ニセコのダチョウ牧場(第2有島だちょう牧場)

ダチョウの孵化から解体まで行い、命を頂く事、牧場を営む事で得た、学びや気づきを記録しています。

カフェをすることについて(喫茶去とだちょうさんについて)

2021年05月17日 | 日記
牧場には老若男女、様々な方がいらっしゃいます。
ニセコという土地柄も有って、牧場には高級車からきれいな恰好で出てきて、お手伝いさんが子供の面倒を見てもらっているような方が来ます。
両親からもらった100円を握りしめて、走り回ってエサやりを楽しんでいる子どもや一粒一粒を丁寧にあげるおばあさん、たくさんの袋を惜しげもなくあげる方。
大集合することはあっても、だれに対しても一羽一羽のだちょうさんは同じ対応をしています。

私は土日祝には牧場の敷地にある工房兼カフェを営業します。
昨日もどら焼きを売りながら、カフェをしていました。
この仕事に、とても学びがあるなぁと思っています。

喫茶去という言葉が禅にあるそうです。
高僧であっても、一度来ている修行僧であっても、初めてくる修行僧であっても区別せず、とりあえずお茶でもお飲みくださいと変わらない対応する僧の話です。

人は地位や名誉、外見、自分の利益になることに囚われるものです。
私も牧場に取材が来たり、地位のある方が来たり、お金持ちが来たり、有名人が来たり、心配なニュースを聞いたり、日々の売り上げについて頭を悩ませたり、せわしない日々の中で自分の為したいことを忘れがちになり、接客がまちまちになったりしてしまうことがあります。
しかし、それではいけません。
どのような時、環境に置かれようとも心を平静に保ち、丁寧に同じ接客することを目指さなくてはなりません。
私はこの試行錯誤の日々に、とても生きがいを感じています。
一期一会を大切に生きることが、一度しかない人生を豊かにすると思います。

だれが来ても対応を変えず、何物にも捉われず、拘らず、泰然自若であるように思われる僧と自然の中で自由に生活し、気ままに接客するだちょうさんたちの様子に共通するものがあるなぁと思っていて、喫茶去について考えながら、見習わせていただいています。

このコロナ禍において、いえ、このコロナ禍だからこそ、心構えを試されているようにも思えます。
自分達とお客さんの安心と安全を担保しながら、訪れた人を変わらずにもてなすことの難しさと大切さ。

ちなみに写真は卵の殻で作ったランプシェードです。
絵は学生さんが書いてくれたものです。
以前割れてしまったことをとても残念に思っていたのですが、ランプシェードにすることに価値を感じ、作りました。
そもそも卵の殻は割れなければ孵りません。
破壊は創造につながると思い至り、あえて割れた殻からダチョウのオブジェの首を出してみました。
生まれ出づる瞬間のまぶしさを表現できたように思えて、気に入っています。
割れるべくして割れ、私の手を通して、作られるべくして作られたような妙味が面白く感じています。
もし、カフェにいらっしゃることがあったらぜひ見てもらいたいランプです。


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