忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

城陽青谷の梅林

2016年05月03日 | 里山の風景
京都府の城陽市は江戸時代から梅の産地として知られきた。
今も市内には何カ所もの梅林が点在する。





ここ青谷地区もその一つで、天山(てんやま)の周りに梅林が点在し、梅の産地ならではの独特の里山風景が広がっている。
花の季節には里山全体にかぐわしい梅花の香りが漂う。





ここで採れる梅は和歌山の南部と異なり、城州白と呼ばれる大粒の梅である。





城州白は楕円形をした珍しい梅で、果肉が軟らかく香りが良いのが特徴とされている。
果肉の柔らかさ、香りの良さを生かして梅干だけでなく梅酒、和菓子、ジャム、シロップなど色々な商品に加工されている。






満ちみちて梅咲ける野の見えわたる高丘は吹く風が匂いつ      

この青谷梅林を愛したアララギ派の歌人の上田三四二が詠んだ歌である。
三四二は医師として長く青谷に住み、近くの国立療養所で医療に従事した。
「梅咲ける野の見えわたる高丘」
は青谷にある天山のことを指すが、残念ながら今は樹木に遮られてその展望は失われてきている。





里山は日本の原点、そして日本人の心の原風景でもある。

宇治茶のふる郷~和束(わづか)

2016年04月28日 | 里山の風景
ここ京都府相楽郡和束町は宇治茶の生産地として知られている。
宇治茶の年間生産量の約4割茶がここ和束で生産されている。





町民の半分以上がお茶の生産に携わっており、まさに茶の郷と呼ばれるにふさわしい町で、茶源郷とも呼ばれている。





和束でのお茶の栽培は鎌倉時代に遡るといわれるから、その歴史は古い。





地理的には京都府の南山城地域の最南部に位置し、周囲を山で囲まれた盆地で、その中心部を北から南に和束川が流れる。





昼夜の寒暖の差が大きく、周囲の山々から多くの渓流が和束川へ流れ込むという山間盆地に特有の自然環境が多くの霧を発生させることなど、もともと良質の茶葉を育む地理的、気候的な条件を備えた土地柄である。





人口約4000人の小さな町で鉄道は通っておらず、JRの加茂駅からバスの定期路線が通っているが、その便数は少ない。





現在は自動車道が整備されていて、住民の日常生活には不便しない環境は整えられているが、車がなかった時代には住民はどのように暮らしていたのだろうと、ふと考えてしまうほど町が置かれている地理的な環境は厳しい。





そうした自然環境の中で、住民は長年にわたって平地の乏しさを克服するため、手鍬で山を起し、そこに茶の種を播いて山地を茶畑へと変える努力と営みを続けてきた。
そうした地道な努力と汗の積み重ねが今の茶源郷の和束を生んだのであろう。





目の届く限り山という山のほとんどはその頂きちかくまで茶畑となっているが、かといって、すべて木を切り尽くすことはせずに自然の木々を残して山には山としての形や機能を残す努力も怠ってはいない。





山の斜面の一部を茶畑にすることで山そのものも里山として適度に人の手が加えられ、それが麓の土壌の豊かさを生む。
そうした知恵と工夫が長年にわたって生産の現場で生かされてきたからこそ茶源郷としての今があるのであろう。





和束は里山と人里、そして人の営みとが一体化した典型的な里山集落で、「生産の景観」として京都府景観資産1号に指定されている。


井手の里

2016年04月22日 | 里山の風景
京都府綴喜郡の玉川流域はかつて井手の里と呼ばれ、川辺に山吹の咲く名勝の地として古くから多くの歌人によって歌が詠まれてきた。





天平の御代、廟堂の中心にあった長屋王が謀反の疑いをかけられて自刃して果てた後、政権の中枢に座った橘諸兄も、ここに相良別業を営み多くの堂上がここを訪れ、天平12年(740年)には聖武天皇もここに行幸している。





里山の竹林の中に橘諸兄公旧址を示す碑が建っている。





近くに山吹の花で知られた玉川が流れ、東は山城の山々、西は木津川が南北に流れ、はるか遠くにに生駒の山を望む景勝の地である。





古代から大和と山城を結ぶ山城古道がこの地を通っており、やや時代が下ると奈良街道も整備されて玉水宿が開かれ、今ではJR奈良線がこの地を通り、今も昔もここは交通の便に富んだ地である。




