて北へと向かう。
白川疏水とも北白川疏水とも呼ばれる。

   

疎水道も良く整備され、並木が季節の美をかもす。

   

流れは徐々に北から北東にその向きを変えてゆき、
北大路と斜交い交差し、

   


その直後に叡山電鉄の橋梁の下を抜け、

   

深い谿をなして北西へと向かい、

   

東大路を過ぎ、

   

その先で、川端通、そして高野川に至る。

   

高野川の川辺に立って北を望むと
大文字「妙法」の「法」の字の火床がすぐ近くである。
松ヶ崎の東山(大黒天山)である。

    


琵琶湖疏水を歩く(11)-疏水分線(2)

2012年12月10日 | 琵琶湖疏水を歩く

          疏水分線(2)                      

若王子橋から銀閣寺橋までの疏水道は、東洋の空の思想を
基盤として西田哲学と呼ばれる独自の哲学大系を樹立し、
京都学派の祖となった西田幾多郎が、好んで散策し、思索を
した小径だといわれ、かつては「思索の小径」と呼ばれていたが、
昭和の末に建設省と「道の日」実行委員会によって日本の道
100選の一つに指定され、今ではその登録名である「哲学の道」
の名で親しまれている。

   

現在約3.3キロ残る疏水分線ぞいの散策路のうち、「哲学の道」
と呼ばれる道は約1.5キロほどであるが、四季を通じて老若男女
がここを散策し、思索に耽る。

   人は人吾はわれ也
           とにかくに
              吾が行く道を吾は行くなり
                       (西田幾多郎)
             
疎水の両岸には画家の橋本関雪の夫人が植樹したのに始まる
といわれる並木の桜が、春は花、秋は紅葉の風情をそえる。
関雪桜と呼ばれている。
桜紅葉が散るとカエデが燃える。

   

もともと疏水分線は京都の水道用水に供することを主な目的とし、
水は松ヶ崎の上水道へと運ばれていたが、現在では若王子取水
池から地下挿管によって水が浄水場へと運ばれていて、この疏水
の水が飲料水に使われることはなくなっている。

   

この辺り一帯は鹿ヶ谷と呼ばれ、多くの観光の名所がある。

    霊鑑寺(谷御所)

後水尾天皇が皇女浄法宮宗澄を開基として創建した。
現在は臨済宗南禅寺派の禅尼寺である。

   

      安 楽 寺

法然上人の弟子の住蓮上人と安楽上人によって開かれた寺で、
後鳥羽上皇が寵愛していた松虫、鈴虫の姉妹が、上人の教化を
受けて出家し、これが上皇の怒りに触れ「専修念仏停止」の宣下
により、両上人は死罪、法然上人は讃岐へ、親鸞は越後へ流罪
となった。
いわゆる建永2年の法難である。

   

     冷泉天皇櫻本稜

   

       法 然 院

この寺は、法然が六時礼賛行を修した草庵が起こりで、住蓮
上人、安楽上人もここで六時礼賛行に励んだ。

   茅葺数寄屋造の山門

   

   庭園と本堂

   

   紅葉の中に立つ一三重の石塔

   

法然院を過ぎると、その先はもう銀閣寺橋である。

   

橋を東に渡り、門前の商店街をぬけた所に慈照寺の総門がある。

   東山慈照寺

銀閣寺の通称で知られる。
足利義政の東山山荘を、その遺志によって寺にしたもので、
臨済宗相國寺派の禅寺である。

   国宝の観音殿(銀閣)

   

   銀沙灘、本堂

   

   国宝の東求堂

   

   向月台

   

銀閣寺橋で疏水は東に流れを振り、今出川通ぞいに西に向かう。

   


琵琶湖疏水を歩く(10)-疏水分線(1)

2012年11月29日 | 琵琶湖疏水を歩く

          疎水分線(1)

春に琵琶湖疏水の本線を歩いた旅、今回は疏水分線を歩く。

蹴上げ船溜り、

   

そこから疏水分線は分岐し、

    

北へ向かう。

   

南禅寺の境内の手前でへ東へ流れを振り、
境内の水路閣を西から東へと流れ、永観堂へ
と向かう。

   

南禅寺境内に水路閣を設けるについては、当時もかなりの反対
があったと伝えられるが、今では煉瓦積みも古色をおび、周りの
景観にしっかり溶け込む。 

    

南禅寺三門から見下ろす境内は秋一色。

   