多くの都市近郊の名勝の地が開発の波に呑まれていにしえの風情を失いつつある中で、ここ井手の里はまだしっかりと里山の風情を残している。







隠国の泊瀬-大和朝倉

2016年04月08日 | 里山の風景
大阪上本町を出た近鉄大阪線の電車が桜井駅を出ると軌道は緩やかにカーブを描きながら上り勾配にさしかかり、やがて電車は眼下に人家を見おろす小高い駅に到着する。





  籠(こ)もよ み籠もち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち 
  この岡に 菜採ます児 家聞かな 告(の)らさね そらみつ
  大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ
  ませ われこそは告らめ 家をも名をも
               (万葉集巻1)

万葉集の冒頭をかざる雄略天皇が詠んだとされているこの和歌は
眼下に広がるこの大和朝倉の地で詠まれたものとされている。





この地は雄略天皇(第21代)の泊瀬朝倉宮(桜井市黒崎)、そして武烈天皇(第25代)の泊瀬列城宮(同市出雲)があったとされ、万葉の時代に隠國(こもりく)の泊瀬小國(はせおぐに)と呼ばれた土地なのである。





土地は狭く三方を初瀬の山々に囲まれ、その中心部を東から西へと初瀬川が流れ、平地と呼べる部分はほとんどない。





三方の山々がおりなす丘陵の緩やかな傾斜地に田も畑も、そして人家までが混在し、人々の日々の暮らしはこの山と里を中心として営まれてきた。





東は大和高原で、大宇陀、榛原、伊賀と続く高原地帯で、道は伊勢へと通じている。
ここはそのからめ手ともなる峠への入口で、西は國中と呼ばれた奈良盆地を一望で見おろす地形になっている。





写真は雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡に比定される白山神社で、その前を通る伊勢街道は、現在は幹線道路となっていてひっきりなしに車が行きかい、商業施設も建ち並んでいるが、その道こそ、かつて豊泊瀬道(とよはつせぢ)と呼ばれ、古代の人々が東西に行き来した歴史の道である。





その道をもう二、三キロも西に行けば、そこは海柘榴市(つばいち)で、八十衢(やちまた)と呼ばれる四方へ通う幾筋もの道が交差する交通の要衝へと結ばれている。
そしもう二キロも東に行けば、そこは古代の人々が救い求めてお参りをした観音の寺、長谷寺である。





万葉集10巻約4500首の和歌は、先ずは、この地で詠まれた冒頭の和歌で始まるのである。



里山の風景-藍那

2016年03月25日 | 里山の風景
藍那(あいな)は、神戸市の町の背後に帯となって横たわる六甲山系の山々に懐かれたようにして存在する里山集落である。

かつて、源平騒乱の時代、源義経が率いる騎馬隊が一の谷の平家陣地へ攻め入る途中、鵯越えを前にして、ここでしばらく隊を解き、小休止をとった里として知られる。





そこは神戸電鉄の軌道と県道52号だけが併走する猫の額ほどの平地に両側から山が迫る山里である。





藍那の駅は1日乗降客が147人の無人駅である。





電車を降りて急な坂道をひたすら上っていくと、傾斜地に小さな集落が点在し、





その集落を取り巻くように棚田や段々畑が広がる。





どの田畑もしっかりと管理されているが、人の姿はどこにもない。
過疎化はここでも確実に進んでいるようである。





道標であろうか、それとも野仏なのか。





既存の里山集落の奥の234ヘクタールの土地に「あいな里山ビオパーク」なる国営の里山公園が整備中である。
まだ未完成で現在は公開されていない。





流通する商品を消費することで成り立っている都会の人々の生活のスタイルさえ考え直せば、汚染や騒音、都会の生活から生ずる数々のトスレスからも無縁なこうした里山の生活は、自然が恵む新鮮な野山の幸やゆとりのある日々の生活が満喫できるし、自ずと長寿にもつながるのではないか。
歩いているとそう思えてくる。





国土の7割を山地が占める日本列島は、太古の伊弉諾、伊弉冉の神々の昔から、日本という国の歴史は、こうした山間の里山の営みを基盤として成り立ち、それによって長い日本の歴史が刻まれ続けてきたのではなかろうか。
つくづくとそんな気がしてくる。





歩けば歩くほど、なつかしい故郷の心の風景に連なってくる。