かつて五山之上といわれた禅林にふさわしい豪壮な山門からは、
京都盆地が一望できる。
黒谷と、それに続く真如堂が手に取るように近い。

   

南禅寺境内を過ぎた疏水分線は、永観堂の東の山手を北に
向かう。
残念ながらその姿を目にすることが出来ない。


    ───  永観堂へ寄り道─────  
                                          

晩秋の今、永観堂は紅葉を見る観光客で溢れる。

    

総門を入ると、人、人、人、
堂内へは順番を待つようにして入る。

     

境内は色とりどりの紅葉がその妍を競う。

   

」永観おそし」の「見かえり阿弥陀」がます阿弥陀堂も紅葉を纏う。

   

疏水の水を引き入れた放生池も水面に紅葉を浮かべる。

   


    ─── 寄り道終わる──────    
                                          

扇ダム、若王子取水池を経て、やがて疏水は、
若王子橋の下から再びその姿を現す。

    

若王子橋を東に渡ると、そこは熊野若王子神社。
後白河法皇が紀州の熊野権現を勧進して創社された。
熊野神社、新熊野神社とならぶ京都三熊野の一つ。

   

疏水は哲学の道に沿って北へと向かう。

   


琵琶湖疏水を歩く(9)、宇治川派流

2012年06月08日 | 琵琶湖疏水を歩く


              琵琶湖疏水を歩く(9)
       宇治川派流

今回は宇治川派流である。

 

上左の写真は阿波橋から濠川を写した。
濠川は阿波橋の下の出会橋で流れが二つに分れる。
右に向かうのが濠川で、流れは三栖閘門へ。
左に別れるのが宇治川派流である。
上右の写真は出会橋の西詰から宇治川派流を写したもの。

  

宇治川派流は三栖閘門から宇治川を遡ること約1キロの所にある
平戸樋門で取水し、宇治川の水を伏見の城下へ取り込み、出会橋
で濠川と結ぶために造られた運河である。
もともと宇治川は京都盆地の南部にあった巨椋池へと流れ込んで
いた。巨椋池は、北に高く南に低い京都盆地の地勢が自然に造り
上げた巨大な遊水池であった(昭和の干拓により消滅)。
ところが、豊臣秀吉が伏見城を築いた際、その巨椋池の中に堤を
設け、宇治川を巨椋池から切り離すと共に、その水の一部を運河
によって伏見城下に導き、城下に舟運の便をもたらすための大規
模な土木工事を行った。
宇治川派流もこうして造られた運河の一つである。
これ以降、伏見の運河網は伏見港として活用されることになる。
江戸時代に入ってからも伏見は舟運による物資の集散地としての
役割を果した。

出会橋で濠川と別れた宇治川派流は伏見の町を東へ流れ、
やがて京橋に至る。この京橋付近は鳥羽伏見の戦いで激戦が交
わされた場所でもある。

  

京橋を過ぎた所の船溜りに三十石船の遊覧船の乗場がある。
宇治川派流と濠川を行き来する遊覧船には十石船と三十石船が
あり、写真は三十石船の乗船場である。
三十石船は春と秋の限られた期間運行され、十石船は冬期を除
いていつでも利用できる。

 

京橋の下を行く十石船。

 

ちなみに、この宇治川派流が開鑿された当時は平戸樋門から取
り込んだ宇治川の水は、平戸橋、弁天橋、蓬莱橋、京橋を経て、
濠川へと流れて込んでいたが、現在そこを流れるていのは宇治川
の水ではなく琵琶湖疏水の水であり、流れも昔とは逆になっている。

京橋を過ぎると運河はやがて蓬莱橋に差しかかる。
かつてこの南浜の辺りには、数十の船宿が軒を連ねていた。

 

寺田屋事件で知られる船宿「寺田屋」もこの近くにある。
坂本龍馬もこの寺田屋で襲われ、負傷した。
河畔には龍馬とお龍の像がある。

 

蓬莱橋を過ぎると運河は南へ大きく流れを振り、
酒蔵街にさしかかる。

 

ここからしばらくの間、運河は幾棟も続く酒蔵を左手(東)に見なが
ら南へ流れ下る。
この酒蔵が建ち並ぶあたりは大倉浜と呼ばれ、かつては舟で運ば
れる物資の集散場となっていた。

 

十石船の遊覧船が行き来する。

 

やがて運河はゆるやかに東へ流れの向きを変えていく。

 

左手に十石船の乗場が、前方には弁天橋が見えてくる。

 

弁天橋の西詰めには長建寺がある。
正しくは東光山長建寺、真言宗醍醐派のお寺で、八臂弁財天を本
尊とする珍しいお寺である。
土地の人からは島(中書島)の弁天さんとして親しまれている。

 

寺の並びの浜は弁天浜と呼ばれている。

     *  *  *

    酒造街に寄り道

弁天橋を東に渡り、酒蔵街に寄り道をする。
通りは如何にも酒造りの街らしい趣がある。
甍を連ねているのは大倉酒造(月桂冠)の酒蔵である。
その一部は「月桂冠大倉記念館」として公開されている。

 

「月桂冠大倉記念館」の中庭である。

  

この周辺には所狭しと酒蔵が軒を連ね、20を越える酒蔵や蔵元
が集っている。

 

月桂冠旧本社の建物を活用して伏見の地酒や特産品を販売する
「伏見夢百衆」そして、黄桜の「清酒工房」、一筋違いの所に
「黄桜記念館」もある。

 

       運河に戻る 

      *  *  *

弁天橋の袂は十石船の乗り場になっている。

 

係留してある十石船の脇を南へと下る。
この辺りから流れは再び東へとカーブしていく。
やがて京阪本線の橋梁にさしかかる。

  

京阪本線の橋梁の下を過ぎ、さらに南へ下る。

 

やがて近鉄京都線の橋梁にさしかかる。

 

近鉄京都線の橋梁を過ぎると平戸橋、そしてその先に、
外環状線の高架と京阪宇治線の橋梁が待ち受けている。

 

京阪宇治線の橋梁の先はもう平戸樋門、その先は宇治川である。

 

出会橋で濠川と別れ宇治川派流を流れてきた琵琶湖疏水の水は
琵琶湖から別の旅を続けてきた宇治川とここで合流する。

宇治川の流れ、左が上流で橋は観月橋、
右が下流で橋梁は近鉄京都線。

 


琵琶湖疏水を歩く(8)~鴨川運河(その2)

2012年05月27日 | 琵琶湖疏水を歩く

                琵琶湖疏水を歩く(8)
         鴨川運河(その2)

鴨川運河は京阪本線の橋梁の下を抜け一路南へ。
橋梁の下を通る人道が設けられている。

 

やがて三画橋。
琵琶湖疎水には三角橋と呼ばれる人道橋が多く見られるが、
伏見区内に特に多く、そのほとんどが大正期に懸けられたコンクリ
ート橋だが、橋脚の上部、橋梁との境目に枡に六芒星をかたどっ
た籠目の印があるのが特徴的である。

 

やがて稲荷橋。
橋を渡るとそこは伏見稲荷神社である。
平日でも人波が絶えない。

 
 

稲荷橋を過ぎると運河は真っ直ぐに南下していく。
幾つかの橋をやり過ごす。

 

やがて深草橋、京阪本線の深草駅が橋の袂にある。

 

深草を過ぎ運河は真っ直ぐに南下していく。
この辺り、やや単調なぶらりとなる。
ペットボトル、ビニール袋、たばこの吸い殻などの浮遊物が、
水と共に流れて行く。

 

この辺り橋が多い。橋と橋との間隔は短いところだと150メートル
ほど…

 

師団橋を過ぎ、名神高速の橋梁に差しかかる。

 

中郷橋を過ぎた辺りで七瀬川と立体交差する。

 

運河は大きく弧を描き始め、京阪本線の橋梁の下を抜けると、
そこは京阪本線の墨染駅である。

 
 

その先はもう墨染船溜りである。
船溜りの手前の堤にお地蔵さんが祀られていた。
周囲の民家は運河の水位と較べるとかなり低地で、運河を見上げ
る環境にある。

 

船溜まりの水は関西電力墨染発電所の水力発電に使用されてい
る。今も現役で稼働しており、認可最大出力2200?、常時出力は
1100?だそうである。

 
  

ここにはかつて伏見インクランイン(総延長581.5メートル、標高
差18メートル)があった(ちなみに蹴上インクラインは総延長581.
5メートル、標高差36メートルである)。
舟運の廃止に伴い使われなくなったため、跡地は国道24号線の
用地として売却され、現在はその遺構だけが残っている。

 

国道24号線用地の地下にもぐった運河は曙橋の下から再び姿を
現し、旧伏見城の残濠へと注ぎ込む。

開通当初の鴨川運河はこの伏見堀詰めまでということになるのだ
が、現在では伏見城残濠とそれに続く濠川は、宇治川の水位低下
に伴い、今はそこを流れる水は専ら琵琶湖疏水の水であり、
従って「琵琶湖疎水を巡る」私の旅は琵琶湖疏水化している濠川
の終点、三栖閘門まで続くことになる。

曙橋で姿を現した疎水は伏見の旧城下町へと流れ込んでいく。
近鉄京都線の橋梁の下を過ぎ、水門にかかる。
この水門で水の一部が鴨川へ逃がされる。

 

上板橋を過ぎると運河は旧伏見城の掘り割りを西へ、南へと鍵の
手に折れながら伏見の町中を流れ下っていく。

  

この辺りから運河沿いの道はなくなり、町中の堀割の中を流れる
ので、町中の道路を歩き、出くわす橋々の上からその流れを追う
ほかない。
以下、その要領で順を追って写真を並べていく。それを頭の中で
繋ぎ合わせ運河の流れをイメージしていただきたい。

 
 
 
 
  
 

大手橋を過ぎると河畔に散策路が設けられている。

 

伏見であい橋の先で宇治川派流と疎水運河とが分れる。
この宇治川派流は次回に。

 

角倉橋の下で旧高瀬川が分れている。

  

伏見であい橋を過ぎると運河は三栖の閘門、洗堰へと向かう
十石船に仕立てた遊覧船が行き来する

 

濠川と宇治川派流の分岐点から三栖の閘門、洗堰にかけての辺
りは「伏見みなと広場」として整備され訪れる人の憩いの場となっ
ている。

 

三栖閘門である。
閘門は現在では本来の目的に使われることはないが、
観光の十石船の発着場に供されている。

 

閘門の隣りに三栖洗堰があり、琵琶湖疏水の水は宇治川に放流
される。水門を抜けると、そこは宇治川である。
大津の三保ヶ崎からはるばると旅を続けて来た琵琶湖疏水は、
琵琶湖から流れ出る唯一つの川、宇治川とここで合流し、
さらに木津川、鴨川、桂川の三川と合流して淀川となる。

 

伏見みなと広場の一角には三栖閘門資料館があり、無料公開され
ている。また広場には閘門ゲートの巻き上げ機がかつて使われた
機材をもとに再現され展示されている。

 
       


琵琶湖疏水を歩く(7)~鴨川運河(その1)

2012年05月23日 | 琵琶湖疏水を歩く

                     

                         琵琶湖疏水を歩く(7)
                                鴨川運河(その1)

鴨東運河は鴨川出会でその旅を終え、
その水は鴨川左岸を流れ下る鴨川運河へと引き継がれる。

この鴨川運河は、鴨東運河の鴨川出会を起点に、そこから伏見
堀詰まで、完成時の諸元で総延長8945.45メートル(4920.
48間)、鴨川の東岸を即かず離れずしながら流れ下る運河である。
明治25年に着工し、同27年に完成した。

この運河、鴨川出会の南約20メートルの所でその姿を現わし、
そこから鴨川の左岸を南へ南へと流れる。
鴨東運河と較べると川幅も流れる水量もかなり少ない。

 

二条大橋の下を暗渠で抜け、二条大橋を過ぎると再び地上に姿を
現し、御池大橋へと向かう。
その途中流量調節のための水門が設けられている。

                   
 

やがて御池通の手前で運河はまた地下に姿を隠す。
川端通の延長と京阪電車の地下化工事で鴨川運河は、
この御池大橋から南、塩野小路までの区間が完全に暗渠化され
たため、その姿を見ることは出来ない。
この間、三条から四条の祇園白川の手前まで、
川端通の東端に疎水のを利用して「せせらぎ」を設け、
そこに遊歩道が造られている。
「せせらぎの道」と呼ばれている。

     ──────────────────────────                   
                       せせらぎの道

京阪三条駅から少し南へ歩く。
そこに「せせらぎの道」の案内碑がある。
鴨川運河の暗渠化工事の一環として運河の水を利用して設けら
れた。

 

「せせらぎの道」の名は川端通開通一周年を記念して公募で決め
られたという。

 

「せせらぎ」は、流れを左右に鍵型にずらしたり、暗渠を設けたりと、
流れに変化をもたせ、歩く人を飽きさせない工夫がこらされている。

 
 

「せせらぎの道」は白川南道の手前でその姿を消す。

 

写真右は(6)で書いた鴨川へ流れ込む直前の祇園白川である。
「せせらぎの道」はこの祇園白川の手前で終わる。
のであるが…、
四條通を越え団栗通下るで、「せせらぎ」だけがまた姿を現す。

 

遊歩道は姿を消し、「せせらぎ」は生活道路の脇を流れる。
しかし、花が植えられていたり、お地蔵の祠があったり、
「疎水」と彫られた古い擬宝珠が置かれたりと、
かなり風情がある。

 

東は祇園甲部、祇園東、先斗町と並ぶ祇園四花街の一つ祇園宮
川町である。
写真は宮川町歌舞練場と宮川町花街

  
                       

「せせらぎ」は見え隠れしながら松原通まで続いている。

 

    ──────────────────────────────                 

                  鴨川運河つづく

丸太大橋の手前で地下に姿を隠した鴨川運河は、
塩小路橋の東詰の地下から地上へと再びその姿を現し、
東海道線、新幹線の鉄橋の下を流れ下る。

 
  

やがてJR奈良線の橋梁にさしかかる。
運河のすぐ西には鴨川が寄り添うように流れている。

 
                    

運河は師団街道を右に従え南下し、九条通にさしかかる。

 

九条通を過ぎて運河はさらに南下し、御所之橋、中央橋と、二つ
の橋の下をぬける。
運河の西岸には師団街道が併走し、東岸には遊歩道が整備され
ている。

 
  

やがて運河は三之橋川と立体交差し、正風橋、コンクリート橋、水
門を通過する。

 
 
 

 その下流でさらに上高松橋、高松橋の下を流れ下る。

 

やがて運河は京阪本線の橋梁の下をぬける。
そこはもう伏見区である。

  


琵琶湖疏水を歩く(6)~鴨東運河(その2)

2012年05月07日 | 琵琶湖疏水を歩く

                琵琶湖疏水を歩く(6)
         鴨東運河(その2)


慶流橋に戻る。
橋から東を見ると運河の左岸に取水口が見える。
白川の取水口である。

 

南禅寺船溜りで疏水に合流した白川は、ここで疏水とお別れし、
再び一本の川に戻って南へと流れ下っていく。
祇園白川である。

                            

白川の行方が気になる。
寄り道して先に白川を歩きたい。

     ──────────────────────────              
             祇園白川へ寄り道

鴨東運河の慶流橋の東で取水された運河の水は仁王門通りの下を抜け、
祇園白川となって右に左に弧を描きながら流れ下っていく。

 

白川とは呼ばれているが、
水はすっかり疏水の色に染まり琵琶湖の藻の匂いがする。

 

やがて三条通りを過ぎ、さにに南へ。

 

やがて一本橋。
白川疎水に一本橋は幾つかあるが、
この一本橋は行者橋、阿闍梨橋とも呼ばれ、
比叡山の千日回峰行を終えた行者が、
粟田口の尊勝寺の元三大師に満行を報告し、
京の都に入洛するときまず最初に渡る橋だといわれる。

  

一本橋を過ぎると白川は知恩院の古門の脇を流れ下る。

 

知恩院古門を過ぎると白川は、
西に折れて流れの向きを変え、しばらく白川北道に沿って流れ、
花見小路を過ぎると再び南へ流れの向きを変え、祇園新橋に至る。

 
 

新橋を過ぎるとすぐに流れの向きを西に変え、
辰巳橋の下を通る。
辰巳大明神が流れを見下ろしている。
辰巳橋を過ぎると、白川は白川南道のに沿って祇園を流れ下る。

 
 

  かにかくに 祇園はこいし
       寝るときも 枕の下を
                        水のながるる
                                       吉井勇
の歌碑がある。
説明では、
その当時、この辺りの白川は、両岸に茶屋が軒を連ね、
建物の奥の一間が川の上に突き出ていて、
「枕のしたを水の流るる」の歌は
そうした風情を詠んだもの、
とある。
花の季節だと、

  清水へ 祇園をよぎる桜月夜
            こよひ逢う人 みなうつくしき    
                                     与謝野晶子
の世界でもある。

  

やがて祇園白川は川端通りの下へと姿を隠し、
鴨川へと流れ落ち、
うたかたの旅を終える。

 

かくて、また鴨東運河へ

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           鴨東運河つづく

慶流橋から右岸に国立近代美術館を見ながら、
鴨東運河は東に向かう。

  

みやこめっせの角で90º北へ向きを変え、
二条橋、冷泉橋の二つの橋を過ぎる。

 
 

冷泉橋を過ぎるて間もなく、
冷泉通に沿って90º流れの向きを変え、再び西へ向い、
徳成橋、熊野橋の二つの橋を越える。

 
                              

右手に戎橋船溜りが見えてくる。
遊歩道の傍らに「白河南殿跡」の碑が立っている。
この辺りは白川上皇が院御所として開いた白河南殿の跡だという。
南殿は方二町の広さがあったという。

 

池畔の水道局疎水事務所の建物の横に、
琵琶湖疎水を計画した京都府第3代知事、北垣国道の銅像が建っている。
現在、琵琶湖疏水の水の集中管理はこの疎水事務所で行われている。

                         

疏水事務所の横の煉瓦造の建物が夷川発電所で、
現在は関西電力の発電所として現役で稼働している。
説明版によると認可出力は300?だそうである。

 
 

発電所のダムを過ぎると、やがて川端通で、
鴨東運河は鴨川出会で終わる。
疏水の水の一部は鴨川へ放流され、
残りは鴨川運河となって鴨川の東岸を流れ下っていく。

 

 


琵琶湖疏水を歩く(5)~鴨東運河(その1)

2012年05月05日 | 琵琶湖疏水を歩く

                琵琶湖疏水を歩く(5)
        鴨東運河(その1)

南禅寺船溜りから鴨川出会までの琵琶湖疏水は鴨東(おうとう)運河と呼ばれる。
この鴨東運河が流れる地域はかつては白河と呼ばれた。
白川の流域に広がる洛外の土地で、平安初期には真葛の生い茂る葬送の地であったとされていれる。
この白河の地に平安中期から貴族が好んで別業(別邸)を建てるようになり、白河天皇が法勝寺を建立したのを始めとし、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺(併せて六勝寺と呼ばれる)など、その後の天皇や女院によって次々と大寺院が建てられいった。
白河南殿(白川上皇の院御所)、白河北殿(鳥羽上皇の院御所)なども造営され、白河の地は「京白河」と呼ばれて政治、文化の中心地となっていった。
鎌倉期に入ると後鳥羽上皇がこの地に造った院御所が岡崎御所と呼ばれたように、白河という地名は次第に失われて岡崎という地名に置きかえられていき、やがて白河は北白河と呼ばれていた地域を指す呼称に変わっていった。
ところで、白河(後に岡崎)とは具体的にどの地域を指したのか。
あまり明確ではない。
鴨川東岸の、おおよそ、北は岡崎神社のあたりから南は粟田口のあたりまで、通りでいえば丸太町通から三条通あたりまでの地域と考えられる。
現在では、この地域に京都市動物園、京都市美術館、岡崎公園、平安神宮、国立近代美術館、京都会館、その他の文化、観光施設が密集し、京都の観光の中心となっている。
この岡崎の地を割るように鴨東運河は東から西へゆっくりと流れている。
写真は南禅寺船溜りである。

 

南禅寺船溜りの北には京都市動物園が、
仁王門通りを隔てて南には無鄰菴がある。
無鄰菴は明治の元勲山縣有朋の別荘である。

 

北白河から流れ下ってきた白川は京都市動物園敷地で地下へ入り、
この南禅寺船溜りで琵琶湖疏水に合流する。
白川は名の通り白砂の河床を流れてくる白い川である。
かつては京都の寺社の庭の敷砂はほとんどこの白川の砂が用いられた。
白川は、ここからしばらく、鴨東運河とその流れを共有する。

 

桜の季節には南禅寺船溜りから夷川船溜りまで十石船の遊覧船が発着している。
鴨東運河の春の風物になっている。

 

鴨東運河の最初の橋が広道橋である。この橋で渡る通りが岡崎通りである。
岡崎通りをはさんで東に京都市動物園、西に京都市美術館があり、その北は岡崎公園である。

 
 

広道橋を過ぎると鴨東運河は北岸に京都市美術館の建物を見ながら流れる。
やがて前方に丹塗りの橋が見えてくる。
慶流橋である。

 
 

この辺り、桜の名所である。

 
                               

慶流橋を渡ってみよう。
そこは神宮道で、平安神宮へ通じている。
橋を渡るとすぐ丹塗りの大鳥居がある。
東は京都市美術館、西は国立近代美術館、府立図書館などがある。

 
 

神宮道はやがて東西に延びる冷泉通りに行き当たり、
平安神宮の應天門がすぐ目の前である。
社殿は平安京の朝堂院を約3分2に縮小復元したもので、
應天門を入ると正面に大極殿がある。
大極殿は右に白虎楼が左に蒼龍楼が建っている。
大極殿の階下の庭には右近の橘、左近の桜が植えられている。